兵器工場(日特金)攻撃事件冒陳

冒頭陳述

         被告人 笹本雅敬
               外六名
 右の者等に対する建造物侵入・威力業務妨害各被告事件について被告人。弁護人等が証拠によって証明しようとする事実の要旨は左記のとおりである。
   昭和四四年九月九日
             右被告人
              同    笹 本 雅 啓
              同    大 島 敬 司
              同    島 崎   忠
              同    新 蔵 博 雅
              同    松 野   猛
              同    河 津 一 彦
              同    斎 藤 準 一
             右弁護人  杉 本 昌 純
              同    重 国 賀 久

東京地方裁判所刑事第一部
          御 中


            目    次
 は じ め に ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥1
第一章 兵器産業の実態 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥3
  一、日本兵器産業の歴史的背景と現時点 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥3
  二、日特金属工業における機関銃生産の実態 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥6
  三、機関銃の戦略的効用性 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥16
  四、代表的な兵器製造会社 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥34
  五、兵器工場労働者の立場 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥49
第二章 軍需産業の歴史的意義 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥62
  一、戦後〜昭和二十年代 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥62
  二、昭和三十年代〜現在 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥71
第三章 ベトナム特需 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥81
  一、戦後概史 ―特需を軸として―‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥81
  二、特需の形態 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥90
  三、特需の実態 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥95
第四章 ベトナム戦争 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥111
  一、世界革命の現代 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥111
  二、ベトナムの革命と反革命 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥117
  三、アジア反革命の根拠地―日本 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥125

はじめに

 起訴事実中、被告らが「侵入」したとされている日特金属工業株式会社は62式機関銃を製造する
我が国唯一の機関銃メーカーであり、いわゆる兵器産業の一環をなしている。 その機関銃が自衛隊
に売りわたされ、国家の軍事力増強、整備の一端を担っていることは言うをまたない。
 いうまでもなく機関銃は人を殺傷する手段であり、総体として国家の軍事力の一環に組み入れられ
たとき、国家権力が不可欠のものとする暴力装置を実体的に支えるものとして機能する。
 一方で、民衆のごく原始的な暴力手段、あるいは暴力手段たりうる可能性を恣意的に想定しうると
いうだけの素材をも厳しい規制のもとにおきながら、法は膨大な殺人手段が日々生産されていること
を許している。法がその基底にうたっている「人間の生命の尊重」なる理念の欺瞞性は、かくして日
々再生産されているのである。
 もとより、われわれは兵器生産の法的解釈をここでしようとは思わない。
 われわれは、自らの全人性をもって法=国家の人民への敵対を問題にするのである。
 翻って本法廷に「被告」の名のもとに出廷しているわれわれの状況を考えるに、法によって、一方
的に規定された「被告」という立場自体をつきぬけ、われわれ自らの全人性を基底としないかぎり、
兵器生産とわれわれとの関係は本来的に成り立たないのである。
 われわれの全人性とは、単に思念されたそれではなく、現在の社会の総体と相渉るわれわれの人間
的営為の全体性である。
 しかるがゆえに、われわれは兵器生産を必然ならしめた現在の目本資本主義の現状、そして国家権
力の自らの存続に不可欠の兵器産業の実体をここに問題とするのである。ベトナム特需、べトナム戦
争を頂点とする現代世界の階級斗争の現状ということも、そのような立場から兵器生産を問題とする
上で不可欠のものとしてあることもまたいうまでもない。

        第一章 兵器産業の実態

一、日本兵器産業の歴史的背景と現時点

 戦後、そして現時点における日本の兵器生産は、朝鮮特需をきっかけに始まった日本経済の、いわ
ゆる高度成長、それにともなって日本ブルジョアジーが国家体制を、その発展段階にみあった、現段
階的には、さらに強固な帝国主義的国家へと再編成していくことと不可分のものとして進展しつつあ
る。
 なかんずく、昭和二九年の自衛隊の創設は「自主防衛」というスローガンのもとに、ブルジョアジ
ーが「その国力にみあった」、つまり帝国主義国家として、世界に一定の地位を占め、過剰になりつ
つある生産物を売りさばくための安定した市場権益を確保するための国内外にわたる政治的=軍事的
改編として画期をなすものであった。それは同時にブルジョアジー個別(各企業単位)にとっては、
国内に兵器の安定した市場が確保されたことを意味するのである。
「自衛隊と兵器製造会社の間もまた、ふつうのユーザーとメーカーとの関係とは異なった緊密さがあ
った。三菱や石川島など主要工場には制服の自衛隊員が多数常駐して、製造工程に立会っていた。各
基地とエンジン工場とは直通の電話で結ばれていた。基地内の燃料タンクは墓地近くの駅にたちなら
んだ石油会社各社の基地専用タンクと常時即座にパイプでつなげるようになっていた。」(朝日新聞
社《自衛隊》頁一〇九〜頁一一〇)
 ここに各企業と自衛隊との“緊密さ”として示されている実態は、軍事生産が単なる企業の一分枝
として「金になるもの」として興ってきたのではなく「自主防衛」に象徴される日本ブルジョアジー
の支配体制の整備、それに連なる政治的=軍事的配慮と表裏一体のものとして、現在あるということ
を明らかならしめているのである。それは同時にプロレタリア階級に対する諸々の階級攻勢としてあ
ることもまた、いうまでもない。
 自衛隊と緊密な関係を結んでいる企業=ブルジョアジーは当然のことながらそれによって“私的な”
利潤を増大せしめているのであり、こうした“私的”利害と、自衛隊の存立そのものを規定するブル
ジョアジーの“公的”(=政治的)な配慮とは復泰しつつ、ブルジョアジーの現段階における総体的
な延命の意志として現象しているのである。
 かくして日本の兵器生産は、太平洋戦争敗戦後の中断期を経たのち、自衛隊の発足、そして、その
質・量両面にわたる改編にともなって、生産規模、技術水準を向上させてきた。
 自衛隊の前身である警察予備隊は、その装備のほとんどが米軍からの供与であった。警察予備隊の
発足は昭和二五年七月であるが、昭和二九年三月MSA協定がむすばれ、同年七月防衛庁が発足、日
本帝国主義の軍事力強化はいよいよ軌道にのり出した。この時点で、日本の兵器産業は朝鮮特需の恩
恵から突き放されようとしていた。同時に日本の経済は世界に類をみない急速度の膨張を示しつつあ
ったのである。ここで、当初米軍の供与にたよっていた警察予備隊=自衛隊が、装備国産化の名のも
とに、日本の産業全般の軍事化にテコ入れする役割を果したのは当然のことといえる。MSA協定発
効前に無償援助の二分の一を占めるだけであった国内調達分は、第二次防衛力整備計画(二次防)期
間中の三七〜四一年には無償援助の一二倍強にふくれあがっているのである。三次防(四二〜四六年
度)では無償援助がゼロになり、全体の九〇%が国内調達分になる予定であり「兵器国産化」は、い
よいよその仕上げ段階に入っているのである。
 こうした兵器生産の規模拡大は、同時に、その質的側面、つまり兵器産業の構造自体を変えていく
作用をもつ。
 朝鮮特需のころの兵器生産は、その九〇%が銃砲弾およびその部品であった、つまり戦場において
最も消耗度の激しい武器部門の補充としてもっぱら機能していた。これが昭和三〇年にはT33練習機、
F86Fのライセンス生産へと飛躍する。三三年度からスタートを切った一次防では小銃、機関銃、火
砲、戦車砲、魚雷、潜水艦などが、いつせいに生産の火ぶたを切られるのである。昭和三七年からの
二次防においては、試作の域を出なかったそれまでの生産段階から、大量生産体制に入る。さらに三
六年度にライセンス生産をはじめたF104Jの国産化率引上げが実現された。また、この段階で、エレ
クトロニクス技術を駆使したバッジシステムが、ライセンス生産の形ながら整備されはじめた。いう
までもなく電子技術は現在の産業技術の最も進んだ形態である。軍事産業は、常にその時代の最も進
んだ技術水準を他の産業部門に先がけて実用化していく。こうしたことがブルジョアジーをして「防
衛産業には間接的、副次的にではあるが、技術開発を通じて経済発展に寄与する面が少なくない」
(経団連常務理事・石沢芳次郎)というような書辞をはかしめるのである。これは兵器生産が全産業
との有機的かかわりを基底にしてなりたつものであり、決してブルジョア的生産様式における“特殊
な”部門ではないことを示すものである。
 四二年度からスタートした三次防で、特に注目すべきは、空軍関係の装備国産化である。
 現在、空軍は単に空の兵器としての意義にとどまらず、総合的な戦略と不可分にかかわるものに
なっている。その意味で、空軍の整備増強は、二大勢力の対立と称される現代世界の全体的な戦略
体制とさらに深くかかわっていく先端部分であるといえるのである。
 ちなみに、三次防においてはTX(次期練習機)、CX(次期輸送機)の一〇〇%国産化がもく
ろまれていて、TXについてば、F104Jの経験を生かして、三菱重工がこれに取り組むことになっ
ているのである。

二、日特金属工業における機関銃生産の実態
 1. 日特金属工業株式会社も、機関銃のメーカーとして、こうした歴史的推移の一環をなして存在
  するものであることはいうまでもない。
   日特金属工業株式会社(以下日特金と略す)は資本金一八億円、社長は永田太郎であり、周知
  のごとく日本唯一の機関銃メーカーである。
   日特金の創設は昭和一四年、帝国主義日本が中国大陸への侵略に行詰まりをきたし、米英帝国主義
  との植民地争奪戦に突入するまさに直前のことであり、総力戦にそなえ、国内の経済体制を、戦
  時経済へと転換しつつある過程であった。
   当初ば中島飛行機(戦斗機メーカー)から分離するという形で、田無鋳造と称された。二ヶ月
  後に中島航空金属と名を改め、エンジン、ピストンやアルミの鋳物を製造した。
   戦後は、二〇年八月に瑞穂産業と改称、二四年七月に解散し、企業再建整備法による第二会社
  として、瑞穂金属工業として再発足。その後二八年には富士金属工業と改め、三〇年には日本特
  殊鋼の資本を導入、現在の日特金属工業株式会社となった。四〇年には住友機械と資本提携して
いる。

 2. 次に日特金における機関銃製造の実態を述べるのであるが、その前に、戦後同社が機関銃を製
  造するに至った歴史的背景を、自衛隊との関わりを軸にのべてみたい。
   「昭和三〇年以降、白主的な(兵器の)国内生産が決定し、まず供与品の一〇五mm、一五五mm
  榴弾砲、三インチ艦載砲の国産化が進められた。
   榴弾砲は野戦砲兵の中核をなすもので、装備数量も多く、更新、補給、増勢を自力で行なう必
  要があるとされたもの。これらと併行して国情にあった新機材の研究開発も進められ、新設計によ
  り一〇六mm無反動砲、一五五mm迫撃砲、九〇mm戦車砲、一〇五mm軽榴弾砲などが試作された。ま
  た三一年度からキャリバー30のNATO型制式弾を使用する新機関銃の設計にも着手し、以降試
  作開発を重ねて、三七年には制式化している。」以上は自衛隊の装備状況を示す「自衛隊装備年鑑
  一九六七年版」の中の「防衛庁調達の開始、火器部門」(頁三七五)の一節である。この文章に
  示される昭和三〇年〜三七年は、ちょうど第一次防衛力整備計画の実施時期にあたっている。一
  次防の基本的な目標は「各種新式武器については自衛のための必要な限度において当面研究開発
  に力を入れ、重要装備品については逐次その改善をはかること、装備品の整備は国内生産による
  もののほか艦艇および航空機の一部をはじめ相当部分は米軍からの供与を予定することを前提」
(前掲書同ぺージ)としていた。そして、装備国産化の第一段階、いわゆる研究開発の段階にお
いて、すでに機関銃は国産化の先兵として、防衛庁の注目するところとなり、戦前からの機関銃
製造の“しにせ”日特金へ研究開発を依頼し、三七年には開発が一段落したことを示す制式化が
行われているのである。
 「自衛隊の機関銃は他の装備同様に、当初はアメリカのお仕着せで供与されたものだった。そ
の種類はA1(口径七、六二ミリ水冷式)A4(口径七、六二ミリ空冷式)A6(口径七、六二ミリ空
冷式)M2(口径一二、七ミリ空冷式)短機関銃(口径一一、三ミリ空冷式)である。このうちA1、
A6の損耗夏新用として、二九年から日持金属工業で開発、試作一〇数丁、使用弾薬一〇数万発
と六年余の歳月を費消して、三七年に仮制式となったのが“62式七、六二ミリ機関銃”である。
 三七年三六丁、三八年一〇〇丁生産したのち三九年以降は年産二〇〇丁ずつ生産、三次防期間
中に全師団はこれで装備され、四七年度からの四次防の終りには一〇O%国産化される。」(館
日新聞エコノミスト編集部編《日本の兵器産業》頁七八)
 以上が日特金における機関銃製造のあらましの歴史的背景である。

