虹作戦=1974年八月一四日

アジア人民の歴史的な憎悪と怨念は、
私たち日帝本国人に、
ます天皇ヒロヒトをこそ
死刑執行せよ、と要求している。
        一九七五年九月七日記
     東アジア反目武装戦線・兵士

 私は、本年(一九七五年) 九月三十日の天皇訪米を前にして、
昨年八月中旬にかける私たちの「天皇暗殺計画」=「御召」列車爆
破作戦(未遂)を公然と明らかにします。(心の中で、娑婆の同志
たちとの強い連帯を期して。)私たちは、幾千万のアジア人民を殺
害した旧日本帝国主義者の子孫であり、敗戦后日帝の新植民地主義
侵略・支配を許容・黙認し、旧日帝の政治家・官僚・資本家の群を
再生させた日帝本国人です。従って、私たちは現在、新植民地主義
侵略・支配の上に、すなわち、特に東アジアを中心とする人民に対
する収奪・搾取・抑圧の上に「平和で豊がでなまぬるい」小市民生
活を保障されているのです。朝鮮戦争特需やベトナム特需で肥え太
り、さらにいぎたなく食欲に、侵略・収奪・搾取を継続あるいは開
始した日常の侵略企業に対して、韓国で、タイで、マラヤで、イン
ドネシアで、反日帝の闘いが血みどろに展開されています。私たち
は、自らの反革命性や小市民性を克服・払拭し、反日帝の闘いに口
先きだけでは断じてなく、事実行為で連帯しようと確認し、東アジ
ア反日武装戦線(すでに東アジアを中心として反日帝武装闘争が闘
われ、さらに深化されようとしている現実、しかも一国規模ではな
い闘いの現実と、“オトシマエには時効がない”という原則から日
帝を打倒する必然を有している東アジア人民の歴史的な革命闘争を
私たちは東アジア反日武装戦線と認識し表現したものです。従って
これはセクト主義的な組織名称ではないのです)に志願し、闘うこ
とを決意したのです。その時私たちがいの一番につきつけられた闘
争課題は、天皇ヒロヒトヘの死刑執行の実現でした。天皇ヒロヒト
は、朝鮮人民に「創氏改名」を強制し、日本語を押しつけ、朝鮮語
を奪い去り、「皇国臣民」を強要したのです。その結果、四五万人
もの朝鮮人民が、日帝本土、中国大陸、沖縄、北海道、樺太、南洋
諸島等に、男は軍属や日帝企業の補充労働力として徴用され、また
「皇軍」の弾よけとして徴兵され、婦女子は「皇軍」の従軍慰安婦
として徴用、すなわち強制連行されたのです。もちろん、朝鮮人民
ばかりではなく、「天皇の赤子」として、アイヌ人民、沖縄人民、
台湾人民などが侵略戦争に狩り出され、殺し去られたのです。天皇
ヒロヒトは、特に東アシア人民の生殺与奪の権限を掌握し、幾千万
のアジア人民を殺害した「皇軍」の最高指揮官です。日帝の敗戦に
よって、まっさきに処刑されなければならなかった天皇ヒロヒトが
首都東京のド真中で完全防衛され安楽に生き長らえている現実に対
し、アジア人民の歴史的な憎悪と怨念は、私たち日帝本国人に、ま
ず天皇ヒロヒトをこそ死刑執行せよ、と要求しているのです。すな
わち、日本人として天皇を殺るか殺らぬかは、日本人による反日−
反日帝の闘いが本気であるのかポーズだけであるのが、またその闘
いが深化し、持続し得るか否かの鍵、踏み絵なのです。敗戦后解放
された日帝の新植民地主義侵略の精神的支柱つまり日本主義は、戦
前の天皇制イデオロギーの復権の姿なのです。私たちがこの天皇制
イデオロギーの復権を許し、何ら手を打たずに見逃すことは、旧日
帝の現在的な復権を黙過することになります。それらの課題に対し
て、私たちが用意した回答は、天皇ヒロヒトヘの死刑執行を実現す
ること、つまり天皇暗殺の具体的な作戦計画であったのです。
     二
 一九七三年夏以降、私たちは天皇暗殺計画を検討し始めました。
私たちは、「殺ろうと努力した」というような、見せかげだけには
反対でしたから(例えば、皇居の石垣を爆破するとか、「死刑執行!!」
などと何百回も叫びながら皇居に突入するとか等々)確実に殴る方
