弁論要旨 被告人  浴田 由紀子  右被告人に対する爆発物取締罰則違反、殺人未遂被告事件に関し、弁護人の弁論要旨は次のとおりである。 右弁護人  川村 理 同 内田雅敏 同 藤田正人 二〇〇二年三月一一日 東京地方裁判所 刑事第五部 御中 第一 はじめにーこの国の近・現代史を問うた浴田被告らの闘い 一 七〇年七月七日、華青闘の告発   日本の戦後は一九五二年四月二八日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本が主権を回復し、独立したときから始まるとされている。しかし、後に詳述するようにサンフランシスコ講和条約は日米安保条約とセットなものであり、この日米安保条約によって占領軍としての米軍が「在日米軍」と名を変えて引続き日本に残留した。すなわちサンフランシスコ講和条約発効後も米軍による日本の占領状態が継続したのである。このことが日本の「戦後」のあり様を大きく規定した。   昨二〇〇一年は講和条約締結五〇周年ということで、各紙が特集記事を組んだ。   そんななかで、中日(東京)新聞に掲載された特集「日米安保50年、アンポの季節」の第五回、『アジアの「告発」/“隣人”忘れた運動』(一一月二一日付)を感慨深く読んだ。その記事が七〇年七月七日、日比谷野外音楽堂でおこなわれた全国全共闘主催の「蘆溝橋事件三十周年」の集会での、いわゆる華僑青年闘争委員会(華青闘)の血債要求について触れていたからだ。   若干長くなるが引用してみよう。  「一九七〇年七月七日。東京・日比谷野外音楽堂で全国全共闘主催の蘆溝橋事件三十周年の集会が開かれた。日が暮れても暑かった。   一人の男が壇上から八千人の学生らに叫んだ。『集会に参加された(抑圧民族)としての日本の諸君』。会場が一瞬、静まり返った。ヤジが飛んだが、男はひるまなかった。『われわれは戦前、戦後、日本人民が権力に屈服した後、われわれを残酷に抑圧したことを指摘したい。言葉においては、もはや諸君を信用できない』。ヤジは潮が引くように消えた。」   記事はさらに、   「『何か大変なことが起きたという気分。集会後のデモも力が入らなかった』。「華青闘告発」を集会場で聞いた現・山岳ガイドの山田哲哉(四七)はその衝撃を振り返る。『ベトナム戦争に日本も加担しているという反省から七〇年の安保条約自動延長に反対した。だが、条約の矛先のアジア人、特に在日との関係を考えたことはなかった』」   「安保条約は六〇年改定時から米軍基地の行動範囲を『フィリピン以北、韓国、台湾も含まれる』(極東条項)と定めており、アジアに照準が向いていた。しかし、当時の反対の柱はあくまで『日本は戦争に巻き込まれるな』だった。七〇年しかり。二つの安保闘争とも隣人の顔は見えていなかった。」  「日本人の戦争責任は果たされていない」という華青闘を代表しての発言は、アジア不在の日本の運動に対して“衝撃”を与えた。  この発言に衝撃を受けた北海道釧路市出身の或る日本人青年はそれから四年後の七四年八月三〇日、三菱重工爆破をおこなう。東アジア反日武装戦線“狼”の大道寺将司氏である。日本の戦争責任は果たされておらず、戦後もアジアに対する経済侵略を続けているが、これを即刻やめよというのが彼らの主張だった。   彼らは三菱重工爆破に先立つ、八月一四日午前、翌一五日九段で行われる戦没者追悼慰霊式に出席するため静養先の那須の「御用邸」から帰京する天皇を荒川鉄橋上で爆破しようと企てた。天皇裕仁の戦争責任を問おうとしたのである。   しかし一三日深夜、爆弾設置作業中現場に不審な人物が登場したため、これを果たすことができなかった。三菱重工爆破以降、東アジア反日武装戦線「狼」「大地の牙」「さそり」の三部隊によるいわゆる企業爆破闘争がなされることになった。   六〇年代から七〇年代にかけて世界各地でベトナム反戦運動が闘われた。ドイツではこのベトナム反戦運動がナチスの戦争責任追及へと発展したが、日本ではそうならなかった。日本の戦争責任が主体的に問われ始めたのは、前述の華青闘の“突きつけ”以降であった。 二 日本の近・現代史   日本の近・現代史は、西南雄藩による倒幕運動から始まるが、西南雄藩、とりわけ薩摩藩の軍事力を支えたのは琉球の収奪と密貿易による富であった。そして「明治維新」後、政府は北の脅威ロシアに対処する意味も含めて北海道(アイヌモシリ)の開拓を進めた。つまり日本の近・現代史は「南の辺境琉球」そして「北の辺境アイヌモシリ」の収奪という内国植民地化から始まり、それをアジア・太平洋に押し拡げた歴史であった。その結果が一九四五年八月一五日の敗戦であった。   植民地支配は経済的収奪だけに留まるものではなく、同時に文化の否定、つまり同化政策として表われる。前述したように、わが国は、琉球、アイヌモシリを植民地化し、それを台湾、南樺太、朝鮮という具合に拡げるのであるが、その際必ず各地の固有の文化・言語を否定、抹殺し、同化政策を行った。朝鮮における創氏改名、皇民化政策の原型はすでに琉球、アイヌモシリで実施されていた。   この国の「近代」すわなち、日本が一八六八年の「明治維新」によって急速に天皇制中央集権軍事国家の体裁を整え、アジアに対してなした侵略戦争と植民地支配が破綻するまでわずか七〇余年の歳月でしかなかった。   一九四五年八月一五日、一五年の長きにわたるアジア・太平洋戦争に敗れたわが国は、一九四六年一一月三日、主権在民、戦争の放棄、基本的人権の保障の三つを基本原理とし、前文において「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意し」「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と宣言する日本国憲法を制定し(四七年五月三日施行)、戦後の再出発をなした。   そして同時に封建主義の解体のために農地改革を断行し、民主主義の育成のため財閥解体、教育改革を行い、一九四八(昭和二三)年六月二三日衆参両院の決議によって、一八九〇年制定以来、「臣民教育の」基となっていた教育勅語を廃止し、同年三月三一日、「われらはさきに日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は根本において教育の力にまつべきものである。われらは個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にして個性豊かな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない」とその前文において高らかに唱った教育基本法を制定した。今、この教育基本法の改訂が声高に語られ始めている。   もとより、憲法の原理はそれが憲法典に書き込まれるだけで実現されるものではない。憲法自らが「この憲法が国民に保障する自由および権利は国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」(第一二条)と述べているとおりである。 三 破壊される日本国憲法   国民を主権者とする新憲法制定時、憲法を超越した権威としての連合国軍総司令部(GHQ)があり、四七年九月二〇日の天皇裕仁のマッカーサー宛沖縄メッセージー対共産主義という観点から沖縄を二五年から五〇年間、米国が軍事支配することが日米共通の利益に適うとするもので、総司令部顧問シーボルト宛なされたーに見られるように、天皇自身の意識においても「統治権ノ総攬者」から「象徴」になることによって、主権の移転があったことの正確な理解がなかった。   憲法を超えるGHQという権威は、一九五一年九月八日締結され、五二年四月二八日発効したサンフランシスコ講和条約による日本の独立、主権の回復に伴って消え去るはずであった。   講和条約第一条・項は、この条約の締結によって日本と連合国との間の戦争状態が終結することを明らかにし、同・項は、「連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認する。」とし、さらに同第六条・項本文は「連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後なるべくすみやかに、且つ、いかなる場合にもその後九十日以内に日本国から撤退しなければならない」としていた。   しかし、現実に進行した事態はそうではなかったことは前述したとおりである。まず、同講和条約第三条は沖縄(奄美大島以南)を切り捨て、日本の施政権外に置くことによって沖縄の占領状態をそのまま維持することになった。このことはポツダム宣言がその精神を受け継いでいるとされるカイロ宣言(一九四三年一一月七日)において米英中の三国の戦争目的は「自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ズ又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ズ」としていたことに明確に反するものであった。もっとも、沖縄の切り捨て、占領状態の継続、要塞化は日本国憲法制定時においてすでに企図されていたことであった。すなわち日本国憲法の戦争放棄条項は沖縄の切捨て、半永久的軍事占領を前提として成立し得たものであった。そしてこの戦争放棄条項は、天皇の戦争責任追及を回避するための無花果の葉の役割も果たした。憲法第九条の持つ「光と影」、戦後の護憲運動を担ってきた人々はこのことにどれほど自覚的であっただろうか。今、そのことについて論じようとするのではない。ともかく本土については、憲法制定時においては日本の独立、主権回復後はGHQという権威は消え去り、占領状態は終結するはずであった。しかし、冷戦の進行、一九四九年の中華人民共和国の成立によって、米中同盟から米日同盟へと戦略の転換をせざるをえなかった米国は本土についても占領状態の継続を欲した。前述したように、それを可能にしたのがサンフランシスコ講和条約と同時に締結された日米安保条約であった。   サンフランシスコ講和条約第五条C項は「連合国としては、日本国が主権国として国際連合憲章第五十一条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極めを自発的に締結することができることを承認する」として、戦争放棄を国家の基本原理としたはずの日本に他国と軍事同盟を締結する可能性を認め、そして同第六条・項但書は「但し、この規定は一又は二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多国間の協定に基く、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とん又は駐留を妨げるものではない」として、軍事同盟を締結した場合には、引続き外国軍の駐留、すなわち占領状態の継続の途を残した。   こうして締結されたのが日米安保条約である。つまり、日米安保条約は、サンフランシスコ講和条約締結によって日本が主権を回復した後も、GHQがその本来の姿である在日米軍として本土の占領状態を継続できるようにするために締結されたものであり、その意味では、占領法とでも呼ぶべきものである。米軍による本土の占領状態の継続は、共産革命に脅える天皇ら日本の支配層にとっても好ましいものであった。占領法としての日米安保条約は同時に「国体護持」のためのものでもあった(豊下楢彦立命館大学教授『安保条約の成立』・岩波新書)。   占領法である日米安保条約がヨーロッパにおける戦勝国同士の同盟条約であるNATO(北大西洋条約機構)と比べ著しく従属的なものとなったのは、当然のことであった。ことは従属性の問題だけではない。米国との直列型軍事同盟としての日米安保条約は、わが国の戦後のあり様を大きく規定した。戦争責任の追及にほお被りし、基地の提供の代償としての戦争賠償の「免除」(サンフランシスコ講和条約第一四条a項)を得たわが国の米国一辺倒の外交政策が、近隣諸国との間での真の友好関係の成立を阻んできた。   かつての「同盟国」ドイツが、自らの手による戦争責任の追及と賠償の履行により、近隣諸国との間に信頼関係を作り上げ戦勝国間の同盟(並列型)であるNATOに加入を認められた経緯と余りにも懸隔が有りすぎる。   このように日米安保条約の締結によって、本土の占領状態が維持され、以降は、憲法体系と日米安保体制という占領法との、本来相容れない二つの法体系の奇妙な同居と後者による前者の空洞化の歴史であった。土地収用法の異形である米軍用地特別措置法も、憲法体系からは絶対に認めることのできないはずのものであった。   しかし、日米安保体制も、日本の占領状態を継続させることはできても、日本の防衛に直接関係のない米国の戦争に自動的に日本を組み込むことはできなかった。集団的自衛権を認めない憲法の壁(安保条約第五、六条)である。   一九九九年五月二四日成立した日米新ガイドライン関連・周辺事態法は「後方支援」の名の下に、いとも簡単にこの壁を乗り超えてしまった。「米国の引き起こす戦争に協力する法律」の成立である。そして、今般の「テロ対策特措法」は「周辺事態」という制約すらかなぐり捨ててしまっている。もはや憲法の空洞化でなく、憲法の破壊であり、下位法による上位法の破壊という法の下克上である。それは議会の多数派が選挙による負託を受けることもなしに、またその権限を有さないにもかかわらず、多数決原理によって基本法を改変するという意味において基本法破壊のクーデターと呼ぶべきものである。戦争への道に拍車をかけたかつての「日独伊軍事同盟」の轍を再び踏もうというのであろうか。   そして今また「有事法制」の整備が声高に語られている。冷戦が終焉し、本気で軍縮に取り組まなければならない今、何故法の下克上を犯してまで、国の基本原理を変え、周辺諸国との間に緊張感を高めるような事態を作出せねばならないのであろうか。「安保護持」「日米基軸」による思考の停止である。かつて、この国において「統帥権」という魔物が超憲法的な存在として猛威を振るい議会政治を破壊した。その結果がアジアで二〇〇〇万人、国内で三一〇万人の死者を出したアジア・太平洋戦争であり、四五年八月一五日の敗戦であったことを想い起こすべきである。   以上が本件裁判の終結段階にあるこの国の政治状況である。 四 事件発生から四半世紀余   浴田被告がその一員であった東アジア反日武装戦線「大地の牙」が三井物産爆破事件を引き起こした一九七四年一〇月以降、すでに二八年、つまり四半世紀余にならんとしている。   この間の浴田被告の行動及びその思索の変遷について振り返ってみてみたい。 1 本件審理の中でも明らかにされたように浴田被告は三井、大成、間組、韓産研、オリエンタルメタルを「さそり」の一員として一連の企業爆破闘争に参加した。その動機は前述した大道寺将司らと同様、一九七〇年七月七日の日比谷野外音楽堂での華青闘の「突き付け」によって戦後の左翼運動が欠落していた隣国、アジアに対する眼差しの欠如に対する反省に裏付けられた日本の戦争責任、侵略責任に対する追及である。   この基本的な視点は本件事件当時もそして現在も全く揺るぎのないものである。   日本の戦争責任、侵略責任の追及とは、 @ 一五年の長きにわたるアジア・太平洋戦争の中で何があった、何がなされたかという事実の検証 A 被害者に対する謝罪と補償 B 再び同じ過ちを繰り返さないための歴史認識、すなわち被害との間での歴史認識を共有化する作業を進める。  の三点が不可欠である。   このことは、一九八〇年代末以降とりわけ元「従軍慰安婦」とさせられていたアジアの被害者達から日本政府・企業に対して様々な謝罪補償請求がなされることを契機として日本国内においても大いに議論されるに至った。日本政府としてもこのような動きを全く無視するわけにはゆかなかった。   一九八二年教科書問題が生じたとき、宮澤内閣は官房長官談話を発して、近隣アジア諸国との関係性について、正確な知識が伝えられなければならないことを明らかにした。   一九九一年シンガボールを訪れた海部首相(当時)は、「アジア・太平洋地域の人々に耐えがたい苦しみと、悲しみをもたらしたわが国の行為を厳しく反省する」と述べた。   そして一九九三年夏、細川連立政権成立以来、歴代の首相がアジア・太平洋戦争が侵略戦争であったことを認め、植民地支配を含めて謝罪発言をしている。一九九五年六月、衆議院は不十分ながらも「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」をなし「・・・世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略行為に思いをいたし、わが国が過去に行ったこうした行為や他国民、とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する・・・」と宣言した。   同年八月一五日、村山首相(当時)は、閣議決定を経て「戦後五〇年首相談話」を発したが、同談話の中で「・・・わが国は遠くない過去の一時期国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を死亡危機に陥れ、植民地支配と侵略によって多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害を苦痛を与えました。私は未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここに改めて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持を表明致します・・・」と述べた。   もちろん、これらの動きに対しては、例えば二〇〇一年の教科書問題、あるいは小泉首相の靖国公式参拝問題など常にその揺り戻しがあり、その意味では「一歩前進二歩後退」という側面もないわけではない。しかし、日本社会全体としては、日本の戦後処理が例えば、かつての同盟国ドイツと比べ不十分であることは、認識されるに到っている。   そのことは司法の場においても少しづつであるが、例えば「従軍慰安婦」をめぐる下関判決、あるいは強制連行・強制労働をめぐる不二越裁判、花岡裁判における和解、劉連仁裁判、浮島丸裁判における原告勝訴の判決などとなって現れている。   このように爆弾使用という闘争手段についての論議は別としても、浴田被告らが爆弾闘争によって提起した日本の戦争責任の追及という動機・目的ーそれは、つまるところ、この国の近・現代史を問うということであるがーについては今日、日本社会において不十分ながらも認識され、議論されているのであり、検察官主張のような「全く酌量すべき余地がない」といったものではないことは理解できるはずである。 2 七七年一〇月の釈放とその後を考えない検察官論告   後述するように、浴田被告は七七年一〇月、日本赤軍によるダッカハイジャック事件の際に日本政府の手によって釈放され、その後一八年が経過し、一九九五年三月、浴田被告がルーマニアで逮捕され帰国させられ、同年一一月から裁判が再開されることになった。   その第一回公判冒頭における浴田被告は、三菱重工爆破事件(同被告自身は全く関与していない)の被害者を含めて、東アジア反日武装戦線による一連の企業爆破事件の被害者に対して以下のように述べた。  「一九七四年、一九七五年にかけて私たちの担った海外侵出企業爆破闘争によって負傷され、あるいはかけがえのない生命を失われた方々、そのご遺族の方々に対して、心からの謝罪を伝えたいと思います。   