3. 東京都下ひばりヶ丘団地自治会機関紙「ひばり」(四一年九月五日)に日特金属工業の団地へ
およぼす騒音と震動についての同自治会の調査の結果が記載されている。
 「日特金属の騒音・震動については、かなり以前から居住者の一部では問題にされており、『
家具がゆれる』『赤ちゃんが目をさます』『夜どうしうるさくてかなわぬ』など折りにふれて苦情
が出ていました。」
 「間題の騒音と震動の原因ですが、調査の結果、騒音の原因としてはまず第一に同工場が製作
している自衛隊の機関銃の試射音があげられます。現在同工場が作っている自衛隊の機関銃は口
径が七、六二ミリのもので、最近の月間の生産量は不明ですが、要するに一丁一丁全部の完成品に
ついて同工場内で実弾による試射がおこなわれるわけです。(中略)特にひどいのは、いわゆる
耐久試験をやるときで、銃身が焼ける寸前まで射ち続けます。この試射は主に昼間おこなわれる
ようです、が時には夜間にわたることもあります。」
 ひばりヶ丘団地は日特金属工業田無工場の西側に隣接しており、機関銃の試射音に住民は長い
間なやまされてきた。団地自治会(佐藤安政会長)では、こうした騒音公害、及び弾薬庫の存在
の危険性を重視して、住民に働きかけて、被害の実態調査や、会社側との交渉を行なってきた。
四一年二一月一〇日付の「ひばり」によると、その被害の実状報告として「夜勤あけで帰っても
安眠できない。震動でタイルが割れたり、壁にひびが入る」といった状況が報告されている。
 また同紙に自治会代表など三〇名が円特金を「実地調査」のため訪れたが見学を拒否されたい
きさつが記載されている。それによると「応待に出た同工場奥平総務課長は『当面は工場をみせ
てはいけないといわれている(防衛庁か?)』といって工場内見学を拒否した。」とある。
 ひばりヶ丘団地住民はいわゆるホワイトカラー(中産階級)を中心としている。団地自治会の
機関紙をみるかぎりでは、日特金の機関銃の試射による騒音を「平穏な生活をおびやかすもの」
として、いわゆる公害問題としてとりくんでいる姿勢がうかがわれる。同時に兵器生産自体への
疑問へとそれはゆきつかざるをえないのであって、たとえば「ひばり」(四一年九月五日)「意
見」欄に、同団地六四〜二〇四の佐々木さんの意見として、「音の量を少なくするために日特も
本気になって考えてほしいと思います。しかしそれにしても大住宅地の隣りに、武器を作る工場
があり、危険物がおかれたり、武器のテストが堂々と行なわれているのは、どう考えても変です。
法律はこれを許すのでしようか」とあるのは、その最もよい例である。
 日特金属の機関銃生産のくわしい実態は、現在外部のものにとって、ほとんど知ることはでき
ないのだが、以上にのべたような工場周辺の地域住民大衆へ、「平穏な個人生活をおびやかすも
の」として、あるいは理念としての現在の日本(平和国家としての)にそぐわないものとして、
心理的に諸々の影響を与えていることは事実である。
 ここで問題となることは、付近往民の工場見学の申入れが拒否されたということである。後に
くわしく述べるように、兵器の製造は国民(=人民)の目のとどかないところで秘かに行なわれ
ているのが普通である。兵器が人民の目にふれるのは、「国防」「秩序を維持する」ためという
諸々のイデオロギー的粉飾をほどこされて自衛隊の戦力そのものとしてつまり抽象的な「戦力」
の次元でのそれとしてである。このことは「企業秘密の防衛」等々の理由づけで正当化がいかに
試みられようとも、本質的に人民に敵対する国家の暴力装置の一環であるということの一つのあ
らわれにほかならない。
4、日特金属工業は機関銃のほか、ブルドーザー、軸受、ブラウン管の金型などを製造している。
そして外部に公表される会社の実績の中に機関銃生産のことばほとんど出てこないのがふつうで
ある。
こうした中で、人民の多くは、兵器生産が、単に一般的道徳的に“悪”であるということではな
く、自らに敵対する構造的根拠によって成り立つものだということを“感性的”に知りえない状
況の中に立たされているわけである。
 さらに機関銃製造の技術的側面において、工業技術一般と通じることで、兵器生産そのもの
のもつ階級性は隠蔽される。つまり機関銃製造にたずさわるものは単に技術を媒介として、機関
銃そのものに対峙するということで、その社会性は、つとめて払拭されるのである。
 防衛庁側の日特金属への、機関銃の性能に関する「希望」は次のようなものであった。「現防
衛庁陸幕武器課火器斑長の斉藤二佐は新機関銃に要求された性能について、
 『元来、機銃というものは軽機と重機に分けられ、移動に便な軽機は攻撃的な長時間の連続射
撃に耐えられる重機は防衛的な戦斗に向く性格をもっている。しかし最近の世界的傾向として、
この両者を兼ねそなえた中間的な性能を具備そなえるものが要求されるようになってきた。新機
関銃も、この点を考慮し、このような戦術要求に応じられる性能のもの、という線に沿って研究
が進められていった』 と語っている。」(国際出版K・K《GUN》昭和四〇年七月号、頁一
一)
 そして、昭和三一年一〇月一九日付で日特金に手わたされた仕様書(Cal30新MG試作仕様
書)の骨子は次のようなものである。
(1) 試作の目的
 自衛隊で現用しているA1。A4・A6に代わり、系列を統一し、製造・補給・整備を容易に
し、また銃身を即時交換して、重機軽機両目的に使用する。
(2) 主要諸元
@口径    三〇吋(七、六二mm)
A使用弾薬  米軍制式口径.三〇弾M2型
B発射速度  約四〇〇〜八○○発/分
C重量    重機の場合約一二s
       軽機の場合約一〇s
となっている。この仕様書をもとに日特金で第一次試作がおこなわれたのである。その後第二次、
第三次、第四次の試作をへて、現在の62式機関銃が量産体制に入ったのは三七年である。
62式機関銃はガス圧作動方式により
 口径   七、六二mm
 全長   二一〇〇mm
 銃身長(消炎器共)六〇〇mm
 全重量  一〇、七s
 ライフリング 四条回転二五四mmにつき一回転
 発射速度(定装弾) 八五五m/秒
となっている。
 こうした機関銃をつくる上で「機関銃は、その性能の一つとして“完全互換性”を要求される。
 つまり、すべての部品はどの機関銃にも合わなくてはいけない。いま一〇〇丁の機関銃を、バ
ラバラにしてまぜ合わせて組立てても一〇〇丁ともぴったりと組立てられなければならないのだ。
日特金ではその加工精度をプラスマイナス百分の一ミリから千分の一ミリに保っている。機関銃
とは“超精密工業”であるのだ。」(毎日新聞社《日本の兵器産業》頁七二)このような技術的
側面において「機関銃のように超精密加工に習熟している会社は何でもつくれる(河村正弥日特
金常務)」(前掲書)というような自負も生まれるわけである。つまり、こうした技術が基本的
に果している反人民的役割ば糊塗されて、技術そのものの優秀性が云々されるわけである。
 こうした技術の延長線上に、日特金では機関銃のみならずバルカン砲の試作も始める動きであ
るo昭和四四年四月一〇日付の日刊工業新聞によると、
「防衛庁はF14EJ戦斗機に装備するバルカン砲(M61−A1)を国産化する方針を決め、F
104J(航空自衛隊の現有機)の生産実績のある日特金属工業との間で調達契約を結ぶ意向である。
これにもとづいて同庁では六月中にバルカン砲国産化に必要な手続きをとるよう日特金に指示す
ることにしている。
 日特金はバルカン砲国産化にそなえ、ライセンスを所有しているGE(ゼネラルエレクトリッ
ク)と給弾装置『ガン』コントロールなど一連のシステムについて技術提携を結ぶ方針である。」
となっている。
 このようにして、ますます反人民的な兵器生産に拍車をかけているのが日特金の現状である。
 さらに「注意しなければならないのは各国共通によい機関銃というのはないことだ。極端にい
えば、アメリカ人にとって優れた機関銃でも日本人にとっては必ずしも適したものとはいえない
からだ。というのはアメリカ人と日本人とでは体格がちがうからである。」(毎日新聞社《曰本
の兵器産業》)という点から、また、アジアにおいては機関銃製造工場は、中国を除いて日特金
一つしかないという点から、アジア地域一帯の“死の商人”として、反革命軍の暴力装置用とし
て大いに商品価値のあるの、かこの機関銃なのである。
 日特金の場合、先にのべたように機関銃の受注量=生産量が生産能力に比して、きわめて少な
いというのが現状で、海外輸出は垂涎の的である。
 「国内需要が限られているなら、お定まりの輸出の話になる。防衛庁陸幕では『国名はいえな
いが買いたいという国がある』といい『インドネシア軍の将校が、アメリカに機関銃買付けに行
き、国防省で逆に62式を推薦され、買いたいといってきたことがある』(河村常務)と引合いは
あるが、例の『武器等製造法』で紛争当事国へ輸出が禁じられており、たとえ紛争当事国でなく
ても政治的にほぼ不可能だ。」(前掲書頁八一)
 たしかに武器輸出の法的規制はあるが、しかし、「機関銃そのものが無理なら、プラント輸出
はどうか。この方は少し抵抗は少なそうだ。お隣りの韓国では“日本からは導入しない”といっ
ているが、武器工場設立をあきらかにしている。日特金にもプラント輸出の話はきているという。
」(前掲書頁八二)。
 ここでは機関銃そのものが、こうした資本−商品の形をとって、暴力装置としての実質をあた
うるかぎり人民の目からおおいながら流通していく過程をみることができる。
 人民自身の主体において、こうした兵器生産を阻止していないかぎり、日本、そして東アジア
一帯への武器輸出を一つの契機に反人民的な抑圧体制ばますますその力を強めていくことは、も
はや自明の理である。
三、機関銃の戦略的効用性
1. 機関銃を、その効用面からみるならば、端的に相手方の人間そのものの生命をうばうことにあ
る。(太平洋戦争中米軍機によってなされた機銃掃射を想起していただきたい。)
 爆弾、大砲等が、人間そのものより、施設・建物などの破壊を主目的としたものであるのに対
し、機関銃の持つきわだった特性はここにある。さらに同様の目的を有する小銃・ライフルに比
べ銃弾の連射により、効率的に(少数で多数を)殺傷できる点できわだっている。
 機関銃が兵器として完成の域に達したのは、一八八七年、イギリス人、ハイラム・S・マクシ
ムによってである。彼が製品化した機関銃を南アフリカのボーア人に売り、ボーア人は南阿戦争
で、これを使用し、イギリス軍の砲兵陣地を全滅させてしまった話は有名である。
 いうまでもなく、一九世紀は、イギリスにとって、アジア・アフリカに拡がるその植民地支配
体制が頂点に達しようとする時代であった。イギリスはインドを中心に、フランスはインドシナ
を拠点に、帝制ロシアはアジア・ヨーロッパにまたがる広大な版図を基盤に、それぞれ中国(清)
への侵略を企図しつつあった。
 一九世紀後半から二〇世紀前半にかけては、また、アジアの植民地従属国人民が、長い隷属の
紐を断ち切るべく反乱を開始した時期でもある。
 こうした状勢下で、機関銃は専ら植民地人民に対する弾圧の最も効率の高い手段として使われ
た。
 支配者は、常に被支配者よりも少数である。なかんずくインド・中国等々アジア諸国は厖大な
人口を擁している。数量的には圧倒的多数である植民地人民を少数の支配者が効率よく殺傷する
には機関銃はまさにおあつらえむきであった。
 さらに機関銃のもう一つの特性である対人殺傷性は、植民地現地の諸施設にさしたる損傷を与
えることなく(それらは植民地支配者が原地人民の搾取・収奪のもとに築きあげた彼らの私有財
産である)、抑圧者に対する反抗の意志を持つ個体(=人間)をこの世から抹殺してしまうの
に大へん都合がいいわけである。支配者のいわゆる「治安」の戦略と戦術の特性はつまるところ
ここにある。
 支配者の私有に帰する物的財貨(生産手段)があり、身一つしかわが物とせず、支配者の富の
増殖に日々奉仕させられている個体がある。プロレタリアートとしての個体はその次元では支配
者の富の一部でしかない。つまり完全に物と化した価値の源泉、資本の生血として規定されてい
る厖大な人民の群をプロレタリア階級と言うのである。しかし、そうした己の存在が物と化した
現実に対して反逆する意志をもつというのも歴史的に規定された必然性なのである。その意志を
現実のものとすべく一つの行動に現象させたとき、支配者はその個体を殺傷することによって、
“意志”そのものをこの世からほうむるわけである。支配者の治安の戦略に「思想面」が多くく
みこまれる根拠の一つはここにある。
 帝国主義支配者の対植民地弾圧を一手に引き受けてきた機関銃も、帝国主義列強が、中国への
制覇をめぐって同志打ちを行った最初の大きな戦争である日露戦争において、帝制ロシア軍が日
本帝国軍に対して使用し、抜群の効果をあげたことにより、各国軍隊で正式採用されることにな
った。「治安」専用から帝国主義列強相互の戦争の有効な武器として使用されることになったわ
けである。この時期は帝国主義列強の世界分割ばほぼ完了し、おくれてきた帝国主義国ドイツの
再分割への熱い欲望を軸として、あらたな争奪戦がはじまろうとしていた。
 その争奪戦が始めて世界的規模で展開された第一次世界大戦において機関銃は決定的な火力だ
った。一方植民地人民の反帝国主義斗争も帝国主義列強相互の戦争と併行して激化した。ことに
インドではロシア革命(一九一七)直後、広範な大衆斗争としてイギリス帝国主義者に対する斗
争が開始された。中国では一九一九年五月四日、北京の学生を先駆とするいわゆる五・四運動と
して、日本帝国主義に対する公然たる大衆斗争がまきおこった。
 こうした斗争の弾圧の武器として機関銃は必須のものになっていたのである。
 インドの場合、反英斗争は、ストライキ、警察署襲撃等々、民族ブルジョアジー(その代表者
がガンジー)の非暴力運動のワクをこえようとしていた。こうした斗争形態からあきらかなよう
に、反英斗争はプロレタリア階級の階級斗争として公然化したのである。
 これに対しガンジーは一九二二年二月、運動の打切りを命令した。以後一三年間インド人民は
英帝の抑圧のもとに苦吟し、今なお民族ブルジョアジーの支配下にあるのである。
 こうした点から看取されることは、植民地解放斗争を民族問題としてみることがいかに非現実
的であるかということである。
 インドを例にとれば、英帝国主義者はインドにおいて人民の労働力を、その肉体を召し上げる
形で最大限活用し二〇〇年の長きに渡って豊富な資源をみずからの財貨として手に入れ続けてき
たわけである。
 こうした搾取の対象となるのはいうまでもなく身一つしか私有せぬ(故に労働力をのみ売らね
ばならぬ)プロレタリア階級であり貧農である。こうしたプロレタリア階級の暴力的反乱に対し、
いみじくも非暴力を標榜する民族ブルジョアジーは、斗争を民族独立に限定し、ようしやなく抑
圧したのである。
 植民地解放斗争が〈民族〉という先験性から発し、そこへ終結する形で展開したことなど、歴
史上かつて一度もありはしないのである。それらは本質的には階級斗争として、いわば、それの
敗北の、あるいは勝利の歴史として展開されているのである。
 第一次大戦において火力兵器の最高水準としてあった機関銃は、戦車、戦斗機などと組み合わ
されることによって、さらに利用範囲を広めた。こうした兵器の技術的発展について述べておく
べきことは、先に述べた少数者である支配者と多数者である被支配人民との関連における〈技術
〉の果す役割である。
 帝国主義支配者は人民の多数に対するにその少数性を技術(の所有)によって補いつつ支配体制を維特し
てきた。機関銃を例にとっていえば、人民の政治的成熟度が一定水準に達したことに対するに、
小銃を機関銃に代えた、つまり技術の進展をもって応えたわけである。兵器製造技術の発展は第
一次、第二次両大戦を経るなかで急速に進展し、現在では地球的規模での戦斗力のほぼ頂点に達
した核兵器へと、その発展段階を画している。そうした段階において機関銃は「ボタン戦争の現
在でも軽火器戦斗の中心となっている」(エコノミスト《日本の兵器産業》頁七四)さらに「小
銃は世界的傾向として単発が少なくなり自動・半自動となり機関銃との境が近づいている」(エ
コノミスト《日本の兵器産業》頁七八)。つまり軽火器戦斗は機関銃ないしは機関銃的火器によ
つてその中心をになわれるとされている。
2. 一方に瞬時にして何百万人もの人間を殺す核兵器の体系が存在し、他方に機関銃が支配者の武
器リストの中に必須のものとして存在し続けているわけである。機関銃は戦車・戦斗機にとりつ
けて一そう効果的に使用される。そしてこうした兵器は現在、核兵器体系による戦争を全面戦争
というのに対し、局地戦、限定戦と称される戦争に適したものであることがきわだった特性をな
している。現在自衛隊で使用している機関銃を備えた戦車、装甲車を次に示す。
 M24戦車(機関銃HMG・M2一基、MG・M卿A4二基)
 M41A1戦車(機関銃HMG・M2一基、MG・M1919A4一基)
 61式戦車(三菱重工業、日本製鋼所製)(機関銃HMG・M2一基、MG・1919A4一基)
 M4A3戦車(機関銃HMG・M2一基、MG・M1919A4二基)
 37mm高射機関砲M15A1(重機関銃M2二基)
 40mm自走高射機関砲(機関銃M1919A4)
 60式装甲車(小松製作所、三菱重工業)(重機関銃M1919A4 一基)
 M3A1装甲車(重機関銃M2 一基)
 M32戦車回収車(機関銃HMG・M2 一基)
 M16自走重機四連装砲塔(重機関銃M2 四基)
 60式81mm自走迫撃砲(重機関銃M2 一基)(三菱重工業、小松製作所製)
 60式107mm自走迫撃砲(重機関銃M2 一基)(三菱重工業、小松製作所製)
 「62式につづいて、防衛庁は戦車、ヘリコプターなどに装備する反動利用の車載機関銃の開発
を日特金に依頼している。スケジュールでは四三年度に七丁を試作、四四年度に試射、四五年度
に改造して四六、七年頃から装備の予定という」(毎日新聞社《日本の兵器産業》頁八O)。こ
のように、日特金の機関銃は戦車等に装備して、新たな使用価値を開発すべく、防衛庁から期待
されているのである。
 経団連防衛生産委員会審議員の馬淵良逸氏は陸上装備の開発と装備の問題にふれて次のように
言っている。
 「巨大な破壊力を持つ核兵器と、それを遠距離に送達する手段が出現し、これによって戦争は
抑止できると考えられたために、陸上装備は一時精彩を失ったかにみえた時代があった。しかし
この状態は長く続かなかった。世界の現実と戦略思想の変化に伴って、陸上装備はあらたな観点
から国防上重要な意義をもつものとして、むしろ大きな関心の的となってきたのである。」(原書
房《安全保障と防衛産業》頁九〇)
 日特金への車載機関銃の開発依頼も基本的には、こうした日本ブルジョアジーの軍事戦略への
配慮に基くものである。馬淵良逸氏の書葉は、まず、現在の日本帝国主義者の戦略問題によせる
関心のありどころを鮮明に示しているのである。さらに「戦車は地上兵力のための大きな戦力構成要
素である。(中略)戦車とならぶ重要装備として装甲車がある。装甲車は機関銃で装備され、人
員輸送、偵察などを任務とするほか、もっと大威力の火器の自走化のための車体として利用せら
れる。」(前掲書頁八五)
 「対ゲリラ戦のような局地戦斗にそなえて軽量戦斗兵器が最近重視されるようになった。