法を検討し、金城鉄壁な皇居から天皇ヒロヒトが外に出てきたとこ
ろを狙うことにしたのです。天皇ヒロヒトが外出するのは極めて少
いのですが、それでも探してみると、国会の開会式(日時は未定)、
毎年八月十五日、日本武道館で開催される「敗戦記念日、戦没者掛
霊式典」等には出席するし、また例年、葉山や那須に静養に出掛け
ているのです。それらの一つ一つを具体的に詳細に検討し、私たち
は天皇ヒロヒトが那須の静養先から「御召」列車で帰京する時に、
その「御召」列車を爆破転覆させて処刑するという「御召」列車爆
破作戦計画を立てました。そして、私たちは種々雑多な資料から、
例年八月十四日に天皇ヒロヒトが黒磯から原宿まで「御召」列車で
帰京する確率が大変高いことを調べあげました。そこで、私たちは
東京と埼玉の間にある荒川鉄橋に爆弾を仕掛け、一九七四年八月十
四日午前一○時五八分〜午前一一時○二分の間に通過する「御召」列
列車を爆破しようと考えたのです。時間をこのように特定できたの
は、やはり種々雑多な資料及び列車時刻表によってであり、さらに
約一年弱の準備期間に何回か実際に荒川鉄橋を通過する「御召」列
車を見送り、時間を計測しているからです。一九七四年春以降、私
たちは何度も夜間、荒川の河川敷へ出撃しました。そして「御召」
列車爆破の方法についての結論を出したのです。「御召」列車の通
過を目撃・確認して爆破するような方法でないと確実に死刑執行で
きないし、また東北線や京浜東北線の電車を巻き込んでしまう危険
が大きいから、時限式爆弾では駄目なので、有線−導火線方式か、
無線−ラジコン方式の採用となる訳です。最初は無線(リモコン)
で殺ることを考えて、私はラジコンの送受信機を開発しようとした
のですが、素人の作業なので遅々として進まず、途中で放棄し、結
局、有線−導火線方式と決まったのです。 (なお参考までに書い
ておくと、ラジコンの送受信機であれば何でも良いということでは
ありません。受信機においては、特定の、つまり私(または君 )
の送信機が発する電波のみを受信し、作動するが、他の電波は一切
受信しないというものでなくてはならないのです。私が手本とした
のは“ガレージ・ドア開閉装置”の送受信機でした。)つまり、荒
川鉄橋の川の中程の橋脚と線路の間に爆弾を仕掛け、電線を約一キ
ロメートル下流の赤羽橋(という名だったと、記憶する。赤羽と川口の
間の荒川鉄橋の下流に最初に位置している橋)の下まで引いて、そ
こで「御召」列車の通過を目撃・確認して爆破するというものです。
そして、その為の作業としてはまず爆弾の位置がら約六○メートル
位電線を隠しながら河川敷の最初の橋脚(鉄筋コンクリートの柱)
まで引き、そこから今度は、電線を橋脚づたいにパテで貼りつけ、
橋脚と同色に塗りつけながら地面まで降ろすのです。そして、橋脚
の地面のところから赤羽橋の下まで川沿いに、やはり電線を隠しな
がら敷設するのです。これらの作業は八月十二日夜から八月十三日
早朝までと、八月十三日夜から八月十四日(決行当日)早朝までに
終える計画を立てました。ギリギリ最后の二日間にこれらの作業を
計画したのは電線が発見される可能性を少しでもなくしようとした
為です。私たちは、七月中旬がら、毎晩の様に荒川河川敷へ出撃し、
実際に鉄橋上で電線のルートを決めたり、爆弾を仕掛ける位置や仕
掛け方(固定法)を決めたり、また橋脚づたいに電線をおろすルー
トを決めたりしたのです。鉄橋上で、様子を調べたり、他の作業等
を出来るのは、深夜貨物列車しか通らない午前一時過ぎから午前四
時過ぎの間だけです。私たちは、全員が生活費(闘争資金)捻出の
為、また「一般市民」としてのカムフラージュの為、昼間定職に就
いていましたから、夜、作業をしていると、ほとんど眠らぬまま会
社などに出掛けたり、あるいは良くても朝一〜二時間仮眠できただ