負傷された方々と、突然ご家族を奪われてしまった方々にとって、この年月は理屈に合わない苦しみの日々であったろうと思います。とり返しのつかない誤りの前で、私は今適切なおわびの言葉を見い出すことが出来ません。そして、二〇年間もの長い間、この思いを伝えられなかったことも重ねておわびしなければなりません。   私たちは、全ての人々が解放されるために、皆が平和に、対等に暮らせる社会を、差別や弾圧のない社会を作るために革命運動に参加しました。しかし、その過程での私達の不十分性は一つ一つの闘いの過程での配慮を不十分にし、意図しない多くの死傷者を出してしまいました。私たちのつもりがどうであれ、失なわれた生命は帰っては来ません。真に攻撃するべき対象を明確にし、人々の殺傷を絶対に避けるためには、もっともと万全の配慮がなされなければなりませんでした。その意味で当時の私たちは、技術的にも組織的にも不十分でしたし、何よりも武器を扱う者としての思想的誤りを持っていました。   さらに三菱爆破闘争の後で出された声明文において、自分達の失敗を認め、予期しなかった死傷者の発生を謝罪するのではなく、『日帝中枢に寄生し・・植民者である』という言い方をて居直ったことが、私達の第二の誤りとしてありました。それは、死傷された方々をさらに痛めつけ、行き場のない気持ちにさせる事であったろうと思います。同時に闘う多くの人々に対して、共に闘うことを、失敗の教訓を共に克服することを困難にさせることでもありました。   当時の私たちは、自分たちの誤りを公然と認め、公然と自己批判をして社会に対して、人々に対して率直に謝罪する勇気も、誤った時にとらえ返すために立ち止まる勇気も、持ち合わせてはいませんでした。逆にそうする事は、革命運動をダメにする事なのだとさえ考えていました。   多くの闘う人々を信じて敗北の事実を認め、自己批判と教訓を返すことによって、誰も二度と同じ誤まりをくり返さないために、人々と共に再構築しようとするべきでした。しかし私たちは、自分たちの闘いを正しく進めていくことによってのみこの誤りを克服しうるのだと考えていました。そして私達は、失敗を克服しようとして『自らの生命をいとわない闘いをする。自らの生命をかけて償うのだ』と考えて、カプセルを用意することによって、二重三重に誤りを繰り返してしまいました。『死ぬ事』によっては、失われた生命を取り返すことも、真のつぐないをはたすことも出来ません。それはあらたな生命を失なうことでしかありませんでした。   私たちに問われていたのは、常に初志を問い返し、自分たちの客観的な姿を認め点検するきびしい目と、自他の変革に対する確信と勇気、人々に対する信頼、そして何よりも自分達を含めて、生命を尊び、守りぬく立場だったと思います。そのためにこそ私たちは、革命運動に参加したはずです。   今私は、私たちがその不十分性の故に犯した誤りを痛苦に自己批判し、私達の誤りと不十分性を克服していくことを、死傷された方々とそのご家族の前に明らかにしたいと思います。 この私の思いは、先に裁判を進め、死刑や無期、一八年あるいは八年という重刑判決を受けて、今も獄内外で総括と自己批判実践・変革の闘いを担い続けている同志たち、アラブの地で新しい任務を担っている同志たちにも共通な思いです。   二〇年間私たちは、誰も同じ誤まりをくり返すことのないように、人々が対等に、尊び合って生きてゆける社会、誰もがをも弾圧したり搾取したりすることのない社会を作るために、今私たちに何が求められているのか、より多くの人々から学び、より多くの人々と共に、自分たちを変えていくことによって担おうとして来ました。   生命を奪ってしまった方々、ご遺族の方々、負傷させてしまった方々に、私たちの自分たちを変えていく生き方をもって、お詫びの気持ちを伝えてゆけるようになりたいと思い続けて来ました。そして、彼らへの真の謝罪は、全ての人々が人としての尊厳を尊び合い、共に、自由に、解放されて生きてゆける社会を作っていくことだと考えて、今日まで生き、闘い続けてきました。   そして、これからも、そのためにこそ全力をつくして闘い続けます。生命を奪ってしまった彼らとこそ共に在りたいと思います。(以下、略)」   検察官は論告において、浴田被告の謝罪について「上辺だけ」のものであり「反省の情は微塵もない」と述べる。検察官のこのような態度はかつて浴田被告らと相被告であった大道寺将司氏らに対して当時の一審の蓑原裁判長がなしたいわゆる蓑原判決と全く同様なものである。   この謝罪が真摯なものであることは、後述するように当公判廷における同被告の態度、とりわけ東京拘置所で行われたかつての相被告大道寺将司氏の証人尋問の際における彼女とのやりとり等において明らかである。   大道寺将司氏は浴田被告のなした被害者に対する謝罪は、自分達こそがなすべきものであったと証言した。   前述したように、本件企業爆破事件から四半世紀余、この間かつての相被告大道寺将司らを含めて浴田被告らがなしてきたことの一つに彼らの爆弾闘争によって死傷させてしまった被害者に対してどうすべきかということがあった。それはアラブの地に在ろうと獄中に在ろうと同じであった。本件公判廷でもたびたび述べられたように被害者を出さないための予告電話をかけながら何故、被害者を出してしまったかということについての深刻な反省、総括を浴田被告らは行ってきた。   検察官の論告は、このような経緯を全く無視し、一九七五年秋の第一回公判において、浴田被告らが統一公判を要求したこと、あるいは第一〇回公判における彼女の態度などを挙げつらって浴田被告には、反省の態度が見られないと短絡させてしまっている。   しかし、統一公判の要求については何ら不当なものではなかったし(裁判所もこれを認めた)、第一〇回公判における傍聴人のメモについては、その後、最高裁の決定を経て、今日では全く問題のないものとなっていることはわざわざ言及するまでもないことである。   検察官の論告はまずはじめに無期の求刑があり、それに合わせて事実に目をつむり、論理を構成したものである。   したがって「大地の牙」内において浴田被告の果した役割を過大に論じ、同人が公判廷でなした謝罪も蓑原法廷時代の古い、古い話しを持ち出し「上辺だけ」のものであり真摯なものでないと断じ、「被告人の革命思想は強固で、狂信的であり、その反社会的性格は矯正が極めて困難であり、更生は全く期待できないし、社会復帰すれば再び爆弾闘争等の不法行為に及ぶ可能性が極めて高い」と述べ、浴田被告に対して無期を求刑した。   「凶悪無比な爆弾犯人」という先入観を捨て去り、本裁判の経過及びその節々における浴田被告の言動を虚心に把えれるならば、このような求刑にはならないはずである。   一体検察官は何に脅えているのであろうか。 第二 爆発物取締罰則の違憲性 一 形式的違憲性 1 爆発物取締罰則は、一八八四年太政官布告第三二条として布告された。当時、日本には未だ近代国家の最低条件たる議会すらなく、同罰則は一行政官僚たる太政官が布告した刑罰法規に過ぎなかった。  かかる同罰則は、太政官が布告した「命令」であって、かつ、刑罰法規であるがゆえに、憲法第三一条により「法律をもって規定すべき事項を規定するもの」に該当するから、一九四七年法律第七二号一条により、一九四八年一月一日以後は無効である。 2 確かに、検察官の言うように(論告七四頁)、同罰則には、帝国議会において法律の形式をもって改正されたという経過が存する。しかし、これは、同罰則の規定内容が旧憲法上は法律事項とされていたため、これに沿った改正手続がなされたということの結果的現象に過ぎない。現に、一九一七年の第三九帝国議会において、帝国議会衆議院は、自由民権運動への弾圧法規の廃止として、同罰則の廃止決議を満場一致で行っている。本罰則は、旧憲法下においても依然として「太政官布告」としてのみ有効だったのであり、「法律」として有効だったのではない。 3 従って、同罰則は、その成立の形式上、憲法第三一条、同第七三条六号但書に違反するものである。 二 実質的違憲性 1 同罰則第一ないし四条は、「治安を妨げる目的」を主観的構成要件要素として掲げている。これらの条項は、爆発物の使用等を全て処罰するものではなく、右目的の下での使用等を限定して処罰しようとするものであるから、この主観的構成要件要素は同条項の適用の限界を画するものとして、非常に重要な意義を有している。にもかかわらず、この目的の内容は極めて不明確である。  仮に、この目的を最判小昭和四七年三月九日の言うように「公共の安全と秩序を害する目的」と解釈するとしても、やはりその内容が極めて不明確なことには変わりはない。  更に言えば、本来、「治安」とは、「国家を安らかに治めること」の意であって、正に、国家主権の理念に基づくものであり、本罰則制定の歴史性(自由民権運動に対する弾圧)如実に示している。しかし、右理念は、基本的人権が保障され、国民主権の理念に絶つ戦後憲法とは本質的に相容れないものである。 2 同罰則の規定する刑罰は、使用既遂罪について死刑・無期または七年以上の懲役(第一条)、未遂罪について無期または五年以上の懲役(第二条)等と、他の刑法上の刑罰に比し極めて重い刑ものとなっている。しかし、爆発物の有する危険性については、刑法第一一七条、一九九条等によって、結果責任を十分問うことは可能な筈である。  このような重罰規定は明らかに罪刑の均衡を失するものである。 3 従って、同罰則は、その構成要件が著しく不明確であり、また、罪刑の均衡を著しく欠いているから、罪刑法定主義に反し、憲法第三一条、同第三六条に違反するものである。 三 法令違憲  以上のような重大な違憲を有する爆発物取締罰則は、もはや合憲限定解釈の余地はなく、法令違憲として全体が無効である。 第三 超法規的釈放の効果及び本件審理遅延の効果について 一 はじめに   本件各公訴事実のうち、いわゆる連続企業爆破事件に関するものは一九七四年一〇月一四日から一九七五年四月一九日の間のものであり、本件についての最初の被告人の逮捕は一九七五年五月一九日であった。   すなわち、本件においては、事件や逮捕から約二七年を経過した上で判決が下されようとしているのである。   この異常状態をもたらしたものは、次に見るとおり、ダッカ事件における日本政府のとった超法規的釈放である。 二 具体的経過   右公判中断の具体的事情は次のとおりである。 1 本件においては、一九七五年、連続企業爆破事件に関する各公訴事実について公訴が提起され、公判が開始された後、一九七七年一〇月一四日の第二六回公判を最後として、審理が事実上中断され、その後一九九五年一一月二八日第二七回公判が開かれるまでの間、一八年余の長年月にわたり、全く審理が行なわれないで経過した。 2 当初本件審理が中断されるようになつたのは、一九七七年九月二八日、前記ダッカ事件が発生し、同年一〇月二日、バングラデシュ・ダッカ空港に駐機中の日本航空特別機タラップ上において、被告人の身柄が、閣議決定に基づき日本国政府によって釈放され、日本政府発行のパスポートを渡され、バングラデシュ当局に身柄を引き渡されたためである。 3 その後、本件審理の中断が長期に及んだにもかかわらず、検察官から被告人を召喚するなどの積極的な審理促進の申出がなされたことはなかったことについては争いがない。 4 その間、被告人は海外におり、審理促進に関する申出をしたことはなかったが、これは後述のとおり被告人においてもはや本件公判が再開されることはないと考えられていたためであり、被告人が積極的に逃亡し、または、審理の引延しをはかったことによるのではない。  これら事実関係から明らかなように、検察官の立証段階でなされた本件審理の中断は、あくまで検察官・法務省・日本政府の事情でなされたものであり、一八年余の長きにわたる審理の中断につき、被告人が原因を与えたものではない。 三 「超法規的釈放」の法的効果 1 この点に関し、検察官は、本件釈放は、何らの法規にも基づかないで(文字どおり法規を超えて)釈放したものであり、決して公訴権を放棄したものではない(論告六六頁)とか、釈放の法的意味としては、「緊急の事態に鑑み」「一時的に被告人の身柄の拘束を解いたもの」に過ぎず、公訴権を放棄したものではない(小泉明検事作成の平成九年三月二七日付意見陳述書)とか述べ、右釈放は本件公訴権の効力に何ら影響がないと主張している。   しかしながら、右検察官の主張は、正に、被告人らを釈放した後になってから、とってつけた主張に過ぎず、正当ではない。   本件釈放の正しい趣旨は、釈放当時において日本政府のとった具体的対応やその当時に日本国政府が被告人に対してなした説明等から認定されるべき事柄である。 2 釈放当時の状況   そもそも、「超法規的措置」とはいえ、国内的な手続としては行政の最高機関たる内閣の閣議決定により、法務大臣の命により合法的手続により釈放されたものであることには争いはないはずである。すなわち、本件釈放は、違法なものとしてこれを扱うことはできない。 では、この釈放の法的意味は何であるかであるが、検察官はこれを「一時的」な緊急避難的なものであって永久の釈放ではない旨主張するのである。   そこで本件当時、その釈放が、一時的なものとしてなされたのか、永久的なものとしてなされたのかが問われるべきである。   そこでまず、「日本赤軍」の日本政府に対する釈放要求の趣旨を考えるに、その要求の趣旨が、一時的な釈放要求ではなく永久的な釈放であったことはあまりに明らかであり、日本政府も右要求を永久的な釈放要求して理解して、閣議決定によりこれを受け入れたことは明らかであると言わなければならない。   何故ならば、当時の政府の新聞発表等においても、この釈放が「一時的」なものではなく、永久的なものであることは、誰にとっても、当然の前提となっていたからである。   このことは、法務当局の被告人に対する意思確認手続においても具体的に現れている。一九七七年九月三〇日午前一時頃、法務当局は東京拘置所内において、東京拘置所所長立会の下に浴田被告に対し、「日本赤軍」からの同被告に対する釈放要求があったことを伝え、政府がこの要求を受け入れた場合に同被告が出獄する意思があるか否かの確認を行っている(三五回被告本人、八九回村田証人)。この確認作業には、被告人の取調担当であった村田検事も同席していた。彼らは被告人の出獄意思の有無の確認作業の中で、同被告に対し、繰り返し出獄を思い止まるよう説得を試みているが、その際、彼らが同被告に対して述べていたことは、出獄したらもう二度と日本に戻ってこれないということであって、これが「一時的」な釈放などとは一言も言ってないのである。つまり、法務当局もまた、一時的な釈放ではなく永久的な釈放であることを前提として、被告人に対し出獄意思の有無の確認をなしているのである。   そして被告人の具体的釈放手続の中で、外務省は同被告に対し、正規の旅券を発給したが、その際にも、この釈放が「一時的」なものであるなどというような説明を一切していない。   更に、日本当局が、ダッカにおいて、被告人を釈放する時点においても、当局は、その釈放が一時的なものであるとか、次回公判期日への出頭要請などとは一切説明がなされていない。   また、釈放後、被告人らがアルジェリアに入国したみとが確認された後も、日本政府はアルジェリア当局に対し、同被告人らの身柄引渡請求を行った事実はない。もし被告人らの釈放が「一時的」なものであったとするのならば、日本政府としては、その請求が容れられたかどうかは別として、少なくともアルジェリア政府に対して身柄引渡請求をなすべきであったはずである。  以上の諸事実を総合判断すれば、、ダッカ事件当時、日本政府は、被告人を永久釈放する意思のもとに「日本赤軍」の要求に応じ、実際にもその趣旨で被告人を釈放し、被告人自身も同様の理解のもとに釈放されるに至ったことは明らかである。 3 「永久釈放」の効果   本件「超法規的措置」による浴田被告の釈放が一時的なものではなく、永久的なものであるとして、その場合、検察官の浴田被告に対する公訴権はどうなるのか。   そもそも、刑事訴訟法上、裁判の執行は行政庁たる検察官の指揮により検察事務官または司法警察員がなすべき者とされ、他方、行政庁たる検察官は公訴権、即ち公訴を提起・追行する権能を独占するものとされている。かかる制度は、権力分立という憲法の原則の具体化の一環として、裁判権を裁判所に付与しつつ、手続上その前後を占める公訴権及び裁判の執行権を行政庁たる検察官に付与したものである。   そして、適正手続の保障下における刑事訴訟制度が、人権保障機能を旨とするものであることからすると、行政庁は公訴権及び裁判の執行権を統一的に行使すべき原則的義務を負っているものであり、これらの権能の行使に保障機能を阻害する方向での矛盾抵触があってはならない。   そうだとすれば、行政庁は被告人を永久釈放したのであるから、これに対する勾留の裁判の執行を放棄したというほかなく、勾留が被告人の公判への出頭、刑の執行の確保、適正な裁判の実現を図る強制処分である以上、その執行の放棄は勾留の目的たる公訴権行使をも放棄したものであると言わざるを得ないのである。   即ち、行政庁が勾留の執行を放棄する旨の処分をなした以上、これに矛盾抵触する公訴権を行使することは適正手続の保障に反し許されない。   従って、本件各公訴事実についての公訴権は既に放棄されているのであり、裁判所は刑事訴訟法三三八条一号または四号に基づき公訴棄却の判決を言い渡すべきである。 四 審理遅延の効果 1 被告人の立場   既に見たとおり、本件釈放当時、被告人は、法務当局の出国意思の確認の際、釈放が一時的なものではなく永久的なものであること、そのことによって公訴権が取下ないしは破棄されたものという理解に基づいて出国した。  被告人のこのような理解が無理もないことであることは、既に述べたところからも明らかである。   ところが、政府・法務当局は、前記「超法規的措置」による釈放から一八年経て、同被告をルーマニア国から強制送還させたうえで再び同被告に対し、公訴権を行使しようとしている。一八年間の中断を経てである。憲法は被告に迅速な裁判を受ける権利を保障し、また、刑事訴訟法は証拠の散逸等の視点からもあって、公訴時効についての定めをおいている。一八年間の中断は、迅速な裁判を受ける権利、公訴時効、いずれの観点からしても余りに長すぎる中断である。 2 被告人に与えた不利益   では、被告人は、本件審理遅延によって具体的にどのような利益を侵害されたのかをみると、 @ 本件各公訴事実については、長期中断直前の第二六回公判期日に行なわれた最後の証拠調までの間には、被告人に関係する公訴事実に関する人証についての証拠調はほとんどなされていなかつたこと、 A 検察官が多数書証として請求してきた、爆発現場等についての実況検分調書や検証調書については、長年月の経過によって、建物の現況や地理的状況の変化、証拠物の滅失などにより、被告人側に有利な証拠で利用できなくなつたものも多数存すること、 B 長年月の経過によつて、大成建設事件のアリバイ証人やアリバイ記録その他の証拠はもとより、被告人自身の記憶にも曖昧不確実な点が出てきている点も存することは否めず、証人尋問の結果からも明らかなように、証人尋問を行っては見たものの、正確な供述を得ることが困難なケースも一部に存したこと(特に、真摯に記憶を喚起しようとせず書面どおりの証言に終始する元捜査官証人等)、 C 被告人の検察官に対する各供述調書につき、被告人は当その任意性を争い、右任意性の有無の判断の一資料として取調警察官による不当な取調の事実があつたと主張しているのであるが、取調当時から長年月を経過した今日においては、かかる点に関しても立証困難な点が生じたことは否めず、その争点についての判断が著しく困難になるおそれがあること、 D また、被告人はバングラデシュ政府に身柄を引き渡された後、間もなく渡されたパスポートは失効させられたうえ国際指名手配とされ、その後約一八年間にわたり、その間に生まれた子ども共々、日本に帰国することもできず、海外諸国を転々とする生活を余儀なくされたこと  などの事実が存する。 