最終意見陳述 一、  六年余にも渡る長い裁判をやれて良かったと、今私は思っています。一部検察立証がつくされていないのではないかと思う点はありますが、特に東アジア反日武装戦線の闘争に関わる部分については、ていねいな審理を進めて下さった裁判所、弁護団、証人としてこの裁判に参加・協力して下さった方々、長い裁判を傍聴・監視し、いっしょに総括を進めようとして下さった方々に感謝します。ありがとうございました。 1.95年秋、裁判を始めるにあたって私は、いったい20年も昔の話を今になってどう問えるのだ、どんな裁判が可能なのだろうかと不安でした。20年間したくてできなかった死傷させてしまった方々への私達の思いを公然と表明できる、総括を伝えられる機会なのだという以上ではなかったかもしれません。同時に、6年半前の私は、死傷させてしまった方々に対して、どうすれば私達の謝罪と反省を伝えられるのか、何が求められているのかが本当のところわかってはいませんでした。20年間、とにかく、何故私達はあのような誤りを犯してしまったのか、その根拠をつきとめ、自分達を変えること、二度と再び、誰れも同じ誤りを犯させないために可能なことをすること、それが彼らへの謝罪と責任・総括実践の第一歩なのだと考えて生きてきました。  裁判が始まって、弁護人から順に差し入れられた証拠資料を手にして初めて私は、負傷させてしまった方々の「被害調書」を読むことができました。それは彼ら自身によって書かれたものではなく取り調べ官の言葉によって書かれたものでしたが、いわゆる「被害者」という立場に追いやってしまった人々への私の想いの一面性・浅さを思い知らせてくれるものでした。負傷の日から数日、あるいは数ヶ月以内に作られたはずの調書の中で、彼らの多くが一様に「もうだいじょうぶです。仕事に復帰できました。仕事にはたいした差しつかえはありません。」という主旨のことを強調されていることでした。ケガがひどい人ほど、役職にあるひとほどそれは強調されているように読みとれました。  「犯人がにくい、1日も早く捕まえて極刑にしてくれ。痛い。苦しい。不自由になった体や壊れた健康や生活の不安をどうしてくれるのだ」という言葉よりも数倍、私には、私達の行為の意味を糾弾されることでした。『可能になったら、是非「犯罪被害者」にされてしまった人々を少しでも支え、寄りそえるような活動をしたい』と考えるようになった根拠の1つは、こうした私自身の誤りと不十分によって負傷させてしまった人々の言葉であり、姿でした。  何故彼らは「痛い、苦しい、不自由だ、仕事なぞできなくなってしまった」と言わないで、こう言ってしまうのか? 三井闘争で大ケガをさせてしまった警察官の橋本さん、藤井さん、田中さん、井内さんや三井社員の青木さん、松田さんのように官僚機構や大企業という競争社会の中に働く方にとっては、例えそれが、職務中の、全く理不尽な他者の行為によって強いられた負傷であっても、そうさせた者達を糾弾し、責め、体の不自由や苦しみと不安を訴えることよりも、同僚や上司の目を気にし、遅れも弱さも見せない為に、「だいじょうぶです。」とまず言わなければならない。そんな人々の苦悩を私はどれだけ想像しえたろうかと、ガクゼンとしました。痛いとか苦しいとか言うことさえもできない。弱さや不安を見せたら、それがどんな理由であれ切りすてられ、スミに追いやられてしまう社会の中で、傷ついた自分をいたわることさえもできないままに彼らは生きておられたのです。本当につらく、苦しく、理不尽な、孤独な日々であったろうと思います。  三井闘争のあと、何人ものケガ人を出してしまって「あの人達はどうなるの?」と取り乱す私に対して仲間達は、「大ケガをした人達は警察官と三井の社員だから、ちゃんと労災も下りるし、保険も下りるから心配しなくていい」と知らせてくれました。痛いだろう、苦しいだろう、不自由だろう、後遺症が残るのではないか、とは思えても、傷がいえてもいないのに同僚や上司に対して「仕事にさしつかえはありません」と言わなければならない社会への想像力は私にはありませんでした。  大成の時はちがいました。仲間達は大ケガをさせた川田さんと堀さんの会社や入院先を調べてきて「会社は家族経営に毛のはえたような所だ。スモックのオバチャンが事務をして、取材にも対応している。あれじゃあ労災も健保も取れないかもしれない」と心配していました。私達はやめて大ケガの川田さんと堀さんにだけでもおわびとお見舞を届けたい。ケガの回復に役立ててもらえるように少しずつでも送金できないかと考え、声明文も1回出してしまったけど、ケガ人を出したことは本意ではなかったことと謝罪の意志を伝えるために手紙を新聞社か本人に送るべきではないかと考えて調査と若干の準備をしました。  しかし結局、当時の私達には、それを実行する勇気も、謙虚さもありませんでした。けっしてできないことではなかったと当時も今も思います。謝罪文を送ったりお見舞を送ることで、川田さんたちの傷がいえ、苦しみがやわらぐことはないでしょうが、彼らの痛みや苦しみを私達は共にする意志を持ちつつ誤りを犯した者であることを自他に伝えることはできたはずです。  「そんなのは、勝手な自己満足でしかない。革命の実現を目指す者は、その途上での1つ1つの誤りに立ち止まり、自らの足場を危険にさらし、闘いの前途を妨げるのではなく、誤りや失敗を教訓にして、二度と同じ誤りを繰り返さないこと、闘いを前進させることこそが真に彼らの犠牲を意義あるものにし、むくいる仕方なのだ」と自分達に言い聞かせました。何というご都合主義の、自己満足の、ゴーマンな論理であったかと今はわかります。当時の私達に欠けていたのは、革命の事業総体の中での「被害者一般」や、誤りを犯した「闘争主体一般」として川田さん達や私達があるのではなく、具体的に生身の感情を持ち、生活をかかえ、夢も誇りも…持って人生を生きているそういう1人1人の事情をかかえた人間の問題なのだという視点だったと思います。そしてそれは、私達が、この国の政府や歴史的な侵略企業に対して、戦争責任を問い、歴史的な抑圧と搾取への謝罪と補償・責任の明確化を求めて闘争に立ち上がった、その同じ責任と謝罪の必要を、私達自身が、同様に問われ、死傷させた人々に対して果たすことなしには、闘争の主張そのものが説得力を持ちえないという、自覚でした。  77年10月、ダッカで乗り込んだハイジャック機の中で出会った一人のおじさんのことを忘れることができません。私がハイジャック機に入った時は、まだ釈放される予定の大勢の女性達が前の方に座っていました。その分ほとんどの乗客は被奪還者と交替で機外に出て、機には2〜30人の「人質」にされた男性が残っていました。飛行機はそのまま、丸1日近く空港に止めおかれましたが、灼熱の空港でエアコンの止まった機内は、空気のよどんだムシブロのようでした。そんな時、闘争主体の1人に「具合の悪くなったお年よりがいるので介抱してあげてくれますか」とたのまれました。その方は客室ではなく、ドアを開けたままの搭乗口の床にすわりこんでおられました。60代中頃の長い顔の白髪の男性でした。症状を聞いて水をのんでもらったりしたあと、床にマットをしいて横になっていただいて私は彼の足や体をマッサージしていました。少し楽になるとポツリポツリと話し始めました。始め彼は私をスチュワーデスか乗客の看護婦と思われたらしくて、「女の人はみんな降りたのじゃあなかったのか、どうしてあなたは降ろしてもらえなかったのか、この次は降ろしてもらいなさい」と言われました。「私は日本の監獄から釈放されて、先ほど降ろされた人達と交替にこの飛行機に乗り込んできた者です」と言っても信じられないようでした。  彼は、「戦争の最中に日本につれてこられて、戦後はただただ子供達を育てるために働きづめに働いて、国籍まで変えてしまった。今ようやく息子達を学校も出させて、会社を長男にゆずって、初めてのヨーロッパ旅行に行ってきたのだ。この年になって、この私がどうしてこんな目に会わなければならないのかわからない。」と、彼自身の人生と運命とを静かに話して下さいました。そうして私には、「どんな事情で監獄に入って赤軍によばれたのか知らないが、彼らについて行っちゃあいけない。彼ら若者の言うこともわかるけど、あなたはついていっちゃあいけない。私といっしょに日本に帰ろう。あなたがやさしい、いい娘であることを私が日本の警察や政府に話してあげる。こんな娘がハイジャックの人達について行っちゃあいけない」と私の手をにぎり、涙を流しながらおっしゃいました。  全ての人々が尊び合って、共に、平和に生きられる社会を実現する為に闘いに参加し、その闘争のさ中で「この年になって、何故私がこんな目に会うのかわからない」と私の手をとって、私の生命と運命を気づかって下さった方は、日本の侵略と植民地支配・戦争の犠牲者であり、今なお日本という国からは何の謝罪も補償もされないままに、必死で生きてこられた在日韓国人の方でした。  今私は、私達の闘争によって負傷させてしまった1人1人の方に、家族を奪ってしまったご遺族の1人1人に、もし彼らが会ってやろうと言って下さるなら、是非お会いしたいと切実に思っています。そうして、彼らのこの年月の思いの全てを、1つ1つの人生に強いてしまった理不尽とご苦労の全てをまず聞くことから、私が何をしなければならないのかを、どう生きるべきかを、学び見い出すことが必要なのだと思っています  証人として法廷で話して下さった田中さんは、「斎藤はりっぱに責任をとった。被告人もしっかりと責任をとって欲しい」と言って下さいました。独善や、思い込みや、清算主義や、ご都合主義ではない、かわる何かを生産しうるような、そんな責任のとり方、生き方をしていきたいと思っています。 2.検察官論告要旨について  1月11日の検察官論告求刑を聞いて、正直とてもガッカリしました。「全く反省はしていない。強固で狂信的な革命思想であるから……終生刑務所に入れておけ、無期懲役だ」という、いささか誤解にもとづいたきびしい求刑で、「これじゃあ、これからもうひとふんばり、何とか人の役に立つ仕事をしたいものだとか経験や学習したことを生かせるような生き方をしたい、というのぞみが果たせそうにないなあ」というのもその1つです。しかし、それ以上に残念なのは、何といっても論告要旨が、この6年余の公判審理を無視するかのような、この間の検証内容とはおよそ整合しない矛盾に満ちたつじつまの合わない話や、20年余も昔の脈絡のない「事実」の部分引用によって構成されていることです。  95年の公判開始以来、この法定の全構成員の努力と協力の中で私達は、それなりにていねいな事実審理を進めてきました。私自身も、70年代の公判の中では、けっして明らかにする勇気も条件もなかったであろう事実を含めて「供述」してきました。東アジア反日武装戦線闘争のできるだけの真実を開示することがある日突然に、理由もわからずに生活を破壊され、健康を奪われ、生命までも奪われた方々に対して、今20余年ののちにこの裁判を担う者の責任であり、二度と誰れにも同じ誤りをくり返させないためにも、事実にそった教訓を人々に伝えていくことが役割だろうと考えたからです。  ていねいな審理は、けっして裁判所と弁護団によってのみなされたのではなく、検察官もその重要な一部を担ってこられました。多くの検察側証人は、ご高齢なのに、あるいは病気をかかえてこの場に来て下さり、記憶が薄れて当然な四半世紀も昔のことについて、いっしょうけんめいに思い出して、可能な限りていねいな証言をして下さいました。にも関わらず、何故検察官の論告要旨がこんなに乱暴な話になってしまったのか、この6年余の皆の努力はいったい何だったのかと残念でなりません。  被告人に関わる多くの引用は、そのほとんどが四半世紀も昔に、別の検察官の言葉で書かれた「供述調書」や、70年代のまだ実質審理に入っていない統一公判でのできごとです。本人尋問開始以前の内容については、新倉検事自身は自分の目と耳で聞いていない、交替引きつぎも十分ではなかったということかもしれませんが、少なくとも、ご自身も直接尋問を担当し、あるいは目の前で聞いた「供述」について、何故自分が感じたことを無視して何十年も前の他人の作文や報告書のみを採用されているのか。理解ができないというより、この6年間の公判廷は検察官にとって何だったのかといかりを覚えます。  もう一点、検察官論告要旨のアンフェアな姿勢に抗議します。検察官は、論告要旨で被告人の罪の大きさを語るにあたって、「亡斎藤と車の両輌」のようで「被告人の役割は、誠に重要で、被告人なくしては実現不可能と思えるほどに必要不可欠な役割を果たし…」「斎藤よりも被告人のほうが遥かに積極的かつ用意周到であり、実行行為のほぼ全てを自ら実践したのである」等々と事実と違うことをくり返した上で「被告人は、斎藤と対等、否むしろ被告人の方が積極的かつ周到で極めて重要・不可欠な行為を行なっていたことは明白である」とまで断定されています。