何十年も一日のごとく旧態依然だった小銃にも革新の時期がきたようである。」(同頁九一)こ
うした認識は日本ブルジョアジーの戦力整備計画に忠実に反映された。
 それではブルジョアジーをして、こうした地上兵力を重視せしめるに至った背後のもの、馬淵
氏のいう「世界の現実と戦略思想の変化」を規定するものは一体何なのか?それを明らかにする
ためには、第二次世界大戦より現在にいたるまでの世界各国での諸戦争がいかなる展開をとげて
きたかを見る必要がある。
 「第二次大戦後の戦争形態は、起りうる可能性がありながらも、まだ起ってない戦争と現実に
起った戦争を区別して考えねばならない。
 前者は米ソの相互抑止により、かろうじてささえられてきた全面核戦争であり、後者は朝鮮戦
争、アラブ・イスラエル紛争、スエズ動乱、インド・パキスタン粉争などの正規軍同士の通常型
の戦争と、ギリシャ、ハンガリー、アルジェリア、キューバ、ベトナムなどにみられる国内紛争
に分けられよう。」(朝日新聞社《安全保隣とは何か》頁三三)
 つまり、抑止戦争、通常戦争、国内紛争の三つに分かれるというのである。ここから看取され
ることは、帝国主義者の植氏地人民への露骨な抑圧と、そして帝国主義諸国間の植民地争奪戦争
が密接に関連しながら進行した第二次大戦までの戦争と、戦後のそれは、抑止戦争という新たな
形態が加わることで区別される。しかしながら、戦後の戦争の特殊性は、単にその形態の変化に
よって規定されるものではもちろんない。
 周知のとおり第二次世界大戦は、アメリカ帝国主義による広島・長崎への原爆投下によって終
結した。それは帝国主義者同士の斗いが、全地球的規模で斗われるに至った社会的与件を、軍事
技術が忠実に反映したことの証しであった。帝国主義者は自ら開始した同士討ちの結末を、人民
を地獄絵の中にたたきこむ核兵器の使用によって、ようやく終結せしめえたのである。しかしな
がら、広島・長崎への原爆投下は帝国主義者自身の滅亡への序曲でもあった。自国のプロレタリ
アート、農民に武器をもたせ、排外イデオロギーをうえつけ、他国の人民の血を流させて、相互
の犠牲の上に自己の延命をはかってきたのが帝国主義者の常套手段であった。
 帝国主義者にとって地球上のありとあらゆる国家、そしてその大地、大地の上に営々と生活を
つづける人民は、単に自らのふところに舞いこんでくるべき利潤の源としてしか価値はない。と
ころが核兵器の威力は、こうした利潤の源泉である大地(生産諸手段としての)を荒廃させ、搾
取の対象とすべき人民の肉体をも地上から消してしまうのである。非和解的に敵対するプロレタ
リアートを、しかし、自らの生産活動の枠内に“生かして”とどめておかないかぎり自ら生きの
びることのできないブルジョアジー、そして帝国主義者の内にはらむ矛盾は、軍事技術に反映さ
れ、核兵器に行きつくことによってついにその頂点の形態をとったのである。「核兵器の出現に
よって人類は滅亡の危機にさらされている。だから何はさておき核戦争だけはさけねばならない」
と十年一日のごとく主張する平和主義者は、この人類という書葉のもつ歴史的規定性を考えてみ
たことがあるのだろうか。ブルジョアジーにとって類としての人間という概念は、労働力を発動
しうる、つまり搾取の対象としうる個体の算術級数的累積としてしか本質的な意味はもたない。
人類の危機なる不安感は、ブルジョアジーの搾取対象を失う不安の逆倒されて表現されたイデオ
ロギーでしかない。
 帝国主義の世界支配体制の内部の矛盾は帝国主義者自身によっては核兵器によって強引に解決
していく方向への一方的進行として越えられようとしたが、他方、そうした矛盾を人民の側が自
らのヘゲモニーで克服し、自らの解放をかちとっていく斗いとして、人民が自ら銃をとり帝国主
義者に挑戦する革命戦争としての過程が常に同時併行的に展開されたのが第二次世界大戦であっ
た。
 後者の過程はアジア各国における民族独立斗争という形態をとって進行したが、なかんずく一
九四九年の中国革命の勝利は、それの頂点をなすものであった。
 核への必然的な適程を形成した帝国主義支配者の世界制覇への欲求と、自らプロレタリアート
としての普通性にねざし、初歩的な銃を自ら身におびた人民の武装は、帝国主議国家機構の頂点
にすえられた核兵器と自らの生活の場で、自らを解放していくべく粗末な銃を手にした人民との
二重性として、その後の世界を規定する主要因となったのである。
 すなわち、世界帝国主義の盟主アメリカは中国革命を最初の噴出口とする世界プロレタリアー
トの革命への斗いを、いわゆる共産圏封じ込め政策として封殺していこうとする。戦後アメリカ
が世界中にはりめぐらせた集団防衛機構(北大西洋条約機構、東南アジア条約機構)そして米帝
を扇の要とした二国間相互防衛条約(東アジアに関しては日米安全保障条約、米韓相互防衛条約、
米華相互防衛条約など)が、共産圏封じこめ政策の軍事面を受持つものとしてある。
 このような戦略的立場を基底としながら、核兵器製造の技術は進展をとげていく。今や核兵器
の後だては帝国主義国アメリカの世界支配に必須のものとなった。核兵器は一九六〇年代に入っ
て、はじめて技術的に一応の完成をとげる。固体ロケットICBM、ポラリス潜水艦の完成によ
って、核弾頭の運搬手段が完成したのである。と同時に、彼らのいわゆる大量核報復力は米帝の
独占ではなくなった。一九五五年頃になるとソ連は中距離ミサイル(IRBM)そして大陸間弾
道ミサイル(ICBM)を続々と開発していくのである。
 こうした軍事的な背景を基盤として、いわゆる東西二大世界の対立という戦略図式が完成する
わけである。
 帝国主義のもっとも弱い環であった帝政ロシア人民の革命(一九一七年)は帝国主議の世界支
配をプロレタリア人民のヘゲモニーのもとで打破っていく世界革命の最初の烽火としてのみ世界
史的意義をもつのであるが、革命達成後のソ連指導部はこうした展望にもとづく帝国主義者との
斗争をかなぐりすて、自らの支配者としての利害を帝国主義者との取引でもって自己に有利に導
いていくという政策をもてあそぶようになる。いわゆる共産圏といわれるブロックの形成はこう
した官僚層の支配するエセ社会主義の産物といってよいのである。そして、相互に核兵器をうし
ろだてにした東西二大陣営の対立という政治的表現として、そして現在的には両者の平和共存と
して帝国主義者と、エセ社会主義国の支配者たちは人民の上にあぐらをかいているのである。つ
つがなく人民を搾取・抑圧していく路線として現在彼らのいう「平和」の意味はあるのであり、
核兵器の厖大な保有によるいわゆる抑止戦略という考え方も、基本的には彼らの利益を維持して
いくという意図のもとにたてられているのである。「核兵器をもつこと、核兵器の均衡によって
世界の平和は保たれている」といった議論は、こうした平和という書葉の歴史的規定性において、
人民にとっては徹底して欺瞞的なものである。ここには彼らの支配永続への欲求を平和という理
念にすりかえるごまかしがある。
 しかしながらこうした二大世界の対立または、その裏がえしでしかない平和共存のもとで人民
の革命的エネルギーが窒息してしまったわけではない。インドネシア独立戦争、ギリシャ革命戦
争、フイリッピン革命戦争(フクバラハップ反乱)、マラヤ革命戦争、インドシナ戦争として一せ
いに火ぶたを切った戦後の革命的人民の帝国主義者への反乱は「抑止戦略による平和」「共存によ
る平和」が、かしましく云々される中で、朝鮮戦争、アルジェリア革命、キューバ革命、ラオス
内戦、そしてベトナム戦争とたえることなく火をふきあげていったのだ。
 こうした状態に対するアメリカ帝国主義者の基本的戦略は何か?
 当初は、彼らはこれを核兵器の絶大な威力の誇示によっておさえるという戦略をとった。一九
五四年一月一二日、米外交協会で当時の国務長官ダレスは次のようにのべている。
 「われわれの軍事計画に変革を加えるに先だち、大統領および国家安全保障会議は、いくつか
の基本的政策を決定した。その基本的政策とは、われわれの選ぶ方法で、必要な場所を即座に反
撃できる強大な報復力に、主たる重点をおくことである。」
 ところが当のアメリカ帝国主義者は朝鮮戦争の現実に直面し、植民地支配から脱した朝鮮人民
の革命的エネルギーによって四〇万の死傷・捕虜を出すことを余儀なくされたのである。そして革命戦争
の火はラオスヘ、キューバヘと飛び火する。こうした現実はソ連が核兵器を整備したこととも手
伝い、アメリカ帝国主義者の恫喝路線の破綻をきたした。
 抑止戦争重視から、彼らのいういわゆる通常戦争、内紛という、全面戦争に対する局地戦争へ
対応しうる戦略へと米帝の戦略ば変化していく。
 この戦略は一般に柔軟反応戦略といわれていて、最初にこれ(採用を公式に表明したのはケネ
ディ大統領であった。
 一九六一年三月二八日大統領は国防予算特別教書を議会に送り、その中で次のようにのべてい
る。まず「われわれの軍備の主目的は平和であって、戦争ではなく、それを使う必要が決して
起らないことを確実にすること、全面戦争と限定戦争(中略)の区別なくいっさいの戦争を抑止
すること、攻撃が無益であることを、すべての潜在的侵略者に納得させること(中略)にある」
と、帝国主義者の常套文句「軍備による平和」を説いた後、限定戦争での軍事力の目標とし
て「われわれの対応力を非核兵器に限るように能力を増大すること、われわれの対応力がなしう
ることを明らかにすることによっていかなる局地侵略に対する誘因をも減少すること」とのべて
いる。さらに具体的には「世界の大半の地域では、公然たる攻撃や、破壊工作や、ゲリラ戦に対
する局地防衛の主要分担は地域住民や地元部隊が負わねばならない」が、局面が重大化したとき
には「われわれはこの種の戦斗の訓練を受けた強力かつ機動性にとむ部隊」で援助できる用意を
整える必要があるとしているのである。つまり、核戦力から通常兵器への重点の移行ということ
が唱われているわけである。こうした基本的戦略ばジョンソン大統領によって継承される。一九
六六年六月一八日、当時の米国防長官マクナマラはモントリオールでおこなった演説の中で次のよ
うにのべている。まずマクナマラは世界各国を一人当り国民所得の高低によって四グループにわ
け「一人当り年所得一〇〇ドル以下の国、つまり極貧の部類に属する諸国では、三二ヶ国が重大
な内乱に苦しんでいる。(中略)一九五八年以来重大な暴動が発生した件数は極貧の国で八七%、
貧しい国で六九%、中位所得の国で四八%である。経済沈滞と暴動発生との関連が確実な点から
みて、南半球の諸国の前途ば暴力をはらんでいる」と。アメリカ流の機能的な分類に示される
“暴力をはらんだ南”。その最も激烈なあらわれがベトナム戦争なのである。ここに示される事
態は東西二大ブロックの、力の均衡という支配形式(それを遂行していく上で帝国主義者にとって
必要不可欠なのが核兵器である)に頼って、自らの支配体制の永続化を計ることが不可能になっ
たことへのブルジョアの側からの認識と、それにもとづいた軍事戦略の変更である。
 それは一言でいえは核兵器万能から、通常兵器重視への転換である。帝国主義者は、世界人民
の、自らの生活の場において、自らの手に武器をもって斗う戦斗形式=直接的にはゲリラ戦に対
応する形で自らの戦略、そして軍備の構成を変更せざるをえなかったのである。
3. 冒頭にのべた日本ブルジョアジーの陸上装備重視の軍事政策は、こうした世界的な政治=軍事
状勢の転移のしからしむることであるのはいうまでもない。
昭和三二年五月に国防会議が決定した「国防の基本方針」によると、日本の国防の目的・規定は
次のようになる。「国防の目的は直接および間接の侵略を未然に阻止し、万一侵略が行われると
きはこれを排除し、もって民主主義を基調とするわが国の独立と平和を守ることにある」。そし
て「わが国の場合、防衛計画の立案にあたり、防衛関係者の間で直接的な軍事的脅威と考えられ
ているものは、まずバイカル湖以東の沿海州や樺太地区に展開するソ連の陸・海・空軍であり、
とくにその地上兵力としては艦艇を中心とする渡洋作戦能力の増強が注目されている。また、中
国人民解放軍の脅威については一九六四年に実験がはじまった核ミサイル戦力の将来と、潜水艦
兵力などが重視されているが、それ以上に、中国の唱える民族解放戦争方式が、可能性の高い侵
略形態として間接侵略という面から強調されている。」(朝日新聞社《安全保障とは何か》頁四
七)
 日本ブルジョアジーは、その「国防上の脅威」として中国とソ連を仮想敵とみたてていること
は周知の事実である。このことは先に述べたアメリカ帝国主義の、戦後の世界階級斗争の激化に
規定された「共産圏封じ込め」(そしてソヴイエト連邦との平和共存が基本的な路線として定着
されたのちには「中国封じ込め」)政策の一環として、日本帝国主義の軍事戦略がたてられてい
ることを示す。それを政治的に裏づけるのが日米安保条約である。
 そして日帝のこうした軍事戦略は、復興自立化した帝国主義国日本のアジア各国への進出とい
うことを、潜在させたものであることはいうまでもない。潜在的なアジアヘの軍事進出の意図は
当面は、日米安保条約を媒介として、東北アジア、東南アジア各国との反革命的紐帯という形で
現象する。それは政治的にはアスパック、日韓会談等々として、軍事的には自衛官の海外視察(
タイ、ベトナム、韓国などへの)としてあるのである。
 以上が、ごく大ざっぱに見た日本帝国主義者の軍事戦略の背景である。ここで注目すべきこと
は、彼らによって「間接侵略」ということが、とくに重視され、その仮想敵として中国、そして
中国政府首脳の唱える「民族解放戦争」方式に照準があてられていることである。間接侵略とは、
彼らのいう内乱状態のことであり、一国における階級斗争の最も激化した形、すなわち革命の状
態をいうのである。すなわち日本ブルジョアジーが自らの武装の根拠としていいたてる「国防」
という大義名分が、現実的には成りたたなくなるような戦争形態である。なんとなれば、ブルジ
ョアジーのいう国防とは一民族領域をその単位としてはじめて成り立つものなのであるが、内戦
は、その内部での戦斗として展開されるものであるからである。
 昭和三五年の安保斗争は、戦後において、そうした階級斗争が、未だ内戦という形はとらずと
も、最も激化したものであった。そしてこの年の一一月防衛庁陸上幕僚監部は、治安行動に関す
る草案、 通称治安行動草案を「陸上自衛隊の訓練に資するため」(同草案中の一節)隊内に配
布した。その名の示すとおり自衛隊の治安出動に関し、詳細にその行動要項を規定したもので、
まず第一章総論の第一節第五項の「行動の特性」には次のような記述がある。
 「a、一般の作戦行動との相異。一般の作戦行動は敵をせん滅することに努力を払い、速かに
戦勝を獲得して国家を防衛する行動であるのに対し、治安行動はその事態に応じ寛厳よろしきを
得た手段によって暴動を鎮圧し、秩序を回復して国家の安金を確保する行動である。治安行動の
対象である暴動は、宣戦布告のようなことがなく各種の原因からはじまり、明瞭に見わたせる戦
線がなく、多くは暴力を許す住民に依存してその住民の中で行なわれ(後略)」。
 ここに、帝国主義ブルジョアジーが現在的に、科学技術の上限であるエレクトロニクス核兵器
を保持しながら、しかし、それによるのみでは自らの支配を永続せしめえないことの最も明瞭な
証しが、彼らの言葉として看取される。「暴力を許す住民に依存して、その住民の中でおこなわ
れる」戦斗。そしてその住民は、自らの支配秩序の中にくりこまれているべき住民として、平和
時にはある。つまり搾取の対象としてぜひとも秩序正しく生活していてもらわなくてはならない
のである。
 ここにいわゆる治安行動にむけられる帝国主義支配者のジレンマがある。すでに支配秩序をう
ちたてている内部での戦斗へ火器・兵器が強大になればなるだけ戦争によって大きな成果が得ら
れるという、他国への侵略ないしは帝国主義者間の戦争とは区別される特殊性がここにある。そ
こで武器は、対人殺傷性のきわだった小銃、機関銃などが彼らにとって重要視されてくるわけで
ある。
 そのことは同草案第一章第三節の「部隊及び装備・資材」にはっきりとみてとれる。
 すなわちそこでは小銃編成の部隊あるいは特車(=戦車)、装甲車部隊がきわめて重要な位置
を占めるものとして明記されているのである。
「一六、小銃編成の部隊(機関銃を含む編成のものも含む。以下同じ)
 a、小銃編成の部隊ば、治安行動における基本的な部隊であり、融通性に富んでいるが、小部
隊に分散するときは暴徒に乗ぜられやすい。(後略)
一七、特車、装甲連部隊
 a、特車、装甲車部隊は暴徒に対する威圧効果を有するが、暴徒の火炎びん・爆薬等の使用に
対しぜい弱性を有する。特車、装甲車等には発煙、化学剤放射等の装備を施して使用すれば有利
である。」
 こうした治安行動への動員体制の整備とともに、「間接侵略」ということが、ブルジョアジー
によっていいたてられる。このことは、階級斗争が、たとえ一国内での内乱という形をとろうと
も、それのみで終結することは不可能であるという現在の歴史的段階に対するブルジョアジーの
側の認識に基づくものであり、同時に「国防」というブルジョアジーの暴力装置保持の最大の大
義名分を何とか保持していくための配慮でもある。
 日本国内で武装による革命情勢がまきおこった場合、それは当然東アジア全体をまきこんでい
く戦争へと拡大して展開していくべきものとしてあるわけである。日米安保条約にもとづく米軍
の出動、そしてそれは米帝国主義が東アジア全般、中国の外域に軍事力を展開しているという「
国際性」をもつものである以上、東アジア諸国の階級状勢を激化せずにはおかない。そうした状
勢をブルジョアジーが「先取り」するための布石として「間接侵略」ということはいいたてられ
ているのである。けだし、ブルジョアジーの側にとっても「国際的展開」をもってしないかぎり
「国内の治安状勢の激化」に対処するすべはないのである。
4. 自衛隊における治安出動訓練の実態を伝えたものとして、四一年八月一九日付西日本新聞の次
のような記述がある。
 「東京練馬の陸上自衛隊第一師団――隊員たちが妙な小銃をもって訓練している。銃身の中ほ
どに三〇センチ四方ほどの板がついている。銃を斜めに、やや高く胸にかまえると、Yの板が額
の前にくる。暴徒の投げる石を防ぐタテだ。これは治安出動訓練なのである。
すこしはなれたところには、有刺鉄線を円筒型にぐるぐる巻いた大きな長い輸がある。これは、
たとえばヘリコプターで空からデモ隊の中に投げ落とせば、デモの列を分断することができる。
陸のある幹部の話では『デモ隊など五分あれば鎮圧できる』という。デモ隊が進んでくる。まず、
リーダーの群と後続のデモ隊の間に、例の針金のバリケードを落してしや断する。ヘリで上空か
ら薬剤を散布する。デモ隊の行動力を奪うだけで、薬はすべて人体に無審という。指導者群の逮
捕には、第一師団のえりぬきの通称“新撰組”があたる。
 陸上の各師団は、年間四五時間の治安出動訓練をすることになっており、首都の治安任務を持
つ第一師団がもっとも力を入れているし充実もしているようだ。」
 こうした国内「治安」行動に必要不可欠なものとして、小銃、機関銃、装甲車などがあるとい
うことは前に述べた通りであるが、つねにこうした、デモ隊、暴徒鎮圧訓練をおこなうことで、
その効用性はブルジョアジーにとって、現実的なもの=すなわちプロレタリアートにとっては、
自らへ向けられた暴力装置の一層の凶暴化を意味するのはいうまでもない。

