わたしにとって反日闘争とは

 私は、高校教師の娘として、田んぼに囲まれた東北の静かな町で生まれ、高校を卒業
するまでそこでくらしました。私の高校時代といえば、山に明け山に暮れたといっても
過言ではなく、山に登るために毎日10キロもマラソンし、学校の裏にテントをはってそ
こで寝起きしたり……。授業中は居眠りばかりで、居眠りしていないときは、机のかげ
で小説を読んでいたり、遅刻の常習犯のくせに、高校三年の夏に学校にプールができる
と、朝早く起きて宿直の先生を起こして、プールの錠をあけさせて授業の始まる前に一
泳ぎしたり、一言でいえば、好き勝手なことをしていました。そして、一方では受験勉
強に反発して「勉強とは何のためにするのか」ということを真剣に考えていました。学
校の勉強はあまり熱心にしなかったけれど、本が好きだったので、よく本を読み、その
ような中で歴史に興味を覚えるようになり、フランス革命やパリコミューン、戦艦ポチ
ョムキンの叛乱に強く感動し、「勉強というのは、歴史の進歩のためにするものだ。」
などと考え始めたのが、高三の頃でした。私は、そのために大学に入って歴史を勉強し

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たいと思うようになり、高三の秋頃から「山のことを忘れて、一時妥協して受験勉強し
よう」と決意して、自分がもっとも軽蔑していた“受験勉強”なるものをやって、六九
年の春に大学に入りました。妥協するのがきらいな私は、「受験勉強」に妥協してしま
った自分について「これでいいのか?」という疑問が常にあったのですが、「一時的に
妥協して『受験勉強』なんぞをやった借りは、これから思いっきり好きな勉強をして、
返していくのだ」などと変てこな理屈をくっつけて(今思えば、何に対して妥協したの
かということが問題なのですが)自分を正当化し、ともかく親元を離れて東京の大学で
勉強できるということのうれしさから、入学当初は胸をふくらませていました。
 ところが、大学の授業ときたら、高校時代と全く変わらないか、むしろひどいと思わ
れるほどにつまらぬもので「歴史の進歩」とは全く無縁の“遊び”にしかすぎませんで
した。教育というものは、人民の幸福のためになされてこそ価値があるはずなのに、そ
こにあるのは、エゴと個人主義であり、結局「ちやんと単位をとって卒業するため」→
「よりよい就職口をみつけるため」→「他人をけ倒して、自分だけはい上っていい思い
をするため」でしかないのでした。私はすっかり失望してしまいました。六九年の四月
といえは「4・28沖縄斗争」の頃です。私は、バリケードの中に私の“勉強”を求めて

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いきました。
 東京は私にとって、見るもの聞くもの驚きの連続でした。田舎では「金持ち」という
のは“酒屋の子”とか“医者の子”位がせいぜいで、「貧しい」といっても都会のスラ
ムのような悲惨さはありません。しかし、東京では貧富の差は極端でした。見たことも
ないお城のような邸宅があるかと思えば、ここが人の住むところかと思うようなガード
下のバラック、何のためにあるのかと思うようなピカピカのぜいたくな商品、手をめい
っぱい広げて走ってるような高級車、そして、橋の下や通路で新聞紙をしいて眠ってい
る労働者たち。ありあまるゼイタクがある一方、そこから吐き出されるゴミをあさって
歩く人がいる。何もかもがショックでした。本当に世間知らずだったのです。ある日学
校に行く途中私は、片足をひきずったおじいさんが、背中と腹に「ストリップショー」
の看板をぶらさげて通りを行ったり来たりしているのに出会いました。その時私は、そ
のおじいさんから目を離すことができず、涙でいっぱいになってしまいました。おじい
さんにこのようなことをやらせて平然としている者たちに対する怒りと、一日中看板の
かわりをして歩きまわらねばならぬおじいさんの生活に対するくやしさで、胸がキリキ
リ痛みました。「許せない、許せない、こんなことはやめさせなければならない」……