検察官はもし仮に、今でも斎藤さんが生きていて、あるいはいっしょに裁判をしていても、なおこのような論告を書くのでしょうか。  私達は、取り切れない責任をとる仕方を見い出しえないままに自らの生命を差し出すことでそれに替えようとカプセルを用意しました。当時私達が確信してやまなかった武装闘争継続の必要性、そして、革命途上で犯した誤りの責任とその総括実践とは、新しい社会の実現に向けて闘いを続けること、同じ誤りはくり返さないことだ。そしてそれが被逮捕等で担えなくなった時は、生きのびよう、自身の生命や名誉をいたわろうとするのではなく、自分の役割は終わったと考えて、死傷者への責任をとるために自死すること。これがカプセルを持った私達の暗黙の了解事項でした。そうして斎藤さんは、被逮捕直後の75年5月10日自らカプセルをのんで自死しました。自ら死ぬことによって未完のままに放棄せざるをえない革命への想いと、責任とを果たそうとしたのだと思っています。私には、それができませんでした。何度も何度も失敗しました。  浴田がかつてどんなに悪い奴だったか、どれだけの悪いことをしたのか、検察官が言葉をつくして強調されるのは自由です。しかし、彼自身がもはや反論も弁論もできないことを知りつつ、それを利用する形で、革命の途上で自死した同士の革命性や情熱や勇気や努力を軽視し、はずかしめるような比較論法を許すことはできません。何故検察官は、斎藤さんとの比較において彼の役割を否定しながらしか、浴田について語ろうとしないのでしょうか。私は本人尋問の中でも、私自身が何をどう考え、何をしたのかを正直に話したつもりです。十分ではないでしょうか。自ら直接尋問もし、被告人が何をしたのかしなかったのか具体的に知りつつなお、他の者と比較し、第三者をはずかしめながらする検察官の論告姿勢を強く抗議します。  斎藤さんは、実践的にも、人格的にも、政治思想的にも、すぐれた革命家であり活動家でした。私達の指導的同志であり、私の夫でもありました。斎藤さんに出会い、彼を尊敬し、「いっしょに革命の為に力をつくそう」とさそわれ、導かれることがなかったら、けっして今の私はありえませんでした。彼も、私達も、皆が力をつくして革命の前進のために生き闘ったのです。  連続企業爆破闘争裁判再開の法・手続き的根拠は、今も検察官によって立証されてはいません。「始めに無期求刑ありき」という検察官の論告内容が、多くの公判審理にもとづかない、為にする矛盾に満ちたものであることについては、すでに弁護人の弁論で具体的にのべられました。  あらためて裁判所に対して、予断や偏見、政治圧力に屈することなく、あくまで裁判所の独立を守り、法手続きと立証された事実に基づいて、公平で、中立な立場での判断を行なわれることを強く求めます。 二、  検察官は論告の中で、「終生の無期」という刑法にはない重刑を求める根拠として「被告人の革命思想は、強固・狂信的で…」とのべていました。しかしいったい、この国のいかなる法が「革命思想」やその「強固さ」を量刑の根拠にしうるのでしょうか。いったいどのような「革命思想」が問題にされているのかは不明ですが、私が「今の社会は変えないといけない。全ての人々が人として尊び合って、分かち合って、共に生きることのできる社会を作りたい。そのために自分もできることで役に立ちたい」という思いを、どのように形成し、担おうとしてきたのかを、話したいと思います。  昨年まで私も、1人のメンバーとして、その立場・観点に立って、路線・政策を実現することを役割としてきた日本赤軍は解散しました。今私は、この国と世界の変革の為に、自由に、自分に似合った仕方で、可能な役割をはたしうる立場にあります。いずれにしてもそれは、検察官の言われる「強固で狂信的な」という言葉とは無縁な、人間が人間としてあたりまえに生きてゆける社会を実現するための、人間でありたいが故の試行錯誤と学習・自己変革の過程です。 1.私が子供の頃、年上のいとこや近所の子供達は、我が家のことを「取られ百姓」と呼んでいました。敗戦直後の農地改革で田畑の大半を失なったからです。そんな百姓家に私は「50年ぶりに生まれた赤子」として、子供好きの祖父母や大伯母達、近所の人々にかわいがられて育ちました。  私が物心ついた頃、父が勤め人なのに、家には現金がありませんでした。たった百円の学給費を借り歩く母の姿を、子供心になさけない思いで見ていました。又、ご近所はみんな専業農家なのに家では父が勤め人なので男手がありませんでした。近所のおじさん達が力仕事を手伝って下さるのですが、子供心に気がねで、申し訳なく、「早く大きくなって、一人前に母や祖母を助けたい」と思っていました。  それでも百姓家ですから、ひもじい思いをしたことも、ご近所に比べて特に貧乏だと思ったことも、貧乏がつらいと思ったこともありませんでした。ただ都会と田舎のくらしの違いや、きつい仕事をいっぱいやる人や、大勢子供がいて、お金がいっぱい必要な人が、必ずしもいっぱいお金をもらえるわけじゃあない世の中のしくみは、おかしいなあと思っていました。  中学生になってから、当時家にお金がなかったのは、先祖代々の借金だの、お家を建て替えた借金だのを父は、山や田を売るのではなく、自分の給料で返していたからなのだとわかりました。ある時父は、家族全員を仏壇の前に集めて、「今日でお家の借金が全部終わった。みんなようがまんをして、助け合ってくれてじゃった。今日からは父様や母様が働いたお金は、全部家の者の為に使えるようになった。子供らあは、しっかりお勉強をしてなら高等学校へ入れてあげられる。ばあさまにも、これからは少し楽をさせてあげよう。」と宣言しました。この頃から母の土方仕事も中止になり、我が家ではこの年初めて家庭電化製品の洗濯機を買いました。テレビや、冷蔵庫も順に家へやってきました。  少し前から始まった高度経済成長は、ゆっくりではあれ、地方の山村の人々をも「お金持ち」にしてゆきました。戦争のない、民主主義の社会で、いっしょうけんめい働けば、誰れでもそこそこに生活を向上させることができることを、私達は実感できた世代であったろうと思います。  お年よりが好きで、本が好きで、学校が好きで、1人前に家事や百姓仕事を手伝えることが大自慢で、仲のいい友達といつもいっしょに「市の尾の笑いきちがい」とか「マンザイコンビ」とか言われながら、「大きくなったら、渋木の人が病気になっても、手遅れで死ななくていいようにしたい」と願っていました。  子供の頃、私の人や社会に対する考え方の基本にあったのは、渋木の人々のおだやかな人情や共同性・豊かな自然と共に、お人よしすぎるほどに人をいとおしむ家族、特に祖母の影響が大きかったと思います。子供好きで、人の世話を良くする彼女は、友達や知人が大勢いてよく行ったり来たりしていました。どこへでも私や妹を連れ歩いていたので、私達も自然に人好きで、人を恐れない、ちょっと耳年寄な子供に育ちました。子供達に接する彼女の口ぐせはいつも「子供は、どの子もみんな世界の宝。お勉強の上手な子もおって、お針の上手な子もおって、力持ちも、ケンカ上手も、やさしいばっかりの子も、人それぞれに。どの子もみんなその子のええところをのばしてやって、それで人の役に立つ子にしてやってがええ。かしこい、勉強のできる子ばっかりじゃあ、世の中が立ち行くまあでね」というものでした。  先生のいない6年生の教室で、私達は、どの子もみんな自分の「得意」を生かして、みんながみんなの先生になって、数ヶ月間の勉強を進めました。そうして私達は、みんなが大事、いろいろな人がいて、ようやくクラスも、社会もなりたつことを実体験しました。  中学三年の時の作文と、それをめぐる経験について話したいと思います。(この作文を恩師と旧友達が捜してくれましたが、みつかりません)作文の題名はたしか「真実に生きたい願い」というようなものでした。ある時、ちょっとむつかしい数学の宿題が出ました。当時クラスはグループ学習をやっていて、登校すると何人かの人たちが「いろいろやってみたけど解けなかった」と聞きに来ました。私達は教え合ったり、いっしょに考えたりしながら、それそれに問題に取り組みましたが、何人かの人たちは時間までに解くことができませんでした。その一方で他のグループでは、けっして勉強が苦手な人達じゃあないのに誰れかのノートを丸写しにしている人達もいました。しかし、そこまでは、中学の教室では日常的にあることです。私も忙しくて宿題をやれなかった時やわからなくって友達の答えを丸写しにして「やったふり」をしたことは何度もありました。  問題は、先生がみえて「昨日の宿題を出せ」と言われたあとで起こりました。先生は、やれていない人を前に並ばせて「こんな問題が解けなくてどうする、やる気があるのか。まじめにやれ!!」としかりました。これはおかしい。何かがまちがっていると私は思いました。前に立たされている人達も、宿題を認められて座っている私達もお互いの顔を正視することができません。にも関わらず、この時私を含めて36人のクラスメーロのだれ1人「先生それは違います!」とは言いませんでした。いっしょうけんめい問題を解いた子も、がんばったのに解けなかった子も、まるでやる気のなかった子も、人の答えを写してごまかした子も、たった一行の「正解」書いてあるか否かだけで評されて、それを黙って受け入れたのです。  私は、立たされてしまった人たちにやり方をではなく、まず答えを教えるべきだったのだろうか、彼女達ががんばっても解けないような教え方しかできない自分が、「がんばったのに解けなかった子の正義」を守れないままに、「やれたいい子」の側に黙って座っているべきじゃあないのではないか、と悩みました。人のノートを丸写しにした子は、がんばった子は、どう考えているのだろう。でもこう思う私は、「自分は不正はしていない」という側から丸写しにした人達をせめる気になっているのではないか………36人と先生の教室は、誰れもがこれは真実を評するものではないと知りつつ、黙って受け流しました。  後日私は、そのことを作文にしました。やってみたけど解けなかった子が「わからない」と言えて、時間がなくて取り組めなかった子が「今日はやらなかった」と素直に言えて、それを認め合える関係にしたい。とりつくろい合って違う自分で人と認め合うのではなく、努力が形にならないことがあってもいい、力が足りないことがあってもいい、目に見える結果だけじゃあなくありのままに認め合い、そこに至る過程を尊重し合って、信じ合い、皆が裸の自分でい合えるような、とりつくろいやごまかしをしなくても理解し合えるようなそんな人と人との関係や信頼を作り合おう。ありのままに、真実に生きてゆける社会を私達は作っていきたいというような結論でした。  この作文を私は、地区弁論大会で発表することになりました。ところが、この時職員室では、「オッチョコチョイの浴田に学校代表はつとまらない」という先生方と「この機械に浴田にも人前で何かをするような経験をさせた方がいい」という先生方が対立していました。もちろん私は、はずかしいから出たくはないのですが、参加派の先生方に説得され、同級生や後輩にはげまされてゆれ動いていました。その時反対派の先生の1人は私を呼んで「こういう事を人前で公言してはいけない。公言すると一生その責任をとる生き方をしなければいけなくなる。浴田君の考えは全く正しいけど、人生はそういうもんじゃあない。人間は正しくてもそうできない時もある。一生自分を縛ることになるからやめた方がいい」と言われました。当時の私には先生のおっしゃることの意味がわからなくて、「自分の教育姿勢を批判されてるようでいやなのかな」と友達と話したりしました。  結局私は、この作文で地区弁論大会に参加しましたが、長い間そのことを忘れていました。思い出したのは、何故私は革命運動に参加したのか、どういう社会に生きてゆきたいと考えて育ったのだろうかと自分を振り返った時でした。誰れもが在りのままに、尊び合って信じ合って生きられる社会にしたかったのです。そして、「一生責任を問われる人生になる」とおっしゃった先生の助言も、今はよく理解できます。そうしてなお、私は「真実に生き合える社会の実現」を目指し続けたい。 2、青年の頃  私は早くから予防医学の分野に進みたかったので、北里大学進学を希望していましたが、家族の経済状態は「地方の公立大なら可能だけで都会の私立理科系はむづかしい」というものでした。他の大学にしてくれという父を祖母が「私の受け取っている遺族年金を月々の生活費に仕送りしよう」と説得し、高校の先生は、「育英会の奨学金をもらえるようにするから」と言って下さり、鎌倉の知人は「家であづかろう」と言って下さったり大勢の人々に、経済的にも精神的にも助けられて、ようやく北里への進学が可能になりました。  