けだったので、全員が睡眠不足やそこからくる夏バテで身体の状態
は最悪でした。しかし、全員の闘いに向けた意気は、極めて軒昂で
あったことは疑いの余地がありません。
     三
 私たちは何度にも及ぶ調査と必要な訓練(例えば、ザイルを使っ
てのロッククライミンクと縄梯子を使ってのロッククライミンク(?)、
それに改造ビストルの射撃訓練などなど)を繰り返しながら、六月
頃からこの爆破作戦に必要な材料を本格的に揃え出しました。中古
のスバル1000を購入して私たちの深夜の足としました。それから
電線(河川敷の分として直径一センチ程の電線(Fケーブルという
種類かもしれない)を十巻一キロメートル、鉄橋の分――爆弾から
橋脚まで――としてそれよりひとまわり細い直径七ミリ程のものを
一巻一○○メートル、橋脚の分として家庭用のものよりも細い平行
線を約五○メートル)を購入し、電線と電線をつなぎ合わせる金属
コネクターを二十組位購入しました。そして、橋脚部分に電線をパ
テで貼り付け、色を塗っていく為の作業用に一○メートルの縄梯子
と登山用ザイル等を購入し、爆弾の弾体(容器)を探し歩いたので
す。また、赤羽橋の下で、荒川鉄橋を通過する「御召」列車を目撃
確認して爆破する(爆弾の中の雷管に電流を送り込み爆発させるの
ですが)為の発破器を作製しました。これは写真用の四五○V乾電
池とコンデンサーや抵抗で回路を作りマイクロスイッチに接続し、
持ち運びのカムフラージュ用に皮のシガレット・ケースに収納した
ものです。なお、八月十四日決行当日、「御召」列車爆破の任務に
つく者は、爆破后自転車で赤羽方面へ後退(俗に云えば逃走)する
予定であったので、あらかじめ自転車を「窃盗」しておきました。
そして、前の作業のところで書き忘れましたが、その自転車での後
退を安全に保障する陽動作戦として、八月十三日夜から八月十四日
朝の間に赤羽橋のたもとの交番の裏に爆弾を仕掛け、八月十四日当
日の午前一一時一○分に(列車通過・爆破が午前一○時五八分から
午前一一時○二分の間と特定できた為、このように陽動爆破の時間
も明確に出したのです)爆破する計画だったのです。私たちは八月
初旬に主役の鉄橋分と、脇役の交番裏の爆弾を製造しました。そし
て主役の爆弾の方は、固定する為の細工をしたり、保線区員が線路
上を歩いても気がつがぬように鉄橋と同じ色に塗ったりしたのです。
次にどうしても当時の私たちのスタイルについて書いておきたいと
思います。私たちが深夜から早朝にかけ河川敷や鉄橋上で調査をし
たり作業をしたりする時は、全身黒装束で、運動靴または地下足袋
着用で、それは当然ですが現場についてから着替えていました。当
時の私たちは毎晩のように遅くなってから家を出、深夜か朝になっ
てしまってから家に帰る生活になっていました。また、荒川鉄橋ま
では、多少は工夫しているのですが大体何時も同じコースを通るこ
とになるのです。そこで私たちは、警官の職質や検問への対応とし
て(最近の東京は、夜一一時以降は戒厳令で、警官の天下ですから
ね)、海や避暑に行くような小道具を車に積み込み、スタイルをト
ッボイ「遊び人」に近づけるよう努力したのです。赤いマンボズボ
ン(スリムズボン?)に赤シャツ。気が遠くなる程大げさにスソの
広がったパンタロン。白いダボシャツようの背中一面に紺碧の鮮や
かな唐草模様をあしらったものを着、黄色のズボンもはいたり、ま
た赤と緑の何ともセンスの悪いTシャツを着たり、パキスタン製の
原色を散りばめたダブダブのシャツを着たり、なにしろ普段遊びと
はトント縁のない人間が急ごしらえするのだがら、全然サマにはな
らなかっただろうと思います。しかし、私たちは真剣であり必死だ
ったのです。何しろ車のトランクの中には、常時ザイルや縄梯子、
周囲に明りのもれぬように工夫した懐中電灯、皮手袋、黒シャツ、
