は じ め に


―獄中のたたかいの経過

 私は一九七五年五月十九日、仙台のアパートで逮捕されました。今思っても、何と自
分はドジなのだろうと悔やんでも悔やんでも悔やみ切れないことに、私はその日、デカ
どもが留守中の部屋にあがりこんでいることを知らずに、大勢のデカどもで足のふみ場
もないほどのアパートに自分の方からとびこんで行ってパクられたのです。奴らは、始
め、逮捕状を用意しておらず、それは見込み投査のガサ入れにすぎませんでした。当時
の私は、救援センターの名前も知らず、反弾圧のイロハも知らなく、全くの無知でした
から、ガサ入れと逮捕の違いすらわからず、デカにとりかこまれて、もうパクられたと
思ってしまったのです。私の頭の中は「なぜパクられたのか」ということでいっばいで
した。そして「同志たちは無事だろうか。私の逮捕によって、同志たちの方にも弾圧が
及ばないだろうか」とそればかりが気がかりで、ガサ入れの際に対処すべき反弾圧の心
得など、何も実行せず、黙って奴らのやることを見ていただけでした。実際、私はデカ
どもに自分の部屋にひきずりこまれてからは、パクられたと同様の身体的拘束をうけま

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した。何とかして外へ出ようとする私に対して、デカどもはトイレに行く時でさえ男3
人がぴったりとついてくるという状況でした。私に当時せめて反弾圧の知識があったの
なら、こんな違法捜査を許してはおかなかっただろうと思うと、くやしさでいっぱいに
なります。デカどもは、延々、8時間にわたって3畳間のアパートの隅から隅までを荒
らしまわり、新聞の束、スーパーのバーゲンで安売りしていたために買っておいた砂糖、
ストーブを分解したときのボルト、小学館の雑誌のおまけについてきたおもちやの金づ
ち、ガムテープなどにいたるまで、カッパらいました。そしてそれが終ると同時に私は
「緊急逮捕」を知らされ、手錠をかけられたのです。緊急逮捕令状が出たのは、直接的
には部屋からクサトール(5Kg入)が2袋出てきたことによります。
 私は、何ら反撃をすることもなくパクられ、東京に「護送」されてしまいました。知
らぬ存ぜぬでおし通そうとの私の決心は、“8名逮捕”という事実の前にくずれてしま
い、斗いは終りだという敗北主義に陥り、自白屈服してしまうという絶対に許されぬ誤
ちを犯してしまいました。私の場合はとくにそうですが、もし、完然を貫いていれば、
奴らは私が何をしたのか、何をしようとしていたのか全くつかめず、デタラメな起訴を
許すことはなかったと思います。自白という行為はその主観的意図が何であれ、革命に

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対する裏切りであり、転向以外の何ものでもありません。私は「取調べ」の最中、完黙
どころか「全部の斗争について、自分を起訴せよ。私は東アジア反日武装戦線“狼”の
一員だ。」といきがってうそデタラメをいい、いかに反日武装斗争は正義の斗いである
のか、いかに自分は反日斗争を斗わんとしてきたのか、ということを敵の前におしやべ
りしたのです。斉藤和同志の死を知りつつ、姉の自死を知りつつ、我々の自白が、かけ
がえのない友人の命を奪ってしまったということを知りつつ、敵に対して口を開くこと
のできた自分を、現在の私は徹底的に憎悪しています。自白者であった当時の自分が、
いかに腐敗しきっていたかということを、胸の痛みなしに思いおこすことはできません。
私はこのような自分の弱さ、みにくさと斗い続け、自己の犯した反革命裏切り行為の重
さを一生涯背負って斗い続けていくつもりです。
 私は、自らが裏切り者となったという結果として、自らに対する敵権力の弾圧を許し
てしまい、“狼”が敢行した三菱、帝人、間組9Fに対する各爆破斗争に関し、クサト
ール、イオウ、金銭を提供し、その斗いを容易ならしめたとして「幇助犯」として起訴
されました。しかし、これは現日帝のブルジョワ法によってもデタラメとしかいいよう
のない“こじつけ”でしかありませんでした。東アジア反日武装戦線の斗いに貢献した