四、代表的な兵器製造会社
 日特金をその一環とする日本の兵器産業はすでに述べてきたようにブルジョアジーの私兵自衛隊
を主要な取引先とし、ブルジョアジーの政治委員会である政府さらにはそれを頂点とする彼らの支
配組織(国家)を彼らのヘゲモニーのもとで強化延命させていくための必須の条件として成り立っ
ているのだ。
 われわれにとって兵器生産とはこうした本質規定において、国家の独占使用を通じて人民に対し
ているという事実においてはじめて問題になるのであり一日特金で機関銃を製造していることが人
倫に反すとかどうかというような問題ではない。
 ここに代表的な兵器製造会社を列挙し、その内実をあばいていくゆえんもそこにあるのであって、
総体としての日本ブルジョアジーの私的暴力装置補給体制との関連においてはじめて日特金の機関
銃製造の反人民的本質もあきらかになるのである。
1. 昭和化成品(社長森暁、東京都中央区日本橋人形町資本金一億円)
 その売上比率の五四%が火工品部門(会社発表)で、防衛庁をその主要な取引先とする典型的
な兵器産業である。
 主な製品は口径五〇機閥銃弾(リンク付)、二〇mm機関砲演習弾、口径五〇:M17型曳光弾(
銃弾)等である。
 昭和化成品の前身は昭和火薬であり、旧海軍の照明弾や信号弾のメーカーであった。昭和火薬
は当時の肥料メーカー昭和電工の子会社であり、銃弾の主原料である火薬の量産に必要な中間原
料である過酸化アンモニアは昭和電工が供給していた。
 昭和火薬が昭和化成品として息をふきかえしたのは、朝鮮特需も下火になり、防衛庁が兵器国
産化の方針を打ち出したとき、つまり一次防のはじまった昭和三二年頃からであり、この年に
一二、七mmの機銃弾、二〇mmバルカン砲弾を、同社最初の製品として防衛庁へ売っている。
 その後の推移をみると、三三年度に一二、七mm弾が六五万発、四三年度にはこれが一七〇万発に
ふえ二〇mm弾は四一年度一〇万発、四二年度三六万発、四三年度三五万発となっている。これら
はほとんど訓練弾として自衛隊の演習において使用されている。一二、七mm機銃弾は61式戦車に装備
されたHMG・M2及びMG・M1919A4機関銃用の銃弾として、またF86戦斗機がこれを積んで
おり、空と陸にまたがって広く使用されているのである。
 二〇mm弾はF104J戦斗機に使用されている。現在機関銃は同社平塚工場で製造されているが、
「昭和化成品の関取締役第一営業部長ば『設備の稼働率は五割程度』だという。」(毎日新聞社
刊《日本の兵器産業》頁八○)
 つまり設備に比して生産高はまだまだ少ないというわけで、日本ブルジョアジーの軍隊装備計
画に先行する形でこうした企業は手ぐすねひいているのである。「関取締役は『輸出がしたい。
商売からいえばほんとに輸出したいですね。』としみじみした様子をみせた。」(同書、頁九〇)
この一節がそのことを如実に物語っている。
 なお下請関連工場は信管がリコー時計(愛知)、弾頭部が神戸製鋼所(兵庫)、弾体・三菱製
鋼(東京・深川)、雷管および雷きょう・古河電工(兵庫)、三谷伸銅(京都)、発射火薬。ダ
イセル(兵庫)、旭化成工業(大分)、弾帯・平田プレス工業(東京・足立)などである。
2. 旭精機工業
 (社長大隈孝一、所在地 愛知県東春日井郡旭町新居五〇五〇、資本金四億八千万円)
 中京地区では有数の大隈鉄工株式会社の子会社として昭和二八年八月旭大隈工業として設立さ
れる。同じ大隈系として繊維機械を製作している旭大隈産業の前身は昭和二二年に設立された大
隈鉄工旭兵器製作所であり、戦前から兵器メーカーとして実績をあげてきた。
 自衛隊用の小銃弾メーカーの代表格であり、現状の生産状況は「四三年陵は陸上幕僚監部出契
約分として口径七、六二mm普通弾など約二千三六六万発を受注。国庫債務負担行為により七、六二mm普
通弾約五六八万発(約二億九二八万円)も受注した。四三年度受注は合計約二億九千万発」(《
日刊工業新聞》四四年一月一四日)となっている。
 同社の小銃弾製造は多岐にわたり、ざっとひろっただけでも前出の七、六二mm普通弾、九mm銃弾、
口径四五曳光弾、等々十指に余る状態である。七、六二mm銃弾は自衛隊の小銃に装填される銃弾の
中軸をなしており、狙撃銃として治安行動に適している64式小銃もこれを装填する。
 威かく狙撃を主目的とする小銃弾は階級斗争の現段階的特殊性に規定された戦斗形態、彼らの
いう「間接侵略」に欠くべからざる兵器である。これら小銃弾がとくに治安対策用として階級斗
争の激化にともなって増産されていくであろうことは明らかである。「同社の設備能力からよる
とまだまだ十分な受注量ではない。しかし今後の受注量は漸増となる見通しで、銃弾部門担当の
常務松沢豊吉第一事業部長は『希望的数字だが、三次防最終年度の四六年度には四千万発が見込
める』と仕事量についてはあまり心配していない」(《日刊工業新聞》四四年一月一四日)とい
う記述にも、そうした事情の一端がうかがえる。
 また同社が現在使用している機械設備は、戦前のものが主体になっており、「各工程間に人手
がかかるなど作業工程の流れがスムースにいかない」(《日刊工業新聞》四四年一月一四日)そ
のため四四年度中には「五、六億円をかけて輸入機を中心に全面的に設備を更新する」(吉村進
事務の話)という。
 また旭精機のきわだった特質は銃弾生産に直接たずさわる労働者の大部分が中卒の女子によっ
てなされているということである。未だ若年の女子をして「死の商人」のくびきのもとにつなぎ、
小銃弾の専門メーカーとしては日本で唯一のものである点から考え、自衛隊の需要の伸びにつれ
て合理化労働強化として彼女らの上にそれはけねかえってこざるを得ない。まさに二重の意味で
反人民的な、旭精機は、死の商人の典型である。
 一方「銃弾の輸出問題について松沢常務は『台湾などに出張すると、売ってくれという話はあ
る。』」(《日刊工業新聞》四四年一月一四日)と語っている。会社側は輸出については否定し
ているとはいうものの一たん設備を拡充した以上あともどりはできないという資本制下の企業の
特性からみても、アジアにおける階級斗争の激化、そして日本帝国主義のアジアにおける盟主的
立場への熱い欲望からも兵器生産を人民のヘゲモニーで打破し、止揚していかないかぎりアジア
各国への輸出は、必至である。
5豊和工業
 (社長野崎信義 所在地愛知県新川町須ヶ口 資本金三〇億円)
 豊和工業の兵器メーカーとしての歴史は長い。明治四〇年当時は紡織が日本資本主義の中心的
業種をなしていた。
 その紡織用の機械製造会社「豊田式織機株式会社しとして発足した。太平洋戦争の前夜である
昭和一一年、兵器生産を専らとする別会社「昭和重工業株式会社」を設立、のち一六年にこれを
吸収して「豊和重工薬」と改称、38式歩兵銃を改良した《99式小銃》を最産した。昭和二七年
〜三二年にかけての朝鮮特需でご多分にもれず兵器生産会社として蘇生した。
 米軍特需の内訳は手榴弾一五〇万発、八一mm迫撃砲四〇門、七五mm榴弾弾体四万発などである。
昭和三九年自力開発した小銃が防衛庁の制式となり、四〇年専門の火器工場ができてからは本格
的な量産体制に入り、小銃メーカーとしては日本の大御所である。豊和工業の著しい特質として
あげられるのは企業体としての次元で単に防衛庁を“おとくい”とする、あるいは防衛庁の需要
をみこんで兵器生産を手がけたというにとどまらず、当初から政府の軍事化計画を先取りする形
で兵器の開発にあたってきた点である。
 「まず64式小銃完成までのいきさつを聞いてみた。『ヒモつきではなく自主的に育ててきたも
ので、外国銃に比べてもヒケはとらないと自負しています。』と早川火器部長ば胸をはる。(中
略)スタートは野崎誠一会長のツルの一声だった。『日本人の体格にあった新しい小銃を開発せ
よ』。野崎会長は『国を守るのに外国製の武器を使うのは間違っている』という信念をもつ“愛
国者”である。(中略)そこで昭和二二年『R委員会』がつくられた。(中略)かつての小銃生
産は軍が研究し、開発した銃の仕様書、設計書によってそのとおりにつくればよかった。ところ
が防衛庁は新小銃が必要とは認めているものの、当時はまだ公式な要求性能仕様書などありうべ
くもなかった。スタッフはまず、設計方針をどこに求めるかを決めることから出発したという。
各国小銃装備の状勢と、かつての経験とを綜合して、将来戦の用兵に適応するため重点を次の五
項目にしぼった。
 @北大西洋条約機構加盟国のNATO弾(口径七、六二mm)を使用しうること。
 A単・連発が可能、つまり半自動・全自動を兼ねること。
 B連発時の命中精度がよいこと。
 C軽量で反動が小さなもの
 D操用の便利さから曲銃床とすること。
(中略)昭和三三年まずR1,R2と名づけられた、試作モデルができ、つづいてR3、翌年の
三月にR3の改良型が完成した。この時当時の防衛庁陸幕武器課長が工場巡視にきて、認められ
ることになる。以後の研究は、防衛庁の応援のもとに進められ、三五年以後三七年にかけてR6
型試作が続き、防衛庁から七丁の公式試作が発注されるまでにこぎつけた。」(エコノミスト刊
《日本の兵器産業》頁六一〜六二)
 この記述の中に、豊和工業が個別に将来の戦斗形態までをも考慮に入れて、むしろ防衛庁をリ
ードする形で研究開発を進めてきたさまをうかがうことができよう。まさに典型的な「産軍共同」
である。こうした研究の結果生まれた64式小銃は、その命中精度が抜群であることで高名である。
 「アメリカのさる高名な銃機専門家が三年前にきて試射した感想が『この銃はNATO弾を使
っている小銃の中では最優秀である。ただしいて難点をあげれば、音と炎が大きい。』というこ
とだった。」(前出書、頁六五)と、その性能には折紙つきのものである。
 小銃は先に述べたとおり、彼らのいう「暴徒制圧」に欠かせないものである。昭和三五年安保
斗争の年、陸上自衛隊の作成した「治安行動草案」には暴従を制圧するために武器使用を「敵行」
する際「なるべく狙撃によって必中を期する」とある。現代世界の支配階級の延命策の一環とし
て国家間戦争が平和共存あるいは抑止戦的という形で封じこめられつつある現在、支配者の戦略
的関心は局地戦に焦点があわされつつある。そしてそれは世界的規模での階級斗争の激化という
現実に規定されたものであることは先に述べた、そうしたブルジョアジーの戦時体制の一環であ
る《治安行動》の主旨にぴったりあてはまるのが命中精度の高い64式小銃というわけである。
 現在豊和工業では、64式小銃を二次防期間中に二万五千丁、三次防のはじまった四二年度に一
万八千丁、四三年度も同じく一万八千丁を防衛庁に納入している。同社ではこのほか豊和ライフ
ルモデル三〇〇、64式八一mm迫撃砲(二次防一五〇門、三次防五〇〇門受注)、一〇六mm無反動
砲用のスポットライフル等を生産している。三次防において64式小銃を四六年までに九万丁納入
する仮契約を結んでおり、これにそって年間一万八千丁づつ生産しているわけである。
4. 小松製作所
(社長 河合良一 所在地 東京都港区赤坂二〜三 資本金一五〇億円)
 ダイキン工業とならぶ日本の二大砲弾メーカーであり、また装甲車、雪上車を自衛隊に納入し
ている。砲弾は、現在大阪府枚方市にある同社大阪工場で製造しており、九〇mm戦車砲弾、一〇
六mm対戦車砲弾、一〇七mm迫撃砲弾、一〇五mm榴弾の四種である。同社の砲弾生産は、戦後の朝鮮
特需に始まり、昭和二七年旧陸軍枚方製造所の払下げをうけ(現大阪工場)砲弾の生産を開始し
た。
 特需のピークである二九年には、月産六万発の砲弾を製造、米軍に売りわたしていた。特需が
途切れた昭和三〇年以後防衛庁の受注のはじまる三七年まで設備は遊休状態だった。「“またの
日”を期したことはもちろんだがそれには通産省からの強い要望があった。砲弾設備保存のため
同省はわずかながら補助金すら出していたのである。」(毎日新聞社刊《日本の兵器産業》頁五
四)
 こうしたブルジョアジーの側面援助をうけ三七年から防衛庁の受注をこなすようになる。三七
年度一億七千万円、三八年度七億円、四一年度二一億三千万円、四二年度一六億円、四三年度一
九億円と自衛隊の拡大とともにその生産量も上昇している。
5. ダイキン工業
 (社長 土屋義夫 所在地 大阪市北区樋田八 資本金五五億円)
 防衛庁向けの砲弾は同社と小松製作所とでほぼ二分している。そのほか航空機部品メーカーと
して、その兵器生産はここ数年の間に本格化してきた。砲弾、航空機部品とも、同社淀川製作所
(大阪府摂津市)で製造されており、二次防では年間生産量、航空機部品二億〜二億五千万円、
砲弾一五億〜一六億円だったのが、四三年度から三次防に応ずる形でその生産量も、航空機部品
三億〜四億円、砲弾一八億〜二〇億円にはねあがっている。
 小松製作所が九〇mm以上の大口径を主に生産しているのに対し、ダイキンは七六mm戦車砲弾、