私達が大学に入学した69年春は、いわゆる学園闘争や、若者達の反戦平和を求める運動がピークの時代だったと思います。新聞やテレビは、毎日のように反安保、ヴェトナム反戦、沖縄返還や三里塚等々の闘争のニュースを大きく報導し、労働組合や反公害等の地域住民の運動が各地で取り組まれていました。  アルバイト先では、デモにも集会にも行ったことのない大学生というので、とてもめづらしがられたりしました。  ある時、あづけられていた家での新聞の「赤軍派幹部万引で逮捕」という記事を見ながら、「どうしてこんなことをするのでしょう。この人達は革命家じゃあないのかしら」と聞いて、「そんなことは知らなくっていいでしょうが!!」といきなり新聞を取り上げられたことがありました。当時の私は、革命を目指して闘争や運動に参加する人達は、すぐれた人格者で、正義の実践者なのだというイメージを持っていたように思います。しかし、何故そう考えるようになったのかは、良く分かりません。当時、党組織に参加していた尊敬する友人に「どうして私をオルグしないの?」と聞いた時、「あなたに政治がわかるとは思わない」とか、「入党するには学習課題があって理論学習をつんで試験もあるんだよ」と言われたことも、党組織の活動家は、私達とは違うすぐれた人々という私のイメージを強くしていたかもしれません。  自分自身がそうした運動や組織に参加し、行動できるとは全く考えていませんでしたが、私も、差別や貧困のない、平和で対等な社会が作られなければいけないと考えて、その為に闘う人々や政党を支持するとう立場でした。選挙になれば共産党や社会党に投票し、ヴェトナム反戦や三里塚のカンパや署名を求められれば可能な協力をしました。  学生時代の私の思いは、政治よりも人間の生き方として、社会変革を担う人々、自分がどう生きるのかにより大きな関心があったように思います。当時本屋さんに山積みになっていた「元始女性は太陽であった」や「ゲバラ日記」を読んで感動したのもそうした視点からだったと思います。  一方で、大学解体を叫びながら、勉強はしないで「学生」を続け卒業近くなると何もなかったかのようにバリバリの大学生に戻って一流企業への就職を捜す大学生や、言ってることと、やってることが大ちがいな活動家には「インチキじゃあないか」という思いも持っていました。当時の私は、自分も含めて大学生が大学出という特権にあぐらをかいて既成社会の中で自分の出世や経済的利害だけを追求する生き方をするとしたら、そんな特権やエリート意識は放棄するべきだけれど、せっかく高等教育を受けて、社会の指導的な役割を担える能力と機会を与えられたのだから、それを生かして、将来はその専門知識や能力を持って社会を変革し、人の役に立てる仕事をすればいいのじゃあないか、ゲバ棒持って「首相官邸占拠」とかいうよりも、しっかり勉強して革命的なエリートになって、省庁も国会も、首相官邸も、革命派でうめたらいい、その方がよっぽど現実的で可能なのではないかと思いました。当時の学園には、それが可能なだけの「革命派」がいたと思うのですが…。  私自身も、検査技師という私業を通じて社会に役立ちたいと考えて、「海外青年協力隊(日本赤十字)」の講習に通ったり、僻地医療や公害研究会の会に参加したりしました。三越診療所に入社したのも、当時年1回の無医村巡回検診をしていたからでしたが、私達の入社の年から、経済的理由で中止になったのは残念でした。  斎藤さんやテック闘争の友人達との出合いは、全くの偶然でした。71年暮れに、当時手伝っていた救援の会合の帰り道で「僕らの事務所に寄ってかない」と声をかけられて、誰が、何をする事務所なのかも知らないでついて行きました。当初は「テック闘争」と言われても、労働者が不当に会社をクビにされて、という以上の認識はなくって支援しているいろいろなセクトの違いも理解はできませんでした。ただいろいろな人がいて皆が楽しみながら運動をやっていたり、仲間同士の関係がとても気持が良かったり、下宿が近かったりで、何となく出入りしているうちに親しくなって、たのまれれば電話番やビラまきを手伝うようになりました。  72年夏に事務所が解散してしばらくたった頃です。斎藤さん達がやってきて、「叛旗も戦旗もオルグにこなかったなら、私達といっしょにやりましょう」と言われてただ、楽しい青年達とまたつき合えることがうれしくて「うん」と言いました。この時いったい、何をいっしょにやるという話だったのか、彼らはいったいどういう人達だと言ったのか、誰と誰が仲間なのか、今話の中身を全く思い出せません。そうして斎藤さんや大島さん達との運動を介さない家族ぐるみのつき合いを開始しました。  私が、大島さんや斎藤さん達がかつてヴェトナム反戦運動の一環として日特金闘争といのを闘った同志なのだと知ったのは、75年に逮捕されて、取り調べ刑事の話からでした。彼らは私にそのような話を全くしてくれなかったし、私自身も当時は、活動家に過去の活動歴や思想傾向を聞くのは失礼でルール違反だと思っていました。しかし、雑誌や日常の共同の中での、社会の現実や人々に対する彼らのするどい視点ややさしさに私は多くのことを学んだように思います。  72年秋、韓国への旅行は、それまで日本の歴史や日本とアジアの関係に全く関心のなかった私に、私自身も、この国の歴史的な、あるいは現在的な誤った在り様を構成している1人であり、その責任を有する者だと自覚し始める契機になりました。  戦争中に従軍慰安婦にされて韓国の社会の中で過去をかくしてひっそりと生きている婦人達や、今現在も、日本からやってくる男達の性のドレイであることを強いられているキーセンの女性達の存在は、「日本」「人」がこの国の人々に対して行っている事は、昔も今も変わっていない。より安い、より安易な性ドレイとして韓国、アジアの女性達を、日本の男はいたぶり続け、彼女達の犠牲の上に、日本の女性達は、純血な女として娘として母として、ウーマンリブを叫びながら生きることを保障されているのです。韓国政府の政策や、経済状態や日本の一部の男達の犯罪性や、女の自覚以前に、何か根本的に解決すべき問題があるように思えました。  仁川の丘の上で会ったおじさん達の「何故日本人は、戦争で大勢の人を殺した天皇を今も大事にして生かしているのか」という言葉は、戦争や侵略の責任は、戦争を阻止しえなかった侵略に加担した大人達だけにあるのではなく、今現在、そのことの後しまつをしようとしない、そうして何の反省もないままに同じ誤りをくり返している私達、今の日本を構成する一人一人にあるのだと気付かせてくれました。   沖縄での経験、楊さんやロペスさんとの出合いの中で学んだとも、この国がかつて犯したアジア人民への抑圧と摂取.侵略の反省と責任は何ひとつ解決されていない。70年代の日本で今まさに享受している平和で豊かな暮らしとは、奪われ、破壊されたまま放り出されたこうしたアジアの人々の犠牲の上になり立っているのだ。私達は今なお、侵略と戦争の延長上で彼らを摂取、抑圧しつづけているのだと自覚せざるをえませんでした。ロペスさんは、日本軍属の孤児でした。とっても上手にアイロンをかけながら、「私は戦争でお父さんが死んだから、こんなにアイロンかけが上手になった。日本のおかげだよ」と冗談を言っていました。フィリピンに留学中、学費を作る為にクリーニング屋で働き続けたのだそうです。私は、祖母が受け取る遺族年金をそのまま学費に援助してもらって大学に行きました。日本人の元軍人は十分ではなかったにしても遺族年金や軍人恩給という形で補償される体制があったのに、ミクロネシア人や台湾人というだけで、日本のために徴兵されて戦死した人々に何の保障もしないことは、二重、三重に他国、他民族を差別し、摂取.抑圧をくり返すことです。何故日本政府は1人1人のアジア人軍属に、せめて日本人戦死者と同じ年金を支払おうとしないのか、彼らは日本に銃を向けたのではない「日本と日本の天皇を守る」為に戦わされた人々です。  今、戦后保障問題は、大勢の人々によってとり組まれ、あたり前に語られるようになっていますが、70年代、ロペスさんや楊さんの問題提起は、人々にとっても特異な話のように受けとられました。その傾向は、いわゆる左翼や国際主義派のインテリに強かったように思います。ロペスさんの話を聞いた私の回りの人々、職場の同僚や大屋さん、ご近所の人達はみんなとっても協力的で、お金や衣類をカンパして下さったり、食事や旅行やお芝居にロペスさんをさそったりして下さいました。当時はまだ人々の中に、今以上に戦争への反省が実感としてあったし、アジア各国の犠牲者は、直接的な謝罪と解決が問われ、それが可能であったはずです。  しかし、町の人々が、理解し、可能な協力をしてくれようとすることに反比例するかのように役所の人々は、ロペスさん達の訴えを無視しようとしました。「日本の人はみんなとってもやさしい。ロペスの話を聞いて、“それはおきのどく”と言うけど、そのあとで役所の人は決まって“私ではいかんともしがたい”と言って“別の役所に行きなさい”と言う。みんなの問題を解決するのが役所じゃあないのかねぇ」と言っていま した。  当時の私には、この国は尋常な手段によっては、戦争や侵略を解決するつもりのない、責任をのがれることだけを考えている国のように思えました。そうして私達は、これ以上のアジア近隣諸国人民への抑圧や摂取に加担する者であるわけにはいきませんでした。 3.「ハラハラ時計」から三菱爆破闘争の頃  『日帝は、36年間に及ぶ朝鮮の侵略、植民地支配を始めて、台湾、中国大陸、東南アジア等も侵略、支配し、「国内」植民地として、アイヌモシリ、沖縄を同化、吸収してきた。われわれはその日本帝国主義者の子孫であり、敗戦後開始された日帝の新植民地主義侵略、支配を、許容・黙認し、旧日本帝国主義者の官僚群・資本家共を再び生き返らせた帝国主義本国人である。これは厳然たる事実であり、すべての問題はこの確認より始められなければならない。』  『ヴェトナム革命戦争の挫折と、われわれの関係においても、……ヴェトナム革命戦争の挫折によって批判されるべきは、まずわれわれ自身である。われわれに課せられているのは、日帝を打倒する闘いを開始することである。……』  といった「ハラハラ時計」の基調は、始めての韓国へ行って以来、私自身が、考えていたことを的確に表現するもののように思えました。「これは多分、斎藤さん達が書いたのだろう」と思いました。もし彼らがこういう立場で反日帝の武装闘争を始めるのなら、私も何か彼らの闘いを支援しようと思いました。彼らが取ろうろしている手段が「武装闘争」であることに対する違和感は、危険で、むつかしい自己犠牲的な役割を担おうとしているという以上ではありませんでした。逆にそれ故、ただ傍観ではなく、支えないといけないと思いました。斎藤さんは、それまで「カンパしよう」と言っても「今はいいです」と言って受けとらない人でしたから、まずカンパをしようと思いまし た。  革命運動における武装闘争の必要性や是非について、特に学習したり、自らの問題として考えたことはありませんでしたが、中国革命やロシア革命の歴史、キューバやアルジェリア、ヴェトナム等の民族独立のニュース等から、革命や、民族の独立というのは、武装闘争を必要とし、被抑圧人民は武装闘争によって、自らの人権や独立を防衛する権利があるものなのだと思っていました。日本においても、60年代後半以降の、学生を中心とした新左翼運動の中では、時と共に強化される機動隊の装備と暴力に対して、人民の権力を奪取する為の武装闘争の必要が声高に語られ、ゲバ棒から火炎ビン・パイプ爆弾や銃へと、その武装力をエスカレートする傾向にありました。  72年春、連合赤軍の同志粛清が明らかになった時、それまで武装闘争の重要性や必然性をくり返し主張していた評論家や左翼文化人・セクトの多くが、突然、連赤問題の根拠を武装闘争や革命闘争そのものに求め、それを否定する論調に変わりました。私は、同志を粛清する人々を革命家と認めることも、別荘に人質をとってただたてこもることを革命の為の武装闘争だとも思えませんでしたが、それ以上にこうした人々の反応は理解ができませんでした。昨日まで「支持だ」「必要だ」と言ってきたことを、どうしてそう簡単にくつがえせるのでしょうか。武装闘争路線が同志を殺したのでも、革命闘争が同志を殺すのではないはずです。もしそうなら、他国の革命が、勝利したはずがないじゃあないか。同志を殺す思想の人々が、武器を持っていた、正しく使わなかったことが問題なのだと思いました。何故、多くの評論家やセクトの人々達は、そのことを指摘して、多少の違いはあっても総体としては仲間であるはずの連赤の人々の誤りを正しながら革命運動を進めていこうとしないのだろうか、これでは、味方の誤りを、革命運動から身を引く口実にして、「産湯を流すのに赤子まで流す」ものだと思いました。  