黒ズボンまたはトレーニングタイツ、地下足袋等が積んであるから
です。そして私たちは、スタイルや小道真だけでなく、検問や職質
にあった場合の答えはあらかじめ用意しておいたし、最悪に備えて
全員が改造ピストルや短剣などで武装してはいたのです。それでも、
夜中とはいえ、街中でドンパチやるのはこちらの不利ですがら、ト
ッポイ「遊び人」のスタイルだけで、職質や検問をかわしたかった
訳です。
     四
 八月十二日夜九時過ぎ、私たちはそれぞれ赤シャツや唐草模様の
シャツを着て、三々五々荒川河川敷へ出撃しました。この日の作業
は、鉄橋部分、橋脚部分、ぞして赤羽橋までの約一キロメートルに
わたる河川敷の部分の電線敷設作業です。全員男装東に身を包んで
一○時頃がら、二人一組になって、まず河川敷の分から電線を敷設
しだしました。電線一巻一○○メートルの重さは約一五キロ位です。
川沿いの湿地帯の泥の中や華の茂みの中を電線が白昼に券いても誰
にも発見されることのないように隠しながら、つまり乾いた地面は
スコップで溝を掘り電線をその中に埋めたり、ある部分は残材や土
砂等を上からかけながらの作業です。睡眠不足等の疲労と暑さ、さ
らに泥に足をとられたりして、一五キロの電線が三○キロにも四○
キロにも思える程重く感じられたものです。巡回に来るパトカーや
人に見られないようにしながらの泥まみれ汗まみれの作業で、九巻
九○○メートルの電線を敷設し終えた時、すでに午前三時を回って
おり、予定時間を大巾に過ぎていました。そこで、私たちはすぐに
分担して鉄橋上の作業と、縄梯子を鉄橋にかけての橋脚部分の作業
に取りかかったのですが、全員あまりにも疲れていたようです。私
たちは思わぬミスや、後で考えるとゾッとするような信じられない
行動をしていたのです。一例を挙げると電線と電線を金属コネクタ
ーで接続した後、防水加工の為にゴムテープを巻きつけるのですが、
それを切断する為に持っていたカッターを落としてしまったことで
す(最初がら手袋をしての作業である為、指紋はついていないもの
の、致命的なそして平常では考えられないような初歩的なミスであ
り、翌日、八月十三日の昼間、必死に探し出し回収はしたものの、
精神的・肉体的ともに消耗なロスであった)。鉄橋上の部隊は、爆
弾仕掛けの地点から橋脚部分までの約六○メートルの電線から引き
始めました。鉄橋上は水銀灯がついていてほの明るい所もあるので
すが、誰れにも発見されることなく作業を行なわなければならない
ので、暗い所に身を置き、周囲に明りのもれぬよう工夫した小さな
懐中電灯で照らしながらの作業です。そして電線はやはり隠しなが
ら外から見えないようにしながらの作業てすから、鉄骨の裏側とか、
とにかく死角になる部分を探しながら進める訳です。ところが、疲
れのせいか足元が覚っかなくて、高い鉄橋上でフラフラしているの
です。そして、鉄骨に腰をかけ川の上に足を投げ出して電線を握っ
たまま無意識的に居眠りをする仕末なのです。そうこうしてあまり
鉄橋上の作業が進まないうちに明るくなり始発電車が走り出しまし
た。私たちは急いで鉄橋から降り、着替えをして荷物をまとめだし
たのですが、その頃すでに荒川土手の上を犬を連れたり、自転車に
乗ったりしてきていたオトッツァンたちは、私たちのチンドン屋み
たいなスタイルを物珍らしげに見ていたものです。結局、その日は
予定を消化し得ないまま帰宅する羽目になったのです。
     五
 翌八月十三日の夜一○時過ぎ、私たちは縄梯子・ザイル・電線・
鉄橋分と交番裏の分の爆弾などを車に積み込み、全員が武装して出
撃しました。この日が残された最后の一日、最終日ですから、全員
かなり意気込んでいました。この日の作業は、鉄橋に爆弾を仕掛け
敷設した電線と接続すること、陽動作戦の為の赤羽橋たもとの交番
裏に時限爆弾を仕掛けること、ぞして昨日やり残した橋脚の電源を