七五mm無反動砲弾、八一mm迫撃砲弾など中口径砲弾生産にその主力をおいている。特にアメリカ
のアルビジョン社から技術導入した八一mm鋳造迫撃砲弾は、従来の鋳造砲弾に比べ約二倍の破壊
力を持ち、防衛庁では、三次防からこの迫撃砲弾の採用を始めた。航空機部品は、プロペラ、脚、
油圧部門等々多岐にわたり、約六〇%が住友精密工業の下請けである。株主の状況をみても、
住友金属工業が全体の二〇%にあたる二二○○万株をもっているのを筆頭に住友化学・住友銀行
・埼玉銀行・住友生命と住友系独占資本の系列下にある。
5日本製鋼所
 (社長 小林佐三郎 所在地 東京都千代田区有楽町一〜一二〜一 資本金七八億円)
 同社は、九〇mm戦車砲、57式五〇口径連続速時砲、五四口径五インチ単装速時砲などを主な製
品とする火砲メーカーである。これらは同社広島製作所(広島県安芸郡船越町)でつくられてい
る。この工場は当初松田金次郎氏(東洋工業の創始者)の経営する松田製作所であったが大正九
年おりからの海軍の《大艦巨砲》製造の方針により、「長門」、「天城」などの建造を含む「八
・八艦隊」計画の具体化にあたって、それらの戦艦の大口径火砲を製造するため、日本製鋼所が
「松田製作所」を買収したものである。後、日本帝国主義の海外膨張に比例する形でその設備も
ふくれあがり、巨大な軍需工場として帝国主義日本の戦争政策を支え続けた。
戦艦「大和」塔載の一五・五インチ三連装砲塔や一五インチ高射砲などが、この工場から生れて
いる。
 昭和二〇年帝国軍隊の崩壊とともにこの工場の軍需生産は一頓挫をきたしたが、昭和二四年大
量の首切りにより労働者の犠牲を強いることで、息つなぎを行ない同年早くも米軍兵站部の要請
で小火器修理の役務提供をはじめている。その後はお定まりの朝鮮特需、それが去ったあとはま
たしても労働者に対する露骨な首切りで事態をのりきる姿勢をみせ、このときに「室蘭大争議」
がおこっている。同社はその株式の状況をみると三井銀行の一千一五〇万株を筆頭に三井生命、
三井信託、大正海上火災、三井不動産などがつづき、三井系独占資本の一環をなす。さらに国家
の戦争政策の主要な一翼として、侵略戦争の激化とともに肥えふとり、それが破綻をきたすと一
転労働者の生活権を根こそぎにする首切り、そして反対斗争に対する弾圧を露骨に強行して生き
のびてきた同社の歴史は日本資本主義の縮図でもあり、プロレタリアート流血の上にのみ命をな
がらえてきた資本制生産と戦争との関連性を忠実になぞっている。そして現在は日本資本主義の
高度成長に支えられ、いわゆる設備投資ブームにのる形で機械製品・鋼材などの生産にピッチを
上げ、安定産業として、人民の前にはその血ぬられた本質をおしかくし、同時に火砲メーカーと
して国家の軍備増強の先兵の役割を果しているのである。まこと歴史はくりかえすのである。
 同社は昭和二八年兵器部門を復活、室蘭、横浜両製作所に関連施設を、三一年四月広島製作所
に火砲専用工場を新設し、いよいよ兵器生産は軌道にのる。当初は五七mm、七五mm無反動砲を手
がけ、二八年に五七mm砲を一、一二三門、七五mmを一六門、三〇年には五七mm砲五門、七五mm砲五
門を米軍に納入している。
 一次防の開始とともに、五七mm、七五mm砲をさらに高性度化した60式一〇六mm双連装軌車用
無反動砲の開発が始まる。装軌車を小松製作所、砲を同社が受持ち、三六年から装備され現在は
四〇〇門が対戦車部隊、普通科部隊に配備されている。そのほか九〇mm戦車砲は二次防期間中に
一〇〇門、三次防では四〇〇門生産の予定である。火砲は世界的に大型化の傾向があり、防衛庁
では九〇mm戦車砲に代わる一〇五mm戦車砲の砲身をイギリスより輸入して、それの試作を現在同
社でおこなっている。
 こうした火砲の現代帝国主義の戦略にしめる位置は一口でいえば局地戦用である。「第二次大
戦後米海軍が大砲に見切りをつけミサイル中心主義に切替えたため、ベトナム戦で思わぬ誤算を
招いた――ということである。その理由の一つは敵の火砲の威力を身にしみて味わったこと。
撃墜される米機の九〇%近くが地上火砲によるものでミサイルではなかった。つまり優秀な性能
を誇るジェット機ですら、新しい火砲に対抗できないということが証明されたのである。米軍発
表によれば、四五〇発のミサイルで撃墜された米軍機は三〇機にすぎなかったという。(中略)
もう一つの理由ば陸戦部隊の敵前上陸にあたって、飛行機の爆撃やミサイル攻撃によるよりも(
火砲のほうが)はるかに有効とわかったこと。それで海兵隊や陸軍から二一インチ以上の大口径
砲による艦砲射撃の要望がしきりに出るが米艦隊には少数の八インチ砲があるだけという状態。
いわば局地戦用の対策が不十分だったといえるかもしれない。」(毎日新聞社刊《日本の兵器産
業》頁四六)
 こうした事態の推移を必然化させたものは、階級斗争の世界的規模での激化、世界人民主体の
帝国主義支配者への挑戦である。いみじくもベトナム戦争とはそのような人民の斗争、それへの
帝国主義者の反撃による階級斗争の頂点としてあるわけである。核兵器を究極の武器とする帝国
主義支配者に対し、人民は、人民そのものの人間としての根底的解放を斗いの根拠とする。そう
であるが故に、そうした斗争の本質は、地域住民にねざしたゲリラ戦として展開されるのである。
つまり支配の道具でしかない国家(いつわりの共同性)を斗いの基礎にすえる帝国主義支配者に対
し、人民の現実を基盤にすえている人民主体から帝国主義者は常に足もとをおびやかされずには
おられないのである。それへの対応等の一環として兵器体系の主力が火砲へ移ってきた事態があ
るのであり、そしていうまでもなく日本帝国主義の軍備増強の諸策動は、現代帝国主義者のそれ
と密接な関連をもちつつ、世界的な意義を日々付与されつづけるのである。
 三次防で自衛隊が「最も期待をかけている火砲」が三五mmL90双連高射機関砲で、「対空火砲
でこれ以上のものは世界にない‥‥」と防衛庁の専門家が自信をもっていう(毎日新聞社刊《日
本の兵器産業》)くらいのものである。この砲はスイス、エリコン社製のものであるが、エリコ
ン社から技術を買い日本製鋼で現在四五年六月完成をめざして製作中である。
7. 日産自動車
 (社長 川又克二 所在地 横浜市神奈川区宝町二 資本金三九八億円)
 一般には平和な自動車メーカーとして知られている日産自動車であるが、ロケット兵器の生産
を独占しているれっきとした兵器産業である。同社のロケット兵器生産への着手は四一年八月の
プリンス自動車の合併吸収を契機とする。プリンス自動車の前身富士精密は旧中島飛行機の流れ
をくむ。戦後自動車メーカーへと変身してプリンス自動車を名のったわけである。
 昭和二八年保安庁技術研究所(のち防衛庁技術研究本部)の依頼でロケットの開発を始め、さ
らに東大生産研究所との協力体制をつくり、防衛庁、東大、プリンスのロケット開発三位一体が
成り立ったのである。のちプリンス自動車ば自動車部門の資本独占化の過程で日産自動車に吸収
されることになるが、「日産が膨大な累横赤字を背負ったプリンスを引受ける気になったのは、
ロケット部門の将来性に目をつけたからだ、とみる人も少なくない。」(毎日新聞社刊《日本の
兵器産業》頁三〇) 三八年から自衛隊の正式調査が始まり、現在同社荻窪工場でつくられてい
る七〇mm航空用ロケット弾はF104J戦斗機に、一二七mmの方は海上自衛隊向けとしてP2Vなど
対潜 戒機にそれぞれ装備、五五mm訓練弾は、七〇mmロケット弾の空対地用訓練専用に開発され
た。三五年から開発を始めた三〇型ロケット弾は陸上用で、大砲にとってかわる新兵器として自
衛隊は三次防からこれを正式装備する。
 現在日産荻窪工場では、東大向けと防衛庁向けのロケットをそれぞれ受注している。「受注窓
口ば分れている。設計も一課は東大向けで二課が防衛庁向けだ。しかし研究課は一本であり、初
期のロケットは同じ時期に、同じ形、同じ推薬、同じ日産プリンス川越実験場で開発研究を進め
た。両者は一つの技術母体から生れた兄弟なのだった。」山(朝日《自衛隊》頁一四三)
 一方では実験開発の名のもとに、一方では防衛の名のもとにブルジョアジーの暴力装置は、現
在の技術的水準の上限をその体系の中にくり入れつつあるのである。
 なお、これらロケット兵器の推薬は、日本油脂、点火薬は帝国火工品製造、弾体は大同製鋼、
素材のアルミ合金が住友軽金属、翼の素材が神戸製鋼、もれ止リングが大日日本電線、機械加工
の一部が栃木富士重工で製作されている。
8. 石川製作所
 (社長 直山与二  所在地 金沢市殿町五九   資本金六億四千万円)
 石川製作所は、一般には繊維機械メーカーとして知られているが、石川県にある同社森本工場
では、機雷、爆雷がつくられている。同社は大正一〇年石井鉄工所として発足、当初から表看板
は繊維機械メーカーであった。昭和一二年当時の戦時体制への再編成期にあって、機雷メーカー
として仕たてなおし、翌一三年から機雷の生産に入っている。敗戦時にも同社は設備と技術の温
存をはかった。そして昭和二九年「水中兵器の製造」を会社定款に加え、同年一二月東京研究所
を作り、機雷の再開発に入る。三〇年には機雷の生産が再開され、当初は旧海軍の93式機雷を「
K−13」と改名し、一四〇個、翌三一年には米軍供与の「K−15」の生産に入り、これを二五個
つくった。現在K−13,K−23、一五〇キロ対潜爆雷などが主製品である。
9. 三菱重工業
 (社長 牧田与一郎  所在地 東京都千代田区丸の内二〜一〇 資本金三〇〇億円)
「三菱重工業は我国最大の旧軍需会社であった。」(昭和二三年三月同社臨時株主総会報告)
「我社は過去において国家と運命を共にせり。即ち国家の隆昌と共に我社ば繁栄し克く今日の大
を成せり。今後仮令三社に分割せられるとも、此の大方針には徴塵も変改あるべからず」(昭和
二五年一月一〇日、社報、全従業員諸子に告ぐ『国家と運命を共にせよ』)。以上三菱重工業経
営者が自ら表明しているとおり、同社は戦前・戦中を通じ、我国軍事産業の中軸をなしていた。
 同社が戦前・戦中につくった主要兵器は、戦艦、空母、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、九七式戦車、
また、零式戦斗機等航空兵器生産においては、太平洋戦争中の日本の総生産量の機体は四〇%、
発動機は五○%を一社で占めていたのである。ここに我々がみいだすのは、単なる巨大な軍需産
業としての三菱重工業ではない。周知のとおり、三菱コンッェルンはおくれてきた帝国主義とし
て自らの発展の途を世界再分割を目ざし、海外侵略を強行すること以外に見出すことのできなか
った日本資本主義のほかならぬ最大の構成要棄としてあったのであり、「国家と運命を共にする」
というより、帝国主義日本の実体的中軸としてあったのである。そして三菱コンッェルンを含む
日本の財閥が戦後アメリカ占領軍の目の仇になったのは当然のなりゆきである。
 「日本の産業は日本政府によって支持され強化された少数の大財閥の支配下にあった。産業支
配権の集中は労資間の半封建的関係の存続を促し、日本における中産階級の勃興を妨げた‥‥‥
そのために他国では軍事的意図に対する反対勢力として働く民主主義的、人道主義的な国民感情
の発展もみられなかったのである。さらにかかる特権的支配下における低賃金と利潤の集積は、
国内市場を狭隘にし、商品輸出の重要性を高め、かくて日本を帝国主義戦争に駆りたてたのであ
る」。これは、昭和二一年一月にアメリカより来日した日本財閥調査使節団の報告書の一節であ
る。
 昭和二九年九月占領軍布令とともに、アメリカ政府が発表した「降伏後における対日方針」に
も 「日本の商業・及び生産の大部分を支配しきたった産業上及び金融上の大企業結合体の解体
の促進」がうたわれ、かくして財閥は解体される。
 三菱重工業も地域別に三分割され、東日本重工、西日本重工、中日本重工と名のることになる。
しかしながら、帝国主義戦勝国と敗戦国相互の関連において施行された“民主化政策”が資本結
合体を止揚するはずがない。いわゆる冷戦の開始は“民主化”の主体として日本にのぞんだほかな
らぬアメリカが、「帝国主義戦争に駆りたて」られる前兆であったのであり、財閥解体、非軍事
化政策はこの時点ですでに破産し朝鮮戦争の勃発に及んで完全に方向転換した。いわゆる民主化
をスローガンとしたブルジョア的理念と、アメリカ帝国主義の基本的政策との密月はわずか二〜
三年で終りをつげたのである。
 昭和二七年三月占領軍は兵器生産の許可を日本政府に指令する。昭和二八年、三分割されてい
た各社は三菱の商号使用を認められ、米軍機の定期修理整備から出発して航空機の製造を始める。
三九年新三菱重工業・三菱造船・三菱日本重工業の三社は合併して三菱重工業となる。軍事生産
も戦斗機、戦車、軍用車軸、戦艦(護衛艦)、ミサイル、潜水艦と、現時点における日本帝国主
義の兵器体系の主要部は殆んど網らするにいたった。