しかし、当時の私には、「ハラハラ時計」に書かれているような『退路を断った闘い』『市民としての自己を否定するような闘い』を自分自身が担わなければならないとも、担えるとも思えませんでした。あくまでそれは、進んだ、すぐれた「革命家」によって担われるはずだと考えていました。  誰でも、どこでも、生活の場や職業領域から、現在の社会の変革や改良を目指す類の取り組みを、いわゆる「革命の事業」なのだとは考えていませんでした。党や都市ゲリラグループに参加して「革命」をやる人と自分達の間には、あくまでも明確な、のりこえなければならない知識や経験や、思想の壁があるのだと思っていました。  しかし私は、そうして闘う人々に対して、その闘いの支持者として自分に可能な仕方で彼らの闘いを支援することは、少なくとも人々を抑圧し、搾取し、差別する側に立つことを拒否したい市民にとっては、当然の、かつ可能な行為なのだとも考えていました。今から考えると革命の事業と生活や職業領域での変革を区別して考えること、何か特別のことのように考え、特別な人々によってしか担えない事業と考えること事態が、革命の事業を観念化し、現実の人々の生活と結びつきえない、今を具体的に変革しえないものにしていった根拠であったと思います。  「ハラハラ時計」自体も、『日帝本国の労働者市民は植民地人民と日常不断に敵対する帝国主義者・侵略者である。』と規定し、それ故に『われわれに課せられているのは日帝を打倒する闘いを開始することである』と言いながら、『法的にも、市民社会からも許容される“闘い”ではなく、法と市民からはみ出す闘い=非合法の闘いを武装闘争として実体化することである。自らの逃避口=安全弁を残すことなく、体を張って自らの反革命におとしまえをつけることである』という表現に見られるように、誰でも、どんなことからでも、可能な方法で参加することを拒むものとしての「革命家の役割」を提示していました。それは、特殊に東アジア反日武装戦線が、日帝本国人としての自己否定を訴え、武装闘争を手段とする組織であったからということではなく、日本共産党を含む当時の多くの左翼革命組織が同様に、人々に通用しない言葉を多用し、足元の日常の問題を軽視して革命を云々する在り方の中で革命や革命家を特殊化する傾向を持っていたのではないでしょうか。そうした革命観・革命家観がエリート意識の裏返しとして人々を革命運動から遠ざけると同時に、連合赤軍のように個の資質を問い、総括という名の自己変革を絶対的要件として同志をも死なせてしまう誤りの根拠となったのだと思います。誰でも、どんなささやかな事からでも、「今この現実を変え合う今のあなたの在りようが、明日の社会の基なのだ」という未来社会形成の主人公としての確信を共有し合えるなら、「退路を断つ」決意、主義や、個人の「共産主義化」を条件とすることなく、もっとみんなして、社会を変えることができたのではなかったかと思います。  「ハラハラ時計」が提起した『日帝本国人の歴史的・現在的反革命性の克服と、帝国主義本国人としての責務の自覚』は、今も、そして将来も、私達の課題であり、全ての人が、人種や、国境や宗教や習慣や…の違いをこえて共に平和に生きていくための基本です。しかしそれは、自らを含む日本人総体を否定することによってではなく、この国と、今様々に矛盾をかかえて生きる全ての者達の社会をどう変えていくのかというジンテーゼとして提起され、担われなければなりませんでした。今は人々に広く使われている「反日思想」という言葉も、1人1人の人間の生き方、倫理的な立場としては説得力をもちえても、それ自体が新しい社会を作り出していく方策として具体性を持ちえるものではありません。当時の私達は、今を否定してどういう社会を、誰と共にどう作っていくのか、という展望と戦略を持ちえてはいませんでした。 4.三菱爆破闘争から「大地の牙」結成の頃  三菱重工爆破闘争と大勢の死傷者の発生を知った時私は、自分に関係のある問題として考えることは、全くありませんでした。いったい誰らが、何の為にあんなことをするのか、左翼の人達だとしたら、全くまちがっているし、多分作戦に失敗して途中で爆発させてしまったのにちがいないと思っていました。  しかし、斎藤さんに会って、「あの作戦をやった人達は、私達と近い考えの人達かも知れない。三菱が歴史的に侵略企業だからねらわれたのだろう。ターゲットとしては正しいけど、作戦は失敗したのだと思う。作戦をした人達も何人かは死傷しているかもしれない。彼らのグループは、もう二度と闘争をやれない位のダメージを受けて、責任を感じて自殺するかも知れない」と言われて始めて、自分はどうするのか、と考えるようになりました。私は、「何もしていない」が故に、誤りを犯していない側に身を置いて、「こんな闘争で人々を死傷させた」人達をただ避難していました。それは、中学の時、がんばったのに問題が解けなかった友達が罰せられるのを黙って見すごした私自身や、連赤のあとで、「同志を殺した連赤」を避難するだけで、本来仲間であった自分達が連赤がそこまで追いつめられ、誤りを犯さないために、何をしたのか、しなかったのかを不問にした「左翼」と同じ姿のように思えました。  斎藤さんとの何回もの討議の中で、誰れかがこの失敗をした闘争の目的を正しく継承するような闘いを担うことによって、死傷した人々の犠牲を意味のあるものにしないといけない。又、闘争を担った人達がまだ生きているなら、失敗を認めて、誤りを克服して闘い続けるように、彼らの誤りや不十分をのりこえる闘争という「事実行為で」批判し、共闘していくことが、責任をひきうけて共に革命を目指そうとする者には、必要なのだと思えるようになりました。(今回の公判で、将司さんや利明さんの証言を聞いて、私は始めてこの当時(74年9月)すでに、三菱重工は狼グループ、すなわち、当時つき合っていた「もっちゃんのグループ」の仕事だと知っていたことを知りました。何故斎藤さんがそのように私に言ってくれなかったのか、今も分かりません。当時は、未知の人々のことと考えていました。)  しかし、当時の私達の「革命を目指す者としての責任の共有」「闘いの目的の継承」という立場は、あくまで武装闘争という手段を疑わないこと、武闘を前提にして、闘争の形態を踏襲することが三菱爆破の「正当性を継承」することであると固定的に考えてしまったのではないかと思います。その后に出された「居直り声明文」の問題を含めて、私達には、闘争の客観的な姿は、主体の意図を表現しうるものではなかった、そのま逆なのだという現実をすなおに認めて、手段そのものをもとらえ返すことが問われていました。  三菱爆破闘争に対するとらえ方を話し、斎藤さんたちがこれからどう自分達の闘いに取り組もうとしているのかを聞く中で、革命の前進や、抑圧された人々の解放に対する斎藤さんの情熱や誠意、そして闘争に失敗して人を死なせてしまった未知の同志達への責任や愛情に、私はとても心をうたれました。こんなに人を愛し、革命の為にいっしょうけんめいに生きようとしている人を愛せないで、「生涯いっしょに生きよう」というさそいに応えないで、いったいどういう人を愛せるのか、と思うようになりました。この誠実で、献身的で、革命と人々へかぎりない愛情と情熱を持って生きている青年を生涯支え続ける人になろうと決意して私達は結婚しました。この頃の斎藤さんは、「今はまず、誰かが状況を切り開かなければなりません。」「30才になったら、私は第一線を引退させてもらって、子供達の教育分野の仕事をしたい」と言っていました。  彼らのグループが「生命をはぐくむ、生命の源である大地の、自然な生有を阻害する者達への怒りを表現して“大地の牙”と名のることにしたと報告してくれた時の斎藤さんは、「私もなかなかの詩人でしょう」と誇らしそうでした。ああ、彼らは、本当に、生命を破壊するような闘争をしないのだな、と何かホッとしたのを覚えています。 5.三井闘争から、  時間があるから、という理由で、三井物産館入口の調査を手伝った時の印象は、「部外者が入るのはとってもむつかしい。彼らのようにサラリーマン風でもない人は目立つだろう。」というものでした。斎藤さんに「誰が入るの?」と聞いたのは、そのためでした。「たぶん私になるでしょう」と言われて即座に「それはいけない!!」と思いました。何か作戦の成功を考えてというよりも、大事な人に危険な仕事をさせる訳にはゆかない。つかまるおそれのある所へは行かせたくないという本能的な思いだったのかもしれません。彼らが、しっかり調査した上でなお斎藤さんを候補にしているのは、他の人はもっと向かないのだろうと理解できました。斎藤さんにこの危険を犯させる訳にはいきません。他の人もダメなら、何とか、私が代行できないかと考えました。明確な困難や危険が目の前にあって、誰れかがそれをやらなければ前へは進めない時、人間は愛する者にその危険を犯させるよりも、自身でそれを解決しようとする方が数倍気楽なものです。私は必死で、どういう方法で可能だと言えば私を担当として認めてくれるかを考えました。彼らよりも数倍確実で、絶対大じょうぶな方法で提起しないかぎり認められないことは、はっきりしています。  結果として、私が担当になりましたが、「女が担当」と決める前に作成にとりかかったのであろう爆弾を、女性が自然に持てる大きさと重さに調整する余裕はなかったのでしょう。私が受け取った爆弾は囲りをコンクリで固めて、数倍の重さになっていました。そのため私はよろけながら運びましたが、もっと早くに担当が決まっていれば「女性用」にできたはずです。  三井闘争を終わってもまだ私は、自分が“大地の牙”の本隊メンバーとは思っていませんでした。他のグループともレポをたのまれた時も「白い人」である私が、カンパの仕事であるレポを手伝うのは、自然なことだと思いました。「むつかしい討議はしなくてもいい。毎回伝言メモを用意します」と言われて私は、映画に出てくるような暗闇や雑踏の中で、すれちがいざまに無言でメモを交換するスパイのイメージでこの仕事をひき受けました。  しかし、そんな甘い仕事でないとわかったのは、第1回目の将司さんとの会合の時です。彼はいきなり「三菱闘争をやったのは自分達だ。あれはまちがっていた。反省している…」と詳細にその理由を説明し始めました。そして三井闘争の細部や総括について聞いてきました。多いにあせった私は、そんなつもりじゃあないことの言いのがれに「イヤ、私は経験のない初心者で…やれるでしょうか?」と言ってしまいました。  一方で私は、あくまで職業人・普通の生活者としての生活を大切にしていました。全ての貯金をアジト設営にカンパしてしまって、私には自分の生活を将来にわたって維持するお金がありませんでした。11月に入って仲間達も皆職についたから、生活費カンパは必要なくなりましたが、私は支援者として、お給料とは別の方法でグループへのカンパを作る必要がありました。妊娠はますますその必要を大きくしました。秋になって実験(北里での研究プログラム)も軌道にのっていました。仕事を続けながら子供を生んで、育てながら仕事を続けよう。ただ、自分と子供の生活費は、彼らにたよらないで何とかしたいし、出来れば彼らにいくらかのカンパをまわせるようにしたいと考えていました。私の頭の中は、子供を生んで育てる生活と彼らの闘争支援をどう両立させるかでいっぱいでした。  しかし、妊娠、出産はうまくゆきませんでした。流産のあと、私は自分の気持ちの整理として体調の維持にせいいっぱいで、彼らが大成闘争の準備について急に何も言ってくれなくなったことさえも、気付けませんでした。  大成建設爆破闘争の結果は、職場のテレビニュースで知ったと思いますが、それは、爆破の時間も、爆弾の位置も、私が聞いていたのと全く違っているようでした。大ぜいのケガ人も出ていました。私は最終計画は聞いていなかったので、「いったい何をやったんだ!!」と言うのが率直な思いでした。  その日斎藤さんは、口もきけないほどに落ちこんでいて、やつぎばやな私の質問に「どうしてこんなことになったのかわからない。こんなに早く避難解除するとは思わなかった」というようなことだけを言いました。斎藤さんはこの日、明日の将司君との会合の為の伝言メモを持ってくることになっていましたが、それも用意していませんでした。日頃きちょうめんな斎藤さんが、約束の仕事もやれないほどに苦しんでいるのを見て、ようやく私は、何も手伝わなかったのに、せめようとしている自分に気付きました。  后日、斎藤さんが話してくれたことをつなぎ合わせてわかったことは、人や車の通る近くに置いてしまったので、何かの拍子に爆弾が刺激されて爆発されることがあったらたいへんだと気持があせって、早目に予告電話をして、人ばらいをしてもらおうとした。