パテで貼りつけ色を塗りつけていくことです。私たちは荒川鉄橋に
近づいた所で分散し、三々五々鉄橋下に到着し、車から爆弾や縄梯
子等必要なもの一切をおろして実行に移る予定でいました。(なお、
車は荷物の積み降ろし等の為に現場近くまで行くことはあっても、
それ以外は絶対辺づかないし、また空車はかなり離れた団地の近く
かあるいは工場街に停めておきました。カッパラッタ車ではなく自
分の車で爆弾を仕掛けに行くのは戦術的に最低のやり方です。私た
ちは車を使うことはあったけれども、当日は使わず前日に使ってし
まう――例えば前日に爆弾をすでに爆破対象の近くに運搬して、隠
しておき、当日は徒歩かバス又は電車で出掛ける――方法をとって
いました。)いざ男装東に着替えをして作業を開始しようと思っ
たのですが、どうもいつもと雰囲気が違うのです。私たちにしてみ
れば昨日やり残した作業もあり、かなり気分的には急いでいてすぐ
にでも着手したいのですが、様子が変なのです。得体の知れない男
達が最低三〜四人分散して私たちの方を注目しているのです(なお
書き忘れていましたが、この河川敷は午前○時位までは実に巧妙と
いうか執拗で邪魔臭いち漢の多い所で、男二人で歩いていても尾行
されるし、車を停めていると無灯火の自転車が背后から近づいてく
るといった按配で、これ迄にもずいぶんと消耗したことがあるので
す)。それで最初は痴漢かとも思い、時を待では去るだろうと考え
ていたのですが、何時までたっても立ち去りません。もうすでに荷
物は全部おろしてしまっていましたから、私たちが一時的にでも立
ち去る訳にはいかず、荷物の周囲にうづくまっていたのですが、そ
したら男たちは序々に近づいてぐるのです。うち一人は体格も良く
警備のデカボリのように自信をもって、正面からズンズン近づいて
ぐるのです。残りの二〜三人はといえば、その少し後方に控えてい
る訳です。その一人の男はおろした荷物の山(上からシートを覆せ
てあった)をシゲシゲと見、私たちの方を見ては横の方に退きはす
るが遠くには去らないのです。その態度からみると痴漢ではないよ
うに思えました。私たちも、もちろんただだまって手をこまねいて
いた訳ではないのですが、男達が分散しているという位置関係の悪
さから迂闊には手を出せない訳です。そうこうしているうちに時間
は経過し、タイムリミットを超えようとしているのです(何といっ
ても昨日の作業が残っていますから、時間は少しでも無駄にはてき
ないのです)。そこで私たちは散開し、その正体不明の男達を逆に
取り囲み正体をぴっぺがして何者であるか見極わめようと思いまし
た。アペックになって引きつけ、また荷物をそのままにして立ち去
る。ということをしたのですがまったく効果がありません。どうも
痴漢ではないようです。そのうちに敵の方がさらに散開し、見え隠
れしながら動ぐ仕末です。そして依然として私たちの方を注視して
います。私たちは態度決定を迫られました。すでにタイムリミット
になっているからです。その正体不明者=敵を天皇の死刑執行の過
程での止むを得ない犠牲として葬り、作業を全速力で実現するか否
かであり、また果して葬った后の作業で時間的に可能か否かの検討
でした。敵は一人ではなく複数であり、しかも配置的には散開して
私たちよりも有利な位置を占めています。どう考えても当面の敵を
攻撃している間に時間はなくなってしまう訳です。今になって昨日
のやり残し作業が悔まれます。予定通りだと最終日は爆弾を鉄橋と
交番裏に仕掛けるだけですから楽勝のケースだったのです。いぜん
として敵は私たちの方を注視しています。すでに私たちが例えウル
トラマンでも作業を完遂するのは絶望的に無理な時間です。
 だれからともなで、“中止しよう!”という提案がなされました。
一年間かけた作戦計画の何とも惨めな挫折の瞬間です。私たちは全
員黙ったまま荷物を車に積み込む為動きました。引き揚げる途中の