五、兵器工場労働者の立場
 以上にのべてきた諸兵器の生産に実際の場面でたずさわっているのは、いうまでもなく各工場の
労働者である。兵器生産があたうかぎり国民(人民)の目をくらましながら、しかも基本的には人
民の労働によって遂行されているという矛盾をブルジョア支配者の側から解決していく方途として
は、生産過程における秘密保持を目的とした苛酷な労働規制、そして諸々のイデオロギー攻勢によ
って、人民を自らの労働の意味にめざめさせないことによるほかはない。
 そうした例には事欠かないが、まず「三菱重工業大江工場の弾体組立作業場は、その一角だけが
囲いがしてあった。日本電気府中工場でも追尾装置の作業場を区切って、天井まで金網を張りめぐ
らしてあった。作業員は顔写真入りの防衛庁許可証をつけ、入口で守衛が一人一人検査する。サイ
ドワインダーが防衛秘密であるのにならって、国産ミサイルもまた『防衛秘に準ずる秘』に指定さ
れているからだ」(朝日新聞社刊《自衛隊》頁一四六)。
 また、三井造船玉野工場の秘密保全規定の要旨を述べると
 第一条(目的)この規定は防衛庁との工事契約に伴い、当会社に委託された防衛秘密ならびに
  防衛庁の指定する秘密の取扱いについて規定し、秘密保護に万全を期することを目的とする。
 第五条 秘密事項の統轄責任者、管理責任者、保全責任者および取扱責任者の任命または変更は、
  あらかじめその氏名および経歴を記載した文書をもって監督官等の承認をえて、所長等がこれを
  おこなう。
第十六条 防衛庁の許可なくして秘密事項にたずさわる作業を社外に下請けさせてはならない。
(後略)
第十七条 秘密事頂に属する交書、図書などを送達しようとするときは「防衛秘密機密」および
 「機密」の指定あるものについては取扱者二名が携行するものとする。
第十八条 秘密事項に属する物件を送達する場合は厳重に梱包し、梱包の表面には秘密区分およ
び物件の内容を察知させる文字を表示してはならない。前項の送達はなるべく当会社の輸送機
関によるものとする。
このように明確に会社側の方針として秘密保持が唱われている。こうした状況の中で労働者は兵器
の生産にたずさわっているのであり、さらにいえば、賃労働者としての規定のもとに自らの生計の
手だてとして兵器をつくらざるをえない状況のもとにいるのである。
 ここで、つくらざるをえないということは必ずしも彼らが主観的に「不本意に」兵器をつくって
いるということを意味しない。
 厳重に囲われ、外部と遮断された作業場で働くことが、彼らが生計をたてる上での前提として、
一つの既定事実と化しているのであり、彼らの主観とは別のところに、ブルジョアジーの手ににぎ
られた生活の根幹があるわけである。だから「作らざるをえない」という状況は「いやなら、そこ
で働かなくてもよいのだ」という、見やすいブルジョアジーの論理によっては決しておきかえるこ
とができるものではない。プロレタリアート個別にとっては、恣意的に兵器の生産をやめる行動(
職場からはなれる)はともかくも、身一つしかわがものとせぬ自らの存在の、ブルジョア社会での
生存権を剥奪されることであり(それも自ら否定したという形で)、よしんば他の職場で働くこと
をえたとしても、兵器生産そのものが他の労働力を補充することで続行しているかぎり、全社会的
な資本制生産の歴史的進行のしからしむる兵器生産に、自らの労働力は必然的につながらざるをえな
いのである。だから、ここでブルジョアジーのいう「兵器をつくらなくてもよい自由」なるものは、
プロレタリアートが身を売って働くという前提がないかぎり成り立たない自由であることは明白で
ある。
 賃労働者という規定性のもとで、しかも反人民的な兵器生産にきびしい労務規制のもとでたずさ
わっている労働者の姿を伝える具体例を次に示す。
 「大阪府吹田市に住むAさん(四一)。あるアルミ会社に長年勤めてきたベテランの組立て工だ。
もとは明るい性格だったという。それが四一年三月頃からは、なぜかふさぎこんで外出をいやがり、
家族ともめったに口をきかなくなった。『もしやノイローゼでは』と考えた妻B子さん(三九)の
勧めで、医者にみてもらったところ、強度のノイローゼと診断された。すぐに入院、一ヶ月ほどで
退院したが、通院治療を続けなくてはならず、間もなく退職した。
 最近病状はかなり回復、家族とも話をするようになったが、しきりに『けしからん、けしからん』
とつぶやく。初めはB子さんにもその意味がのみこめなかったが、どうやら職場がきびしい監督下
にあって『会社のやり方がけしからん』ということらしい。ノイローゼもそれが原因ではないかと
わかってきたという。勤めていた会社は米軍向けの航空機用計算器を製造している。Aさんがボソ
ボソ話したところによると、計算器の組立ては厳選された工員が特別室に隔離されて行うという秘
密主義。Aさんはその一人で、仕事中に工員同志が話し合うことも、いっしょに帰宅することも厳
禁され、週一回の訓話ではいっも『作業内容を外部にもらしてはいけない』と強調される。尾行が
つくこともあるという。Aさんは私生活まで監視され、孤立感がこうじて、ついにノイローゼにな
ったらしい」(共同通信社《この日本列島》頁三一二)。
これは非人間的な労働規制の中で、私生活それ自体を破壊されてしまった労働者の例である。資本
が価値増殖の源泉として自らの内にくみこむのはプロレタリアートの全人間性ではなく、その労働
力であり、労働力の発揮を可能たらしめる肉体である。しかしながらプロレタリアートとしての規
定を負っている一労働者にとっては、肉体と自己の全人性は切りはなしうるものではない。引用文
中にあらわれたAさんの状況こそは、まさに、そうした状況の中で最低限の人間性をすらめちゃめ
ちゃにされた例である。
 資本の生血としてのプロレタリアートの存在の普遍性が、兵器工場労働者に限定されるものでは
ないことは、いうもおろかなことである。しからば、プロレタリアートの普遍性において兵器生産
そのものをボイコットしていくことの歴史的根拠は何なのか。
 いうまでもなく、プロレタリアートの労働によって完成された諸兵器はブルジョアジーの占有に
帰す。ブルジョアジーのいわゆる国防力として、自衛隊が装備するわけである。そして現在の日本
の軍事力は、別項でのべてあるように、日米安保体制のもとで基本的には、アジア諸国人民への米
帝国主義の侵略体制の一環をなして、日本ブルジョアジーの極東支配の意企に基づいて整備されて
いる。
 そして、ほかならぬそのアジアの一廓ベトナムにおいて、人民の帝国主義支配者への反逆と、そ
れを抑圧する米帝国主義者の攻撃とがベトナム戦争として、世界的規模で斗われつつある階級斗争
の最も激烈なあらわれとして続いているのである。そこでのベトナム人民の斗いは、端的にいえば、
プロレタリア階級が資本の生血としての自己の存在を自己の身命を賭して解放していく斗い(=階
級斗争)の一環であり、米帝国主義者の諸兵器は、そうした斗いを展開している人民の肺腑をえぐ
っているのが現実なのである。そして日本ブルジョアジーの軍事力整備も、現在的には、アジア人
民の斗争への弾圧手段の一環、さらには国内のプロレタリアートヘの威圧、弾圧の手段として機能
しているわけである。
 ここにおいて、事態をプロレタリアートの普遍性に根ざしてみつめるならば、日本ブルジョアジ
ーの軍事力は、地理的与件をこえて同じ基盤に立っている日本人民、そしてベトナム人民、さらに
はアジア人民へ共に向けられた刃であり、ベトナムにおいて帝国主義者の諸兵器が人民の肺腑をえ
ぐっていることにおいて、すでに日本人民は自らつくり出した兵器によって、肺腑をえぐられてい
るのである。
 きびしい労務規制の中で日々搾取を強いられている労働者の労働のつくり出したものが自らへ向
けられるべく構築された国家の暴力装置の一環をなすという点において、現在の日本の兵器生産は
二重の反人民性をおびているのである。
 ここにおいて、兵器生産が単に「道義性」の側面において人民に敵対しているのではなく、それを
阻止していく労働者の斗いも又プロレタリアートとしての普遍性に根ざした自己解放としての斗い
以外のものではないのだということは明白である。
 それでは、現在、労働著はこうした逆倒状況にあっていかなる斗いを実現しているのか。
 日特金属を例にとれば、その労働者数は職員(事務)男四五〇人、女一五一人、現業員(現場の
作業員)男一〇五〇人、女二〇人で、このうち機関銃製造に直接たずさわっているのは四〇人程度
といわれる。この労動者を代表する組織として日特金労働組合(全国金属労組加入)があり、たて
まえとして労動者の利益を代表していることになっている。しかしながら日特金労組は、自らの手
で兵器を生産しなければならない労動者の逆倒した現実を突破するための資本への斗いとして、兵
器生産阻止を実現してはいない。かえって兵器生産に対する労働者のめざめを、組合の組織防衛の
大義名分のもとに「挑発的行為」としてしりぞけていくようなものとして組合は現在機能している。
 昭和四一年一〇月二一日の日本共産党機関紙《赤旗》紙上で、日特金労組の伊藤忠雌委員長は「
(兵器生産阻止の斗いは)労働者のとる行動とは縁もゆかりもないものです。むしろ一〇・二一の斗
争や労動組合の破壊をねらったものとみられます。わたしたちは(中略)このような挑発と斗って
いきたいと考えます」と語っている。
 さらに日特金労組がその傘下にある全国金属労組の機関紙《全国金属》昭和四四年一月二一日号、
同一月二二日号に第四回中央執行委員会において決定された春斗方針の原案が示されている。それ
によれば「賃金引上げ」「労働時間短縮」などの要求とともに「ベトナム反戦」がスローガンとし
てかかげられている。このようなスローガンのもとに、いわゆる反戦平和の大衆斗争として、労働
者の前衛と称する日本共産党、日本社会党のヘゲモニーのもとに多くの労働者は組織されて
いる。
 共産党・社会党の主導する「反戦平和運動」は、では、いかなる思想的基軸のもとに展開され、
そして資本制下に苦吟する労働者にいかなる影響を与えているのであろうか。
 日本共産党中央委員会出版局発行の「一九七〇年をめぐる情勢の特徴と、日本共産党の政策と方
針」と題する小冊子に次のような一節がある。
 「一九七〇年斗争には、安保・沖縄問題という当面の最も重要な課題の解決とともに、対米従属
的な軍国主義、帝国主義の復活強化をゆるすかどうかという重要な問題がかかっている。(中略)
対米従属的な日米軍事同盟と日本軍国主義の全面的な復活強化の条件をかちとろうとする米日支配
層の反動的衝動と、そのための日本人民への思想的攻撃は、いっそう強いものとなっている。しか
し他方では同時にこれらの条件は、米日反動勢力に対する全民主勢力の団結した斗争によって、軍
国主義復活を阻止し、さらに進んで日米軍事同盟の打破とともに軍国主義を解体して、独立、民主、
平和、中立、繁栄のあたらしい日本をつくりあげる可能性が、現実に存在していることを示してい
る。
 こうしていま、一九七〇年斗争は、米日反動勢力の挑戦に対する防衛的な斗争にとどまらず、米
日反動勢力と日本人民の、日本の進路をめぐる二つの道の対決――対米従属的な日米軍事同盟を、
そのもとでの軍国主義、帝国主義復活の道か、それとも、独立、民主、平和、繁栄の道かという正
面からの政治的対決の性格をおびて、発展しつつある。米日反動勢力の挑戦が重大なものであれば
あるほど、日本人民の斗争がその攻撃を挫折することに成功するならば、(中略)日本の新しい進路
をかちとるあかるい展望がきりひらかれることは明白である。その主体となるものが全民主勢力の
強大な統一戦線であり、それにもとずく民主連合政府てある。」
 ここでは日本の人民は将来的に、対米従属的な日米軍事同盟と、それに媒介される軍国主義の復
活か、独立、民主、平和を基調にした“明るい日本”の実現かの二者択一の前に立たされていると
規定されている。
 そうした中で、独立、民主、平和の日本を実質的にささえるのは、全民主勢力の統一戦線と、そ
れにもとづく“実現さるべき”民主連合政府だとされる。ここで彼らのいう民主勢力の実体とは何
か。彼ら自身の書葉でいえば「社会党、総評をはじめ広範な民主団体」ということになる。さらに
「問題によっては共、社両党のみではなく、公明党などとも共斗」するというのである。
 こうした“全民主勢力の統一戦線”の具体的な活動形態は、第一に三分の一護憲論に象徴される
議会(国会および地方議会)への圧力団体としてのそれであり、第二に、合法性の枠を決して破ら
ぬ集会でありデモである、一人の労働者にとって、現在、この“民主勢力”の傘の下にいるかぎり、
自らの訴えを政治的表現として状況にかかわらせる道は、基本的には右にあげた二つしかない。第
一の道は“民主勢力を代表する”議員への選挙での一票として、第二の道は、合法的な“整然”た
るデモの一員として参加することによって。
 いずれの場合も、ブルジョアジーの設定した秩序、法をきわめて忠実に受け入れた上でのことな
のである。そして、そうした斗争形態の枠内で「ベトナム反戦」がスローガンとしてかかげられる。
日本共産党は言う。「わが党とわが国の民主勢力は、昨年(四三年)ベトナム人民支援のたたかい
を大きく発展させ、一億円募金活動を超過達成しただけでなく、労働者階級を先頭に、軍需品の生
産、輸送に反対する統一行動を大きく発展させた。われわれはひき続きこの斗争を発展させるとと
もに、自主平等、相互に内部問題への不干渉を原則にして国際連帯と反帝民主勢力の統一行動の発
展のために奮斗しなければならない」(前掲書、頁五七)。一体どう「大きく発展させた」という
のか。早い話が、日特金属で機関銃の生産を一分一秒でも、労働者の実力によって停止させたこと
があるのか?否である。基本的には日本共産党に主導される現労組の委員長は、そうした行動自体
を「民主勢力への挑発」として語っている。つまり彼らにとっては、労働者に根底的に敵対してく
る兵器の製造を、労働者自身が実力をもって阻止していく課題よりも、合法性の方が決定的に重要
なのだ。現在もなお、こうした指導部のもとで、相も変らぬ日常のもとで、労働者ばせっせと兵器
生産に従事し、ブルジョアジーは、三次防、四次防と、自らの暴力装置の整備増強を“堂々と”お
しすすめているのである。こうした労働者にとっての閉塞状態は、一般に平和=繁栄という書葉で
まずは糊塗される。「平和とは一体何なのか」と問われてブルジョア的秩序の守り手は、まずこう
答えるのが常である。「戦争のない状態をいう」と。そしてさらに「住民がつつがなくその日常を
まっとうできる状況」として具体的に示される。賃労働者にとっては、“つつがなく”決められた
時間に会社へ向い、一日の労働を全うして帰る、という状況にそれは他ならない。
 つまり、現在賛美されている“平和”とは本質的には、ブルジョアジーが人民に対する搾取を日
々継続させていくことでのみ成り立つ社会的生産が“つつがなく”進行しているということを意味
するのである。そしてブルジョアイデオロギーはそのことを“望ましい状態”から、さらには人間
の最も理想的な存在形態という理念にまでおしひろげる。
 そうした理念を条文として定着化したのが法であることはいうまでもない。「なにをおいても平
和を乱すのはよくない」という俗論の唯一のよりどころは、かく水増しされた理念以外ではない。
 労働者の利益を代表すると称する日本共産党、日本社会党、そして“民主勢力”なるものは、こ
うした平和状況の中でのみ、つまり、合法的に設定されたデモの一員となることによって、合法的
に設定された議会へ、一票を行使することによって、労働者の解放がなされるがごとくいう。その
集約的表現が「民主連合政府の樹立」である。
 しかし、われわれをとりまく「平和」の中で、ブルジョアジーは、自らの理念の上でも非平和的
な兵器の増産に拍車をかけているのである。これはブルジョアジーの“悪意”というようなもので
はない。ブルジョアジーは自ら設定した「平和」状況を、最終的には自らの手で破壊することなし
には延命しえないのである。過去から現在にわたる日本帝国主義とアジア諸国との政治的連関(も
っとも象徴的には“一億総ざんげ”からわずか一〇数年後に、かっての植民地朝鮮へ触手をのば
しはじめた日本帝国主義支配者の姿にそれはみてとれる)のうちに、国内的には自ら設定した“平
和憲法”を、自らなしくずしにして軍備を増強していく現在の日本帝国主義の姿に、さらには、ベ
トナムに侵略しつづけるアメリカ帝国主義者の婆に、そのことは雄弁に証し立てられる。
 そして、資本制生産が未だその内部にはらむ階級的矛盾を戦争によって解決しなくとも一応の発
展を示している時期には、ブルジョアジーは、日々生産をつつがなく進行させるため、プロレタリ
アートを、利潤を生み出す肉体として、「平和」の中に強制的に囲いこんでいるのである。いわゆ
る民主勢力の体現している平和は、こうしたブルジョア支配者の設定した平和にほかならない。
“民主勢力”は自らブルジョアジーの設定した平和をのり越えないことによって、その中で日々進
行しているプロレタリアートの逆倒状態(自分に敵対するものを、自らの労働力でつくっている)
を日々おしかくす役割を果している。
 一労働者が、いかに主観的に現在的な平和に満足しているとしても、彼の存在はその平和の中で
固化し静止したものではない。彼が社会的に存在している限りにおいて、彼の存在は必然的に歴史
性をおびるのである。その歴史性を現在の兵器工場労働者に即していえば、自らのつくり出す兵器
が帝国主義支配者の軍備増強を促進していることにおいて、彼は他国の人民へ、そして自らへ銃を
向ける必然性を日々確かなものにしてしまう、ということである。「民主勢力の統一戦線」の体現
する平和は、こうしたプロレタリアート個々の自らの歴史性へのめざめを封殺し、その上で、そう
した平和へ反逆をもくろむ者を“挑発者”として半ば自動的に排除する。こうしたやり口の根底に
あるものは、現在の平和から何らかの利点をひき出しうる者、端的にいえば、資本制生産の一定の
進展の中で、資本制生産に不可欠な労働力商品としてのプロレタリアートを組織的に牛耳る者とし
て、ブルジョアジーの利益と一定の位相において一致する者、つまり労働貴族層である。つまり彼
らは資本制的生産の秩序に乱れのおこることが自らの利益に反するという位相にたつわけである。
 こうした労働貴族層の歴史的な根は深い。「社会主義社会」を実現したと称するソ連・中共の支
配層も、現在的に、労働貴族層に連なるものであり、彼らの、本質的には自らの利益を擁護するも
のでしかない「革命戦略」に、世界のプロレタリアートの斗争はうらぎられ続けてきたのである。
 くりかえしていえば、彼ら労働貴族にとって、彼らのもとに結集している労働者は、自らにのし
かかっているブルジョアジーの搾取・抑圧を自らはねかえしていくものとしての労働者ではない。
労働力商品としてブルジョアジーの前に統制されていなければならないものとしての労働者でしか
ないのである。
 現在日本の大多数の労働者は、こうした労働貴族の規制のもとに甘んじている。ほかならぬ帝国
主義支配者と、労働貴族の規制のもとに、兵器工場労働者は本質的な意味で“不本意”に日々兵器
を生産している。かく非人間的状況が現在の日本をおおう「平和」の姿なのだが、しかし、権力に
とっては利潤を生む“物”でしかない。プロレタリアートが他ならぬ人間として日々存在し続けてい
ることに最深の根拠をおきながら(ここでいう人間とはブルジョアイデオロギー的な「人権」にも
とづく意味での人間ではなく、非人間的状況を自ら克服していく存在であることにおいてのみ自己
を規定していく人間としての人間である)帝国主義支配者への反逆を通して自らを解放していくこと
は歴史の必然である。
 解放の主体としてのプロレタリアートの普遍性に根ざし、兵器生産を阻止していく斗いも、もち
ろんこうした歴史的斗争の一環としてあるのである。