しかし、そのために、予定時刻よりも前に避難解除にされてしまって大勢のケガ人を出すことになったということです。何故聞いていたのと違う所に置いたのか、何故違う時間に爆発したのかについては、今も私にはわかりません。  私達は、負傷させてしまった人々への謝罪とお見舞いのために、何かをするべきだと考えて、その方法を話し合い、調整しました。しかし、結局、当時の私達には、公然と自分達の誤りを認め、思いを具体的な行動にする勇気も、行動力もありませんでした。そのことが後に『死んで責任をとるしかない』という、カプセルを持つ思想になってしまったと思っています。死んで責任はとれないのです。  この作戦のあとで私は、今までのような中途半端な関わり方では本当の意味で彼らを支えることにも、責任を共にすることにもならないと気付きました。将司さんとのレポの役目がはたせなくて「交替してほしい」と言われたこともそうでしたし、自分の好きな仕事を続けながら、子供も育てながら、闘争も支えたいという望みがいかに非現実的であるかを思い知らされました。何かを切りすてて、自分自身の生活を整理することが問われました。仲間の1人は、斎藤さんのことを心配する私に対して、「彼は心配ない。今は落ちこんでいるようでも、自分で総括して立ち直れる人だから放っておいてもいい。あなたは精神的にも肉体的にも弱っている。こういう活動はむかないから、一度田舎に帰って少し静養してきなさい。やりたい仕事をやめるべきじゃあない。」と言いました。しかし私は、結婚したのに、闘争に失敗して食事もとれないほどに落ち込んでいる人を置いて田舎に帰って静養するという発想にはなれませんでした。逆に仕事も変わって、今は彼らに同伴することを第一に考えよう。そうしてもっと主体的に関わろうと考えました。  狼グループからのカプセル提供の話を、斎藤さんに「あなたはいらないでしょう」と言われたにも関わらず、何も言わずに、自分の分も取り寄せたのは、『これまでの私とは違う。あなたと同じ責任を持てる革命の担い手になるのだ』という無言の意志表示だったと思っています。  2月からは、同居したこともあって、私はそれまでほとんど共同できなかった調査活動や、以前は週1回しかやれなかった斎藤さんとの「学習会」により多くの時間を使うことができるようになりました。グループの何人かが夜の仕事についていたこともあって、夜間の活動を必要とした大宮工場のはりつき調査はその大半を私が担当することになりました。  一連の企業爆破闘争を狙っている間、私自身は職場や、学友以外の友人と交流できませんでしたが、仲間達は、他の領域で活動している人達の東アジア反日武装戦線への批判や、意見を聞いてきて知らせてくれました。  そうした中に、鹿島建設爆破闘争直后に、当時鹿島関連の工事現場で下層の労働者と共に労働運動を担っていた人達が疑われたり、解雇されたりして、現場での労働運動そのものが弾圧されてつぶされてしまったという話もありました。私達には、私達の担う武装闘争という分野の闘いを、どう他の領域で、他の方法で担われている闘いと結びつけ、援護し、共闘しうるものにしていくのかが問われてきました。  韓産研爆破闘争に至ってははじめて、三菱以降目指してきた一人のケガ人も出さないで、現在進行形の海外侵略を阻止する闘い方ができました。しかし同じ頃、直接的・具体的な海外侵略を阻止する仕方が今のような、企業爆破闘争(武装闘争)でいいのかを問われてもいました。  町で偶然に再会したゼミの先輩は、「今も何もしていないなら、私達の運動に協力して下さい」といって、公害企業に対する彼らのとりくみを説明してくれました。それは、公害企業の移転や閉鎖を求めてる地域住民の運動、それを支持する労働組合の運動、そして、企業が公害規制のゆるやかな韓国(転出しようとすることに対して、公害輸出反対の日韓連帯運動として、広範な市民運動者によって担われていました。私達がもし、この企業をターゲットに闘争を行ったら、まず最初に疑われ弾圧を受けるのは、彼らの運動であり、住民達も労働組合も、連帯運動も『過激派の爆弾闘争とつながっている』というフレームアップのもとにつぶされることがはっきり予測できました。爆弾闘争では、彼らの闘いを支援することも共闘することも出来ないで、逆につぶされてしまうのです。  私達は、直接的・具体的に日帝中枢に打撃を与える闘い方が必要なのだ。だれかが、状況を切り開かなければならないと考えていました。しかし、他の様々な仕方で担われる運動との関係で考える時、はたして武装闘争はどういう役割としてあるのか、総体としての革命の事業どの位置を担っているのか、問い返す契機になりましたが、私達はその討議をつくしえないままに逮捕されてしまいました。  后日、狼前身部隊による北大資料館爆破等、爆破闘争の直后にはアイヌ解放運動を担っていた人々が警察によって弾圧を受け、運動そのものに被害を与えたことも知ることができました。  当時の私達は、つもりはそうでなくても、自分達が「退路を断って」困難な前衛的な闘いを担っていることを是とし、あるいは武装闘争のもつ影響力の大きさを、そのまま、革命前進の力であり、自分達の正当性の証であるかのように錯覚して、人々の闘いに、全体、階級闘争総体をどう底上げしうるような闘いをしていくのかという視点が十分ではなかったと思います。そのために、多くの労働運動や地域住民運動・連帯運動を担う人々に対する弾圧に口実を与えました。※より全体状況の中で、求められる闘いの形態によって、互いに支え合いひき受け合える条件を作り合いながら進む立場が必要でした。 ※当時私は、東アジア反日武装戦線の役割は、この国の革命全体の一部でしかない、と考えていました。しかし役割が一部であることは、責任が一部であることを意味しません。 6.被逮捕・第一次統一公判  逮捕直後に菊屋橋署で、裸にされて鏡をまたがされたり、フロ場で頭から水をかぶせられたりしたことを、検察官の論告では、「通常の検査をことさらねじまげて云々」と書かれていました。検察官は、いつもああいう逮捕手続きをさせているのでしょうか。水びたしの髪の毛で、サイズの合わないありあわせの服を重ね着させられて、後ろから頭を押さえられている逮捕写真をいつもごらんになっているのでしょうか。逮捕写真の異様さが、当日被告人が受けた処置の異常さの証拠そのものです。少なくとも、95年に逮捕された時私はあのようなはずかしめも、虐待も受けてはいません。  『逮捕されたらカプセルを使う。日帝国家権力の手の中でのいかなる自己主張も延命もしない』これが、カプセルを持った私達の暗黙の了解事項でした。  しかし、私は、自分自身が毎日首にブラ下げているカプセルを具体的にどういう状況の中で、どういう手順で使うことになるのかと想像したことはありませんでした。フトンの回りを取り囲んでいる人々に気付いた時、私は、とっさにカプセルを首にかけ、そうして、それを口にするタイミングを見つける前に取り上げられてしまいました。それからの私は、ただカプセル以外の方法で「日帝国家権力の手の中で、いかなる自己主張も延命もしない。役割を終わった者として自死する」チャンスだけを必死で探し続けていました。  取り調べが始まっても、黙秘するのは、当たり前で、それ自体は当初、むつかしいことには思えませんでした。精神的、肉体的苦痛は日ごとに強化されました。私はズタズタでしたが、判断力を失うまいとしていました。しかし自死の手段はなかなか見つかりませんでした。ハンストを続けていましただ、だんだん気力もおとろえてきて、強制的補給にも抵抗できなくなるように思えました。気力と意識をしっかり持っていないと自死さえもできないのです。  斎藤さんが亡くなったことを知らされても、「そうか」と思って、自分も役割を果たさなければいけないと考えただけでした。(調べ官たちは、ホンの数時間前まで、「斎藤は元気だ。雑談に応じている」とか、「オマエの体を心配している」とか言っていたのです。)  斎藤さんの死への誹謗中傷、そして「このまま黙っていたら、お前の友達は片っ端から全部パクる。オマエのせいだ。それでよいのだな。」という恫喝と共に「斎藤さんの遺骨の引き取り手がなくて困っている。どうするのだ。」という刑事の「相談」は、初めて私に、「約束のカプセルの実行をしないといけない」だけじゃあなくて、新しい事態に対して、私自身が自分で考えて、決めて、行動しなければいけない、もう誰も方針を出してはくれないという事実に直面することでした。カプセルの実行や獄中では黙秘と言う、自分のことだけを考えていたのでは、自死した同志を弔うことも、仲間を守ることもできないのです。  Tさんをつれてきての家族をまきこむ混乱にも、私が決着をつけなければいけないように思えました。当面のわずらわしさ(実際毎日のように「オバ」と称する初対面の父母の知人に、取り調べ室で泣きわめかれるのは、取り調べ官のドナリ声や恫喝の数十倍対応しづらいものです。)を回避するために「一時的、技術的な弁護人解任」は、仲間をうらぎり始めた自分を自縛し、敗北感の悪循環を開始することにしかなりませんでした。  革命を前進させるために、少しでも役に立ちたいと考えて、東アジアに参加し、自分なりに力をつくしていっしょうけんめい役割を担ってきました。にも関わらず、私たちは、負傷させるはずではなかった多くの方々を負傷させてしまいました。その克服を目指しつつ、今度は、私自身の不注意によって尾行を許し、同志達の被逮捕を許してしまいました。カプセルを持つことを話して、かけがえのない同志を死に追いやりました。これ以上仲間達と革命とを私自身の誤りや不十分性によって逮捕させたり死なせたり,傷つけたりすることは、何としても回避することが、私が自死する前に,人間としてなすべきことだと思えました。「まだ仲間達を守れるかもしれない」ことだけが、私が革命派でありうる、うらぎり者ではないための最低の小さな証たりうると考えて、私は取り調べの日々をすごしました。  供述調書には、言わなかったことも、言ったことも、言っただけで違う意味に表現されてしまったことも書いてあります。言ったのに書かれなかったこともあります。当時の私には、やがて裁判が始まるなぞという未来も,取り調べを終わって獄中で生き続けるという未来もありませんでした。仲間を守れさえしたら、その役割さえ果たせたら、約束通りカプセルを実行するのだと考えていました。その為に取り調べ官を信用させ、ゆだんをさせなければなりませんでした。しかし、仲間を守れるメドが立っても、私は、カプセルの実行に二度も三度も失敗しました。  東拘に移監になった直後の私は、生きのびてしまった自分がこれから、何をどうすればいいのか、全くわかりませんでした。ただ私自身の不十分性が、人々を負傷させ、同志をつかまらせ、自死させた…そのことの責任はキチンととらなければならないということだけがわかっていました。  75年8月、クアラ闘争による佐々木君達のアラブへの出発は、「もう獄中で私達にできることは何もない」と考えていた私に、「そうか、生きていれば闘いを続けられる。逮捕はけっして闘いの終わりじゃないのだ」と気付かせてくれました。  同じ頃、獄中での理不尽な規則や、人権を無視した処遇の改善に取り組んでいる人々の存在を知りました。それは、武闘を唯一の革命の手段であるかのように考え、「逮捕は闘いの終わり」という敗北感にひたっている私の誤りに気付かせてくれました。在監者を物のように扱い、見ていてはずかしくなるような看守の社会常識のなさや、規律や処遇の理不尽・非科学性は、その一つ一つが、これまで私にとって必ずしも自分自身の問題ではなかった差別とか抑圧とか、弾圧ということを、まさに自分自身の肉体で日々実感することのできる日々でした。  誰かの為や、美わしい正義派・革命派である為にではなく、自分自身が人間であり続けるためには、この理不尽と闘って、この社会をここから変革し続けなければならない。自分自身の生存の根底からの欲求として、こんな社会の変革と革命が必要なのだと思えるようになりました。  はじめてレーニンや毛沢東といういわゆる革命文献を(差し入れてもらって)学習しようとしたのはこの頃です。主体的に判断し、誤ることなく責任を持って革命を担うためには、それを正しくなしうる知識と能力が必要だと思えました。交流を開始した東アジア反日武装戦線の同志達の基本的な立場や目的、今後の方向や当面の役割に対する考え方は、私とずい分ちがっているように思えました。私はきっとわかっていないのです。反日思想の理解と主体化に立ち遅れていることが敗北を重ねた原因なのだと思えました。  狼やさそりの同志達と共に、東アジアの一連の闘争総括を進めながら、統一公判の為の冒頭意見陳述を分担して書くことになりました。