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私は、その日はもう学校へ行くことができませんでした。私は、自分が何の苦労も知ら
ずに高校、大学へといけたのは、こうした人たちの犠牲の上に、そして中学を卒業して
働きに出なければならなかった沢山の友だちの犠牲の上に初めて成り立つ特権なんだと
いうことをハッキリと認識しました。これまでの二十年近くの私の生活は、好きな山に
夢中になれたことを含めて、すべてが下層の労働者たちの苦しみの上に初めて可能とな
ったことだったのです。4・29沖縄斗争、ベトナム反戦……のデモに参加するようにな
り「沖縄」「ベトナム」について学び始めた私は、これまで知らなかった真実の前にガ
ク然としました。沖縄人民のこの二十数年問(当時私は、私の生きた同時代についてし
か考えられず、四百年近くのヤマトの支配植民地化ということには無知だった)うけて
きた苦しみがあって初めて、日本の「平和」なるものが保たれてきたこと、毎日毎日べ
トナム人民を虫ケラのように虐殺している米軍の飛行機は、沖縄から飛びたち、沖縄に
帰ってくること、日本の三菱をはじめとする侵略企業は、米軍に戦略物資や兵器を供給
して大もうけをし、ベトナムで傷ついた米軍の兵士は、王子野戦病院で手当てをうけて
いること、……ベトナム人民の虐殺に手を貸しているのは日帝であり、日帝の「平和と
繁栄」なるものは、ベトナム人民の血と屍の上に築かれていること等々を知ったのです。

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日本の市民社会の「平和」の中で、「ベトナム戦争を何とかしてやめさせられないのか」
などと他人事のように考えていた私自身が、まさにベトナム人民の虐殺に加担し、その
血と屍の上で生活していたということに気づいたのです。
 当時ベトナム戦争反対のデモに参加していた私は、そうした事実を知るようになって、
その運動に凝間を持たざるをえませんでした。ベトナム戦争反対のデモに参加しても、
事態は何ひとつ変わらない。そもそも、自らがベトナム人民の殺りくに手を貸していな
がら、その自らの足元をほりくずそうとせず「ベトナム戦争反対」などと叫ぶのはギマ
ンでしかない。我々がベトナム人民に対してなさねばならぬことは、我々の手の届くと
ころにある、日帝企業、日帝政府に米軍への加担をやめさせることでなければならない
し、我々自らが、ベトナム人民の犠牲の上にある「平和と繁栄」を拒絶していくことで
ならなければならない。ベトナム人民を苦しめている敵を、我々自身がやっつけること
でなければならない、と考えました。私は、ベトナム人民が三十年以上も帝国主義(日
帝→仏帝→米帝)と斗いつづけてきたという歴史を知り、「ベトナム人民が、このよう
な戦いの中で苦痛困難を強いられているときに、それを知らずに生きてこれた自分は何
だったのか! 今まで、すばらしいものとして教えこまれてきた「平和」などというも

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のは、ベトナム人民の血にそまったのろうべき血に汚れた偽善的なものでしかなかった
のだ!」と思いました。ベトナム人民は帝国主義者の抑圧と搾取収奪からの解放のため
に勇敢に斗っているのであり、ベトナム戦争に対する我々の立場は、ベトナム反戦では
なくベトナム革命戦争勝利でなければならなかったのです。「われわれが平和を望むな
ら、その平和は、全人民を等しく包む平和でなければならない。……異なった社会体制
をもつ諸国家間の平和共存という概念が、大小を問わずすべての国家の安全、主権、独
立を一様に保障するものでないのならば、それは本質的にプロレタリアート・インター
ナショナリズムの原則に対立するものである。
 ベトナム人民がいったいどんな平和を享受しているのであろうか。合衆国がベトナム
とどんな共存を行なっているのであろうか。そこで日々死んでいく男、女、子供にとっ
て、すなわち最新の軍事科学の犠牲者にとって、平和とか、ヨーロッパの安全とか、平
和共存とか、その他の牧歌的文句がいったい何の意味をもつのであろうか」(これは、
ベトナム革命戦争勝利以降も、帝国主義と斗っている被植民地人民すべてにいえること
であり、ベトナム人民をも含めた社会主義諸国の人民にも問われていることであると思
う) 「帝国主義諸国の生活水準の高さは、われわれの貧しさによって維持されてきた