3 異常な審理遅延の法的効果   このように、検察官・法務省ないし内閣の一方的行為によって、審理が著しく遅延し、その結果、憲法が守ろうとしている被告人の諸利益が著しく害せられると認められる異常な事態が生ずるに至つた場合には、もはや公正な裁判を期待することはできず、いたずらに被告人の個人的および社会的不利益を増大させる結果となるばかりであることは明らかである。   かかる場合においては、これ以上実体的審理を進めることは適当でないから、仮に具体的規定がなくても、その手続を打ち切るという非常の救済手段を用いることが憲法上要請されるというべきである。   この点に関し、一九七二年一二月二○日、最高裁大法廷は高田事件上告審において、被告人の迅速な判決を受ける権利が侵害されたと認められるような異常な裁判の遅延があった場合には、その裁判手続き打ち切られるべきであることを判示している。   本件も全く同様に解されるべきである。   そして、既に見たとおり、この中断について、被告人の側に何ら責任がないことに留意すべきである。被告人はダッカ事件自体には何ら関与しておらず、被告人が釈放されたのは、「日本赤軍」の要求を容れた日本政府の閣議決定によってであって、被告人の要求によってではない。被告人としては、自己が行くか行かないかで人質の運命が決まると考えて出国したと供述しているのである(一〇七回)。   よって、本件においては、いわゆる「要求の法理」は妥当しないのであるから、高田事件と同様に、免訴の判決がなされるべきである。 4 審理遅延の情状面での評価   なお、仮に本件が、前記した高田事件とは異なる事案であると判断された場合でも、長期間の審理中止の事態は、情状面にて正しく考慮されるべきことを、弁護人としては、願ってやまないものである。   本件審理遅延によって、被告人が被った打撃は前記したとおり計り知れないものがある。   仮に、という言葉は禁物かもしれないが、仮に被告人がダッカ事件にて、指名され、釈放されていなければ、今日の被告人を取り巻く状況は全く変わっていたはずである。   この点に関し、検察官は、「犯行後、長い年月を経過したことを、量刑上、ことさら、被告人に有利に考慮すべきでないことは当然である」(論告九二頁)と述べている。他の共犯者との量刑が不公平だからだというのである。   しかしながら、弁護人からは、本件と同様に、長期にわたって事件処理が中断した類似の事例として、次の事案を指摘することができる。   すなわち、日本共産党の武装闘争の過程で一九五五年八月にいわゆる白鳥事件の主犯として起訴された村上国治共産党札幌軍事委員会委員長が懲役二○年の刑を受け、一七年の獄中生活を送る一方で、共犯者として指名手配され、中華人民共和国に長く滞在していた右軍事委員会メンバーであった門脇茂、大林昇の両名が、一九七七年一二月二日と翌年六月三日に相次いで帰国し、逮捕された。しかし、検察庁は、右両名が、法形式上は公訴時効が未完成であったのにもかかわらず、二五年以上の長時間の経過を理由に釈放、起訴猶予処分としたのである。   右事件処理は、形式的には時効が完成していなくとも、処罰価値の減少、証拠の散逸、被疑者自身の被った不利益等を正当に考慮した上で取られた措置であることはいうまでもない。   従って、本件においても、長期間の審理中止の事態が、被告人にもたらした打撃を正当に評価し、これを情状面にて考慮されるよう訴えるものである。 第四 偽造旅券行使事件について  一 ルーマニアにおける身柄拘束の異常性 1 被告人の供述(三五回、三六回)によれば、被告人が一九九五年に、ルーマニア国にて身柄拘束された経緯は次のとおりである。すなわち、   同年三月二〇日午前七時頃、身分不詳の者数名が、当時被告人の居住していたアパートのドアを蹴破って室内に突入し、被告人に短銃をつきつけ、被告人に後ろ手錠をかけて室内を捜索したうえ、被告人を郊外に連行し、学生寮風の建物に半日間監禁した。その後、被告人は、薬物の作用にて眠りに落ちた。そして、同日午後になると、身分不詳の者らは、被告人の指紋や写真を撮ったうえ、夕方六時頃、被告人を内務省警察に連行した。   この間、身分不詳の者らは、被告人からの身分等に関する質問に対し、「日本警察とコラボレート(共同)している者」という他は何も答えていない。   その後内務省警察内にて、ルーマニア当局は、被告人に対し「逮捕するのでこの書面にサインしろ」などと述べ、午後七時頃、正式に被告人の身柄を拘束した。   その日、被告人は、留置場内に一泊した。   翌二一日、被告人は、現地の弁護人に面会するなどし、当局に対しては、ルーマニアでの裁判を要求していたが、数分後には国外に退去させられることとなり、さらに翌二二日まで身柄を拘束されたうえ、航空機にて出国を強制されるに至った。 2 以上に述べた被告人のルーマニアでの身柄拘束の経緯については、本件では特に争いがあるわけではない。   しかしながら、その身柄拘束の法的根拠については、検察官は、ついにその主張立証をなしえなかったのである。   すなわち、検察官の冒頭陳述によれば、「ルーマニア国治安機関が平成七年三月二〇日午前七時頃(現地時間。日本時間の同日午後二時ころ。)、被告人の身柄を拘束し、同日午後七時頃(現地時間。日本時間の同月二一日午前二時ころ。)、ルーマニア国警察庁組織犯罪対策隊に、被告人の身柄を引き渡した」とある。   問題は、右午前七時に身柄拘束を行った主体とその法的根拠である。一方、検察官は、論告において、身柄拘束の法的根拠を、同国の外国人の地位に関する規定違反と説明している(六七頁)。しかしながら、加藤和雄証言(三二、三三回)によれば、右規定違反を根拠とする身柄拘束は、同日の午後七時以降の段階であることが明らかであり、午前七時段階での身柄拘束の根拠は、検察側証人である加藤、豊見永栄治らの証言によるも、何ら明らかではならなかったのである。   従って、右午前七時頃の被告人に対する身柄拘束は、法的根拠が不明なままになされた違法なものである。  二 強制送還の違法性 1 「強制送還」の法的根拠   被告人は、右に見た根拠不明の身柄拘束を経た後、ルーマニア国内法に違反した者とされて、その居住権を剥奪され、国外退去処分とされた。よって、被告人の国外退去には法令上の根拠が一応存在する。   そして、被告人は、日本に向けた航空機が日本の領空に入った段階で、機内において、警察官佐藤司郎に通常逮捕を執行された。右逮捕状の執行とそれ以降の被告人に対する身柄拘束にも法令上の根拠は一応存在する。   では、ルーマニア国外から日本国領空に至るまでの被告人に対する身柄拘束の根拠は何であるのか。その身柄拘束の性格は何であるのか。これが、いわゆる「強制送還」の法的根拠の問題である。   日本とルーマニア国との間には、犯罪人引渡条約等は一切存在しない。よって、被告人を強制的にルーマニアから日本へ移送する法的根拠は直接的には存在していないのである。   よって、本件強制送還は、逮捕前に実質上逮捕と同視しうる身柄拘束が存在していたものであり、違法な手続きというべきである。 2 検察官の主張   この点に関し、検察官は、論告にて、「また、日本国政府が送還手続に関係したと否とを問わず、被告人の身柄拘束及びそれに続く国外退去処分は、ルーマニア国の国家主権に基づいてなされたものであるから、これを日本国の捜査機関による逮捕と同視できないことは自明の理であり(東京高裁判決平成四年一一月一〇日)」(七〇頁)などと主張している。   しかしながら、右に見た検察官の反論は、弁護人らが設定している問題点には正しく対応していない。「強制送還」問題において、弁護人が問題としているのは、「被告人の身柄拘束及びそれに続く国外退去」が日本の捜査機関による逮捕と同視しうるか否かではないからである。   弁護人らが問題としているのは、ルーマニアからの退去終了後、日本領空内にて逮捕状が執行される間の身柄拘束の説明の問題である。検察官の主張は、かかる弁護人の問題設定に正しく対応していないものである。 3 「強制送還」手続きは被告人に対する強制そのものである   右「強制送還」の法的性格につき、本件公判前の勾留理由開示公判においては、担当裁判官により、「任意同行」であると説明がなされた。また、検察官は、論告において、「日本国捜査官による被告人に対する強制力の行使が存在した証拠もない」(六九頁)と述べ、「送還」の任意性にその適法性の根拠を見出そうとしているように見える。   結局、問題は、ルーマニア国退去後、日本領空内での通常逮捕に至るまでの送還が被告人の任意に基づくか否かということになろう。そして、以下の事情から、その結論は、否というべきである。 @ 被告人は、ルーマニア国での身柄拘束後、自己に対する身柄拘束の根拠について再三問いただして抗議し、ルーマニア国内での裁判を希望する旨表明し、日本警察に引き渡されることに反対している(三五回)。すなわち、あらかじめ、日本に帰りたくない旨、明示的に意思表示をしている A 被告人は、ルーマニア国から出国の際、航空機搭乗までの間、後ろ手錠に腰縄を強制されており、出国手続きは省略され、航空機の目的地すら告知されておらず、出国先選択の余地が一切与えられていない(三五回)。 B 航空機搭乗後、手錠ははずされたが、被告人の座席周辺は、日本の当局者としか考えられない日本人が取り囲み、被告人がトイレに行く際も日本人当局者がこれに付き添うなどした。また、被告人は、機内においても航空機の目的地や自己の法的身分について一切説明をされていない。なお、航空機内は密室であり事実上離脱の不可能な状態であった(三六回)。 C 航空機がアブダビ空港に到着後も被告人の周辺を日本人当局者が取り囲む状態は続いた。従って、同所から離脱することは事実上不可能な状態であった(三六回)。 D アブダビ空港からバンコクまでの航空機内において、被告人は、天本浩義から入国カードを手渡されたが、被告人は、日本へ帰国する意思を有しない為、入国カードの目的地欄を記載しなかった(三六回)。すなわち、日本に帰国の意思のないことが外形的に表示されている。 E バンコク到着後もアブダビ空港同様に被告人の周辺は日本人当局者で固められ、同所から離脱することは困難な状況であった(三六回)。 F 成田空港到着後、被告人は、入国カードに記載することを係官から要求されたが、入国の意思がない為、その記載を拒否している(三六回)。 G なお、本件旅券に関しては、被告人がルーマニア国から国外退去される際、既に天本浩義に確保され、後に豊見永、佐藤と経由し、押収されるに至っている(三五、三六回)。すなわち、実質的押収は既に国外においてなされていたのである。また、被告人が「自由に行動できる状態」というためには、最低限、自己の所有物を自己の管理に置くことが必要であるが、被告人がかかる状態になかったことは明らかである。 H 一方、本件担当の高松國男証人によれば、本件は、任意同行にすら当たらず、日本国警察は、被告人に対し、「手も口も出さなかった」と証言されている(三八回)。逮捕状の執行に当たった佐藤司郎らも、右高松証言に沿った証言をなし、被告人には身体の自由がある状態であり、よって、被告人は、たまたま同人らについて来たに過ぎないかのような証言をしている。   しかしながら、日本当局は、「超法規的釈放」の直後、被告人を国際指名手配とし、その行方を追ってきたのであって、被告人がルーマニアにて身柄を一旦拘束されたとの報を聞けば、その身柄拘束状態を維持すべく努めるのが当然である。日本当局者らが、航空機内やトランジットルームにおいて被告人の周辺を取り囲もうとしたり、被告人に対し、出国先の選択の機会も与えず、その法的身分の説明もあえてしなかったことは、その端的な現れであり、日本当局の被告人に対する身柄拘束状態維持の姿勢を表すものである。また、被告人が再三にわたり帰国のない旨表示しているにもかかわらず、その点は無視されたのであるから、日本への移送は、被告人の意思に基づかないことが明らかである。確かに、被告人は、航空機内や空港においては、逃走などの行為には及んでいないが、これはそもそもかかる行動が物理的に不可能ないし著しく困難であったことに基づくものであって、被告人に帰国の意思がなかったことと矛盾するものではない。   よって、被告人が、任意に帰国したかのごとき高松らの証言はすべて信用できないというべきである。  三 証拠排除の申立   以上にみてきたとおり、被告人のルーマニア国内における午前七時の身柄拘束は違法である上、被告人のルーマニア国から日本国への移送は、いわゆる「任意同行」としては評価することが困難であり、その他、その移送の適法性を直接説明する法令は存在しない。   要するに、被告人に対するルーマニア国内での身柄拘束も、被告人に対する「強制送還」についても、法令の根拠なくしてなされた強制処分というべきであり、本件旅券は、右根拠なき手続きを利用して採取された証拠であることは明らかである。   すなわち、本件旅券は、違法な手続きを利用してなされた違法収集証拠というべきであり、当裁判所による証拠採用決定は、この点に関する評価を誤ってなしたものであるから、取り消されるべきである。   よって、本件旅券は、証拠排除されるべきである。  四 「行使」の証明はない 1 検察官の主張   検察官は、論告において、本件の争点を次のように整理している。   すなわち、検察官は、本件につき、旅券を提出行使した者が存在することには争いはないが、本件旅券が偽造されたものか否か、本件旅券を行使した者が被告人であるか否かが争点であると整理している(五五頁以下)。   そして、本件旅券が偽造されたものであるか否かについては、南部隆次の証言等からそれが明らかであり、行使の主体については、本件旅券貼付の顔写真が被告人と同一のものであるか否かがその決め手であり、本件においては、谷口の証言等から、その同一性が明らかであるから、行使の主体は被告人であると論じているのである(五九頁以下)。 2 検察官による争点整理の誤り   しかしながら、右に見た検察官の主張整理は誤りであり、検察官は本件の争点自体を正しく捉えていないことが明らかである。   すなわち、本件において、被告弁護側は、本件旅券が偽造されたものであること自体は争っていないし、本件旅券貼付の写真が被告人と同一であることも争ってはいないのである。   すなわち、本件旅券が偽造されたものであること、本件旅券貼付の写真が被告人の顔写真であること、被告人が身柄拘束をされた際、被告人が本件旅券をアパート内で所持しており、それが被告人の逮捕の過程で押収されたことはいずれも争いのない事実である。   本件で問題なのは、以下に見るとおり、右争いのない事実にもかかわらず、被告人が本件旅券を行使したことの証明がないという点なのである。 3 本件旅券の行使時期   本件で第一に問題とすべきは、旅券が偽造された時期である。すなわち、本件公訴事実は、一九九四年九月二五日に本件旅券が行使されたというのであるから、本件旅券は、少なくとも、それ以前に偽造されたものでなければならないのである。   しかしながら、南部証人は、弁護人の尋問に対し、公訴事実記載の犯行日時については特に意識せずに鑑定をしたこと、「このパスポートを偽造した時期というのは、特定できますか。」との尋問に対しては、「いいえ、できません。」と証言しているのであり、偽造時期の特定には至っていないのである。   また、ルーマニア国に赴いて捜査情報の収集に当たった加藤和雄証人の証言においても、本件旅券に貼付の写真が、本件公訴事実の際、現在と同じ物が貼付されていたか否かについては特定されていないと証言している(第三三回公判)。   従って、本件においては、旅券が偽造された時期の特定に関し、立証が何もなされていないことになるのである。   すなわち、本件旅券が、公訴事実後に偽造された可能性をも指摘することが出来るのであり、かかる余地が残る以上、一九九四年九月二五日の行使事実は、右一事を持って、証明不十分というべきである。 4 被告人の供述内容   旅券行使の事実の有無について、被告人は、ルーマニア国内での生活状況や同国に入国した時期、目的等については明らかにしていないが、公訴事実記載の日時において、本件旅券を行使したことについてはこれを明確に否認し、本件旅券を見たのは九四年の暮れか九五年の始めであり、甲A二一号証添付の入国カードについては、自己の書いたものではないと供述している(三五回)。 5 甲A二一号証添付の入国カードについて   ところで、前記加藤の証言によれば、ルーマニア国の出入国に際しては、一人一人に旅券を提示させ、その顔写真と所持人を対比して本人であることを確認し、出入国カードを渡して、必要事項を本人が記入した上、これを提出させる仕組みとなっているのである(三二、三三回)。   従って、被告人が、本件公訴事実に及んだとする為には、その際提出されたことに争いのない甲A二一号証添付の入国カードにつき、被告人がこれを作成したことの証明が果たされていなければならないはずである。   右証明を欠く場合、結局、本件旅券は、公訴事実記載の日時において行使された後に顔写真部分が偽造され、それを被告人が所持していたに過ぎない余地を残すからである。 6 筆跡鑑定の結果   右の点をめぐっては、弁護人の申請により、入国カード上の筆跡と被告人の筆跡との同一性に関する鑑定(職権七号証)が実施された。   検察官は、論告において、右鑑定結果に一切触れようとしないが、鑑定の結果、被告人の筆跡と入国カードの筆跡とは同一性判断ができないとの結論が出されている。すなわち、入国カードを被告人が作成したことの証明ができないという結論である。   同鑑定は、入国カード上の書字運動の状態が不明であること、文字形態が不明瞭な点が多いことを理由に、「同一性の判断はできない」との慎重な主文が結論付けられたものである。しかしながら、同鑑定書5項の「考察」欄によれば、双方資料対照の結果、「類似する特徴より相違する特徴が多く指摘された」と明記され、むしろ入国カードの作成者が被告人ではない可能性を強く推認させるものである。にもかかわらず、同鑑定の主文が、判断不能とされたのは、鑑定の主体が、被告人との関係では、敵対性を有する科学警察研究所の職員であるという点を指摘しうるものである。   いずれにしても、入国カードを被告人が作成したという事実は証明されなかったのである。 7 小括   以上に見てきたとおり、本件においては、被告人が公訴事実記載の日時に本件旅券を行使したことについて、厳格な証明はなされていないというべきである。また、被告人が、行使の事実を否認していることに加え、前記筆跡鑑定の結果からは、右日時に被告人が本件旅券を行使した事実はむしろ否定的に解されて然るべきものである。   そうすると、本件旅券は、公訴事実記載の日に行使され、後にこれが偽造され、それを被告人が所持していたということこそが合理的事実認定である。   よって、本件に関し、被告人は、無罪である。   