私は、中国における抗日武装闘争の教訓から、東アジア反日武装戦線の正当性を論証するというような基調を担当しました。ところが、30数冊の中国革命や抗日闘争時代の書籍を差し入れてもらって、それを学習すればするほど、日帝打倒・アジアや「日本」の被抑圧民族人民との共存・戦争責任の解決…革命の手段・方法は、私達の担ったような、反日武装闘争で、ということにはならないし、「腹々時計」に書かれているような『唯一根底的に闘っているのは流民=日雇労働者である』『日帝労働者の「革命」などは全くの帝国主義的反革命である』ということにはならないのです。逆に、私達のような考え方や方法では、味方を狭め、敵の側へ追いやることになっていたのではないかと思えてきました。「反日思想・反日武装闘争」の正当性を論証するつもりなのに、逆に反日思想や武装闘争、党を否定する在り方への疑問が大きくなってしまって、中国革命の教訓から反日武装闘争の正当性を論証する冒陳は私にはできませんでした。結局私は担当した陳述をかけないで、自分が理解しえた慰安婦の問題だけを取り上げましたが、当時の私は、そうした自分の疑問や不確信をも同志達に率直に伝えることができませんでした。「私の理解がまちがっているか、不十分にちがいない。」と、反日思想を否定することは自分達の存在を否定することに思えました。 7.ダッカ闘争から日本赤軍への参加  公判もようやく実質審理が開始されて、接見禁止がとれて、獄内外の同志友人達との交流が可能になった77年の9月末、私は日本赤軍のハイジャック闘争によって釈放指名されました。私が指名されていると知って「何故私なのだろうか」という疑問はありましたが、誰であれ、反帝を闘う人々が日本政府を相手に大勢の人質を取って、自らも生命をかけて私達の釈放を要求している、それに「応えない」という選択肢が私にありうるとは思えませんでした。  「もう裁判もやれなくなる」「二度と生きて帰れないだろう」等という村田検事たちの説明に対しても、自分の将来や運命の問題として考える余裕は全くありませんでした。ただこの緊張関係を一刻も早く終わらせる役割が自分にも問われているということだけを考えていました。  出発にあたっての私の決意の第一は、『もう誰も死なさない革命をやる』ということでした。敵であれ味方であれ、人が死ぬことによってではなく、新しい社会を作っていくような闘い方をしたいと切実に思っていました。そのことを私は、日本に残る同志や友人・家族への決意表明のつもりで最後に面会した父に「約束」として伝言しました。もう一つは、当時の私の東アジアに関わった総括の基軸は、『どんな時にも全てに責任を持つ立場で、主体的に関わらなければ、どんな責任も持てない』ということでした。本人のつもりがどうであろうと、役割がどんなに限られたものでも、結果は全部に影響するのだから、常に自分の責任が持てる仕方で、主体的に関わるべきだということでした。  初めに到着したアルジェリアの町の中では、たまたま通りかかった市場の人たちが、私達に気付いて大歓迎することにおどろかされました。『人間が違う!!』。それが率直な実感でした。私達日本人とは全く別の価値観で生きている人々がいて、その人々によって構成される社会と国が、ここに本当にあるのだ、と思いました。日本にいて、知識としては反帝国主義・反植民地主義の民族解放闘争や社会主義革命の末に建国した国や人民の存在を知ってはいても、それが単に社会システムとしてあるのではなく、一人一人の市民の価値観そのものが私達(日本人)と違う世界なのだという実感は驚きでした。この時の経験は私にとって、社会主義の社会は必ずできる、という革命勝利への確信であったと思っています。  パレスチナ革命は、コマンドやフェダインによってだけではなく、家族ぐるみ、生活ぐるみの人間の生存と尊厳の全てに関わる闘いとして担われていました。キャンプでは、幼稚園の先生や裁縫隊の少女も、赤子を抱いたおばちゃんも子供達もお年寄りも、誰もが、いっぱしのオルガナイザーのようにパレスチナの美しい国土と民族の歴史を語り、イスラエルの暴虐を語り、パレスチナ建国の夢と展望、そのために果たすべき自分の役割について語ってくれました。「だれかが勝利をもってきてくれる」のではないのです。子供を育てることも、人を愛することも、着ることも、食べることも、人と人との関係も、全てを動員して新しい社会、パレスチナ建国のために生き、闘っていました。私達は、なんと“エリート”による“特殊なもの”としての、人々の生活や存在とかけはなれた事業として「革命」を夢想し、「闘争」を担っていたことでしょう。人間が生きる為の、人間が生活するための社会を作るのだということを忘れていたのではなかったのかと気付かされました。  日本赤軍の同志達との共同は、「日本共産主義運動敗北の総括を共にし、その責任を引き受け合って、勝利の隊伍を共に築こう」というクアラ・ダッカ闘争のスローガンにそって開始されていました。正直なところ、“勝利の隊伍”なぞという大任を覚悟して来た訳ではありません。日本共産主義運動の敗北と言われても、東アジア反日の闘いについてはしっかり総括してその責任をとりたいと思うけれど、他のセクトや党については、私にはわからない、というのが本音でした。  東アジア反日武装戦線に対する彼らの批判は、まず「反日思想というのは、日本の革命を担う主体はいったい誰だと考えているのか、どういう人々といっしょに闘おうとしているのか、日本の革命を第三世界やいわゆる下層・辺境の人々の依拠してやろうとしているのか。圧倒的な日本の人民を敵にまわすもののように見える」というものでした。しかし、それは誤解です。そうではありません。私達は、日本の市民は、このままでは、アジアや下層・辺境の人々を抑圧し続ける存在になってしまう、日本による歴史的・現在的な抑圧と搾取の上に今の自分達の生活があることを自覚し、その構造を共に変えていくことから、日本の変革とアジア・世界の人々との共通の闘いが可能になる、と言っているのです。しかし、階級矛盾を第一に考える彼らとの討議はなかなかかみ合いませんでした。  いっしょにアラブに行ったいわゆる「刑事犯」の同志の「M作戦だ何だって言ったって、要するに強盗だろう。俺達とどこが違うのか?どこが革命で、人民の解放の為なんだ。革命と言いさえすれば、強盗も人殺しも全部正義になって許されるのか?」という疑問が、つもりにこだわって、客観的な事実は何なのかを見ようとしない私達の総括のあり方を気付かせてくれました。客観的な事実は何なのか、からしか、どんなつもりも価値を持ちうるものではありません。そうしてとらえ返したことは、@「革命」、その為の手段の一つ一つを不断に誰のために、何の為に、誰と共に担うのかと問い返すことの重要性であり、Aその視点から、自分達の客観的な姿(結果)を直視し、誤りを素直に認めて、自分達を変えていく勇気を持つことの大切さでした。  東アジア反日の闘い方は、「日帝本国人である自分自身にオトシマエをつける」という発想にあったように、どう革命を実現し、新しい社会を作るよりかよりも、自分自身が抑圧者・搾取者の側に置かない「正しい者」であるために「闘う」というつもりにより多くの価値をおいてしまっていたのではないかと思います。  さらにB私達に最も欠けていたのは、どういう社会を、誰が、どう作り出すのか、そのために今から、私達は何をどう進めて行くのかという勝利の展望と戦略・戦術だったと思います。そのことが、闘いを武装闘争に一面化して、敵と自分達をしか見ない、他の領域・方法での闘いを軽視し、あるいは、誰もが参加できる闘いではなく、特殊な「決意した人々」の仕事にして、本来味方であるべき人々を差別し、分断して敵の側に追いやる傾向をはらんでいたと思います。  東アジア反日闘争の総括を通して私は、自分自身の思想的欠陥がどこにあるのかを理解したつもりになっていました。しかし、だから、どう自分を変えて闘い続ければいいのかはわかりませんでした。  当時の日本赤軍は、それまでの武闘を軸にしたアラブ・パレスチナ・世界の革命主体との共同から、より日本の革命に責任を持てる主体へと路線・組織体制の変換過程にありました。一つの組織として政治・思想的な統一と団結をどう作り出しているのかの試行錯誤をくり返していて、同志達は、思想統一とか、同志愛とか、団結という言葉を多用し、自己批判・批判の思想闘争に取り組んでいました。  しかし、私には、この思想闘争というのが全く理解できませんでした。この人たちは、聖人君子を作ろうとしているのではないかとか、個人の頭の中を切り替えて…連赤と同じことになるのじゃあないかと反発していました。そうしてある同志から「浴田が克服すべき19項目の思想欠陥」というレジュメが提出された時は、もう私は革命を担いたいとか、人々の役に立ちたいとかいう資格のない人間だと言われたのだと思い、絶望的な気持になりました。何のために生きてきたのだか…。もう一つわからなかったことは、いわゆる「組織だから指揮に従う」「どこで誰が決めたかわからないことも無条件に従わないと組織活動はなりたたない」ということでした。「全てに責任を持つためには、主体的に責任をもてることをやる」という私の東アジア総括と全く逆の姿勢のように思えました。  私は、日本赤軍に入る資格もないし、は言っても皆の足をひっぱることにしかならないと考えて入党を拒否して、「日本に帰るという訳にもいかないので、パレスチナキャンプでボランティア活動に参加させてくれ」と希望しました。しかし担当の同志は「思想的にも、人間的にも欠陥だらけで、このままでは革命運動に害毒にしかならないから日本赤軍にはは入れないというような人間を、パレスチナ革命におしつけても、もっと害毒を受けるとことになる。そんなことは俺にはできない」と断られてしまいました。そりゃあそうです。  入党のための再学習を担当してくれた同志は「ムダなこった」とふてくされている私に、「あなたがどんな気分で、どんな奴で、どんな能力があったりなかったりして、何を思っているのかなんてことは、革命にとっても、人民にとっても、何の意味もないことなんだ。要は、東アジア反日の闘争の参加して、それで社会と日本の革命に何らかの影響を与えた。人も傷つけた、同志も死なせた、自供もした、獄中闘争もやった、奪還に応じてアラブまで来た、そういう一人の日本人革命家がここにいて、そいつが今、ここでどう生きるのか、何をするのか、でしかないんだよ。客観的に、社会的に、そういう一人の人間が、客観的に社会的に求められていることは何か、それ以上でもそれ以下でもない。あなた個人の資質とか気分とかはどうでもいい。あなたが生きてきて、今ここにいるということだ」と言ってくれました。自分の能力や幻想にこだわって「自己の実現や納得のために」「自分のやりたい革命」を考えている自分を再び発見しました。よし、かぎりなく不十分で、能力も自信もないけど、「自分の実現」の為にじゃあない、求められることに応える生き方をこの人々と一緒にやってみようと決意しました。何と言っても、彼らは理解のむつかしい思想闘争や組織活動をしていましたが、みんな希望と勝利への確信に燃えて、どこの誰よりもおおらかで、のびのびとした子供達を育てながら、生き闘っていました。  日本赤軍への参加にあたって、私は、東アジア反日の総括実践として、革命の兵站任務を担いたいと希望しました。東アジア反日の闘いに最も欠けていたのは、今から革命後の社会を物的に、人的に、思想的に...全ゆる領域から作っていく創造の闘いとして考え実践し得なかったことだと思ったからです。敵を打倒し、破壊するよりも、味方を増やし、味方の力を育て、作り出す闘いをしたい、それは「もう誰も死なさない革命」でもあるはずです。 8.日本共産主義運動総括(JRAの立場・観点の確立)  その後日本赤軍は、全軍的な作業として、日本共産主義運動の総括を行い、そこから80年代を担う私達自身の立場・観点と、路線・政策の基軸を確立しました。  日本共産主義運動総括から私達が導いた教訓の第一は、「党が普遍性を体現し、人民を指導する」という「無謬の党観」そのものを否定することです。人民、階級の一部でしかない党は、常に場所性や歴史性に規定されている人民社会の現実に学び、不断に党そのものを変革し続けなければ、その指導を果たしえません。  第二に、革命の主人公は人民であり、不断に「自らを変革することによって、目的意識的に、集団的に、現在を変えることをその本質とする、人民原理」を党の革命として、私達の立脚点にしていくことです。  さらに、革命の主人公である人民の闘いを援助する党の役割を人民の力の統一(統一戦線の形成)と国際主義の実践、そして権力奪取に向けた政治的、物質的、主体力量の形成を目的意識的に担うこととして確立しました。  