 第二章 軍需産業の歴史的意義

一、敗戦〜昭和二十年代
 第二次世界大戦によって、壊滅的打撃をうけたはずの日本ブルジョアジーは、いかにして国民生
産第二位といわれるほどの隆盛をみているのであろうか。「皇国のために」前戦に赴いた人民が、
あるいは白木の箱で、あるいは傷痍軍人として帰り、他の者は空襲と飢餓に打ちのめされていた背
後で、日本の資本主義はどのように地歩を固めていったものであろうか。この問に明確な解答を与
えるためには、まず日本ブルジョアジーの「壊滅」した実態について分析することから出発しなけ
ればならない。そこで「壊滅」の裏付けとして次の三点があげられよう。
@「大東亜共栄圏」構想が、完全に破綻したことによる貿易販路の閉塞。
A空襲による工場・設備の損傷と、大量戦死による労働力減少のための生産力の低下。
Bポツダム宣書、及びGHQの指令に基づく諸規制。
 ポツダム宣言は、日本の軍事力を解体し、軍国主義の基盤を除去し、戦争潜在力を失わせしめる
という内容のものであり、GHQはこれを受けて具体的に実施する機関であった。この活動が主要
な目的としたのは、結局日本軍需産業の根底的禁止であり、従って軍需産業の母体としての財閥の
解体である。
 アメリカの最初の賠償使節団長と,して来日したE・W・ポーレーは「財閥は日本の軍国主義に
対して、軍国主義者自体と同じく責任があるのみならず、彼らは軍国主義によって巨利を博した
のである。敗北後の今日においてさえ、彼らはその独占的立場を事実上強化した。彼らの所有し、
ないし支配する産業施設は滅亡させられた無数の小企業に比すれば、比較的戦災を受けていない。
小企業者はいためつけられたばかりでなく、財閥に対して重い負債を背負わされている。財閥が解
体されぬ限り、日本人が自由人として、自らを統治しうる望みはなく、財閥が存在している限り、
日本は財閥の日本であろう。」と述べた。
 「敗北後の今日においてさえ、彼らはその独占的な立場を事実上強化した」という部分は、ブル
ジョワジーの、とりわけ、軍需企業家の本質を、歴史的に証明する要棄に他ならない。すなわち彼
らは、敗戦の混乱に乗じて国庫から金を持ち出し、降伏直後も政府から、敗戦にともなう生産停止
に対する補償という名目で、臨時軍事費を、大量に受取ったのであった。もつともGHQは、二〇
年一一月二日の財閥資産凍結、解体指令に続いて、同月二五日、戦時補償の封鎖指令を発したので
あるが、これは形式的なものにすぎなかった。
 もとより、アメリカは財閥を真に解体へと追いやる意図など有していなかったのである。なぜな
らば、日本との対決に勝利したアメリカにとって、次に相手とすべきはソ連を盟主とする「社会主
義国家」圏であり、そのためには、経済的。軍事的戦略価値からみても、日本は最上の同盟者。随
伴者となりえるからである。アメリカ自体が、資本主義の総本山としての性格を有している以上、
日本にもその性格を持続させなければならないからである。
 「冷戦」という名で端的に表現されるソ連との対決は、二二年三月、共産主義の打倒を唱えたト
ルーマン・ドクトリンで顕在化した。そして同年六月、それがマーシァル・プランとして実行に移
され、北大西洋条約機構(NATO)の設立へと向うのである。一方朝鮮半島、ベトナムにおける
さらには中国大陸における社会主義政権の樹立といったアジア情勢により、日本を反共戦略の要と
する認識は深刻なものとなっていった。日本再軍備の必要性は、すでに焦眉の課題となったのであ
る。ここにおいてアメリカの「民主化」政策は根底的な転換を遂げていくことになる。
 このことは昭和二三年に来日したドレーパー使節団の報告によっても、明らかにされている。陸
軍次官ドレーパーを団長とする使節団は、軍需産業からの賠償撒去額を大幅に(ポーレー報告の約
四割)緩和削減する処置をとり、日本の独占に大いに歓迎された。
 前述のポーレー報告を事実上反古とした、このドレーパー報告により、賠償問題は打切られ、こ
れとともに財閥解体も中止されたのである。この結果昭和二四年五月一日の時点で、賠償指定工場
の約七六パーセントが稼働できた。GHQによる制約を解かれた日本ブルジョアジーは、対日輸出
入回転基金の設置、ガリオア・エロア等の援助によって、急速な安定状況へと向っていくのである。
この安定へのさらに強固な橋渡しとなったのが、デトロイト銀行頭取J・ドッジによる政策、いわ
ゆるドッジ・ラインである。この内容は、戦後インフレーションを急速に収束すること、及び対日
援助に終止符を打ち、融資を特定の企業に限定し、貿易を増大させることによって、自立と安定を
はかるというようなものであった。しかしドッジの実際に意図したものは、言葉通りの、日本経済
の「自立化」と「安定化」ではなかった。それは日本に、アメリカ占領軍の維持費を、可能な限り
負担させ、国民の租税負担増大と非軍事的支出を削減することによって「均衡財政」を行ない、「
米国対日援助見返費金」の設定によって、「対日援助」資金を、アメリカの指示する特定軍需産業
へ重点的に融資するとともに、プロレタリアート搾取を、さらに強化し、それによって日本経済を、
アメリカ極東戦略体制のなかに再編しようとするものに他ならなかった。
 こうして一ドル=三六〇円の為替レートによって、アメリカを中心とした世界資本主義国に結び
ついた日本経済は、戦争潜在力を整え、経済を軍国主義的に発展させていく方向をとるようになっ
ていくのである。
 このような情勢の中で、昭和二五年六月二五日、朝鮮戦争が勃発した。この前年、戦後最初の恐
慌に見舞われたアメリカ資本主義にとって、景気回復をはかるための政府支出の増加と、その手段
としての軍需産業に対する需要増大は、緊急の課題であり、その意味において朝鮮戦争ば好餌であ
った。朝鮮派遣米軍司令官V・フリート中将が述べたように、「朝鮮は一つの祝福であった」ので
ある。
 朝鮮戦争は、世界の資本主義経済に大きな刺激を与えたのみならず、資本主義諸国の軍備は、こ
の戦争を契機として急速に強化されていった。ヨーロッパについては二五年九月ニューヨークでの
北大西洋条約理事会で、NATO加盟国が、軍備を拡大強化し、国防費を増加することが要求され、
ヨーロッパ統一軍は、三〇個師団から四五個師団へ拡大すべきであるとされた。そしてこのヨーロ
ッパ統合軍の中核として、西ドイツ軍隊が創設されたのであった。
 ひるがえって朝鮮戦争の日本に対する影響はどうであったか。結論から先に言えば、アメリカの
同盟国として位置づけられた日本は、その前進補給基地として十分機能しえたということである。
先に詳述したごとく、ドッジの布石によって、日本経済は深刻な不況に陥り、中小企業の相次ぐ倒
産、それに伴なう失業者の増大と、依然として戦後混乱経済が続いていたのであったが、朝鮮戦争
は、当時の日本財界でいわれていたように「神風」的救いとなった。
 経済安定本部の報告によれば、戦争に伴なって米軍が、日本から買付けた特需は、戦争開始日か
ら、八月二八日までの約二ヶ月で、一四四億円に達した。九月二九日には三四八億円となり、その
後昭和二八年末迄の三年半の間に、日本が特需によって得た収入は、約二四億ドル(八六四〇億円)
にも達した。これは、この間に日本が獲得した全外貨の約三分の一にあたる巨大な額であった。し
かしその「神風」は、一部独占資本にのみ吹き及んだものにすぎなかった。下請中小企業は「神風」
の恩恵に浴するどころか、むしろ決定的に犠牲を強いられたのである。このことは米軍の調達方式
の性格に因する。特需は米軍の「直接調達」という方式によって行なわれた。朝鮮戦争以前の米軍
調達は、主として終戦処理費によって、日本の特別調達庁を通じてなされていたが、朝鮮戦争以降
の日本における特需は、全て米軍の在日調達本部JPAの「直接調達」によって行なわれるように
なったのである。JPAは、アメリカの公契約法と米軍需調達規則を適用して調達に臨んだ。発注
の方式には、公開入札と商議方式とがあったが、実際には入札は公開されず、米軍の思惑一つで決
定されたり、あるいは数回入札をくりかえさせ、その間に談合による値引を強要するというもので
あった。従って日本の軍需産業界は、はげしい受注争いを展開し、このことがさらにアメリカの買
叩きを促すという結果を導いた。
 独占費本にとって、この買叩きによるシワ寄せは、自己の企業の労働者や、下請中小企業へと拡
大していった。中小企業は、不況のもとで多くの遊休設備をかこち、そのために自転車操業を続け
ざるを得ないという状況におかれたが、受注による赤字ば労働強化によって、できる限り切り抜け
るという対策をとった。このような過程で合理化は、大量馘首・労働強化・臨時工採用というルー
トで、熾烈に展開されていった。
 特需のもう一つの側面、それは日本が戦後禁止されたはずの軍需産業復活の道を開き、アジアの
兵器廠としてアメリカ極東戦略のうちに、重要な位置を権立したという点にある。GHQは、昭和
二七年三月八日、日本政府に対して兵器生産禁止指令を緩和する覚書を渡した。これによって兵器
生産が公然と行なわれるようになったのである。もっとも、この緩和指令に先んじて、日本ブルジ
ョアジーの方も、手をうっていたのではあった。軍需産業は独占資本にとって、もうかる仕事であ
ったが、発注が米軍のみというのでは、アメリカの軍事政策や、アメリカ国内の経済動向に左右され、
きわめて不安定であり、大きな危険を伴なうものであった。したがって独占資本は、自己の支配下
にある企業を、アメリカの軍需品生産工場とすることによって、軍需品生産部門を自己の手中に収
めると同時に、急撃な変動によって大きな打撃を受けても、自企業そのものには、直接大きな危険
がこないようにと、予防線を張りながら、「計画的」な軍事化の行なわれるのを要望したのである。
具体的には、米国等の提携のもとに、極東地域に関する防衛生産の強化に協力し、かつ東南アジア
復興開発に、日本の工業力、技術等をもって協力することを目的として昭和二六年八月に設置され
た「日米経済協力懇談会」及びその一部門としての「防衛生産委員会」となって結果した。
 この防衛生産委員会は、昭和二七年三月二〇日の役員会で、第一回の要望書「特需兵器の生産に
関する決議ならびに要望書」を政府に提出した。それ以後昭和二九年末迄で二〇回に及ぶ意見書を
提出して、軍需生産体制磯立のための種々の要求活動を行なった。
 朝鮮戦争は、日米独占資本の「期待」に反し、昭和二八年七月に休戦脇定が調印された。それと
ともに特需は減少し、軍需産業は大打撃を受ける破目に陥った。その過程で独占の系列外にあった
企業は、資金繰りがつかず、戦争後に残存することができたのは、系列下にある企業であり、やが
て大独占企業自身に特需が集中し始めた。このことが、昭和三〇年以降の日本における兵器国産化
への原因となり得るのであった。
 朝鮮戦争に際して、アメリカは日本を直接作戦基地とし、日本経済を作戦に必要な物資の補給基
地としたのみならず、戦争開始の二週間後七月八日、連合軍最高司令官マッカーサーは、日本政府
に対し「日本警察力の増強に関する覚書」を送り、七万五千人の陸軍の創設と海上保安庁の定員を、
五千名から八千名に増加することを命じた。これによって現在の自衛隊の母体である「警察予備隊」
が創設された。日本の再軍備は「冷戦」状況による極東戦略体制の推進にとって、以前から必要視
されていたが、朝鮮戦争苦戦。敗北の教訓は、それを決定的にせまったのである。西ドイツ武装と
同様、敗戦国民を戦勝国の弾よけとするという意図が、露骨に表現されている。日本の武装は同時
に、国内治安対策という側面も有していた。松川・青梅・三鷹・下山、あるいはメーデー・大須・
吹田騒乱等、「公安」事件の頻発と、その底流にある人民の反戦意識は、日本の軍国主義的再編策
動にとって、一掃しなければならないものであったし、レッド・パージによっても徹底的に払拭し
きれない以上、警察力を大きくカバーする権力の武装は、強固であればあるだけよいからである。
 ところで終戦後一貫して、日本に駐留してきたGHQの対日政策も、二六年九月八日のサンフラ
ンシスコ条約及び安保条約によって集大成された。サンフランシスコ講和条約は、みせかけの「独
立」を日本に与えることによって、日本に防衛の責任をもたせ、日本をアメリカの軍事基地・兵站
基地とするためのものであり、そのためにその障害となる極東委員会の拘束から、日本を「解放」
することが必要であるため締結されたものであった。警察予備隊は、条約発行直後の二七年八月に
は保安隊となり、これと二七年四月につくられた海上警備隊(定員六〇三八名)を統合した保安庁
が設置された。同年一一月一二日には「日米船舶貸借脇定」が調印され、一五〇〇トン級フリゲー
ト艦(PF)一八隻、四五〇トン級上陸用支援艇(LSSL)五〇隻が、米軍から与えられ、海上自
衛隊が発足した。
 この間二六年二月に、経団連は、日米経済提携懇談会を設けて、日米経済協力を推進することと
なった。さらに強固となった日米間の紐帯のもと、戦後日本軍需産業は、二九年のMSA協定調印
によって、第二段階を迎える。アメリカは二三年マーシャル・プランを中心とする経済援助、翌年
相互防衛援助による経済援助と三種類の援助を進めていたが、二六年、相互安全保障法(MSA)
を制定し、これら三つの対外援助をアメリカの軍事体制に結びつけることを、明文化した。これに
よって被援助国は、アメリカの軍事体制に引入れられることが、義務となったのである。
 朝鮮特需の終熄後、危機に直面した日本経済は、軍備の増強と、潜在軍事力としての工業力強化
を条件にこのMSA援助を受入れた。この援助に際してのアメリカの支出は、処理に窮した過剰農産
物を、ふり分けるという類のものであったから、きわめて低廉であり、援助を受けた国は、その農
産物を国民に売却し、その代金によって経済復興・軍備増強に使用するという、まさに資本主義の
カラクリ的なシステムのものであった。しかもこの援助によって生じた資金は、池田―ロバートソ
ン会談によって、日本の防衛生産及び工業力増強のために、使用されなければならないとの条件を
負わされていた。
 これをさらに具体化したMSA資金の配分順位は
一、防衛庁または米軍によ発注が確実な防衛産業部門の整備(銃弾・火薬・航空機オーバーホー
ル等)
二、防衛生産関係素材部門の設備能力増強資金(金属チタン精練・電子機器他)
三、将来発注が期待されるが、さらに認を要するもの(ジェット機体生産・射撃指揮装置他)
とされていた。
 この間日本の軍事費は、二五年度の二〇〇億円から、二六年度二一〇億円、二七年度五九一億円、
二八年度六一一億円へと三倍以上に増加したが、まだ絶対額としても少額で、そのうえ軍の装備は
全て、米軍の中吉兵器の供与あるいは貸与によっていたため、日本軍隊が、軍需生産に与える直接
的影響は少なかった。日本軍隊が、はじめて兵器の発注をしたのは、MSA脇定が調印され、その
約束に従って、軍備増強の措置として防衛二法(防衛庁設置法。自衛隊法)が施行され、陸・海・
空の三軍方式の自衛隊が発足した二九年からであった。日本軍隊の「自立化」は、この時点では低
次元のものにすぎなかったが、それでもなお米軍の不安定な特需よりは、より安定した軍需品発注
を望む、軍需産業の希望にかなうものであったことは確実である。