さらに付言すると、先に見た検察官の争点整理の誤りは、本件に関する右に見た証拠内容を踏まえた上、むしろ故意になされたものともいうべきである。すなわち、検察官は、特に右に見た筆跡鑑定の結果、本件行使の事実に証明がないことを知り、あえて弁護側の立てた争点を曲解したのである。だからこそ、筆跡鑑定には一言も触れることができなかったのである。かかる論告は厳密な意味では証拠に基づく意見とは見なしえず、不当極まりないものである。 第五 連続企業爆破事件  一 被告人検面調書は任意性がないから、証拠排除されるべきで  ある 1 被告人の検面調書、すなわち、乙第三号証ないし同第二一号証は、任意性自体が否定されるべきであり、証拠排除されるべきである。   すなわち、被告人の自白調書は、以下に見る違法な捜査の結果得られたものであり、適法な証拠とは認められない。 2 被告人に対する取調の問題点   弁護人が、被告人に対する取調の問題点として主張することは、弁護人作成の二〇〇〇年四月一四日付意見書(更新手続きの際に陳述)のとおりである。その要点を上げれば、 @ 被告人に対する性的虐待   被告人は、逮捕直後、菊屋橋分室において、強制的に水風呂に入れられて頭から水をかぶせられ、男性警官が見守る中、全裸状態で鏡をまたぎ、腰を上下する動作を強要された。 A 連日の長時間に亘る拷問的取調   弁三八、弁三九によれば、被告人に対しては、連日連夜長時間に渡る取調が実施されており、しかも被告人の記憶によれば、前記書証に記載された以上の取調を受けている。また、右取調中は、男性警官のみで構成され、被告人に対する性的嫌がらせを伴うものであった。 B 斎藤の自殺問題に付け込んだ心理的圧迫   取調官らは、被告人に対し、斎藤の戒名を記した紙を取調室に持参し、それを拝めと強要したり、被告人に対し、「夫殺し」「同志殺し」「斎藤君の遺骨の引き取り手がない」等との言辞を繰り返し、被告人を心理的に揺さぶった。 C 弁護人に対する誹謗中傷、接見妨害   本件捜査をめぐる接見妨害の実情は、内藤義三作成の調査報告書に詳しく記載されているとおりである(本件身柄記録に編綴)。   また、接見に来た弁護士に対しては、「党派の為にやっている」「センターの弁護士を雇って実家が破産した者がいる」「裁判ではセンターの弁護士というだけで刑が重くなるから不利だ」等と述べ、弁護人の解任を迫った。 D 高橋弥生を利用した自白強要、弁護人解任   更に取調官は、被告人の親戚に当たる高橋弥生氏を被告人に会わせ、取調官と同席の上、被告人に対し、自白と弁護人の解任を迫った。   以上の経過は、被告人質問(八七、八八回)により、立証十分である。   そして、以上の取調の結果、被告人は自白に至ったものであって、自白に至る取調経過等には明らかに違法があるから、被告人の自白は、任意性を欠くか、ないしは、違法収集証拠として、証拠排除されるべきである。 3 検察側の立証   これに対し、検察官は、旧統一公判における村田供述(甲S一号証)、当公判廷における村田証言(八九回)によって、自白の任意性の立証を試みた。そして、論告において、検察官は、これら証拠によれば、弁護人の主張はいずれも理由のないことが明らかであると述べている(七二頁)。   しかしながら、自白の任意性ないし取調の適法性については、正に検察官において立証責任があるところ、検察官による立証によっては、弁護人らの指摘する事実の不存在は何ら立証されなかったというべきである。   すなわち、弁護人が指摘する前記2の@の点は、被告人の逮捕直後になされた事実であり、本件が送検される以前の出来事であるから、すべて村田証人の預かり知らぬ事実である。よって、それと具体的にかかわりをもたない村田証言によっては、右事実の不存在は立証されていない(なお、検察官は、右事実を通常の留置業務の一貫であるかのように主張するが、今日においても、本件逮捕時においても、2の@に見たような「野蛮」な留置業務は実施されていたわけではなく、これを通常の留置業務の一環と捉えることは到底できない)。   さらに、前記2のAの事実についても、村田証人の把握しうる取調時間は、自己の担当した調べ時間のみであり、警察官の調べ時間については、同証人自身認めるように具体的には把握されていないのである。前記B、Cについても同様であり、村田証人は、少なくとも自己の担当した取調においてはかかる事実はなかったと証言しているのみであって、警察官の調べにおいて、かかる事実があったのかについては何ら触れていない。   前記Dについても、村田証人は、高橋弥生の接見につき、裁判所の許可を得て接見させたと一方では述べつつ、他方で、その記録がない旨を質問されるや、その旨記憶がないなどと述べて証言を変遷させており、証言の信用性自体に疑問がある上、村田証言によれば、被告人と高橋の接見に村田は立ち会っておらず、何が話題になっていたかすら知らないと言うのであるから、結局、同証言によっては、Dの事実の不存在の裏付けたり得ない。 4 結語   以上から、本件においては、自白の任意性ないし取調等の適法性について、検察官の立証責任が尽くされたとは言えず、当裁判所においてなされた被告人の検面調書の採用決定は、右適法性の判断を誤った違法がある。   よって、被告人の検面調書は証拠排除されるべきである。 二 被告人検面調書には、信用性もない(総論) 1 さらに、以下の事実から、被告人の検面調書には、信用性もないというべきである。 2 そもそも、被告人の調書には、秘密の暴露供述(あらかじめ捜査官の知りえなかった事項で捜査の結果客観的真実であると確認されたもの)が一切ないことにまず着目すべきである。   被告人の供述は、同時に逮捕された他の共犯者と比較して最も最後段階になされたものである。よって、全体として、現場の客観的状況や他の共犯者の供述、尾行記録等により、あらかじめ捜査官の知っていた事実関係が、取調において、被告人に対して提示され、それを被告人が認めるという手順をたどっている。被告人の供述に基づき、新たな捜査がなされ、被告人の供述内容が客観的に裏付けられたなどという点は一点も存在しない。   また、被告人の捜査段階供述においては、「大地の牙」における第三者の存在が隠蔽され、すべての犯行が、斎藤と被告人とでなされたものと供述された結果、後に見るように不自然な点を生じている。なお、「大地の牙」における第三者の存在については、被告人質問の結果からも明らかである上、捜査官もあらかじめその事実を知悉していたのである(一九九六年五月七日付け更新手続きにおいて陳述された弁護人作成の意見書末尾に添付の朝日新聞記事を参照)。捜査官は、右「第三者問題」について、あらかじめその疑いを持ちながら、第三者の存在や役割を割り出すことができなかったため、「大地の牙」二人説に乗っかり、不自然な供述調書を作成せざるを得なかったのである。 3 また、後述のとおり、被告人の供述には変遷も多い上、一九七七年五月二日頃、被告人が当時の弁護人に宛てて作成した手紙(乙四九)によれば、被告人が、真実と異なる供述をした経緯がかなりリアルに説明されているのである。   すなわち、人定事項に関しては、「すべて奴らの『身分帳』に記入されていた『経歴』について認めたものです」(六月三日の分)、「参加のときについては、誰かの供述を認めた」(六月三日の分)、韓産研については「尾行メモに照らして訂正」(六月一二日の分)、暗号符丁については「将の調書を追認」(六月一三日の分)等と同書証右側の欄にコメントがあり、被告人が、取調官の既に知っていた事実や材料を提示され、これを追認していった様子がありありとわかるものである。   また、「第三者問題」については、韓産研に関し、「尾行メモをちらつかされていたが『二人でやった』ことを強調して話している」(六月三日の分)、三井物産については「いっしょうけんめい2人で十分なことを力説している」とコメントが記載され、逆にいえば、真実は「二人」でないことが表明されているし、更に、同書証のコメント欄の随所に「×××××」の伏字が記載され、これらの点はほぼ第三者の存在に関連するところであって、これを当時の弁護人に対してすらも隠そうとしていた点であり、被告人の公判廷供述と完全に符合し、被告人の供述調書の信用性を減殺している。   さらに、大成建設については、「この件についてはしつこく聞かれ言を左右にして逃げ回っている(わからない。知らない。etc)『こうゆうことか、ああゆうことか』と聞かれて、肯定したり、否定したりしたもの」(六月一二日の分)とあり、被告人が、大成建設について、当初は、供述調書どおりの応答をしていなかったことが手にとるようにわかる。   また、検察官が、被告人と斎藤の「車の両輪」説の一つの根拠としている六月七日付け検面調書(乙九号証)については、「この調書は、かってに作文してきて、作り上げたもので『調べ』としては行われなかった」とコメントが記載され、六月七日付け検面調書の前提となる取調べがまともに行われなかったとの被告人供述(第一〇一回等)と符合している。   ところで、検察官は、右書証に関し、不同意の証拠意見を述べ、刑訴法三二二条書面としての採用決定に対しては異議申立まで行いながら、論告においては、右書証の位置付け等に関して、何ら触れるところがなく、完全に沈黙している。   検察官が、被告人の供述調書の内容こそが真実であり、被告人の公判供述が信用できないというのであれば、右書証の記載に関し、その信用性を弾劾すべく、せめて一言述べてよかったはずであるし、そうしなければならなかったはずである。   にもかかわらず、右書証に言及することすら回避し、ひたすら、自己に都合のよい証拠のみを摘示して論を立てているのである。このような検察官の論告はおよそ公平な証拠評価のあり方とは言えず、その主張は、断固、排除されるべきである。 三 三井物産爆破事件 1 被告人の関与の態様  三井物産爆破事件についての被告人の具体的関与の態様は、九月末頃、齋藤から、「大地の牙」が三井物産館を攻撃対象とすることを聞き、その上で、齋藤に手伝いを申し出て、齋藤の要請に応じて、三井物産館の下見を行い、闘争日の前日(一〇月一三日)に運搬ルートの調査を行い、当日(一四日)に爆弾を運搬して置いたというものである。  なお、時限装置については、被告人は八月中に二、三個作って齋藤に渡しているが、これが爆弾に使われたか否かは不明である。  事件当日の具体的行動は次のとおりである。被告人は、午前一〇〜一一時頃、家を出て、新宿で通勤着を脱ぎ、三田で三井の制服として作った服に着替え、齋藤に会った。齋藤から爆弾の入った袋を受け取り、内幸町駅で降り、三井物産館に運んだ。爆弾は三階のテレックス室内の機械の近くに置く予定であったが、被告人が同室をのぞくと数名の男性が見えたため、爆弾を仕掛けるのを見られることを避けるため、同室のドアの外側に置いた。その後、被告人は、予定どおり、物産館を出て、電話ボックスに入り、前日、会った「大地の牙」の一員である高田と称する男性(以下、「高田」という)を確認し、内幸町に向かった。被告人は、内幸町から地下鉄に乗り、三田で洋服を着替え、浜松町から山手線内回りに乗り、途中の駅でベストを捨てて新宿に向かい、その後、井の頭公園に行き、齋藤及びもう一名の男性に合流した。その後、被告人はアパートに帰り、大家から子どもがお腹を壊して熱を出したことを相談され、タクシーを拾って、一緒に病院に連れて行った。 2 第三者の存在  ところで、検察官は、「大地の牙」のメンバーは被告人と齋藤の二人のみであり、三井物産爆破事件への被告人の関与は右にとどまるものではない旨主張している。そこで、この点をさらに詳細に主張する。 @ 三菱重工爆破事件(八月三〇日)直前における、齋藤・被告人らのグループの構成員は、齋藤、被告人、高田と称する人物(以下、「高田」という)、及び、あと数名の人物であった。  九月中旬、齋藤から、同人たちのグループも、三菱の闘争を継承する意味で、次の闘争を準備しようとしており、そのグループの名称を「大地の牙」とすることを聞かされた。  三菱重工爆破事件以後、爆弾闘争において死傷者が出たことに対する疑問から、大地の牙の構成員のうち、何名かは「大地の牙」から離れていった。  なお、「大地の牙」は、「アルジェ方式」、即ち、複数の小グループで構成し、一名だけが他の小グループと連絡を取るという組織形態を取っており、具体的には兵站を担当する被告人及び高田と実行部隊の間を齋藤が連絡するという形であった。 A なお、被告人の検面調書は、すべて「大地の牙」が被告人と齋藤の二名だけであるという前提で作成されている。それ故、三井物産爆破事件について、被告人は、実際の関与以上の役割を分担したこととなっている。  しかし、以下に述べるように、右のような前提で作成されている検面調書における被告人の供述には信用性がない。 ア 検面調書においては、被告人は前後四回くらい物産館以外の三井系企業に下見に行った旨が記載されているが、これは被告人が「大地の牙」の他のメンバーの存在を隠す目的で供述したものに過ぎず、信用性はない。   この点は、弁四九の六月14日付検面調書に対するコメント欄において、「いっしょうけんめい2人で十分なことを力説している」とあり、逆にいえば、真実は二人ではないことが示されている。 イ 声明文については、被告人は作成・送付に関与しておらず、新聞に掲載されたもので初めて知った。検面調書では、被告人が切り貼りをした旨の記載があるが、これは被告人が「大地の牙」の他のメンバーの存在を隠す目的で供述したものに過ぎず、信用性はない。 ウ 爆弾の製造については、被告人は何ら関与していない。そもそも、被告人は爆弾についての初歩的知識すら欠いていた。なお、被告人の検面調書には、爆弾の構造について「湯たんぽ」、「東鳩サブレの缶」などの記載もあるが、前者は新聞に掲載されていたものであり、後者は被告人が齋藤と亀戸のアパートで同居を始めた後に事後的に齋藤から説明を受けたものに過ぎない。 エ 時限装置については、被告人は八月中に、二、三個、目覚まし時計を元に作り、齋藤に渡したことはあるが、これが三井物産館闘争の爆弾に使われたか否かは不明である。被告人らが逮捕された後、未使用の時限装置が押収されており、その中には被告人が製造した二、三個が含まれている可能性もあり、そうであれば被告人の製造した時限装置は一連の爆弾闘争には使われたかったことになるが、この点は明確ではない。もっとも、刑事訴訟においては、「疑わしきは被告人の利益に」解されるべきであるから、検察官において被告人が製造した時限装置が現実に爆弾に使用されたことを立証していない以上、使用されていないと解されなければならないことは当然である。 オ 起爆装置については、やはり被告人は何ら関与していない。被告人の検面調書には、被告人が造ったガスヒーターが使用された旨の記載があるが、検面調書上はガスヒーター一個を使用したと記載されているところ、実際の起爆装置はガスヒーター二個とソケット二組をバッテリーに繋いだものであったのであり、検面調書の記載は客観的事実にも符合していない。 B また、これらにとどまらず、被告人の検面調書の記載内容には多々、虚偽の事実が記載されている。例えば、検面調書には被告人の齋藤は自殺用のトリカブトを注射器に入れて持っていた旨の記載もあるが、これも事実に反する。被告人の公判廷における供述によれば、トリカブトを抽出しようという話をしたことはあるが、結局、抽出する方法が判らず、できなかった。 3 殺意及び「人の身体を害する目的」の不存在 @ この三井物産爆破事件について、検察官は、「被告人に、『人の身体を害する目的』が存在したことはもちろん、・・・殺害という結果については確定的な故意を有していたことは極めて明らか」として、殺人未遂及び爆発物取締罰則違反に問擬している。 A しかし、被告人らは、絶対に人を負傷させてはならないと考えていたのであり、殺人の故意はもちろん、「人の身体を害する目的」も有していなかったことは、以下の諸要素からみても明らかである。 ア 爆破の目的  「大地の牙」が三井物産を爆破対象に選定した理由については、被告人は齋藤から特に説明を受けてはいない。しかし、「狼」が三菱重工を爆破対象とした理由が、三菱財閥が、戦前、日本帝国主義の侵略戦争に積極的に加担し、中国、朝鮮、台湾、東南アジアにおいて、土地・資源・労働力を収奪し、戦後も東南アジア諸国への経済侵略を積極的に進めている上、三菱の過去の犯罪行為を人民の名において処罰することと、心理的経済的打撃を与えることによって現在の海外侵略にブレーキをかけることにあり、その闘争の意味を正当に継承するものとして「大地の牙」の闘争が位置づけられていたことから、被告人は、三菱重工と同様の理由であると理解していた。  従って、三井物産爆破事件において処罰の対象とし、経済侵略の中止を警告した対象は、企業としての三井グループの一つである三井物産である。企業を処罰し警告するに際し、その従業員等を殺害したり負傷させたりする必要は全くない。  また、「大地の牙」が依拠していた「腹腹時計」の思想は、被告人ら自らを日帝本国人と規定し、その生活基盤や思想形成を厳しく追及するものであるが、日帝本国人を抹殺すべきであるとする主張ではない。むしろ、日帝本国人である労働者にその自覚を促し、ともに革命行動に立ち上がることを呼びかけているのである。従って、日帝本国人である労働者がいかに侵略企業の経済活動に従事するものであろうとも死なせ、あるいは負傷させてはならないことは被告人達には自明のことであった。  被告人たちは、あくまでも三井物産館に物理的損壊による損害を与え、過去の企業罪悪を糾弾し、現在の経済侵略を戒めることが目的であった。  なお、「腹腹時計」の記述が、必ずしも「日本人=敵」規定とならないことについては、宇賀神証言(九五回)において、「日帝本国人というのは、敵であるかのように表現しているけれども、実際に彼ら自身が具体的な作戦を考える場合は、やっぱりその日帝本国人である労働者のことまで考えてやっていく」「弁護人が言った敵であるというふうな位置付け、そういう表現はそのまま受け止める必要はない」と述べると頃からも明らかである。 イ 予告電話の架電  「大地の牙」は、三井物産館を爆破するに際し、事前にその旨の予告電話を架けている。  被告人らが、死傷者の発生を積極的に求めていたのであれば、予告電話をかける必要がないことはいうまでもない。予告電話を架けることによって不発処理がなされれば、目的は達成されなくなるからである。  また、被告人らが死傷者の発生を予測し、消極的にであれ認容していたのであれば、やはり予告電話をかける必要はない。なぜなら、予告電話は、捜査機関に犯人解明の重要な手がかりを与えることとなる。予告電話が録音された場合には、その証拠価値はより一層強まる。特に、当時は三菱重工爆破事件の直後であって、連続爆破事件に対する警戒体制が敷かれていたのであり、録音や逆探知等により「大地の牙」が摘発される危険は十分にあったのである。  企業に恐怖感を与え、海外進出をやめさせるという目的を達成しようとするのであれば、事後の警告文のみで十分であり、敢えて危険な予告電話を架ける必要はない。  「大地の牙」が予告電話を死傷者の発生を防ぐために架けたことは、争いようのない事実である。 ウ 予告電話の架電時刻の設定  予告電話は爆発時刻の二〇〜二五分前に架けることとされた。この時間は、三菱重工事件において予告電話を爆発時刻の三〜八分前に架けるのでは避難行為を終了するに足りないという反省の上に立って、予告電話の架電後、爆発時刻までの間に全員が避難するに十分な時間を確保するという目的で設定されたものである。 