そこから日本革命の性格を、「反独占・反米人民革命」として、あらゆる領域における民主主義の徹底から、社会主義社会の内容を今、現在から継続革命として、人民の自治と共生の拡大として目指しました。 9.ベイルートでの経験と総括実践  82年夏イスラエルによるレバノン侵攻、ベイルート包囲下での経験は、日本赤軍にとっても、私自身にとっても、“70年代の闘いの総括として確立した地平と路線をどう実践して行くのか”を試されるものであり、同時に私達の総括地平への確信を強くするものであったと思っています。  水も食糧も入ってはこない、砲火にさらされたベイルートの中で、人々は、「あなたたちは、とにかく安全にして、絶対に生き残ってくれ。銃をとって、イスラエルと闘うことは、今このベイルートにいる者誰にでもできる。しかし、このベイルートの人々がどのように生き、闘って死んで死んでいったのかを世界と日本の人々に伝えることができるのは、あなた方だけなのだから、必ず生き抜いて、このベイルートのことを世界中の人々に伝えてくれ」と言いました。私は砲火のベイルートで、人々に守られて生きのびました。自分が何をしたいか、どうかっこよく生き死にたいのかではなく、状況と人々にとって今、日本人である私に問われている役割は何なのか、そうにどう応えることが、日本からアラブの地に来て、共に闘おうとする者の国際主義実践の姿なのかが問われていました。あの場で私達にしかできない、私達ならできる役割を見つけ出すこと、それは日本共産主義運動総括とその教訓を再確認し、実践を開始することへの確信になってゆきました。  82年以降の日本赤軍メンバーとしての実践を、具体的に語る資格を、今私は持ちません。私(達)は、日本共産主義組運動総括・70年代総括から導いた路線・政策にそって、民主主義の徹底による真の人民権力の樹立、そのための統一戦線の形成を目指しました。対等と平等、自国人民に依拠した自力更生の立場に立った国際共同と国際的な反帝の力の統一の為に、在外日本人革命主体として、その役割を果たそうとしました。  しかし、制約された存在条件と私達自身の変革の遅れの中で、日本の中には存立基盤を確立し得なかった私達は、その力の多くを自分達自身の存在の為の「闘い」に費やさざるをえず、いまだにその役割を十分に果たしえてはいません。ことに日本における人民と革命派の力の統一の為に、「…共に勝利の隊伍を作ろう」というスローガンで担われた闘争で合流した私達自身が、アラブでの総括教訓や学習を十分に返すことができなかった責任を痛感します。  海外での様々な活動の中で、世界中からやってきた多くの人々に出会い、学び、共に生きる中で、本当に強く思ったことは、世界中のどんな人々との平和的共存は可能で、ちっともむつかしいことじゃないということです。第三世界とか、民族主義とか、共産主義とか、社会主義とか、レーニン主義やチェ・ゲバラ主義やカザフィストやナセリストや…いろいろなシステムと思想、文化や宗教に出会ったけれど、大切なことはたった一つ、その地に住む人々が、自分達自身の歴史と文化と経験、そして今とに根ざして、彼ら自身に似合ったやり方で、彼ら自身に似合った社会とそのシステムを自分達の知恵と力で作り出すこと。それを誰もが理解し合い、尊び合い,支え合うことによってこそ初めて対等に、共に生きられる世界はできるのだということでした。  違いや格差それ自体が問題なのではなく、違う価値観や習慣を認め合えないこと、富を分かち合おうとしないことが世界をむつかしくしているのです。へアヌードが氾濫し、女子高校生がお尻の見える制服で通学する文化と、砂塵の大地をブルカに身をつつんだ女性が歩く文化と、どっちが高尚だと誰が言えるでしょうか。 ・ソ連・東欧社会主義の崩壊の教訓  95年に私が住んでいたルーマニアの人々は、社会主義独裁政権を倒して、資本主義導入を可能にした政権を「Revolution」と呼んでいました。知り合いの青年は、「革命が起こった時、これで私達もアメリカやヨーロッパの人のように自由で豊かになれると思った。だけど、革命の後で変わったのは、出稼ぎのために自由に外国に行けるようなったことと、簡単に失業できるようになったことだ。チャウチェスク時代は、貧しくとも、みんなが食べられて、住む家があった。でも今は、みんなのためには何もない。自由は一部の者が金持ちになるためのものでしかなかった。多分、私達はまたRevolutionをしなければならないと思う。」となげいていました。  東欧社会主義崩壊の教訓は、どんな社会・経済体制であっても(社会主義・共産主義でも)、それが、社会を構成する全ての人々が自らの社会の確立と方向、運営に対して自分自身が社会の主人公という自覚を持って、主体的に参加していくという意識と能力、そのための方策を持ち得ない所では、資本主義と同じ官僚体制や一部資本家に社会の支配権を奪われて、階層分化を恒常化させてしまい、人民が主人公である人民のための対等・平等な社会は作れないということだと思います。  同時に、ソ連・東欧社会主義の崩壊や変質に対して、帝国主義本国革命主体が果たした役割を問い返す必要があります。自国帝国主義権力を打倒・弱体化しえなかったことが、帝国主義による社会主義包囲網を容易にし、社会主義建設を困難にしました。どこかの勝利した革命に依拠し、あるいは模倣するのではなく、自前の社会主義、自前の民主主義、自力更生する社会システムを認め合い支え合う国際連帯こそが問われています。 10. 再逮捕と裁判の再開  95年3月、ルーマニアでの再逮捕は、共に闘いを進めてきた同志・友人達、あるいは出合いの中で共に生き支えてくれた人々に対して、とても迷惑をかけ、困難に直面させる申し訳のないことでしたが、私自身には、75年に逮捕された時のような無念さやあせりや敗北感はありませんでした。  それは、18年間の国外での生活の中で出合うことのできた多くの人々の力強さとたくましさ、やさしさを革命勝利の確信として実感できていたこと、そして、どんな所にも、どんな状況の中でも、社会の変革の為になすべきことがあり、自分が何をしたいかよりも、自分に何が求められているかに、応えることが私達の役割なのだし、総体として勝てれば、自分が何を担うかはたいした問題じゃあないという強い確信があったからだと思います。  18年ぶりの日本は大きく変わっていました。70年代にはなかなか理解してもらえないと思えた戦争責任・戦後補償問題解決の重要性は、あたりまえに語られ、国会は「不戦決議」採択をめぐる討議を重ねていました。しかしその一方で、いわゆる左翼の人々はその力をバラバラに分断され、労働者は、戦後闘いの中で勝ち取ってきたその権利を切りちぢめられ、老人や子供達弱い立場の人々への福祉的政策は切りすてられて戦争をする国への準備がドンドン進められていました。バラバラにされた中でも人々は、地域や国際的拡がりの中で、シコシコの闘いを続けていました。何よりもうれしかったことは、再会することのできた新旧の友人達が、日ごとに反動化するこの国の中で、子供を育て、老親をいたわりながら、初志をすてずに地道な、生活に根ざした、自分に見合った仕方での社会変革の取り組みを続けている姿でした。それは、パレスチナの人々の生活と一体化した闘いに学び、私達の在りようをとらえ返してきて、『そういう生き方 を、私もしたかったのだよ!』と言いたくなるものでした。  日本に帰ってきて、私がもっともとらえ返したことはまず「日本の革命に責任を持てる主体として、在外における役割を担う。」といいつつ、私達日本赤軍のとり組みは、この国の人々の実情や闘いの現実と大きくかけはなれた観念的で独善的なものになっているということです。第二にそれを生んだ根拠の一つとしても、私達は、アラブの地での学習や教訓総括を日本の運動の発展に役立つ仕方で伝えていない。「力の統一を」といいつつ、自分達は除外して外在的になりすぎていたのではないかということです。  さらに、戦後補償問題や地道な人権運動を続けてきた人々から、そして死傷させてしまった方々の実情を知る中で学んだことは、私達には、生身の、感情を持って生活し、在りのままの社会に規制されて日々を生きている人々、その人々によりそい、現実に立脚して、具体的な困難や矛盾をいっしょに解決しいこうとするやさしさが欠けていたということです。抑圧も差別も、矛盾も、困難も、抑圧一般や差別一般としてあるのではなく、一人一人の別個の、歴史や感情を持った人間のそれとしてあるのです。もっともっと、人々の現実の中から、人々に依拠して一人一人の人間の問題を大切に取り組まなければ、「革命」は、かぎりないごうまんと独善の末に、あらたな抑圧の手段になってしまいます。  第一次統一公判の時私達は、「日帝に我々を裁く資格はない」「死傷者への我々の自己批判は、いかなる自己保身も延命策もしない。革命の実現に向けて自らの生命を捧げることで全うする」と考えていました。裁判を通じて、是も非も含めて、真実を明らかにし、公然と総括を進め、誰も二度と同じ誤りをくり返さないために教訓を返すことができるとは考えませんでした。  そうした私達の裁判姿勢は、当時の拙速・強権的な訴訟進行と共に、事実確定を誤らせ、事実にもとづかない重・極刑判決の前例を作らせる根拠になったのではないかととらえ返しています。77年10月に、「合法的に釈放」されたのに、どうして、どういうしくみで、それがとりけされて、再び東アジア反日武装闘争裁判をやることになったのか今もよく理解できませんが、この裁判を私は、統一公判では明らかにしえなかった東アジア反日武装戦線の闘いの真実の姿をできるだけ明らかにしていくものにしたいと考えてとりくみました。私の知っていることは限られているし、理解が不十分だったりまちがっていたりもあるかもしれませんが、弁護団や同志・友人達に支えられ、はげまされて、一つの役割をはたせただろうと思っています。  死刑囚にされている同志達を、死刑で死なせたくはありません。死ぬこと、殺すことによっては、奪ってしまったものを取り戻すことも償うこともできません。誤りに気付き克服することさえも不可能です。誰も二度と同じ誤りを犯させないために人々に教訓を返すこともできません。誤りを犯した者が、人を死なせたり傷つけたりした者が、総括を深めながら、総括を実践しながら生き続けることは、けっして楽ではありませんがいっしょに犯した誤りの償いを、いっしょに総括を深めながら、新しい社会の実現のために、果たしていきたいです。 11. 日本赤軍の解散  80年代初頭以来私は、日本赤軍のメンバーとして、日本赤軍の思想的・政治的立場に立って、その路線・政策を実現することが、自身の役目であると考えて生きてきました。  しかし、昨年、私達が目指したこの国の変革、そして世界の人々が共に平和に生きられる社会の実現の為の役割をいまだ良くはたせないままに、日本赤軍は解散しました。軍でもないのに軍を名のり続けることの誤りの是正と共に、70年代その出発の時代に問われた1つの役割の終了、そして私達自身、今までのやり方では革命に役に立つ者たりえない実体の側から、1人1人が原点に立ち返ってやり直すことが問われました。  解散を通じて明らかになったことは、「無謬の党観を否定し」「自己批判と自己変革を指導性に」「人民原理に立って」「階級の一部として、人民の革命を支援する党の役割を担う」という私達自身の総括地平、立脚基盤を、今現在の私達の行動原理にしえていない、言っていることとやっていることの違いにも気づきえない観念性と独善性でした。私達は闘いの途上で、革命の名において多くの人々を犠牲にし、迷惑をかけてきました。多くの同志・友人に出合い、思いを分かち合い、力を分かち合い、夢を分かち合って共に生き闘ってきました。その人々に対して「ダメでしたやめます」ということではありません。いつまでも、社会の変革・世界中の人々の解放と平和のために共に生き力をつくします。  私自身は今も、日本赤軍の同志達と共に日本共産主義運動総括から導いた「無謬の党観の否定」「階級の一部として人民原理にもとづいて、自分達を変えながら、人民の闘いを支援する」という立場・観点、そして、人が皆尊び合って分かち合って共に生きられる社会の実現は、足元から、今、現在からの民主主義の徹底によってこそ可能だという基本路線は正しいと思っています。何故、自ら導いた立場・観点を自分自身の行動原理としえなかったのか、を問い返し、人々の中で現実の生活に根ざした闘いに学びながら、ためされ鍛えられながらどんなにささやかでも、1人1人が1人の人間として責任をもてる役割をはたしていくこと、新しい社会の実現のためにこれからも役に立ちうる者でありたいと思います。 三、 1.武装闘争路線について、  東アジア反日武装戦線は、「帝国主義本国人・抑圧民族としての自己を否定し、日帝打倒の闘いを直接的・具体的に開始すること」を「当面の主要な任務」として、一連の闘争を担いました。