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いという私の強い願望とは裏腹に、何もしていないうちにパクられたということに対す
るくやしさが、当時の私をとりこにしていました。それが、敵愾心に結びつくのならま
だよかったのですが、私はただ、おのれをののしるだけで敗北主義に落ちこんでしまっ
たのです。
 私が、逮捕は決して斗いの終りではなく、たとえ身は獄中にあろうとも、私の生ある
ところそこはすべて戦場であり、斗いは続くのだということを本当に理解したのは、東
拘移監後のことでした。私の再起の契機となったのは、6・25船本戦士の焼身決起であ
り、7・19東アジア反日武装戦線の同志たちによる道警爆破攻撃であり、8・4日本赤
軍の戦士たちによる獄中同志奪還、クアラルンプール斗争でした。船本同志の決起を知
って以降、私は自白を拒否しました。そしてオノレの反革命裏切り行為の罪の重さを思
い知りました。7・19の斗いが、どれほど私を勇気づけてくれたことか、そしてどれほ
ど厳しく、自白を批判していたことか! 私は7・19戦闘のニュースを聞き、独房で感
激と自責の涙を流しました。私は斗わねばならぬ、最後の最後まで斗いぬかなければな
らぬ、どんなことがあっても…… 心の中でそう誓いました。8・4日本赤軍のクアラ
ルンプール斗争は、どんな言葉よりもはっきりと、逮捕は斗いの終りではないことを事

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実行為をもって示していました。佐々木同志たちの獄外戦線への復帰が、どれほどの感
激と勇気を我々に与えてくれたかは言葉に表わすまでもないことでしよう。
 接見禁止がついていたにも拘らず、獄中獄外の友人たちからの熱い連帯と励ましの声
は私たちのもとに確実に届いてきました。もう二度と会えぬと思っていたあや子同志と
の再会、そして見知らぬ同志であったゆき子同志との出会い、(互いに顔を知らなかっ
たけど、目と目が同志であることを語っており、すぐに由紀子同志を確認できました。)
私は確実に一歩一歩、斗いの心をとりもどしていきました。「どんな不正に対しても、
非妥協的に斗いぬこう。毎日毎日の斗いの中で、自白をしてしまったオノレの弱さを克
服することにつとめよう」と決意しました。
 由起子同志が自殺房にぶちこまれているということを知り、彼女を自殺房から出すよ
うに要求してハンストに入ったのが、私の獄斗の第一歩でした。十月三十日、“狼”に
対する第一回分離公判強行粉砕斗争は、獄中獄外の多くの仲間たちの力強い支援を受け
て、出廷拒否を貫徹しました。私たちの「分離公判粉砕!」のシュプレヒコールがあが
ると、右から左からそれに呼応してシュプレヒコールがあがり女区全体をゆるがしまし
た。その日、分離公判粉砕斗争をともに斗い、夜7時のニュースの報道管制に抗議した

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永田さんが隔離されたことに抗議し、私は男区六舎の保安房へぶちこまれました。翌朝
房に戻されて以降も、10・30斗争で隔離された仲間を元の房に返すよう要求してハンス
ト斗争を斗いぬき、以後、報復チョーバツ、抗議、正座点検拒否、ハンスト……等の連
日の斗いが開始されたのです。その後女区では、仲間たちがお互いに「おはよう」「が
んばろう」等挨拶を交わしあい、一人の仲間への弾圧をも仲間全体ではね返していく生
き生きとした雰囲気がつくり出されていきました。獄中者組合の獄中獄外統一斗争の時
などは「一般刑事犯」の仲間たちも「いいぞ!」「がんばれ!」「私もがんばる!」等
の声をあげ、弾圧にかけつけてきた警備隊の奴らは、どこで声が上っているのか確認で
きず、あっちへウロウロ、こっちへウロウロするばかりという有様でした。東拘当局は
十二月十九日、「懲罰」弾圧の内容を一層強化し、それに抗議する私と、あや子同志、
ゆき子同志を南三舎(男子懲役監の一階で、倉庫にのみ使用していた古く汚ないくもの
巣だらけの房)に隔離しました。この時、隔離の理由は「おまえたちが騒ぐと他の者が
みんな同調して騒ぐからだ」と女区長は本音をはきました。十日問のみせしめ弾圧の後
七六年の正月を前にして私たち3人は女区に戻されましたが、互いにバラバラに分断さ
れ、隣は空房にされるという状況でした。しかし、弾圧は女区の斗う獄中者の団結を一