エ 爆発時刻の設定  「大地の牙」が爆発時刻を昼休み直後の午後一時一五分と設定したのは、昼休みが終わり従業員が勤務場所に戻る午後一時に避難命令が出され、全員が避難し終わる時刻として設定したものである。三菱重工爆破事件の際は、爆発時刻が昼休みに設定されたため、予告電話に基づく避難命令が徹底できずに死傷者が出てしまったのではないかという反省から、右時刻に設定されたものである。 オ 爆弾の設置場所  「大地の牙」が爆弾の設置場所をビル内部としたのは、路上に設置した三菱重工爆破事件で死傷者が出てしまったことの反省に基づく。また、具体的な設置場所はテレックス室内のドアを入ってすぐのところにある機械の可能な限り近く、仮にこれがどうしても不可能な場合はテレックス室のドアの外とされた。これは、海外侵略の機能が集中しているテレックス室の機械を破壊するという目的とともに、テレックス室は機械が主で社員は機械からかなり離れた場所におり、死傷者の発生を防止する目的でもあった。 カ 爆弾の威力についての認識  爆弾の威力については、被告人は齋藤から、テレックスの機械が壊れる程度と聞いており、被告人は機械の近くに置いたら機械が壊れる程度であり、人が怪我を負うほどのものではないと認識していた。これ以上に、被告人には爆弾の構造・火薬の組成などについての認識は全くなかった。  検察官は、「被告人は『腹腹時計』を熟読し、・・・手製爆弾について相当程度の知識を有していたと認められること、本件爆弾の製造にも関与していることなどの事実に照らすと、・・・本件爆弾の爆発の威力が強大であることを十分認識、予見していたことは明らかである」と主張する。  しかし、まず、被告人が本件爆弾の製造に一切関与していないことは前述のとおりである。また、「腹腹時計」云々とする点は、そもそも「腹腹時計」は爆弾の威力に関する具体的な記述がないこと、実験データーを集積して執筆されたものでもないこと、火薬学上、多くの誤りを含む内容であること、現に編集・発行主体である「狼」自身、三菱重工爆破事件で爆弾の威力予測を決定的に誤り、また、間組爆破事件では製造した爆弾を完爆させられなかったことから、同パンフを読んでいたことと爆弾の威力認識とは何ら無関係である(九九年六月十五日付大道寺将司期日外尋問調書、同年一二月二四日付益永利明期日外尋問調書)。  のみならず、専門家である萩原証人すら、当公判廷において、正確な威力予測(算定)は不可能という趣旨の証言をしていることや、被告人自身も爆弾に関する何らの経験も有していなかったことからしても、爆弾の威力について前記の程度の認識しかなかったとしても、何ら不合理ではない。 キ 爆弾の性格  検察官は、「爆弾は、ピストルなどと異なって本来無差別に多数の人を殺傷する威力を有する武器であるから、被告人らが爆弾闘争を貫徹する以上、不特定多数人を巻き添えにする場合があり、死傷者がでることも爆弾闘争の避けられない宿命として、これを肯定したことは十分了解できる」などとも主張する。  しかしながら、右立論は、通常、爆弾は対物破壊用、銃は対人殺傷用という、武器としての性質の相違を無視するものであり、また、武器はその使用目的を反映するものであり、それ自体に性質の差があるものではないことを考慮しない暴論である。しかも、「大地の牙」も東アジア反日武装戦線の他のグループも、製造した爆弾に鉄片やパチンコ玉を加えるなどの対人用加工は一切行っていないのである。 ク 負傷者の発生原因  三井物産爆破事件においては、負傷者が発生しているが、これは爆弾の処理に当たろうとした警察官や不審物を探すなどしていた従業員等である。現に予告電話により多くの従業員が避難し負傷を免れていることからすれば、これらの者も爆弾が爆発するまで屋外に避難していれば、負傷という結果が発生することはなかったことを考慮すべきである。 ケ 総括内容  「大地の牙」としての三井物産闘争の総括は、一応、計画どおりに実行できたが、負傷者がでたことについては失敗であり、時間帯等をさらに検討した方がよい、負傷者については勤務中の負傷であり、生涯補償されることになる、三菱重工爆破闘争の政治的な意味を継承する点でそれなりに役割を果たしたというものであった。かかる総括内容からも、「大地の牙」が死傷者の発生を何としても防ごうとしていたことは明らかである。  もっとも、総括会議は齋藤及び「大地の牙」の他のメンバーらで行われており、被告人は総括会議に出席しておらず、事後的に齋藤から総括内容を説明されたに過ぎない。 4 結語  以上のとおりであるから、三井物産爆破事件については、傷害(過失傷害)及び建造物・器物損壊ないしは爆発物取締罰則違反の構成要件に該当したとしても、殺人未遂罪の構成要件には該当しない。 四 大成建設爆破事件 1 被告人の関与の態様  大成建設爆破事件についての被告人の具体的関与の態様は、一一月中〜下旬頃、齋藤から、大成建設本社駐車場を攻撃することになったので、一度見に行くよう勧められ、三方をビルの背面で囲まれたオープンスペースの駐車場を見に行き、その頃、齋藤から、爆弾の容器とするガスストーブのカートリッジを秋葉原に買いに行くので一緒に行こうとの要請を受け、齋藤と二人で秋葉原に行ってこれを入手し、「大地の牙」の連絡員として大道寺将司から受け取った雷管を齋藤に手渡し、また、齋藤から依頼されて、声明文の原稿を受け取り、新聞などを切り貼りして声明文を作成し、これをコピーして齋藤に渡したというものである。  被告人は、本件の実行行為には一切関与していない。  なお、時限装置については、前述のとおり、被告人は八月中に二、三個作って齋藤に渡しているが、これが爆弾に使われたか否かはやはり定かではない。 2 被告人の不関与 @ 第三者の存在  前述したとおり、当時、「大地の牙」には、齋藤、被告人、高田、その他数名の構成員がいた。  大成建設爆破事件に関しては、被告人が関与した前項記載の行為以外は、全て「大地の牙」の他の構成員が行った。 A 被告人の立場及び生活状況  被告人は自らを「大地の牙」の兵站担当、即ち、他の実行部隊の行う闘争を周囲で支えることが役割であると認識しており、一一月から一二月にかけては、「大地の牙」の連絡員として「狼」の連絡員と連絡を取ること以外には、主に活動資金を作ることに専念していた。  一一月から一二月にかけての被告人の生活状況は、次のとおりであった。  被告人は東京都世田谷区松原のアパートに居住し、相模原にある北里大学医学部衛生免疫微生物学教室に勤務していた。平日は午前七時前にアパートを出て、京王井の頭線東松原駅で乗車し、下北沢駅で小田急小田原線に乗り換え、相模大野駅で下車し、バスに乗り換え、午前九時前には研究室に出勤し、午後五時頃退勤し、都内に戻っていた。一〇月から学生実習が始まっており、研究室での仕事は忙しくなっていた。また、週に三、四日は午後八時頃から午前一二時頃まで井の頭線神泉駅付近にあるクラブでホステスのアルバイトをしていた。加えて、週に一、二回は午後六時半ないしは七時頃から齋藤と会い、週に一回程度、午後七時頃から、「大地の牙」の連絡員として「狼」の連絡員であった大道寺将司と会うなど、過労状態にあった。さらに、一一月後半は、被告人は妊娠初期にあり、悪阻で体調が悪く、一一月二九日には流産してしまうほどであった。  従って、客観的にも、大成建設爆破事件に関与できない状態にあり、齋藤からも特に関与を求められることもなかった。 B 被告人の事件当日の行動  被告人は、事件当日の一二月七日、通常どおり勤務先の北里大学で勤務しており、爆弾の運搬や仕掛けその他について、一切、関与していない。  被告人の検面調書には、齋藤と力を合わせてこれらを行った旨の記載もあるが、これは被告人が「大地の牙」の他のメンバーの存在を隠す目的で供述したものに過ぎず、信用性はない。  また、被告人の検面調書には、被告人が描いた現場の図面も添付されているが、これは当初、被告人が一度見に行ったうろ覚えのオープンスペースの駐車場を描いたところ、捜査官が違うと指摘し、地図や新聞などを渡され、捜査官の示唆に従って描いたものに過ぎない。この点は、弁四九の六月一二日付検面調書に対するコメント欄において「この件についてしつこく聞かれ言を左右に逃げ回っている(わからない、知らないetc)『こういうことか、ああいうことか』と聞かれて肯定したり、否定したりしたもの」とコメントされていることからも明らかである。  当日の行動については、被告人は捜査官に対し、当初、矛盾に満ちた供述をしていたところ、捜査官から、当日のアリバイ(出勤時刻)など次々と矛盾点を指摘され、捜査官が様々な示唆を行った結果、最終的に午前六時三〇分頃、齋藤が見張りをする中で被告人が爆弾を仕掛けた旨の供述をするに至った。ところが、被告人が供述を終えた六月頃、捜査官である纐纈刑事から、街灯もない事件現場で、まだ日も昇っておらず、見張りが成立する筈もないのに、齋藤が見張っている中で爆弾を仕掛けたとするのはおかしいとの指摘を受け、また、七月頃には村田検事から、右供述内容は信用できないとの指摘も受けている。 C 爆弾の製造  被告人は、爆弾の製造はもちろん、新たな時限装置の製造も行っていない。  この点、被告人の検面調書には、被告人が時限装置を造って事件の二日前に齋藤に渡した旨の記載があるが、これは被告人が「大地の牙」の他のメンバーの存在を隠す目的で供述したものに過ぎず、信用性はない。現に、被告人の検面調書には、爆弾に使用されていた紅茶缶についての記載は一切ない。 D 調査・下見  被告人は大成建設集古館・本社の調査・下見も一切行っていない。被告人は単に、大成建設集古館を見学に行こうとし(ただし、工事中で閉館していた)、また、大成建設本社の爆弾が設置されたのとは別の駐車場を見に行っただけである。  被告人の検面調書には、大成建設の集古館が攻撃対象として適当であるか調査に赴き、入り口にチェックがあり、爆弾を仕掛けるのが困難であると考えた旨の記載があるが、被告人が集古館に行った際は、集古館は工事中で中に入ることもできなかったのであるから、右記載内容が虚偽であることは明らかである。また、同検面調書には、被告人は、齋藤と二人で集古館に一回行ったこと、大成建設本社に齋藤と二人で一回、一人で一回行った旨の記載もあるが、これは被告人が「大地の牙」の他のメンバーの存在を隠す目的で供述したものに過ぎず、信用性はない。 E 声明文の封筒の宛名  被告人は、声明文を送付する封筒の宛名を切り貼りも行っていない。  被告人の検面調書には、声明文を送付する封筒の宛名を切り貼りしたのは被告人であるという記載と、齋藤であるとする記載があるが、実際には、切り貼りを行ったのは被告人以外の「大地の牙」のメンバーであり、被告人にはそれ以上の認識はない。右の記載は、被告人が 「大地の牙」の他のメンバーの存在を隠す目的で供述したものに過ぎず、信用性はない。なお、検面調書には、被告人が封筒の宛名に「いたずら」をした旨の記載もあるが、これはNHKのNの横に「いぬ」と書いてあったことを取り調べの時に捜査官に教えられ、誰がやったんだとしつこく聞かれたため、被告人が自分だと供述したに過ぎず、信用性はない。 3 殺意及び「人の身体を害する目的」の不存在 @ 大成建設爆破事件についても、検察官は、「爆発地点及びその付近に現在する不特定多数の人を殺害するに至ることを十分認識、予見していた」として、被告人を殺人未遂及び爆発物取締罰則違反に問擬している。 A しかし、被告人らが絶対に人を負傷させてはならないと考えていたことは、三井物産爆破事件についてと同様であり、やはり、殺人の故意はもちろん、「人の身体を害する目的」も有していなかった。 ア 爆破の目的  「大地の牙」が大成建設を爆破対象に選定した理由については、被告人は齋藤から特に説明を受けてはいない。被告人としては、齋藤から読んでおくように言われて渡された大成建設の社史が書かれた書籍を読み、戦前、戦後を通じて日本帝国主義の国策会社としてアジア侵略の先兵となり、アジア各地から文化遺産を収奪してきた大倉資本にの過去の犯罪行為を人民の名において処罰することと、心理的経済的打撃を与えることによって現在の海外侵略にブレーキをかけることと理解していた。  従って、三井物産爆破事件と同様、処罰の対象とし、経済侵略の中止を警告した対象は、企業としての大成建設であったのであり、その従業員等を殺害したり負傷させたりする必要は全くなかった。 イ 予告電話の架電  「大地の牙」は、大成建設本社を爆破するに際し、事前にその旨の予告電話を架けている。  三井物産爆破事件と同様、予告電話を死傷者の発生を防ぐために架けたことは、争いようのない事実である。 ウ 予告電話の架電時刻の設定  予告電話の架電時刻については、大道寺将司から何回も二〇分以上前に架けるように言われ、その旨を齋藤に伝え、齋藤からそのようにする旨を聞いていたので、被告人もそのように認識していた。被告人は、予告電話の架電後、爆発時刻までの間に全員が避難するに十分な時間であると考えていた。 エ 爆発時刻の設定  大成建設爆破闘争については、被告人は齋藤から、事前に、幹部の自動車を駐車する駐車場に爆弾を仕掛けること、爆発の時間帯は午前一〇時一五〜三〇分であること、予告電話を架けることの説明を受けていた。  爆発時刻については、大成建設の幹部は毎日午前一〇時頃までに出社し、一〇時過ぎから幹部会議を行い、出かける者は一一時頃出かけるので、駐車場の自動車や人の動きが最も少なく、かつ、予告電話を二〇〜三〇分前に架けると丁度、幹部会議が始まる時間帯に避難指示が出るので、避難が徹底しやすいとの理由で、右時間帯に設定したとの説明を受け、その旨認識していた。 オ 爆弾の設置場所  爆弾の設置場所については、被告人は幹部の自動車を駐車する駐車場であると聞いていたのであるが、一一月中〜下旬頃、齋藤から勧められて見に行った大成建設本社駐車場は、三方がほとんど窓のないビルの背面で囲まれた、自動車が六〜七台、二〜三列駐車できる程度の広さ(東京地裁五三一号法廷より若干狭い位)のオープンスペースであった。被告人は、この駐車場を見て、建物の中ではなく、人もいないので、たとえうまくいかなくても、余計な被害がでることはないと考えた。  なお、実際に爆弾が設置された駐車場は、別の駐車場であった。  被告人の検面調書には、爆弾を仕掛ける場所について、駐車場の入り口の鉄板の下であると認識していた旨の記載があるが、被告人の当時の現実の認識は、駐車場の駐車場所と進入路との段差のある場所、すなわち、駐車場の真ん中あたりの一台の自動車の前あたりであった。検面調書の右記載は、当初、被告人が捜査官に現実の認識を供述していたところ、捜査官から実際の爆弾の仕掛け場所と違うことを示唆され、新聞記事を見せられる等して、実際の仕掛け場所であるビルの入り口の鉄板の下との認識であったと供述するに至ったものに過ぎない。 カ 爆弾の威力についての認識  爆弾の威力や構造等については、被告人は齋藤から、何の説明も受けていなかった。被告人としては、事前に入手したガスストーブのカートリッジと大道寺将司から渡された雷管というものを使うのだろうという認識はあったが、それ以外には威力・構造等について何の認識もなかった。 キ 負傷者の発生原因  大成建設爆破事件においては、負傷者が発生しているが、これは予告電話を受けて一旦避難措置を取ったにもかかわらず、爆発前にこれを解除してしまったことが主要な原因であると考えられる。現に予告電話により多くの従業員が避難し負傷を免れていることからすれば、これらの者も爆弾が爆発するまで避難していれば、負傷という結果が発生することはなかったことを考慮すべきである。 ケ 総括内容  被告人は、「大地の牙」としての大成建設事件の総括内容を聞かされていない。  しかし、齋藤は負傷者が出たことについて相当のショックを受けていたこと、被告人及び齋藤は、その後、負傷者を出したことについての責任を取るため、自殺用の薬物の入ったカプセルを「狼」から入手して携帯するようになった。このことからも、「大地の牙」が死傷者の発生を何としても防ごうとしていたことは明らかである。 4 結語  以上より、大成建設爆破事件についての被告人の行為は、傷害(過失傷害)及び建造物・器物損壊ないしは爆発物取締罰則違反についての幇助の構成要件に該当したとしても、殺人未遂罪(または、その幇助)の構成要件に該当するものではない。  五 間組同時爆破事件 1 三グループの関係について   検察官は、論告において、間組事件の共謀の論じる前提として、昭和五〇年の一月の初め頃から、「狼」「大地の牙」「さそり」の三者が、三者合流の意思を固めながら、三者会談を実施していたと論じている(四六頁)。   しかしながら、以下に見るとおり、その当時、「東アジア反日武装戦線」の三部隊に合流の意図は全くなかったことが明らかである。 @ 闘争の対象目的の違いー「大地の牙」と「さそり」   すなわち、右三部隊は、同じく「東アジア反日武装戦線」に志願した部隊でありながら、闘争の対象ないし目的には微妙なずれがあった。   この点に関し、大道寺将司の平成一一年五月二四日証言、益永利明の平成一一年一二月二日の証言、宇賀神寿一証言(九四回)等によれば、「さそり」の場合、中心的存在は、明らかに黒川芳正であったが、黒川は、学生時代にマルクス主義を研究し、寄せ場闘争に参加するようになってからも、方法論としては、マルクス主義を研究していた。そして、「さそり」としては、日本の中の民族問題に全く関心がなかったわけではなかったが、その重点は主に寄せ場における下層労働者の解放に向けられていた。   一方、「大地の牙」の場合、中心的存在は、明らかに斎藤であったが、斎藤の場合、アナーキストないしは直接行動主義を唱えるグループとの行動をしてきており、マルクス主義とは一線を画してきた。そして、闘争の中心テーマとしては、戦後補償や韓国問題に関連したものが多く、「さそり」に比べれば、下層労働者の解放というテーマには重点が置かれていなかったと言える。   そして、「狼」は、「さそり」と「大地の牙」の中間的位置におり、アイヌ問題にも重点が置かれていた。   以上のとおり、「東アジア反日武装戦線」に参加した三部隊は、その思想傾向や関心の対象には微妙な差が当初から存在していた。   このことから、事実として、間組事件以降も「さそり」においては、間組に関連した闘争(すなわち下層労働者解放の闘争)を継続するのに対し、「大地の牙」においては、韓産研、オリエンタルメタルといった戦後補償、韓国問題に関連する闘争に切り替わっていくのである。 A 組織形態の違いー「狼」と「さそり」「大地の牙」   大道寺将司の平成一一年五月二四日証言、益永利明の平成一一年一二月二日証言、宇賀神寿一証言(九四回)等からは、「狼」と他グループにつき、内部意思形成のあり方等の組織形態にも違いがあることが明らかである。   すなわち、「狼」の場合、その結成以前に数年間の前史が存在し、構成員における力関係の差が相対的に少なかった為、内部の意思形成においては、全員が必要な情報を共有し、各作戦の実行過程においても、全員参加型に近い体制を取っており、平等主義の色彩が強いといえる。   これに対し、「大地の牙」「さそり」においては、その結成から闘争に至るまでの助走期間が短かったこと、各代表者である黒川、斎藤と他のメンバーとの間に、経験や力量の差が顕著に存在し、従って、内部意思形成においても、黒川や斎藤の意見が重要であったこと、闘争を実行するについても、必ずしも全員参加型ではなく、黒川、斎藤以外は、自己の任務に必要な情報のみを知るに過ぎないことが多く、必ずしも、全情報は共有されていない。   