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ものである。だから、低開発諸国の人民の生活水準をひきあげるためには、帝国主義と
戦わなければならないのだ。」「帝国主義諸国の労働者が、従属諸国の搾取に関して、
相当程度共犯関係に陥いることによって、いかに労働者階級のインターナショナリズム
の精神を喪失しつつあるか。さらに、このことが、帝国主義の大衆の戦斗性をいかに弱
めているか」……… チェ・ゲバラは私の心臓にグサッグサッとクサビを打ちこんでく
れました。私は、ゲバ棒、火炎ビン等を武器にして斗う「壮大な」デモンストレーショ
ンと別れをつげました。奴らの政策のあらゆるものは、全世界の被抑圧人民に対する反
革命的犯罪行為である。それは、奴らが権力の座に居坐り続けるかぎり変わることはな
い。奴らの体制、基盤そのものをこわすことなく、奴らの反革命政策を阻止しようとし
ても、それは不可能である。「××粉砕」を毎度毎度叫んでデモっても、本当に「粉砕」
できっこないし、実際にそれを叫んでいる我々が、本気で「粉砕」できるとも思ってい
ないのだ。万年敗北者に終るしかない。日帝を打倒するには、こちら側のイニシャチブ
によって、確実に日帝に打撃を与える武装斗争しかない。あらゆる革命の歴史は、人民
が自らの武器を握ったときから始まるのだ。「2つ、3つ、そして数多くのベトナムが
地球上に現われ、それぞれのベトナムが死と数限りない悲劇をはらみながらも、日々英

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雄的に戦い、帝国主義に繰返し痛撃を与え、全世界人民の激しい憎悪を浴びせかけ、帝
国主義の軍事力を世界の各地に分散させるならば、未来は明るく近い!」ゲバラのメッ
セージは我々自身に我々自身の生まれ育った地でベトナムを作れと呼びかけていました。
朝鮮人民やアイヌの歴史(抗日武装斗争史)、そして日帝侵略下の被植民地人民の現状は、
我々日帝本国人に対し、過去現在の反革命史を糾弾し、我々に武器をとり日帝と斗うこ
とを呼びかけていました。日帝は今や東アジアを初めとし、ラテンアメリカ、アラブ、
アフリカ等、全地球的規模で侵略の手をのばし、新植民地主義支配をおしすすめていま
す。戦後三十数年、日本人の生活水準は大巾に向上したといわれているけれども、(そ
して実際に日本人の九割以上の者が、自分を「中流」だと考えるほどに向上した)「後
進国」「低開発国」といわれている国々においては、同じ時代に生活水準が向上するど
ころか、帝国主義のカイライである独裁政権によって、ますます人民の生活は苦しくな
り、多くの子供たちが飢えと栄養失調、そして無医療のために殺されていっています。
「先進国」といわれる帝国主義諸国の人民の多くが週休二日制だ、マイカーだ、マイホ
ームだなどということにうつつをぬかし、栄養過多だ、薬漬けだとありあまる物質故に、
健康を害してさえいるときに、植民地においては食べるものがないために多くの人民が