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層強化しただけでした。
 その後、奴らは、我々の斗いに対して常に「南三舎にいきたいのか!」というドーカ
ツを加えてきたものです。南三舎とは女区の保安房であり、奴らのいいなりにならぬ女
性獄中者を屈服させるためにとじこめる“こらしめ房”だったのです。しかし、それは
全く役に立たなかったわけです。一九七六年四月十六日、ゆき子同志に対する不当チョ
ーバツの強制執行に抗議したことを口実として私は再び南三舎に隔離されました。東拘
はこの時すでに女区の斗いを圧殺するために、南三舎を斗う獄中者の恒常的な隔離房に
しようという策動の一環として、私を隔離したのだと思います。南三舎に隔離されてか
ら3日後の七六年四月二十日、私は永井人磨、森義則の男看守2名によって、点検の際
に正座をしないということをもって、髪をつかんでひきずりまわす、蹴る、投げる、腕
をねじりあげる、逆エビ責めにする、顔・体を足でふみつける等の暴行を約三十分間に
わたって受けました。「口で言ってもわからねえ奴には、こうして点検のやり方を教え
てやるのだ」等怒号して暴行のかぎりを尽くす奴らに対して、私は最後まで屈せず斗い
ました。私は一人隔離されていても、女区の仲間・同志たちと固く結合していたために
どのような弾圧をもはねかえすことができたのです。弾圧は女区の斗いを鎮静化するど

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ころか火に油をそそぐ結果となりました。私が隔離されてから、半月〜二ケ月の間に次
々と女区の仲間たちが南三舎に隔離され、最終的には7人もの女性獄中者が南三舎にぶ
ちこまれることになりました。
 2名の仲間はすぐに移監になってしまったため、その後約半年にわたって、江口さん、
前林さんと大道寺あや子同志、浴田由起子同志と私の5人の南三舎における団結した斗
いが開始されたのです。私たちは南三舎隔離という弾圧状況を逆手にとって、獄中会議
を開き、5人共同のアピールを出したり、仲間がチョーバツになれば、(ラジオを聞く
ことができないので)他の仲間がラジオのニュースを教えてやり、新聞をとっている仲
間は、毎日、新聞をとっていない仲間のために重要記事を読んで聞かせるなどしました。
南三舎2階、3階の「懲役」の仲間も、毎日、私たちの斗いに対して「ガンバレヨ」と
声援を送ってくれました。七六年五月の獄中獄外統一斗争の時、東拘の看守どもが、あ
や子同志に皮手錠をかけるという弾圧を行なった際には、5人全員であや子同志の皮手
錠をはずさせるまで、不眠、断食で斗いぬき、七七年八月、由紀子同志を南三舎の新設
自殺房にぶちこんだときも、5人全員で十日間のハンストを斗いぬき、同年十一月の天
皇在位五十周年記念式典に際しても共同のハンスト斗争を斗いぬきました。このような

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5人の団結した斗いに恐怖して七六年十二月初め、奴らは、江口さんと前林さんの2人
だけを女区に返すことによってこんどは南三舎の斗いを圧殺しようと、さらなる分断攻
撃をかけてきました。
 その頃これまでの懲罰内容が、一段と強化され奴らの弾圧攻撃は続きました。3人に
なると、奴らの暴力弾圧はエスカレートしました。しかし、それ以上に我々の斗いも一
層強まりました。公判斗争の打ちあわせなどを含めて、獄中会議の密度は高まり、事実
上接見禁止弾圧を紛砕しました。私たちは会話をする時は、食器口を自力で開放し(そ
のことを斗いとるまでにはずいぶん手に血豆、内出血、切傷等をつくる弾圧にあいまし
たが)そこから話すようにしていました。とくにチョーバツの時などは、3人一緒にな
ることが多かったので、一日中3人で語り合ったり歌を歌ったりしました。そうしてい
るうちに、どうせ話すのなら、奴らには意味不明で、我々にだけ通じるような言葉で話
したいと思うようになりました。外国語を話せれば一番よいのですが、3人とも英語す
ら満足に話せません。方言でもまくしたてれば、他の地方の人には意味不明のことがあ
るので、NHK語よりはいいだろうということで、東北弁で会話をすることになったの
です。みんなが東北出身ならこのことは文句なしだったのですが、あいにく釧路、宮城、