従って、「さそり」「大地の牙」においては、純粋には平等主義ではなく、グループ代表者の意向が決定的に重要だったのである。 B 小括ー合体の困難性   以上にみたとおり、「東アジア反日武装戦線」に結集した三部隊には、思想傾向や組織形態に顕著な違いがあり、これを合体させることにはそもそも困難であったし、少人数による都市ゲリラを志向していたこれら三部隊はあえて多数人を結集することを必要としてもいなかったはずである。   よって、検察官が指摘するように、その頃、三部隊が合流を予定していたという事実はない。   検察官の主張は、大道寺、益永らの捜査段階の供述を根拠とした立論であるが、証人尋問において、大道寺将司は、三部隊合流論については、自己の独断であり、大道寺あや子らがこれに異論を唱えていたという事実を新たに明らかにしている。   従って、共謀の存在の前提として、三部隊の合流予定があったとする検察官の主張は誤りである。 2 共謀の不存在 @ 間組本社六階、九階に関する共謀   本件公訴事実は、被告人において、間組本社六階、九階に関しても、「人の身体を害する目的」を含めて共謀があったとしているが、以下に示す事情を考慮すれば、本件において、右共謀は認定し得ないというべきである。 A 被告人の公判供述とその信用性   被告人の公判供述(一〇一、一〇二回)によれば、以下の点が明らかである。   被告人は、斎藤と同居を始めた頃、「大地の牙」の連絡員を交代した。交代した理由は、三者会談の開始を控え、被告人においては、作戦の詳細を説明できず、作戦の決定権限も持たない為、効率上問題があったためであること。   被告人は、「東アジア反日武装戦線」の他グループの構成を正確に認識していなかったこと。   被告人は、三者会談の討議内容について逐一報告を受けていたわけではなく、自己の任務に関連することのみを斎藤から報告を受けていたこと(このことは、いわゆる地下組織における「一ゲリラ一任務の原則」から自然であること)。   被告人は、「東アジア反日武装戦線」三部隊が、なぜ、間組をターゲットにしたのかにつき、深い理由を知らされていないこと。「キソダニ・テメンゴール作戦」という作戦名すらも事前に知らされたか定かでないこと。   間組事件の立案過程において、「狼」「さそり」「大地の牙」間の方針の不一致の過程があったことを全く認識していないこと。   「さそり」が本社を攻撃するについては事前に知っていたものの、具体的攻撃対象は知らなかったこと、「狼」の攻撃対象については全く知らなかったこと。   以上の被告人の供述は、前述のとおり、「大地の牙」において、斎藤と被告人との経験や力量の差が顕著に存しており、その内部運営の仕方が、必ずしも平等主義的でなかったことからすれば、自然なものであり、十分にその信用性を認めることができるものである。 B 被告人の捜査段階の供述の信用性   これに対し、本件に関する被告人の捜査段階の供述(乙一三号証等)によれば、被告人は、間組攻撃の動機についてはよくわからないものの、作戦名称、「さそり」の主導性、当初には個人テロの案もあったこと、「さそり」と「狼」の担当がいずれも間組本社であることを、いずれも、事前に知っていたかのような内容となっている。   しかしながら、右供述は、既に他の共犯者の詳細な供述がかなり進んだ段階で得られたものであり、他の共犯者の供述を前提とした捜査官による誘導の可能性を窺わしめるものである。この点に関し、被告人は、公判供述(一〇二回)にて、個人テロの計画については、逮捕後に、捜査官によって教えられたことを明らかにしている。   しかも、被告人は、乙一三号証においては、「狼」の具体的攻撃対象を知っていたかのような供述が録取されているのに対し、後に作成された乙二一号証においては、それを知らなかった旨に供述が変更されている。   以上のとおり、捜査段階における被告人供述は、捜査官の誘導によって得られた可能性が強く、変遷をも含む内容であり、その信用性は低いというべきである。 C 小括   以上に見たとおり、被告人の公判供述を前提とすれば、被告人は、間組爆破攻撃の謀議の過程を殆ど知らされておらず、「さそり」「狼」の具体的爆破対象も使用される爆弾の概要も事前に知っていたわけではない。よって、本件においては、被告人が、実行正犯と同視しうるような事前共謀に加わっていたとは到底いえないと言うべきである。   よって、間組六階、九階の爆発物使用に関しては、被告人の共謀は認められるべきではないのである。 3 大宮工場に関する「人の身体を害する目的」について @ 旧統一公判判決   この点に関し、旧統一公判判決(判例時報九七三号)は、次のように判示している。   すなわち、「間組大宮工場爆破事件においては、爆発時刻は午後八時頃でしかも爆弾仕掛け地点付近にバス停留所があったとはいえ、本件爆弾を仕掛けた当時その付近に通行人や同工場に勤務する人々がいたと認めうる証拠はなく、予告電話をして、現実にも人の傷害の結果も発生していず(中略)人の身体を害する目的が存した確証がないので、右目的を認定しない」と判示している。   右に挙げた判決のとおり、間組大宮工場事件において、「人の身体を害する目的」はなかったのである。 A 検察官の主張   この点に関し、検察官は、「人の身体を害する目的」については、それを未必的に認識し、かつ、認容していれば足りるとし、本件においては、爆弾が大型手製爆弾であり、コンクリート製の塀を倒壊させるほどの威力があったこと、バスの停留所が近くにあり、バスの利用者、歩行者、車両の通行が予想されること、予告電話は確実な手段とは言いがたいこと、を各指摘し、被告人には、右認識、認容があったと主張している(五一頁以下)。 B 被告人の供述   しかしながら、被告人の公判供述(一〇二回)によれば、以下の事実が明らかである。   間組事件前の謀議段階にて、間組幹部を攻撃する案に関し、被告人は、斎藤に対し、反対の意思を表明していること。   被告人は、大宮工場には、五回か六回下見をしており、夜の時間帯における車や人通りを入念に調べていること、爆弾の具体的仕掛場所である変圧器のある場所については、人が来ない場所であると認識していたこと。   爆弾の製造については、斎藤が行い、被告人は関与していないため、被告人には、その火薬の調合や雷管の使用の有無について認識を欠いていること(なお、捜査段階の被告人供述によれば、被告人は、爆弾の製造にも関与したこととされているが、捜査段階での被告人供述は、全犯行を斎藤と二人で行ったという筋書きによって構成されており、爆弾の製造についてもかかる姿勢で供述したと見られること、当然説明があって然るべき火薬の組成や爆弾の構造について全く何らの説明がないことを考慮すると、公判供述に比して信用性が乏しいというべきである)。 C 小括   以上に見たとおり、被告人は、間組事件当初から、人的被害が出ることを回避しようとしており、人の身体を害することにつき、認容しない姿勢をとっていたことが明らかである。   さらに、爆弾設置現場については、人通りのない場所であると認識していた上、爆弾の構造、従ってその威力についても具体的認識を欠いており、以上を併せ考えれば、被告人は、本件爆弾の爆破により、人の身体を害することを認識していなかったことが明らかである。   また、更に斎藤は、爆破前に「日通ですが、近くに爆弾を仕掛けましたからすぐに交通を遮断してください」と角田節子に対して予告電話を入れており(甲C一五五号証)、このことは、斎藤において、負傷者の発生を避けようと考えたことを裏付けること、本件では、現に負傷者も出ておらず、物的損害のみにとどまっていること、被告人供述(一〇二回)によれば、事件後の「大地の牙」の総括として、間組本社において火事が発生し人が負傷した点を否定的に評価していたこと、以上によれば、被告人らにおいて、人の身体を害することの認容も存在しなかったことが明らかである。   以上によれば、本件において、被告人には、「人の身体を害する目的」は全くなかったというべきである。  六 韓産研・オリエンタルメタル事件 1 本件における「関西グループ」の関与   被告人の公判供述(一〇二回)によれば、韓産研・オリエンタルメタル事件の前頃、「大地の牙」に新たなグループ、すなわち「関西グループ」が参加していた。韓産研・オリエンタルメタル事件は、右「関西グループ」の関与の元に敢行された事件である。   検察官は、本公判にて明らかになった右新事実について完全に沈黙しており、それについて何の論及もしていない。   しかしながら、「大地の牙」における他のメンバーの存在については、捜査官もあらかじめその疑いを持っていたことは既に述べたとおりである。なぜなら、捜査官は、逮捕前の尾行により、被告人が韓産研の爆弾の仕掛に直接関与していないことを知っていたし、「大地の牙」が二名のみで構成されているに過ぎないのであれば、関東関西の同時爆破ということが、いかに困難なものであるかを、彼らの経験としても判っていたからである。   だからこそ、かつての取調べにおいては、この点が激しく争われたのである。被告人の韓産研・オリエンタルメタル事件において、その供述の変遷が著しいことはその現れであるし、一九九六年五月七日付弁護人意見陳述書添付の昭和五〇年六月六日付朝日新聞において「アリバイあるのに『私がやった』 浴田、ヘンな自供」と報じられていることもそのことを示している。   また、乙四九の手紙によれば、六月三日付検面調書に対する被告人のコメントとして「尾行メモをちらつかされていたが、オドオドと『2人でやった』ことを強調して話している」と記載され、真実は、二名の犯行でないことが暗に示されているし、六月四日付検面調書に対する被告人のコメントとして「他の人のことは『言わない』つもり」とあるのもそのことを示すものである。また、六月六日付検面調書に対する被告人のコメントとして三カ所にわたり「××××」の伏字があること、六月七日付検面調書のコメントにおいて「2人でカンパもなく、やったことを強調」とあること、六月一六日、同月二四日付検面調書に対するコメントとしても「××××」の伏字があることも同様の事態を示すものである。   以上のとおり、韓産研・オリエンタルメタル事件においては、斎藤と被告人の二名による犯行であるとする検察官の主張は完全に崩れ去ったのである。   すなわち、両事件における被告人の役割は、検察官が主張するようなものではないのである。 2 本件における被告人の役割   以上の次第であるから、韓産研・オリエンタルメタル事件に関する被告人の捜査段階の供述には、一切の信用性がない。右供述は、他のメンバーの存在を秘する為に、被告人が虚偽のストーリーを構築して述べたものであり、関東関西の同時爆破をたった二名で行ったという無理のある中身になっているからである。   よって、被告人の本件における役割は、次のようにその公判供述(一〇二、一〇八回)に従って整理されるべきである。 @ 韓産研事件における役割   被告人は、韓産研に関する事前の資料収集等の調査には参加せず、斎藤から渡された資料を検討したのみである。韓産研の下見には斎藤とともに一回だけ参加したが、いわゆる「張り付き調査」には至らない簡単な下見であった。よって、具体的な爆弾の設置場所については知らなかったが、他の者が行った「張り付き調査」の結果、爆破予定時刻には周囲には人がいないはずであると考えていた。爆弾の製造については斎藤が中心となり、被告人は外装の一部のみを担当した。爆弾に「狼」提供の雷管が使用されたかは不明であった。韓産研の爆弾の運搬には関与したが、設置については関与しなかった。 A オリエンタルメタル事件における役割   被告人は、オリエンタルメタルの下見を一回だけ行ったが具体的な下見ではなかった。よって、具体的な爆弾の設置場所は知らなかったが、他の者が行った「張り付き調査」の結果、爆破予定時刻には周囲には人がいないはずであると考えていた。爆弾の製造に関しては、被告人は関与せず、誰が製造したかもわからなかった。爆弾に「狼」提供の雷管が使用されたかは不明であった。爆弾の運搬と設置には関与せず、誰が行ったかも不明であった。 3 「人の身体を害する目的」について @ 旧統一公判判決   この点に関しも、旧統一公判判決は、次のように判示している。   すなわち、「韓国産業経済研究所・オリエンタルメタル各爆破事件では、爆発時刻はいずれも午前一時時頃であり、爆弾仕掛け地点付近に人の現在していた確証もなく、現に人の傷害の結果も発生していない。結局、(中略)人の身体を害する目的が存した確証がないので、右目的を認定しない」としている。   右に挙げた判決のとおり、韓産研・オリエンタルメタル事件において、被告人に、「人の身体を害する目的」はなかったのである。 A 検察官の主張   この点に関し、検察官は、韓産研に関し、会社事務所、飲食店等が密集するビル街にあるビルの五階であり、爆弾設置時間から爆破予定時間までは五時間の間隔があったこと、オリエンタルメタルについては、付近に幹線道路、歩道、アパートがあり、同社は雑居ビルである松本ビルの七階に仕掛けられたこと、いずれもビル内に夜勤で勤務する人が現在する可能性が会ったこと、を各指摘し、被告人には、右認識、認容があったと主張している(五三頁以下)。 B 被告人の供述   しかしながら、被告人の公判供述(一〇二、一〇八回)によれば、以下の事実が明らかである。   韓産研事件に関し、被告人は、簡単な下見を一回したのみであるが、他のメンバーが行った「張り付き調査」の結果、爆破予定時刻には、爆弾の具体的仕掛場所の付近には、人が存在しない場所であると認識していたこと。爆弾の製造については、斎藤が行い、被告人は関与していないため、被告人には、その火薬の調合や雷管の使用の有無について認識を欠いていること。   オリエンタルメタル事件に関しても、被告人は、簡単な周囲の下見をしただけであるが、他のメンバーの行った「張り付き調査」の結果、爆弾の製造については、爆破予定時刻には、爆弾の具体的仕掛場所の付近には、人が存在しない場所であると認識していたこと。爆弾の製造については全く関与していないこと。 C 結語   以上に見たとおり、被告人の本件に関する関与は、検察官が主張するほど重大なものでなく、あくまでも他の者がなした調査の結果、人的被害が出る場所であるとは想定していなかったとのであり、爆弾の構造、従ってその威力についても具体的認識を欠いており、以上を併せ考えれば、被告人は、本件爆弾の爆破により、人の身体を害することを認識していなかったことが明らかである。よって、本件において、被告人には、「人の身体を害する目的」はなかったというべきである。 3 本件事件は泳がせ捜査の中で発生した   なお、韓産研・オリエンタルメタル事件の段階では、公安当局は、既に「東アジア反日武装戦線」三部隊のメンバーを具体的に把握し、各メンバーに尾行をつけていた。この点は、被告人、大道寺将司、益永利明らの各供述から明らかなうえ、大道寺将司の手帳(甲G九七号証)において「小指」の記載があること、被告人の手紙(弁四九号証)において「尾行メモ」の存在が記載されていることからも明らかである。   従って、韓産研・オリエンタルメタル事件は、公安当局の尾行監視下においてなされた疑いが極めて強い。 第四 情状  一 はじめに   検察官は、被告人に対し、無期懲役の求刑を行った。   右求刑は、論告要旨によると、被告人が各犯行において、斎藤とともに、「車の両輪」としての役割を積極的に果たしてきたこと、当初から継続的な爆弾闘争を企図したものであり、重大な被害結果を生じていること、被告人が長期間逃亡生活を繰り返していたこと、被告人の革命思想が強固で狂信的であること等々の前提事実をもって、被告人の更生は全く期待できず、再犯のおそれが高いと判断されたことによりなされたこととされている。   しかし、右求刑判断の実質は、極めて政治的な意図に基づくものであり、かつ、検察庁にとっての報復的な趣旨によるものであると言わざるを得ない。   すなわち、かつての検事総長であった故伊藤栄樹の「秋霜烈日ー検事総長の回想」(朝日新聞社)にもあるとおり、「東アジア反日武装戦線」三部隊の一斉検挙にようやくこぎつけ、その事件の全容を解明したつもりになっていた検察当局にとっては、その後、被告人らが、「日本赤軍」の敢行した「ダッカ事件」等により、超法規的に釈放され、審理が中断に追い込まれるなどという事態は、何としても許しかねる一大不祥事であった。   従って、検察庁公安部は、帰国してきた被告人に対し、「ダッカ事件」に関与していないことなど百も知りながら、これに対する報復の必要が高いと考えていたのである。   この点は、論告において、「ダッカ事件自体は、日本赤軍が敢行したものであり、被告人が関与していないとはいえ、司法秩序を無視した卑劣な要求であることは当然知りえたはずであり、釈放後、同組織に与し、逃亡生活を送ってきた被告人の責任は誠に重く」(一一六頁)との記載において正に露呈している。   また、おりしも、右「ダッカ事件」を敢行した「日本赤軍」については、最高幹部と疑われている重信房子らが一昨年に逮捕され、現在、東京地裁において、各公判が継続中である。かくして、検察庁の「日本赤軍」に対する報復の機運は、いやがおうにも、熟しきっていた。すなわち、検察庁においては、被告人に対し、重刑を求刑して見せることにより、これら「日本赤軍」関係者に重圧をかける必要性が高度に存在していた。さらに、昨年九月一一日事件後の状況をも踏まえ、治安当局として、「テロに屈しない」姿勢をとって見せる必要性も存在していた。こうした状況の中で、被告人に対する無期懲役という求刑判断が極めて政治的に決断されたに違いないのである。   右に見たように、検察庁の被告人に対する求刑判断においては、「ダッカ事件」や「日本赤軍」に対する報復感情がないまぜになっている。   であるがゆえに、論告においては、以下に詳細に指摘するように、求刑の前提となる諸事実の多くが歪曲され、あるいは、九五年の公判再開後に明らかになった多くの新事実、新証拠については、ことごとくこれが無視されている。己の報復目的を達成し、無期懲役という結論を維持する為には、都合のよい証拠関係のみを取り出してさらにこれを押し曲げ、己の結論に都合の悪い新事実、新証拠はすべてこれをなきものとして勝手に捨象したのである。   これは、報復的、感情的な背景を有する場合の検察官の論告パターンにおいては、よく見られるケースであり、別に弁護人としては驚くほどのものではない。   しかしながら、裁判所の下す判決においては、かかる思考は絶対に許されないと言うべきである。   そもそも裁判とは、特定の団体に対する政治的報復の為の手段ではない。また、結論を先に立てた上で、これにそった諸事実、諸証拠のみを取り出したり、事実関係や証拠関係を歪曲したりして判断されてよいはずがない。   判決においては、捜査、公判を通じて得られた全証拠の総合判断をもって、事実を確定し、被告人の情状判断が冷静になされなければならない。   かかる視点にたって、本件情状事実を再検討するならば、検察官の結論の誤りもその論理過程の誤りもおのずと明らかなものになるはずである。   その詳細は、以下に述べるとおりである。  二 被告人の「大地の牙」における地位 1 被告人の位置付けの決定的重要性   被告人の量刑を決するに当たり、被告人の「大地の牙」内部における位置付け、役割が決定的に重要であることは言うまでもないことである。