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死に、いたいけな子供たちが一日百円にもならない貸金のために毎日十数時間も働かさ
れているのです。この帝国主義本国と植民地国の格差は拡大する一方であり、その格差
(帝国主義本国の“豊かさ”と植民地国の“貧しさ”)は、まさに帝国主義が植民地人
民の富、生命を奪いつくすことによってなりたっているのです。植民地人民から収奪、
搾取した富をもって帝国主義ブルジョワジーは本国内の「福祉政策」をおしすすめ、市
民的労働者階級を自らの同盟者として囲い込み、現在の支配体制が、「企業がもうかれ
ば、労働者ももうかる」として、新植民地主義政策の支持者へあるいはノンポリ化によ
る暗黙の了解派)にしたてあげることに成功しています。マルクスの資本主義の発展が
不可避的に革命を準備するという主張は、現実においては全く空文句でしかないと思い
ました。革命斗争は、発達した資本主義国においてではなく「前資本主義段階」にある
植民地国においてもっとも果敢に斗われているのです。
 「工業的により開発のすすんだ諸国では、資本主義が消滅するどころか、限りなく強
力となった。この力は、初期の資本主義を鼓舞してきた二つの原則、すなわち各国内の
労働者階級を屈服させ、いかなる形であれ、資本主義企業管理への国家の介入を排除す
るという原則を犠牲にして、はじめて達成されたものである。この二つの原則を放棄し、

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労働者階級の高度の生活水準と国家資本主義とを基礎とする“福祉国家”をもってこれ
に代えることによって、開発諸国はその国内問題を輸出し、富めるものと貧しいものと
の抗争を一国内の段階から国際的段階へと転嫁することに成功した。………いまや(資
本主義にとっての)危険は、それぞれの国内における耐えがたい状況の生み出す一国内
での内戦ではなく、日ごとにより貧しさの度を加えていく圧倒的多数の人類の苦境が生
み出す国際戦争である」 (K・エンクルマ)
 アルジェリア、ベトナム、パレスチナの革命戦争、そして、アジアでアフリカでラテ
ンアメリカで日々戦われている反帝国主義斗争は、このことを事実をもって示していま
した。世界的規模で支配の手を広げている帝国主義を打倒するのは、国際的な革命戦争
によらなければならない。日帝の支配と斗いぬいている東アジア人民の反日斗争に日帝
内から呼応し、日帝の内と外から日本帝国主義者どもに対する戦いをおし進めていくこ
とである。その中で我々自らが、帝国主義本国人として、被植民地人民の血と屍の上に
生活してきた反革命性に終止符を打ち、競争社会、差別社会の中で、人間性を喪失した
帝国主義的人間となることを拒絶し、人間らしい人間として生きることのできない我々
自身の抑圧から自己を解き放つのだ。全地球上から一切の搾取、収奪、抑圧、差別を廃

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絶するための道はこれしかない。―――これが私が東アジア反日武装戦線に志願し斗う
理由です。
 日帝侵略企業の侵略活動を許しておくことは、日帝侵略企業によって土地を奪われ、
こきつかわれ、搾取され、公害のたれ流しで健康を破壊され、かけがえのない自然を破
壊されている、被植民地人民の苦しみに我々自身が加担していることを示しているし、
日帝から金をうけとることによってオノレの私腹を肥やし、被植民地人民の革命戦争に
敵対し、無差別殺りく、残虐な拷問をくり返しているカイライ政権の支配者どもの残忍
な犯罪行為に手を貸していることを意味します。被植民地人民の反帝国主義斗争の“の
ろし”は、帝国主義本国人である我々に、被植民地人民の犠性の上に成り立っている市
民生活の土台をそのままにして、単に第三者的な連帯や支持を表明するだけのアリバイ
的斗争のギマン性を告発し続けており、連帯や支持を表明するだけにことたれりとする
のではなく、我々自身が、彼らと同じように、共通の敵帝国主義に対して戦斗を開始す
るようにと無言のつきつけを行なっています。反日武装斗争の実践こそが、真のインタ
ーナショナリズムの実践であり、帝国主義本国人プロレタリアート、革命をめざす者の
責務なのだと私は考えています。そしてそれは、反日人民戦争として戦われて初めて勝

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利することができるのだと思います。日本帝国主義者どものいかなる弾圧にも、この正
義の戦いを圧しつぶすことはできないし、反日武装斗争の発展→帝国主義の死滅、全人
類の解放という歴史の流れをおしとどめることはできないでしよう。

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