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山口と、出身地はバラバラでした。そこで、私が教師となって2人に東北弁を教えるこ
とにしました。絶対に「標準語」を使ってはならないという形で指導しているうちに、
1〜2ケ月も経つと、2人とも、アクセントや徹妙な発音については合格とはいいがた
かったけれど、けっこう東北弁をしやべれるようになりました。東北弁会話をするよう
になって副産物として、奴らに対する声をもってする斗いに迫力がでてきたということ
があります。東北弁は男語も女語もありません。そして、いわゆる「標準語」からする
と非常に乱暴で、ケンカもしてないのにケンカでもしているようにきこえます。そうし
た言葉のかざらないところに深い味わいと情愛がこもっているのですが……。従って東
北弁でどなれば、NHK語でどなるより迫力あるのです。(これは東北弁のわかる人に
はわかるハズ) 女の末端看守は、始めは会話を妨害するのも忘れて、おもしろがって
笑っていました。女区長や主任は、東北弁を侮蔑の対象として何やかやと東北弁をけな
していい気になっていました。しかし、「きっすい」の東北弁ではないので、私たちの
話すことは看守にすっかり通じてしまうので、看守はいつものようにせいぜい何を話し
ているかスパイをしたりしながら聞き流していました。
 私たちはその頃、東北弁会話と並行して朝鮮語の学習会をするようになっていました。

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そして学習会が一定程度の成果を上げ始めると、私たちは会話の中に覚えた朝鮮語の単
語をどんどん入れるようにしていったのです。始めはごく少数の名詞から始めて、だん
だん単語数をふやし、次第に文章全体を朝鮮語にしていくように努めました。もっとも
私たちの朝鮮語は、発音も文法もメチヤクチヤで、3人にしか通じないようなシロモノ
だったかもしれませんが、それでも私たちにとっては「秘密作戦会議」が可能になった
のは大きな収穫でした。
「ヨボセヨ、あやちやんや、ミノハラがクッソンピョノサばつけてきても、チョルデロ
チュルジョンコブすんべ?(もしもし、あやちやんや、ミノハラが国選弁護士ばつけて
きても、絶対に出廷拒否すんべ?)」 「クッソンピョノサがミョンヘさきても、ミョ
ンヘばコプすんべ?(国選弁護士が面会さきても、面会ば拒否すんべ?)」 「チルロ
ンだべや!(もちろんだべや!)」という調子ですからあわてたのは看守の方です。
朝鮮語(挿入)会話を始めてからしばらくたつと、それまで殆んど妨害をあきらめてい
た奴らも、まっ青になって弾圧にのり出してきました。我々が会話を始めると、保安課
長、女区長、女区主任、警備隊員がゾロゾロと威嚇に来て「少しでも通声したちカクリ
するぞ」「好き勝手はさせん」とドーカツです・女看守は、ギャーギャー大声でわめき、

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我々の声は、女看守の大声にかきけされて、相手に届かなくなってしまいました。(我
々は3人とも50房ある南三舎にできるだけ距離を置くような形でバラバラに入れられて
いたため、会話をする時はできるだけ大きな声を出さなければなりませんでした。
 七八年四月に女区に保安房が新設されると、奴らは南三舎の斗いを圧殺するために、
すでにカクリしてある我々をさらに女区へつれ帰って(?)保安房へぶちこむようになりま
した。奴らは我々の斗いを弾圧するのに暴力以外のどのような方法をもとることができ
ませんでした。我々は何度も何度も全身に傷を負い、髪をひっばられ、ツバをはきかけ
られ、はずかしめをうけ、保安房へぶちこまれる等の弾圧をうけました。
 七八年九月のダッカ斗争の前日も、我々3人は保安房にぶちこまれていました。9・
28日本赤軍日高隊の戦士たちのダッカ斗争がおきると、これまであらんかぎりの暴力的
弾圧を加えてきた奴らが、手のひらを返したような低姿勢になりました。その日の夜報
道管制に対し、3人で抗議するや、トランシーバーをかかえた保安課長以下ゾロゾロと
警備隊の暴力団どもがやってきたので「また保安房に隔離されるのか」と思いきや、「
機械の故障のようだ。今は誰もいないから、明日聞きなさい」云々となだめすかそうと
するばかり。しかし、保安課長はギョロ目をギラギラさせて、憎悪に燃えるまなざしで