かつて、連合赤軍事件において死刑を求刑された吉野雅邦に対し無期懲役刑を言い渡したいわゆる石丸判決においては、次のように判示されている。「この集団における思考態様、集団間におけるメンバーの個々の思考態様、メンバー間の力関係、メンバー相互の関係、一二名処刑との各人のかかわり方の態様などについて分析と評価を加え、その本質と本姿を検討する必要がある。」 2 検察官の判断ー「車の両輪」説   この点に関し、検察官は、被告人と斎藤の関係を「車の両輪」に見立て、「被告人は、単に斎藤を助力する立場で犯行に参加したに過ぎないものでは決してなく」「被告人は、斎藤と対等、否むしろ被告人のほうが積極的かつ周到で、極めて重要・不可欠な行為を行っていたことは明白である」(一一一頁以下)としている。   かかる論告を、今は亡き斎藤が聞けば、彼は何と言うであろうか。   検察官は、「大地の牙」の構成員が二名であることを未だに大前提とし、その中で被告人と斎藤の関係を同等あるいはそれ以上とまで強弁するのである。「車の両輪」とはそういう趣旨である。   しかしながら、「大地の牙」構成員が二名以上いるという点は、九五年以降再開された公判で新たに明らかになった事実であるし、「大地の牙」における斎藤の指導的役割は、九五年以降の公判においても、あるいは、それ以前の被告人検面調書上も明らかな事実である。冒頭にも述べたとおり、検察官は、無期懲役という結論を維持する必要性があった為、九五年以降の新事実、新証拠をことごとく勝手に排除し、かつての検面調書の内容さえも極端に歪曲させてしまったのである。 3 被告人が「大地の牙」に参加する経緯と斎藤の指導性 @ そもそも、斎藤の存在なしに、被告人が「大地の牙」に参加するなどということは絶対にありえないのである。   この点に関し、被告人の当公判廷における供述(九九、一〇〇回)によれば、被告人が大地の牙に参加した経緯は、概ね、次のとおりである。 ア 被告人は、山口県長門市にて出生し、以後、高校卒業までの間、右地域において、ごく普通の生活を送っており、一九六九年に北里大学衛生学部(なお、論告要旨一〇九頁において「北里大学医学部衛生技術学科」とあるのは間違いである)に入学したが、下宿の門限や生活上の余裕がなかった為に、当時全盛期を迎えていた学生運動には基本的に参加していなかった。それどころか、党派を中心とするそれら運動には批判や疑問の念を抱いていた。   その後、被告人は、高校時代の友人が逮捕された為、その友人の救援活動を手伝うようになり、その過程で叛旗派救対部との人的関係が徐々に成立し、それにより、当時「テック闘争」に参加していた大島啓司、島崎忠や斎藤らとの交流が成立したのである。   以上の過程において、被告人は、一定の運動体験を経ることとなるが、その関与の度合いは、いずれも「人助け」の域を出るものではなかったし、当時の学生の行動としては特に目立った活動と言えるものでもなかったのである。 イ 一九七二年、被告人は、大島らとともに、韓国旅行を経験し、ここにおいて、日本のアジアに対する戦争責任の問題や天皇制の問題を強く意識するようになった。また、帰国後は楊明雄支援連動に関与し、日本の戦後補償問題に関する関心を深め、翌年二月の沖縄旅行を経て、ダニエル・ロペス闘争にも関わり、前記した問題意識を深めていった。   このように、右に見た被告人の問題意識形成過程と後の「大地の牙」への参加には、勿論、有機的関連性がある。しかしながら、他方で、被告人は、この時期、一方で花嫁修業等をも行っており、基本的には、今後も、一市民としての生活を続けていく予定であったと考えられる。従って、被告人が後の武装闘争へ「飛躍」する契機としては、更なる決定的なきっかけが必要とされていた。それが、次に見る斎藤との出会いである。 ウ 被告人と斎藤とは、七一年頃から面識はあったが、七二年夏頃から、個人的にも親しくなり、被告人は、斎藤から、朝鮮文学等の資料を借りて読むなどしていたが、その頃から、斎藤は、被告人に対し、後の「腹腹時計」の内容と重なるような意見を述べていた。   そして、七四年四月頃、斎藤は、被告人に対し、「腹腹時計」を手渡し、被告人はこれを読んだ。被告人は、その作者を斎藤ではないかと考え、これを支援する形での協力は考えたが、「腹腹時計」に記載の武装闘争を自ら担うことや己が地下ゲリラ兵士になれることは考えられなかった。   被告人は、右支援の意思を斎藤に示したが、斎藤は、被告人に対し、より積極的な参加を求めていた。被告人としては、かかる斎藤の勧誘に対し、躊躇もあったが、結局、一年間だけ、斎藤を支えるということになり、さらに、三菱重工事件の総括をめぐる討議の中で、斎藤の申し出により、「結婚」を約束し、「大地の牙」に参加するに至った。   こうして、被告人は、「大地の牙」の一連の闘争に参加することになったのである。 エ してみると、被告人を武装闘争の世界に導いたのは正に斎藤であり、斎藤なしに今日の被告人はありえないし、本件公判もまたありえないのである。   なお、こうした点は、大島啓司証人が、「大地の牙」逮捕の際、「斎藤君に関しては、多少やっぱりという感じもありましたが、浴田さんについては、よくあのチンペイが個々まで決意したなというふうに思いました」と述べると頃からも明らかである。   被告人の本件刑事責任を見るうえで以上の事実経過を軽視することは許されないことである。 A 被告人が「大地の牙」に参加して以降も「大地の牙」の主導権は明らかに斎藤にあった。   このことを、被告人の当公判廷供述に従い、各事件単位(時系列)に個別に見れば、後述のとおりである。   なお、本件一連の爆破事件は、一般に、爆破対象企業の設定、対象企業の資料調査、具体的爆破対象の調査、設定、具体的行動計画の決定、爆弾製造の材料等の準備、爆弾の製造、声明文の事前準備、当日の運搬、仕掛、予告電話、声明文の発送、事後の総括といった手順によるが、以上の行程のうち、最も重要なのは、初期の計画段階である。それ以後の行程は、初期の政治的、軍事的判断が明確に確立されている限り、例えば爆弾の運搬等にしても、実行者において裁量の余地は乏しく、あえて言えば、誰にでも担いうるものである。従って、本件各事件の役割の重要性を見る場合には、初期の計画段階での被告人の関与がどの程度なのかを特に重視して見ていく必要があると言うべきである。 ア 三井物産爆破事件(一〇〇回公判)   被告人は、三井物産という攻撃対象の設定には全く関与していない。被告人は、三井物産に関する資料収集にも何ら関与していないし、具体的爆破地点の設定にも関与していない。これらはすべて斎藤や他の「大地の牙」メンバーによってなされたことである。要するに、被告人は、三井物産事件の初期の計画段階に何ら関与をしていない。   また、被告人は、下見については、九月の末に三階のテレックス室を一度下見したほか、事件前日に当日の予定に沿った下見を行った。   爆弾の製造ないしその準備や声明文の準備に関しては被告人は何ら関与をしていない。なお、本件において、被告人の製造した時限装置が実際に使用されたかは不明である。   爆弾の運搬、仕掛については、斎藤であれば目立ちすぎるとの判断から、被告人がその役割を担った。   予告電話や声明文の発送についても、被告人は関与していない。事件の総括会議にも参加せず、斎藤から、「大地の牙」の総括結果を知らされただけであった。   以上を総合すると、三井物産事件に関し、被告人の担った具体的役割は、二回の下見と当日の運搬、仕掛のみである。この際、重要なことは、被告人が、本件初期の計画段階に何ら関与していないということであり、被告人が中心的に担ったのは、被告人にとっては裁量の余地の殆どない運搬、仕掛だけであったという事実である。   要するに三井物産事件の計画、実行の全体から見たとき、被告人の役割は、かなり限定されたものでしかないのである。   検察官は、供述調書だけを根拠として、被告人の役割を過大に描写し、本件は、被告人の存在なしには実現不可能であって、その役割は斎藤以上だとまで強弁している(論告八五頁以下)。しかしながら、前述のとおり、一連の爆破事件における個別的役割を評価する場合、重要なのは、初期の計画準備段階なのであって、その後の機械的な行程にあるのではない。また、事件当日の運搬にせよ、被告人でなければ実行不可能といえるほどのものでもない。   よって、本件に関する被告人の役割は、斎藤のそれを大きく下回ると見るべきであり、「車の両輪」などというものでは決してないのである。 イ 大成建設事件(一〇〇、一〇一回)   三井物産事件後、被告人は、「狼」との連絡役を担当するようになった。但し、その判断根拠としては、斎藤が活動家として当局にリストアップされており、連絡担当としては危険を伴うということにあったのであって、被告人が「大地の牙」を代表しうるからではなかった。   従って、大道寺との連絡の際も、毎回、斎藤から連絡事項のメモを渡された上で行っており、被告人に裁量の余地があったわけではなかった。   また、当時、被告人は、妊娠しており、後に流産をしたのであって、活発な行動を行えるような状況には到底なかった。   そして、被告人は、大成建設という攻撃対象の設定には関与していない。対象の設定は、斎藤を含む他の「大地の牙」メンバーによってなされたことである。大成建設の資料収集にも関与せず、斎藤から渡された資料を検討したにとどまる。具体的爆破地点の設定にも関与していない。要するに、初期の重要な計画段階で被告人は殆ど関与していないのである。   下見に関しては、被告人は、大倉集古館と本社駐車場の下見を一度ずつ行った。   爆弾の製造にも被告人は関与していない。また、被告人は、本件爆弾に使用されたカートリッジの調達には関与したが、被告人が作成した時限装置が本件爆弾で現に使用されたか否か、被告人が大道寺から受け取った雷管が本件爆弾で現に使用されたか否かは不明である。声明文の事前準備は被告人が行った。   爆弾の運搬、仕掛、予告電話のいずれにも被告人は関与していない。被告人は事件当日は通常勤務している。 よって、爆破時間に関し、事前の計画と実際のずれがなぜ生じたのか、被告人にはその原因がわからず、大道寺との連絡においてもそれを伝えることができなかった。 以上を総合すると、大成建設事件において、被告人の担った具体的役割は、大成建設に関する資料の検討、二回の下見、爆弾材料の調達、声明文の準備に限定される。本件において、被告人は、初期の計画段階に何ら関与せず、爆弾使用の実行にも関与せず、単なる後方支援としての役割しか果たさなかったのである。被告人は、本件において、自己が何ら主体的な行動を取らなかったことが、作戦上の失敗に結びついたと考え、間組大宮工場事件への主体的参加の契機となったのである。   よって、本件においても、被告人の役割は、斎藤のそれを大きく下回ると言うべきである。 ウ 間組事件   間組事件を前に、「東アジア反日武装戦線」三部隊の代表者による三者会談が実施された。間組と言う攻撃対象の選択は、右三者会談において、「さそり」の黒川によって提唱され、「狼」「大地の牙」がこれを承諾したものである。従って、被告人は、間組という攻撃対象の設定に関与していない。また、具体的爆破地点については、三者会談において、「さそり」と他グループの間にて討論された点であるが、被告人は、この討論の状況も知らなければ、「キソダニ・テメンゴール作戦」との名称も事前に聞いていたかは定かでなかった。他部隊が具体的に間組のどの部署を攻撃するのかの認識も持ち合わせていなかった。   そして、被告人は、間組に関する資料の調査を斎藤に命じられて行った。また、同様に間組幹部宅の現地調査も行ったが、個人を攻撃対象にすることについては、斎藤に対し、異論を述べている。被告人が、具体的な攻撃対象の選択の問題に関して意見を述べたのは、後にも先にもこの一回のみである。   また、被告人は、大宮工場の下見を五、六回行っているが、この点は、前述したとおり、大成建設事件に関する被告人の反省に基づく主体的参加であり、しかも、被告人の現地調査の結果、大宮工場爆破地点における人通りのないことが確認され、現に死傷者を出さなかったのであるから、本件に関しては、被告人の役割は、積極的に評価されてしかるべきである。   爆弾の製造にも、被告人は関与していない。また、被告人が作成した時限装置が本件爆弾で現に使用されたか否かは不明である。声明文の事前準備は被告人が行った。   爆弾の運搬は被告人が行ったが仕掛は斎藤が担当した。 以上を総合すると、間組事件において、被告人の担った具体的役割は、間組大宮工場の現地調査と爆弾の運搬であるが、結局、本件においても、被告人は、初期の計画段階には殆ど関与できていないこと、間組同時爆破作戦の全容を理解せず、自己の任務のみを遂行していたことが明らかである。一方、斎藤は、「大地の牙」の代表者として、本件概要を把握していたのである。   よって、本件においても被告人の役割は、斎藤のそれをやはり大きく下回ると言うべきである。 エ 韓産研・オリエンタルメタル事件   本件は、いわゆる「関西グループ」と共に実行された同時爆破事件である。よって、以下に見るとおり、被告人の関与の度合いは間組事件に比して小さいというべきである。   まず、被告人は、韓産研・オリエンタルメタルという攻撃対象の設定には関与していない。これら攻撃対象の設定は斎藤らが行ったものである。これら企業の資料調査も行っておらず、斎藤から手渡された資料を検討したにとどまる。   企業の下見は各一度行ったが、具体的な仕掛場所や人通りを綿密に調査するような下見には関与していない。   爆弾の製造については、韓産研の爆弾に関し、被告人は外装部分の一部を手伝ったが、それ以外は斎藤が製造した。オリエンタルメタルの爆弾については被告人は全く関与していない。また、両事件の爆弾に被告人の製造した時限装置が使用されたかは定かでない。   されに被告人は韓産研について爆弾の運搬に関与したが、仕掛には関与していない。オリエンタルメタルについては、運搬、仕掛共に関与していない。   以上を総合すると、韓産研・オリエンタルメタル事件における被告人の役割は、間事件における役割よりも小さなものとなっていることが明らかである。よって、本件についても、被告人の役割は斎藤のそれを大きく下回るものである。 オ 小括   以上のとおり、被告人の公判供述によれば、被告人は、被告人の各事件における役割はいずれも斎藤より低いものというべきである。特に、被告人は、各事件に関し、攻撃企業の設定に関する謀議にいずれも直接関与しておらず、定められた方針の下、自己の任務のみを遂行しているに過ぎないことが明らかである。それ以前の政治的、軍事的判断は、主に斎藤が行っていたのであり、被告人がこれに関与していたのではない。   よって、被告人と斎藤の役割が同等であるかのようにいう検察官の主張は誤りである。 4 被告人の検面調書の評価   被告人の役割論に関し、検察官がその主張の根拠とするのは、被告人の検面調書の内容であるが、そもそも、右検面調書は、「大地の牙」二人説によって構成され、「関西グループ」等の第三者の役割が隠蔽されているだけに、被告人の各事件での役割は明らかに誇張されている。   しかしながら、その検面調書においてすら、斎藤の優位性は優にこれを認めることができる。この点に関し、いくつかの例を挙げれば、次のとおりである。   乙三号証において「私は東アジア反日武装戦線の考え方、目的というのがよくわかりません」とあること。   乙五号証において、「韓産研に目標を設定したのは斎藤君で、私は斎藤君からその相談を受けて爆破することを承知しました。」とあること。   乙六号証において、「爆破の対象を韓産研に設定することを提唱したものが反日武装戦線の仲間の狼であるかは判りません。つまり斎藤君が高沢君等仲間のものと会議をもってその席で決定されたものか、斎藤君本人が種々勉強して自ら提唱するものに至ったものか、私には判らない」「思想的には私よりも深い考えを持つ斎藤君や高沢君等がいかなる考えのもとに韓産研に狙いをつけたのかはよく判りません」「私は薬品の知識は余りないのでよく判りません」などとあること。   乙七号証において、「韓産研と同様、オリエンタルメタルを爆破することについても斎藤君は、高沢君等と連絡なり会議を持っていると思います。その提唱者は誰であるかは知りませんが、私は斎藤君からこの爆破の話を受けて賛同したのです」「容器、薬品、爆発の効果といった面に関する知識は、斎藤君がどういう勉強をしたのか知りませんが、私よりは深く、私は斎藤君からの聞きかじりで覚えていったのです」とあること。   乙九号証において「大成建設爆破攻撃の提唱者は斎藤君です。同会社の実態調査も斎藤君が担当しました。私は斎藤君から大成建設に攻撃目標を設定した理由を聞き(中略)賛同しました。」とあること。   乙一二号証において、「(連絡員を被告人が担当したのは)斎藤君は表に出ないほうがよいということと、もう少し世間の風に当たって勉強しろという斎藤君の意図があったと思います。ところが連絡員としての私には決定権限がなく、折角高沢君と会っていても色々判らない点が多く、私自身こんなことでは駄目ではないかと思えてきたし、高沢君もいらいらしてきたのか、斎藤君と交代したほうがよくないかという示唆もあって」とあること。   乙一三号証において、「間組を攻撃目標に設定した動機についてはよく判りません」とあること。   乙一四号証において、「三井物産を攻撃目標に設定した動機についてはいまだ考えのまとまらないこともあるので後日お話しします。」とあること。   以上のとおり、被告人は、検面調書においても、各企業を攻撃した動機の説明を殆どすべてなしえず、対象企業の選択設定には関与していないこと、爆弾の知識が斎藤に劣ること、連絡員をしてはいたが、要領を得ず、決定権限もない為に後に斎藤に連絡員を交代したことが明らかになっている。   要するに、これら記載から既に、斎藤の主導性は明らかである。   供述調書をもってしても、「大地の牙」を実質的に動かしていたのが斎藤であることは明らかである。 5 小括   以上のとおり、被告人の公判供述によれば、被告人が「大地の牙」に参加した動機は斎藤との関係が決定的なものであり、それなしに今日の被告人はありえない。また、各事件においても被告人の役割は斎藤のそれを下回ることが明白である。更に、被告人の検面調書を前提としても、斎藤の優位性は動かしがたい事実である。   よって、被告人と斎藤の関係を「車の両輪」とした検察官の論告は、当公判で明らかにされた新事実に目をつむるものであって失当であり、また、検面調書のみを前提としても誇張を含むものであることが明らかである。 三 被告人らの反省の情 1 検察官の主張   本件の情状の評価において、今ひとつ重要なことは、被告人の反省の情を如何に考察するかである。   この点に関し、検察官は、統一公判において、被告人が謝罪の意思を述べなかったこと、被害者、企業に対し、慰謝の措置を講じていないこと、再開後の公判における謝罪は「上辺」のものでしかないこと等を指摘して、被告人には反省の情がないというのである(論告一一三頁以下)。   しかしながら、被告人の本件被害者に対する謝罪の念は逮捕前から一貫したものとして存在していたのである。 2 供述調書における謝罪   この点に関し、被告人の検面調書における関連部分は次のとおりである。   乙三号証において「今回の一連の爆弾事件については、その目的が何であったにしろ、一般の方々に危害を与えたことは正しくなかったと考えており、ことに遺族の方々には申し訳ない気持ちで反省しております。」