車の中でも全員おし黙ったままでした。いっきょに疲れだげが心身
ともにでてきて、何も考えずにただただ眠りたかった。というより、
眠るより他に口惜しさや惨めったらしい気持ちをイヤス法はなかっ
た訳です。
       六
 天皇ヒロヒトの乗る「御召」列車は八月十四日、私たちの計算し
た通りの時間に荒川鉄橋を通過して帰京しました(なお当時の警備
状況は荒川鉄橋の附近はパトカーと建設省の車各一台に分乗したオ
マワリが五〜六人で、空にはヘリが二機種舞っていた)。私たちは
その夜遅く男装東に身を包んで九○○メートルの電線を回収した。
なぜ急いで電線を回収したかは明らかであろう。私たちは、一九七
四年八月十四日の時点では天皇の死刑執行を果たせなかったが、チ
ヤンスは未だあるからです。不審な電線は回収し、毛程も「天皇暗
殺計画」を悟られない為です。然らば今なぜ私は上記の如く詳細に
説明したのか? それは最初に書いた如く、国家権力は私たちの
「天皇暗殺」未遂を認識したにもかかわらず驚愕してしまってこの
事実を一切完黙しているからです。国家権力が認識している情報や
事実は速やかに人民の前に明らかにしなければなりません。これは
鉄則だと私は考えるのです。闘い続ける人民は新たな可能性を求め
闘いの深化を追求する為あらゆる情報を必要としているのです。
 私は、簡略に「御召」列車爆破作戦、挫折の戦術的総括をしよう
と思います。先ず作戦計画そのものは極めてオーソドックスなもの
であり根本的な誤り等はないはずです。私たちはあくまでも現実的
に考えて可能なことを実現しようとしたのです。それではいったい
今回の作戦の挫折の原因は何だったのだろうか? 一つには、私た
ちは事前に作製した机上の計画表や予定表に骨がらみにされてしま
ったことです。初めての長丁場の闘いですから、実践的・具体的に
心身共に余裕をもった計画表を作ることができなかった訳です。私
たちは計画表に従って最后の二日間までは無理も押して、何とか予
定を消化してきました。しかし最后の最も肝心な詰めの段階で、私
たちの立てた計画表が極めて無理を強いているものであることを知
ったのです。私たちは気候的な条件を無視し、また決行日が追って
くるに従って予定を消化する為、睡眠時間を減らし、あるいは殆ん
ど寝ずにいることによっていかに体力が消耗していくのかを充分に
把握することができていなかったのです。今振り返ってみると、八
月十二日夜から八月十三日朝までの電線敷設作業が最大のヤマ場で
あり、この日予定通り作業を終えるか終えないかが結局決め手だっ
たのだと思います。予定通り消化した場合最終日は爆弾仕掛け作業
(製造・爆発を含むすべてが闘いであって、個別のものは作業でし
かない)だけですから、ワンチャンスがあれば良いのです。今にな
って考えてみると残念ですね。(他人事のようだげれども、本当、
残念で口惜しいですよ)。
 私たちは以下を教訓としなげればならないと思います(これは三
菱との絡みもあるのですが)。私たちはともすると頭の中だげで何
かを決意し、その決意のみを急進化させて、様々な条件を度外視し
机上の、つまり実際的ではない計画を立てる傾向があります。しか
しこれは厳禁です。まず、最初から最后まで確実に実行し得る計画
であること、そしてあらゆる主体的条件を充分に考慮した上での計
面であるべきです。そして、計画のなかで肉体的要素を軽視してい
ると後で大火傷をするか、私たちのように挫折してしまいます。(な
お、一発勝負の“爆弾抱えて体当り=死なばもろとも”の場合でも
絶対確実に殺ろうとする時は、この教訓を生かすペきです。) 天
皇ヒロヒトの死刑執行をしそこなった翌日、八月十五日の朝鮮解放
記念日(日本では敗戦記念日)に、在日朝鮮人文世光義士が韓国で
決起するという衝撃的なニュースに接し、私たちは自らの無力感を