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我々をにらみつけ小さな声で「キチガイ、キチガイ……」とつぶやいていました。(い
つもなら、大声で「キチガイ!」とどなるのだが、奴にはそれができなかった)それか
らは一転して我々の会話への坊害は全くなくなりました。我々の情報をスパイすること
を最優先させたからでしよう。奴らのいう規則なるものの正体とはこんなものです。我
々はそれ以後、テープレコーダーにすべての会話がふきこまれていることを前提として
しか、話はできませんでした。
 十月一日未明(am3:00)の同志たちの旅立ちの日の感激を、私は一生忘れるこ
とはできないでしよう。看守の妨害によって、別れの朝同志たちの顔さえみることがで
きなかったけれど、「反日の斗いを堅持しよう!」「じやあ先にいくわね」の短いコト
バを残して、ヒタヒタとサンダルの音が南三舎の廊下の隅に消えるのを、私はドキドキ
しながら耳をすまして開いていました。何か語りたいことがいっばいあるはずなのに、
「体に気をつけて!」「元気でね!」「あやちやん、ゆきちやんの分も斗うから、ゆき
ちやんあやちやんも、中の私たちの分まで斗って!」というのがせい一杯で、あとはコ
トバになりません。私はうれしさのあまり、夜明けまで房内をグルグル歩きまわってい
ました。その日の空は、くつきりとした秋晴れでした。仁平さん、泉水さん、奥平さん、

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城崎さん…… ダッカにむけて飛び立っていった同志たちの名を心の中でそっとつぶや
き、その日は運動時間いっぱい空をみあげていました。そして、最後まで作戦が勝利し
ますようにと、祈りをこめて運動場の片すみにレモンの種を植えました。それから毎日
運動に出るたびに口の中に水を含んでいって、レモンに水をやっていたら、一ケ月もす
ると5cm位のかわいい苗木に成長しました。しかし、この記念樹はその後しばらくして、
無残にも刈りとられてしまいました。
 あや子、ゆき子同志の去ったあとの南三舎は、ポッカリと穴があいたように淋しくな
りました。しかし、私の心は、それと反対に充実していました。看守たちは一人になる
と、とたんに横柄となり、3人でいた頃に比べても、更にネチネチとしたイヤガラセ、
弾圧が強化されました。私は机にむかって姿勢を正し、坐っている以外のいかなる動作
(立つこと、蒲団によりかかること、机にうつぶせになること、ちょっと寝そべること
房内で運動すること、窓の外を眺めること、その他……)も許されなくなり、何をして
ても文句をいわれ干渉されるようになりました。1〜2分おきにのぞき窓をガチャガチ
ャやること、しかもドアにへばりついて、長い間じーっと人の一挙一動を監視すること
……こうした精神的圧迫に加えて、密室状況を利用しての暴行が頻繁となりました。そ

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の頂点としてあったのが、七八年十二月二十三日の岡田陽之介、丸山久司、大場敏造ら
の公判資料の携行妨害と暴行陵辱です。以後4回にわたって私は、恣意的な携行妨害を
加えてくる看守どもと斗い、ひどい暴行を受けました。一人で隔離されるということの
意味を、私は奴らの暴行の中で知りつくしました。しかし、私は決して孤独ではありま
せんでした。身体が隔離されることによって一層強く結びつく、仲間たちとの団結とい
う力が私にはあったからです。獄中者組合を中心とした獄内外の多くの仲間たちは、南
三舎隔離粉砕の斗いをともに斗いぬいています。そうした中で、12・23弾圧に対する反
撃として、共同告発斗争が斗われ、南三舎隔離は獄中斗争の団結の結節点とさえなりま
した。日弁連人権擁護委は、東拘所長、法務大臣、法務省矯正局長に対し、南三舎への
隔離が不当な差別処遇であるため、直ちに女区に返すように、南三舎の劣悪な環境を次
善するようにと勧告を行ないました。しかし、未だ私は南三舎に隔離され続けています。
しかし、これからさらにどのような弾圧があろうとも、奴らは私を屈服させることは決
してできないでしよう。私はこのような奴らの弾圧と斗う中で、5・19パクられる以前
の自己の弱さ、甘さを一歩一歩克服しようとしてきました。権力にむかっておしやべり
をしていた四年前の自分と、今の自分が、全く違う人間となっているのを、今の私は確

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認することができます。しかし、反日兵士たらんとするには、私にはまだまだ克服しな
ければならぬ課題が山のようにあります。大衆斗争の経験も、都市ゲリラ戦の実戦経験
もない私は、獄中で初めて権力の実態を知り、斗いの何たるかを知ったのです。何から
何まで獄中で学びました。獄中は私にとつて革命の学校です。そして今も、私は毎日毎
日、その学校で学び続けています。

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