とあること。   乙五号証において、「まず私共の行為によって何ら関係のない一般市民にまで被害を与えてしまったことについて非常に申し訳なかったとお詫びしておきたいと思います」とあること。   乙九号証において「結果的にはこの爆破は失敗でした。全く関係のない下請労働者を傷つけたからです。」とあること。   乙一〇号証において「怪我した下請労働者のなかには、かなりの重傷を負ったおじいちゃんもいることを知り、斎藤君と二人でこれらの方達にはなんらかの形で謝罪するか見舞い品を送ろうという相談も出た」とあること。   乙一四号証において「総括については後に話しますが、少なくとも怪我人を出したことは失敗でした。特に同会社に何の関係もない出入りのラーメン屋さんを巻き添えにしてしまった事を知ってしんどい思いをしました。」とあること。   以上のとおり、被告人は、逮捕前から謝罪の意思をもっており、捜査段階でこれを供述しているのである。 3 統一公判における態度の評価   検察官が指摘しているとおり、被告人は、かつての統一公判においては、積極的に謝罪の意思を表明していたわけではない。しかしながら、このことは、被告人に謝罪の意思がなかった為ではないのである。   この点に関し、益永利明証人は、次のとおり証言した(一二月二日証人尋問)。   「謝罪したいという気持ちはずっとあったんですけれども、また、実際に被告人尋問とか意見陳述の中で謝罪の気持ちを述べているんですけれども、当時の私は、裁判所や検察官、つまり、国家権力は敵であるという考え方をどうしても捨てることができなくて、権力の前で、どうしても、完全に自分の誤りを認めるということはできなかったわけです。」   右益永証言は、当時の統一公判被告団のおかれた状況をよく示すものである。更に付言すれば、当時の被告団は、裁判所の訴訟指揮や東京拘置所の処遇とも厳しく対立する関係にあったのであり、その点も、積極的な謝罪表明を困難にさせていたのである。   この点、荒井まり子証人においては、「結局、一審のころは、統一公判を求めるとか、裁判期日の問題とか、そういう手続的なことで、裁判所との攻防みたいなものが主になってしまって、ほとんどこちらの主張、思いを語るとか、そういうことが出来なかったんですね。だからちょっと今、振り返ってみると、結局、一審のときの報道、裁判くらいしか注目されませんから、そのときの荒れた法廷みたいなもので、そのままイメージが固定されてしまったと思うんですよ。」と述べると頃からも明らかである。   すなわち、統一公判において裁判所の面前で謝罪の表明を積極的にしなかったからといって、実際にも被告人らに謝罪の意思が失われていたわけではないのである。 4 再開後の公判での供述   被告人は、九五年一一月二八日に実施された本件公判更新手続きの際の意見陳述において、「一九七四年ー一九七五年に私達の担った海外進出企業爆破闘争によって負傷され、あるいはかけがえない生命を失われた方々、その後遺族の方々に対して、心からの謝罪を伝えたい」と述べ、謝罪の意思を改めて明確に明らかにしたのである。   ちなみに、右公判直後の事前準備手続きにおいて、当時の裁判長であった三上英明裁判長は、検察官や弁護人らに対し、「被告人も変わった。かつては、聞く立場の人のことを考えずに自分の言いたいことばかりを言っていたようだが、今日の陳述はそうではなかった。」と述べたのがまぎれもない事実である。   また、謝罪の意思表明をしたのは、被告人だけではなく、大道寺将司、益永利明もそれぞれの証人尋問の際、それぞれの立場から謝罪の意思表示を行っている。   更に被告人は、被告人質問(一〇三回)において、弁護人から事件の負傷者が健在であると聞かされ、うれしかったこと、生きていてくれたことを感謝したいということ、彼らの理不尽な苦しみに対し、許されるならば直接会って謝罪したいこと、被害弁償は無資力ゆえに困難であるが、将来外に出る機会があれば、犯罪被害者救済等の活動をしたいと述べている。   検察官がいうように、被告人が具体的慰謝の措置を講じ切れていないのは、「反日武装戦線の目的の正当性を主張していることと連動」(一一四頁)しているゆえではないのである。 5 小括   以上に見たとおり、被告人の謝罪の意思は一貫しており、一点の曇りすらないものである。よって、検察官のいうようにこれが「上辺だけ」のものであるなどとは到底認められず、右被告人の謝罪の意思は正しく量刑上評価されるべきである。  四 本件を取り巻く状況の変化    本件においては、企業爆破の事件発生から既に二七年を経過  している。この時間の経過、それに伴う状況の変化を如何に評  価すべきなのか、この点もまた、本件量刑を決する上では極め  て重要である。 1 時代状況の変化   検察官の論告は、爆破事件における一般予防の見地を強調し、次のように述べている。   すなわち、「本件犯行当時、手製爆弾は、暴力革命を標榜し、爆弾闘争を呼号する過激派の武器となり、周知のとおり、警察等の権力機構や企業等を攻撃目標とした爆弾事件が跡を絶たない状況にあった」とし、よって、この種事犯の発生を防止する為には厳罰をもって処する必要があるというのである。   確かに、本件事件当時の時代状況が、凡そ検察官の主張のとおりであったことは、肯定されてよい。この点は、宇賀神証言(九五回)において、「あの時代状況ではそういうふうな、まあ多分連合赤軍がというあの事件で、あの時点までは多分武装闘争までは広範に評価していた人たちが多かったと思います。またそういう意味では、だれしもがある程度武装闘争に対しては支持というか、そういう気持ちは持っていたと思うんですね。」と証言されたことからも明らかである。   しかしながら、そういう時代であったからこそ、飛び抜けた活動暦を持っていたわけではない被告人や宇賀神らが、本件事件に関与する可能性が与えられたとも言えるのである。当時の誰もが、誰もが被告人のようになっておかしくない時代だったとも言えるのである。   しかしながら、既に時代は大きく変わったというべきである。   そもそも、検察官のいう「爆弾闘争」を呼号する「過激派」が現在、我が国において、どの程度存在し、かつ、「爆弾事件」をどれだけ起こしているというのであろうか。   これら事件が当時に比べ明らかに減少していることは周知の事実である。実を言えば、日本の新左翼勢力自体が、目に見えて衰退しており、それゆえにこそ、彼らが新たな運動の方向を模索しつつあることは、後述する「日本赤軍」の解散という事態からも明確に現れているというべきである。   よって、現在は、検察官の主張するような爆弾闘争の時代ではなく、一般予防の必要性は、かつてに比すれば大きく低下しているはずである。   なお、検察官は、「昨今の続発する世界各地のテロ行為」にも言及しているが、これらテロ行為の実行主体と被告人らの間には何ら関連性が認められないのであるから、検察官の主張には理由がない。 2 被告人らの変化   変わったのは、時代だけではなく、被告人らもまた変わったというべきである。   検察官は、論告において、被告人の悪い情状を指摘する際、しばしば、統一公判における被告人の言動を例示している。しかしながら、再開後の公判における被告人の言動については特に何も指摘されてはいないのである。実はこのこと自体が、時間の経過による被告人の態度の変化を如実に示すものに他ならない。   再開後の公判において、被告人らがかつてのように武装闘争の継続を公判廷にて呼びかけることもなくなれば、「獄中兵士」と名乗り、裁判所の訴訟指揮と対立して退廷になったことも再開後は一度としてなかったのである。   再開後の公判において、例えば死刑確定者の証人尋問実施方法をめぐり、被告人と裁判所の考え方の違いは存したが、被告人としては、あくまでも現行法の範囲内で争いぬいた次第である。   従って、被告人の立場に「現在においても基本的に変化はない」(論告一一八頁)などという検察官の指摘は根本的に誤りというよりは意図的な虚言である。   被告人は、再開後の公判において、被害者への謝罪の意志を始めて法廷で明らかにし、武装闘争についても基本的には否定的な姿勢でいることが明らかである。また、前述のとおり、裁判を受ける姿勢自体が、現行法上のルールに基づいた争い方となっており、この点が、統一公判の時点と大きく異なる点であるといってよい。   同様の点は、多少のニュアンスの差があるとはいえ、大道寺将司、益永利明、宇賀神寿一、荒井まり子らにおいても等しく認められるものである。   さらに、被告人がかつて所属していた「東アジア反日武装戦線」は、被告人らの一斉逮捕によって、組織としては、崩壊を遂げた。そしてその際、「大地の牙」の代表者である斎藤は自殺を遂げ、かつての「狼」の関係者であった藤沢義美、荒井なほ子はいずれも自殺を遂げている。「さそり」の黒川の友人であった船本洲治もまた自殺を遂げた。こうして「東アジア反日武装戦線」は複数の者の自殺を含めて壊滅し、現在、その組織は存在していない。   また、被告人がその後に所属した「日本赤軍」もまた、少なくともここ数年は武闘路線から召還していたと考えられ、相次ぐメンバーの逮捕により、遂に解散声明を発している。よって、「日本赤軍」自体も現在は存在しない。   このように、現時点は、被告人は、かつてその行動の拠り所とした組織がいずれも存在しない状況になっているのである。   こうした事情を見るとき、被告人に「再犯のおそれ」があるなどという検察官の主張は全く現実感を感じさせることののない虚言というべきでものある。検察官は、被告人が「偽造旅券を行使した事実一つを見ても、違法な生活に身を置いていたことが合理的に推認できる」(論告一一五頁)など と主張している。言うところの、「違法な生活」とは何であるのか、判然としないが、被告人が超法規的釈放後、武装闘争に関与した事実やルーマニア国において違法な行動をしたという事実は一切認められない。よって、検察官のいう「合理的推認」には根拠がない。   以上に見た被告人や被告人を取り巻く環境の変化は、その量刑を決する上で正確に考慮されなければならない。 3 被害感情の変化   時間の経過は、被害感情にも影響を与えるものである。   結論からいえば、二七年も経過してしまうと、被害感情は一般的には低下するのである。   勿論、証人の中には、未だに厳重処罰を求める者も存在すると考えられる。しかし、そうした者ばかりではないはずである。   この点につき、特に印象的なのは、三井物産事件における被害者井内義高証人の証言(四五回)である。すなわち、同証人は、明らかに事前に検察官との証人テストを経ていたにもかかわらず、犯人に対する被害感情を問われるや、「まあ、年数と時間がたっておりますので・・・」としか証言しなかったのである。同証人の証言は、時間の経過に伴う被害感情の低下した事実をそのままストレートに証言したものである。決して検察官のいうように「明確な心情を吐露しない」というものではないのである。   また、本件の場合、「大地の牙」の代表者である斎藤自身が事件直後に自殺してしまっており、この事実が被害感情に与えた微妙な影響も存在すると考えられる。   なお、検察官は、間組九階事件の被害者である沼田行弘の供述を引き合いに出し、被害感情の大なることを強調しているが(論告一〇二頁)、被告人は、間組九階においては、殺人未遂に問われているわけではないのであり、同人のかつての被害感情を被告人の量刑上考慮することは適切ではない。 4 小括   このように、本件においては、時代背景、被告人の心境、かつての被告人の仲間の心境、被告人の所属していた組織、被害感情がいずれも事件直後から見れば大きく変化している。期間が経過したのみならず、各種の状況自体が変わってしまったのである。   この大きな変化を、量刑上如何に評価すべきであるのか。   この点に関し、検察官は、「犯行後、長い歳月を経過したことを量刑上、ことさら、被告人に有利に考慮すべきでないことは当然である」(九二頁)と主張している。検察官の主張を聞けば、変化したのは期間の経過だけであり、それ以外の状況は何も変わっていないかのごとくである。   しかしながら、本件公判の中で変化したものは、単に期間の経過だけではなく、前述のとおり、時代背景、被告人らの心境、被告人の所属組織等もまた変化しているのだから、これら変化を含め、量刑上の判断がなされるべきである。   時代状況が変わり、被告人がかつての闘争に反省を深め、その所属組織が現に存在しなくなった事実は、いずれも、被告人に対し、重刑を科す必要性が全く存在しなくなっていることを意味しているのである。   よって、これらの要素は、被告人に有利な情状として最大限考慮されるべきである。  五 情状証人の証言において現れた被告人の人間性   最後に、被告人の情状を判断するに際しては、被告人の人間性をも評価の対象とし、これを決するのでなければならない。   当裁判所においては、関係各証拠において現れた被告人の人間性を真摯に検討し、これと格闘すべき義務がある。   刑事裁判とは、畢竟、裁判官や検察官、弁護人、そして被告人ら裁判関係各人の世界観、人間観を巡る熾烈な争いだと言っても過言ではないからである。   弁護人は、各情状証人の証言等を元に、被告人の人間性を、本法廷において、最大限表現すべく、努力をしてきたものであるが、その一端を示せば、次のとおりである。 1 大道寺将司の証言   同証人は、九九年五月一〇日に実施された期日外尋問において、被告人との初対面の感想として、「まあ、非常に率直な人だとは思いましたけど、武装闘争とか、自分が運動やってきて、初っぱなにそういうふうに言われたことというのは経験がなかったものですからね、まあ、ちょっと困ったなあというのが率直なところで」等と証言し、同月二四日に実施された期日外尋問においては、三者会談を終えた上で残った被告人の印象として、「非常に率直な人だと思いましたね。率直で、心根が優しいと言いますかね、非常にピュアな人だと思いました」と簡潔に被告人の人柄を評価したうえ、被告人と斎藤との活動家としての能力の相違を証言したのである。   また、今後の被告人に対しては、「一日も早く出獄して・・・、息子さんとあんまり一緒に生活したことがなかったようですから、何とか息子さんとの生活をしてもらいたいなと。で、そのために、健康に留意して、これからの獄中生活というものをがんばって元気で生き抜いてもらいたいと考えています」と証言している。 2 益永利明の証言   同証人においては、九九年一二月二日に実施された期日外尋問において、かつての自己の行為に関する反省を述べたうえ、被告人が、武装闘争に不向きな理由として、「本人を前にして言いにくいこともあるんですけれども、(中略)彼女は、人を傷つけるような行動をして、平気でいられるような人ではないということ、(中略)彼女のような直情径行の人が、そういう、どろどろとした権力闘争を勝ち抜けるのかという疑問が強くあるわけです。(中略)非合法闘争をやる為には、それなりの技術といいますか、才能といいますか、そういうものが強く要求されると思います。どうもそういう才能は彼女にはないだろう」と証言した。   また、今後の被告人に対しては、「一つは、息子さんのことが非常に気になるわけです。(中略)これから長い獄中生活で、彼女が母親としての責任をどれだけ果たせるのかなという点で、非常に不安があります。ですから、彼女が犯した違法行為については、きちんと責任をとって、罪を償って、一日も早く社会復帰の為に努力して欲しい」等と証言している。 3 吉村和江の証言   同証人の証言によれば、被告人のキャラクターとして、「外見はすごく明るいんですけれども、すごくずっと考えているといいますか、そういうことがありました。内面はすごくナイーブだと思います。」「人に対してすごく優しい、例えば、老人、それから子供、それから女性に対してすごく優しいです。それからよく働くというか(中略)いつもよく働いてくれました。悪いところというのは、(中略)目の前のことにやはりがっといってしまうと、そういうところかなというふうに思います。」「彼女の人柄からしたら、やっぱり福祉に向いているかなと思ったりします」等と証言したうえ、被告人の出産時やその直後の苦労や被告人の長男の現況についても証言をした。   なお、被告人が「福祉に向いている」という点は、荒井まり子証言や次に見る大島証言においても同趣旨である。 4 大島啓司の証言   若き日の被告人を知る大島証人によれば、当時、被告人は、「チンペイ」と呼ばれ、証人の子供の「おつむを取り替えなんかもしてくれたこともあるんじゃないかと思います。非常に小まめに世話をしていただいたというふうに記憶しています」「今の言葉で言う、ボランティア(中略)に入っていったらすごく生き生きとやるタイプ棚というふうに思ったことはありますね。(中略)人を助けたりとか、そういうことですね。」と述べている。 5 浴田良子の証言   被告人の母である同証人は、被告人が山村に生まれ、幼い頃には親の仕事をよく手伝い、被告人逮捕の家庭で家族が受けた苦痛、ダッカ事件において被告人が日本を離れた際の無念さ、帰国した際の喜び、出来ることであれば、最後親子の暮らしをしたいとの心情を語ったのである。 6 小括ー被告人の人間性について   これら各人の証言は、一見、それぞれが勝手に自己の「浴田像」を述べているように見えて、実は、的確に被告人の真の姿を捉えているというべきである。   すなわち、各情状証言やこれまで指摘してきた関係各証拠によって明らかになったのは、いわゆる武装闘争や革命家に適格性を有するかについてはともかく、基本的に弱者の側に身を置き、それに対する抑圧や不正に反発し、自己を犠牲としてでも、弱者への「人助け」に役立ちたいと考え、抑圧者と闘おうとしてきた一貫した被告人の基本的視点である。   こうした被告人の基本的視点は、冒頭においても述べたとおり、被告人が「東アジア反日武装戦線」に参加した一大背景をなすことが明らかであるし、被告人が今後の活動として犯罪被害者救済のために自分が出来ることをしたい、と述べる点にも現れている。   被告人らは、連続企業爆破事件の過程で、確かに、罪もない一般市民を傷つける結果を生じさせたのであり、その実践は誤りとされても仕方のないことなのかもしれないが、被告人らの基本的視点、あるいはその人間像からして、そうした自己の誤りを今日もなお是認するなどということはありえないことである。   すなわち、右に見た被告人の基本的視点からして、被告人の謝罪が「上辺だけ」などという検察官の主張の誤りは既に明らかなものである。   検察官は、被告人の立場に「基本的変化はない」と述べるが、冒頭あるいは本項において弁護人が指摘した点に限定して言えば、その指摘は正しく、被告人の人間性は一貫して変わらないというべきである。但し、そのことは被告人の「再犯のおそれ」とは全く無縁なのであるが。 六 結 語   弁護人は、当裁判所が、被告人に対して、いかなる判決を下そうとも、右に見た被告人の基本的な立場には、何らのぶれもないことを確信している。   しかしながら、だからこそ、当裁判所においては、被告人の人間性を正当に評価したうえで、本事件の判決に至るべきことを願ってやまないものである。   こうした被告人の人間性を何ら踏まえず、「治安の論理」のみに身を置き、二〇数年間の状況の変化を全く見ない検察官の論告は否定されるべきである。                                 以 上