増大させました。骨のズイまでトコトン帝国主義本国人である私た
ちは何をやってもドジを踏みつづけるのか? 片方がドジッて挫折
している時、片方は単身決起を貫徹する。この対照は、ドジッた奴
には耐え難い無力感を与えるものです。しかし、頭の中で何をやっ
ても駄目だと思っている限りはドジを踏み続け、結局衛生無害なこ
としかせずに終ることになります。帝国主義本国人であり小市民で
ある私たち自身にオトシマエをつけ、駄目サ加減を克服する途は、
何度失敗しても、ドジを踏み続けても恐れることなく、恥じること
なく、事実行為としての闘いを闘うことです。しかも、手軽ないい
加減な闘いではない、己れの退路を絶つ闘いをです。
 私は逮捕された当時、天皇の死刑執行を含め、未だ未だ実現しな
ければならない闘いがあることから、逮捕されたことを心底梅みま
した。私は東拘移監前は麻布警察著に留置されていましたが、そこ
にはいわゆる運動場がなく、薄暗い洗濯物の乾燥場て沙婆を眺めな
がらタバコを喫うことを運動と称していた訳です。私は逮捕後、一
週間位して、そこでタバコを喫っていて、首都高速道路の向う側に
ケバケバしい成金趣味の「TSK−CCC」というビルを見つけまし
た。その「TSK−CCC」の経営者であり、また暴力団「TOSEI」
会とかの親分である町井菜は、右翼の児玉誉士夫等とつるみ、そし
て青嵐会の韓国ロビイストともつるんでいること、そして日本国内
でキーセン・パーティーを行なっているというもっぱらの噂の「秘
苑」の経営者であること、を私は想い出しました。私は自分が逮捕
され、艦の中に閉じ込められている間に、韓国ロビイストらは韓国
人民の収奪・搾取を続け、ヌクヌクと私腹を肥やしているのかと思
うと、その「TSK−CCC」のビルを見ては自分に腹をたて、パク
られたことを悔みました。そして、自分が艦の中で飼われているこ
とを実感し、多分に敗北主義的になっていました。さらに、「傲慢
で生意気にも」私たちが逮捕されたことで反日帝の闘いが弱体化す
ると考え、敗北主義を肥大化させてしまいました。まったく自己批
判ものです。六月二十五日の船本州治同志の焼身決起と、それに続
く四戦士の皇太子攻撃は、まだまだ沙婆には日帝に対して命を賭し
て闘いを挑む同志が数多く居ること、さらに生まれ続けることを告
げ知らせてくれました。七月十九日にはアイヌモシリ侵略の尖兵道
警警備部を、そして八月十五日には首都治安警察を爆破攻撃した東
アジア反日武装戦線の同志達の戦いは、私に限りない希望を与えて
くれました。そしてさらに、日本赤軍は“獄中兵士奪還”という、
日帝国家権力に痛撃を与える快挙をやったのでした。私たちが逮捕
されてから、特に六月以降闘いは連綿と続くのです。海の外では、
日帝の侵略企業や侵略者に対する闘いが展開されています。私たち
が逮捕され、反日帝の闘いが弱まるどころか、新たな反日帝の闘い
は、日帝の内と外で野火のように燃え広がり、人民が主体的に提起
する反日帝の大会戦を着々と準備しているのです。将しく人民の積
年のウラミ・ツラミは個別分散的に解消されることなく、反日帝の
人民の軍隊として組織されようとしています。そして人民の軍隊に
よる怒とうのような大進撃は、日帝のブルジョア支配階級をせん滅
し、日帝中枢を席捲し、人民抑圧の権力を駆逐し、私たちのこの手
に、人民の手に勝利をもたらすでしょう。その為にこそ、私は確信
をもって云わなくてはなりません。日帝の最悪・最大の犯罪人=天
皇ヒロヒトを今すぐに獄門首にし、日帝の帝国主義侵略のシンボル
に公然と復権させてはならない、と。そしてそれはアジア人民の天
皇ヒロヒトに向けた“憎しみと殺意”に共感し、その“憎しみと殺
意”を自らのものとした日帝本国人の任務であり、使命である、と。


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