又、日本赤軍の人々も70年代初頭、リッダ闘争によってアラブ・パレスチナ共闘を国際主義実践として開始し、70年代の一連の武装闘争を担ってきました。  しかし今、私自身は、武装闘争という手段を社会変革や、私達が作ろうとする新しい社会を作っていく革命の手段として採用することは、正しくなかったし、正しくないと考えています。  60年代から70年代にかけて、世界的にも、又この国においても、社会変革や革命を目指す人々にとって、武装闘争は必要かつ、当然な手段だと考えられていました。世界中の多くの国での革命や民族独立闘争は、抑圧者、植民者への武装抵抗を伴って担われ、そうした革命勝利の歴史は、この国においても、人民の抵抗権・権力の獲得、そして防衛の問題として語られ構想されていったのではなかったかと思います。70年前後、革命運動に関わり、社会変革を目指そうとする人々にとって、自分が担うか否かは別にして、「武装闘争の必要」への支持と理解はそれほど特異なことではなかったと思います。そうした中で私自身も、革命を勝利させるためには、あるいは、人民と革命を防衛するためには、誰かが武装闘争を担わないといけないと考えていました。  しかし今私は、そのいずれの軍事力も、武装闘争も私達が目指す革命の手段として否定し、そうした手段が不用である社会を、今現在から作っていこうとすることなしに、真に全ての人々が尊び合い、共に対等に生きられる社会は実現不可能だと考えています。  それは、武装闘争が大勢の無関係な人々を殺傷してしまう武器をコントロールできないからだけではありません。「武器」という暴力手段そのものが、人々を抑圧し、破壊するものであり、何ら生産しうるものではないからです。民主主義を徹底し、相互理解にもとづく共生の社会を作っていこうとする時、武器によるいかなる抑圧も強制も、破壊も、まっこうからそれを否定するものだからです。抑圧も支配もない社会の実現の為には、今から、人間的共感を育て合い、相互理解と信頼を育成し合うことなしには、違いを持つ全ての人々が解放され共存しうる社会を作ることはできません。武器の介在はそれがいかなる立場で行使されるものであろうと、必ず抑圧・被抑圧の関係を生み出します。解放の軍隊・革命の軍隊は、権力奪取の瞬間から、内向きには、解放されたはずの人民への統制と抑圧・支配の機関へと転化します。真の民主主義社会を実現するためには、その創出の過程そのものが、未来社会の原基形態でありうるような、今現在からいかなる特殊権力も認めない足元からの民主主義の徹底が必要です。70年代に、被抑圧人民・民族の抵抗権の行使として、抑圧者を打倒する手段として、武装闘争を自ら担った痛苦な反省として今、そう思います。    A武装闘争を放棄して、どう人民が主人公の社会を創れるのか。  私達は、人が皆尊び合って分かち合って共に生きる新しい社会は、民主主義を全ゆる領域で徹底することによって可能だと考えています。その意味で今の日本は、いちおう理念としての民主主義を導入しています。特にここ数年なしくずし的な改憲・様々な法律や選挙制度の改悪によってそれが切りちぢめられゆがめられていますが、私自身は、人民主権の尊重と平和(非武装)主義・国際的共存にもとづく日本国憲法の基本理念をまず実践していくこと、民主主義の徹底と住民一人一人の主権と主体性の確立と尊重を進めていくことによって、平和的な手段で、今から新しい社会を作っていくことは可能だと考えています。そうした社会の実現の過程に武装闘争を導入することは、逆に、今ある民主主義的要素をも否定し、喪失してしまうことになるでしょう。  90年前後のソ連・東欧社会主義体制崩壊の過程は、いわゆる社会体制の転覆が、(様々な要素はあったにしても)人民の圧倒的な要求の前では、軍事的手段を伴うことなく実現しうることを明確に示したと思っています。  アメリカ軍事帝国主義とその追随者は、政治介入と支配貫徹・武器の消費のために、アフガンへの野蛮な侵略戦争を行っています。パレスチナでは今日も、シオニストの暴虐がくり返されています。誰もが「おかしい」と思いつつです。しかし、それを阻止しうる歴史的な智恵と教訓とを人類が持っていないとは私は思いません。今、私達が持ちえていないのは、真の正義を主張し、守り、実践しぬく勇気と、隣人愛・同時代を生きる者としての責任感だけです。自爆作戦で未来を失う青年達に「武器闘争は何も生まない」というのではなく、「君らの未来を私達が保障する」と言えない、シオニストを包囲する一歩を踏み出せない私達が、今日も、アフガンのパレスチナの人々を殺させてしまっています。 B95年に行った冒頭意見陳述で私は、「武器はそれ自体に思想性があるのではなく、使う者の思想性を反映してその威力を発揮する。(敵にも味方にもなる)」と書きました。それに対して「思想を正して武器をお使いなさいということですか」という人がいました。又日本赤軍の文章の中に「人民が支持しない武装闘争はしない」という言い方をしていることに対しても、「人民の支持があったらまた武装闘争をやるのですか。どういうふうに支持を見分けるのですか」と疑問をよせた人もいました。どちらの言い方も抽象的で誤解を与えることになっていました。「支持があるなら武装闘争もやりましょう。思想が正せたら武器を使ってもいいのです。」ということではなくて、この2つのセンテンスを私達は、70年代自ら武装闘争を担った者としての痛苦な反省から、革命の任務を担っていく上での教訓としてこのように言っています。  私達は当時、これが時代と革命の要請であり、革命運動を前進させるにちがいないと確信して闘争を担ってきました。しかし、人民と革命の総体・別の側面から見たときそれはしばしば独善的で、皆の足並みを乱す、一方的・主観的に価値観をおしつけるものになっていました。武装闘争という良くも悪くも結果が明確になってしまう。直接的・具体的に彼我に影響を与える闘争手段の中で私達は、人民が支持しうる、人民と革命運動の現実が要請するような闘い方でなければ、いかなる革命の手段も役に立てないで逆に足をひっぱることになることを学びました。革命の事業の全ゆるレベルで独善を排して、求められ支持されうる、共に担いうる闘い方をしていくことの大切さをこのように表現しています。  武器には思想性がないのだということも同様に、一連の武装闘争の経験から教訓にしてきました。いかなる革命の手段についても、誰が、何のために、どう、いかなる立場で、この方策をとるのか、問い続けること、どんなやり方も、その者の思想や立場を反映して「敵にも味方にもなる」ということです。  不断に革命を担っているつもりに満足して、自身の思想や立場・観点を問わない在り方・起こっている現実の客観的な姿を見ようとしない在り方が、結果として、人民を苦しめ、革命を後退させました。教訓を生かして私達は、社会変革の事業を担っていこうとしています。 2.  公判を傍聴しつづけてくれた友人の一人から、「あなた自身には、東アジア反日武装戦線に参加する必然性はなかったのではないか」という手紙をもらいました。特別に、私でなければならない、私だったからという必然性はたしかになかったかもしれません。しかし私は、第二次世界大戦直後の、戦後民主主義と復興・高度経済成長のまっただ中で育ちました。世界中で民族独立と社会主義建設が活発に担われていました。私の中には、自覚しえないままに民主主義への確信や、社会主義へのあこがれ、そして、戦争を二度とくり返してはならないという父母の世代の痛苦な教訓が身についていったと思っています。  そうして私は、若い日に出合うことのできた人々を愛し、尊敬し、彼らのように自分も新しい社会の創出に、全ての人々が共に尊び合い分かち合って平和に生きられる社会の実現のために、自分にできることをしてゆきたいと願っていました。東アジアに入るにあたって私は、何か特別な人生をやるのだという思いは全くありませんでした。だれかがやらなければならないことだとしたら、今その条件のある私が担当するのは当然なことだと思っていました。それはあの時代を共有した誰にも起こりえたことではなかったかと、思っています。時代の役割の1つでしかなかった。  しかし、それからの日々は、自分の意志や選択だけでは、とうていコントロールしえない、全ゆる局面で私自身の能力や適性やを越えて、まさにオーバーキャパシティの連続 みたいな日々でした。始めて武装闘争に関わって負傷者を出してしまった時から、その人々に対して、責任をとるには、革命を勝たせる以外に生きようのない人間になりました。  斎藤さんを失ってはじめて、自分の頭で考えて、方針を出して、実践して革命と人民を防衛しなければならない自分に気付きました。「いっしょにいたのが私でなかったら、みんなもっと良く闘えたはず、同志は死ななかったはず」という思いは、もはや革命と人民をうらぎる資格のない人間になりました。  時には、「オーバーキャパシティだぜ」と弱音をはき、時には、「やってられるか」と居直ったりしながら、出合うことの出来た同志・友人・そして勝利を確信して生き闘い続けている人々の存在にはげまされ、支えられ、学びながら、少しでも自分を変えて、革命と人民の役に立ちうる者でありたいと、いっしょうけんめいに生きてきました。  日本に帰って来た直後に受けとった古くからの労働戦線活動家からの手紙には「理論や情熱によって、人は共産主義者になりうるのではありません。人民の利益をどれだけ実現しえたかによって、人は共産主義者たりえるのです。」と書いてありました。そして今、私(達)は人民の利益の実現≠フためにその役割を果たしえてはいません。  戦争と革命の世紀といわれた20世紀が終わり、新しい世紀を開始した今、この国では、疲弊した経済・社会構造矛盾を、小泉内閣は、「痛みを分かち合う」だの「構造改革」だのという美しい言葉で、戦後人々が闘いの中で築きあげてきた社会主義的な要素の改悪、ことに子供達の教育や老人・病者への医療や福祉制度・労働者の権利の切りちぢめ等々の弱い立場にある人々への痛みのおしつけによってのり切ろうとしています。さらに戦争責任・戦後補償問題を無反省、未解決にしていることは、再び天皇制を強化し、あるいは実質的な解釈・改憲をすすめて、再び戦争をする国への転換を容易にしています。昨年日の丸をかかげた日本の軍隊は、敗戦後はじめて、侵略戦争に参加しました。  国際的にも、アメリカ主導のグローバリズムの推進は、世界に生きる人類の多様性・歴史や文化や宗教や人権や地域性という全ての違いを否定し、アメリカを無条件に是とする価値観をおしつけ、他の圧倒的な人々を切りすて、南北格差をさらに拡大して、かぎりない対立と矛盾を再生産し続けるものでしかありません。  こんな21世紀を迎えるために、誰も生き、働いてきたのではなかったはずです。人が皆尊び合って共に豊かに生きられる社会の実現は、弱者に押しつけられる展望のない痛みを耐え、あるいは「正義」だの「解放」だのと言いつのって、今ある富をさえも破壊する戦争に荷担することによってではなく、今現在、足元からの公平と相互理解・尊敬と、分かち合い共生しよううとする民主主義の実践として作り出していけばいいのです。誰かに作ってもらってその枠に入れるのを待つのではなく、在りのままの私達から出発して、自分達に合ったやり方で自分たちなりの自前の社会システムを作り出し、人と人との関係を作り出していけばいい、それをとなりの仲間と開始し、そのまたとなりへ、もひとつとなりへ……未来社会を「私とあなた」から作り出せばいいのだと思います。  人が皆人として尊び合って分かち合って共に平和に生きてゆける社会を作りたいと、闘いに参加して、四半世紀が立ちました。最も身近に、共に生きるべき人々を踏み台にして、仲間である守るべき人々を傷めつけて、「革命」を担っているつもりになっていたように思います。何か、遠い未来の高遠な話や事業なのではない、足元からの生活の場からの変革のつみ重ねこそがそれを可能にすることに、長い間気付けなかったように思います。そのために本当に多くの方々を苦しめ、つらい淋しい思いをさせてきました。心からおわびします。  昨年まで所属していた日本赤軍は解散しました。日本に帰りついて私は、まだ私が「革命兵士」でも「革命家」でもなかったころに共に生きた人々と出合い直すことができました。これからは、自由に、身のたけにあった社会変革の役割を、まず彼らと共に生きることから再開したいと思っています。そして私には、死傷させてしまった方々への償いをはたし、失敗の中で学んだことを生かして、誰かを支えていけるような役割をしたいという望があります。  新しい社会の実現に向けて“人民の利益の実現”のために、これからも微力をつくして、生き闘い続けます。人々と共に! 浴田由紀子 二〇〇二年三月十一日 東京地方裁判所 刑事第五部御中