二、昭和三十年代〜現在
1. 周知のように戦後、特に昭和三〇年前後より、日本経済は高度成長の名で呼ばれる「おどろく
べき」発展を示す。この高度成長を歴史的に規定するならば、いうまでもなくそれは日本帝国主
義の復活・自立化の過程である。
 そのことを可能ならしめた要因を概括的にのべるならば、まず第一にあげられるものは朝鮮特
需が進行する中での産業構造の変化、すなわち繊維工業中心の軽工業から重化学工業への転換で
ある。この重化学工業化をステップとして、日本独占資本は新たな投資分野(すなわち電子工業、
石油化学工業など)を開拓していったのである。同時に軍需産業にむすびついた“高度な”技術
の利用によって投資のための有利な条件を資本は確保することになった。
 第二には、高度成長の中軸となった重化学工業部門が新規の投資分野であることから、独占の
支配が必ずしも強くなかったこと、加えて戦後の財閥解体によって独占が一時的に弱体化したこと
も手伝って、投資が過当競争(設備更新・拡張競争)的に行われ、生産財の需要に刺激されて工業
は発展をとげていった。
 第三には、安定した利潤率である。この利潤率を支えたのが、戦前からの日本の低賃金構造で
あり、安価で豊富な労働力が成長の重要な要素となったといえよう。資本は農村や中小企業に産
業予備軍として堆積されていた労働力を急速に吸収しそれによって製品を低価格で輸出しつつ海
外市場を確保することができたのであって、この安価な労働力がなければ、いくら新分野といえ
ども重化学工業への投資は進まなかったにちがいない。
 第四には財政投融資、資本保護的税制等の諸政策である。
 これらが、高度成長の主要な要因であるが、なお副次的な要因をあげるとするならば、@アメ
リカの援助が直接・間接に資本蓄積に有利に作用したこと、A労働組合の解放や農地改革などで
消費需要が拡大したこと、Bアメリカに軍備を負担させたため相対的には軍事費が減少し、生産
的投資がふえたことなどが重要である。
 このように日本経済は、民間設備投資主導型の発展のもとに、高い工業生産性を示すことによ
ってアジアにおける確固たる経済的地位を構築し、日本独占資本はアメリカとの競合関係に入る。
 この間の世界資本主義の動向をみるに、まず重要なことは一九五八年(昭和三二年)を境にし
てその再編成が始まったことである。つまりこの年は西ヨーロッパ諸国(とりわけ西独)と日本
が産業構造の重化学工業化による高い工業生産性を示すことにより自国通貨の交換性を回復した
反面、アメリカ、イギリスなどの主要資本主義諸国が一様に、激しい経済活動の低下にみまわれ
る。(工業生産品の輸出の停滞、国際収支の悪化)その結果、相対的にではあれ経済的地位の低
下を示し始めたのである。五八年を契機に開始されるアメリカのドル防衛政策は、こうした事態
の端的な表現である。三〇〜四〇年代にすでに産業構造の重化学工業化を完了し、第二次大戦中
には、世界の兵器廠としての役割を果たすことで富を自らに集中したアメリカは、その経済・政治
・軍事各面にわたる圧倒的優位のもとに、世界市場(IMF体制)の統一性を保証してきたので
あるが、そのためになしてきた各国への軍事援助・経済援助を縮少せざるをえなかった。そこで
必然的に自信を強めた日本独占資本は、日米関係を再編成すべく安保条約の改訂にのり出した。
安保改訂は自衛隊の発足、第一次防衛力整備計画の実施等に示される、日本資本主義の復活・
自立を反映した「自主防衛」政策をふまえた上での、アメリカ帝国主義との、自立した帝国主義
国としての本格的な軍事協力としてあったといえる。必然的に日帝は、アジアにおける最も強大
な反革命勢力として、その電撃力の拡充もアメリカ帝国主義との協同を媒介として、国際的なパ
ースペクティヴのもとに推進せしめられていくのである。
 だが、復活自立したとはいえ、日本資本主義は国際的にみて、量的側面において均等化された
にすぎなかった。すなわちそれは国際競争力の弱さとして現象せざるをえなかったし、工業生産
の非常な発展にもかかわらず、基幹的な産業部門において、日本独占資本は主導的な地位を確保
したとはいえなかった。とくに自動車、石油化学などの部門においてそれが著しかった。したが
つて日本は依然として大量の資本輸入国であった。一方、ドル防衛政策という受身の経済政策を
とるに至ったとはいえ、アメリカへの富の集中度は高く、さらに核を中心とする超高度な軍事技
術の発展に規定され、日本はアメリカ帝国主義および他の主要帝国主義国との均等な軍備をおこ
ないえなかったのである。であるがゆえに、本格的な軍事協力といっても、アメリカに主要な軍
事力を集中的に負担させ、アメリカ帝国主義の世界的政策(冷戦政策―平和共存政策)と「限定
戦争」戦略を継続しつつ「自由世界の擁護」をスローガンとする“集団安全保障体制”のアジア
における強力な一翼を担う形で日本帝国主義は、まずは自らの軍事力強化の基本的位置づけを
行なったのである。
 このことは同時に、国際協調体制(IMF体制)を保持するという方向性のワク内でではある
が、アメリカ資本との利害均衡を生みだすまでに復活自立した日本帝国主義が、にもかかわらず、
アメリカ資本主義に従属していくという、今日の特殊な日米関係を規定するのである。
 ともあれ、三三年度より開始された一次防の実施と、安保条約の改訂により「自主防衛」と「
兵器国産化」の道は掃き清められたのである。
2. 日本資本主義の復活自立と西欧諸国、とりわけ西独の自立を契機として、開始された世界資本
主義の再編の過程で提出された「自由化」の問題は、二重の意味においてとらえかえされなけれ
ばならない。それは、日本、西独の自立を契機に、IMF―GATT体制が戦後一五年間実現し
ようとして果しえなかった、ブルジョアジーの永遠の理想たる「自由」な世界市場を擬制的にで
はあれ創出するのに成功したことに於いて、世界資本主義の「安定」を表現しているといえるし、
他方では、それはそうした「安定」を促進したメカニズム(ドル支配)の崩壊の表現であり、世
界資本主義を発展せしめた基盤が失なわれつつあることを意味しているのである。
 その意義が何であれ、「自由化」は世界市場の再編成を意味する限り、それを日本独占資本の
拒否できない「世界経済の大きな流れ」としてあった。
 五五年の神武景気以来のめざましい発展過程で、その生産力を大幅に発展せしめた日本資本主
義が、その蓄積された実力をもって、一流の帝国主義国として世界市場に“飛躍”するために
は、この「大きな流れ」を、つまり「自由化」を受けいれることがぜひとも必要であった。
安保条約の改訂を強行した後、日本独占資本の期待を担って登場した池田勇人は、資本の海外
進出にあたって「貿易、為替の自由化」にふみきり、これと対応した形で「国際競争力」の強化
のために、独占資本(重化学工業)の拡大発展をうながす「所得倍増計画」を実施することによ
り“大平ムード”を醸成することに成功した。それはいうまでもなく、日本資本主義が世界市場
において“飛躍的”発展をなしとけていくうえでの内部固めとしてあったといえよう。
 そして、それと同時に帝国主義的対外政策遂行の為の暴力装置の拡充(二次防)、あるいは、
道都県防衛に名を借りた治安軍的側面を強化した自衛隊の大都市周辺における常時待機体制の確
立、安保改訂により設置されるに至った日米安全保障委員会を中心とした共同作戦体制の確立、
防衛庁の「国防省」昇格策動、国防意識昂揚のための教育の改編、政治権力強化を目指した小選
挙区制実現への策動、憲法改悪の策動、等々にみられるように、統治機構の改編も行われたので
あった。
 つまり、一見“繁栄と平和”の到来として受け取りやすいこの期間こそ、硝煙くすぶる血なま
臭い内なる支配の強化の時代であったのである。
 この間特に注目すべきことは、「第二次防衛力整備計画」の策定・実施にあたって、経団連防衛
生産委員会、兵器工業会などを中心とするプレッシャー機関の動向であろう。
 自衛隊発足後、一次防の実施で、航空機、艦艇や、陸上の小型装備の国産とライセンス生産の
準備をしてきたのだが、二次防では、アメリカのドル防衛政策の一環としての無償援助打切りに
よる一部兵器の国産化の完成、ライセンス生産の国産化率をたかめることなどが当時予想されて
いた。兵器の国産化が進展する過程で、軍需産業界はその市場を拡大するべく、政策決定機関で
ある防衛生産委員会を通して、長期の防衛政策にうらづけられた軍事予算の編成、契約・発注方
式の改善、調達価格の安定などの諸項目にわたって、ブルジョアジーの政治委員会である政府へ
要求をつきつけていった。
 三六年二月二〇日および四月四日、防衛庁調達実施本部と防衛生産委員会との間で懇談会がも
たれ、装備品調達・維持補修。研究開発試作などの問題について意見の交換がはかられた。防衛
生産委員会は、この懇談会において、「調達方式改善についての問題点」という文書を提出した。
 更に重翼なことは、三六年五月に「防衛装備国産化懇談会」が設立されたことである。「防衛
装備国産化懇談会」は、兵器の国産化が促進されるにつれて、ブルジョア政治委員会と軍需産業
界の通路をより強固なものにするべく設立された組織であり、大蔵、通産、運輸、商工、科学技
術、防衛庁などの、大臣、長官、事務次官、更に自民党議員十数名、経団連副会長、兵器工業会、
航空工業会、ロケット開発協議会、造船、化学、自動車、電機、電子機械、通信機械の各工業会
の会長、および理事長、防衛生産委員会委員長らによって構成され、自民党から参加した船田中
が会長となり、防衛生産委員会が運営することになった。
 懇談会は、その年の九月に、「防衛装備当面の問題に関する意見」を防衛庁と大蔵省に提出し
た。これは三七年度予算編成に関しての要望事項を列挙したもので、研究開発の契約改善、小銃
の国産化、対戦車誘導ミサイル“ATM”と飛行艇の開発試作、主要武器類の長期一括契約方式
の採用、ナイキ・ホーク(地対空ミサイル)部品維持能力、防空警戒管制組織の開発、整備など
について、政府が国産化への強い施策を講ずることを強調している。
 さらに三七年二月には、「防衛装備国産の基本方針」を提出したが、これは、F104J、ナイキ
・ホーク、バッジの採用など、軍事力の高度化にふさわしい後方支援体制の軍需生産の重要性を
説き、自衛隊の長期整備計画に基づいて兵器の研究開発、生産体制の強化拡充を要望したもので
ある。この他、三七年七月一〇日「防空警戒管制組織の開発、改善、調達、維持補修等に関する
意見」、「ミサイルの開発、生産調達維持補修等に関する意見」、「般価の改善に関する意見」
の三意見書を、三七年八月二日には、「弾薬類の製造調達に関する意見」、「兵器類の輸出に関
する意見」、「F104Jの生産資金に対する緊急措置について」、「旧軍港市における自衛隊施設の

確保に関する意見」の四意見書を発表するなど、強力な、軍事予算・調達・契約改善・兵器国産
化への運動を展開した。
 こうした予算編成、契約改善、兵器国産化の運動は、朝鮮特需によって復活した軍需産業が、
特需の漸減とアメリカのドル防衛政策の一翼としての無償援助の打切り、自衛隊の発足による防
衛庁調達の漸増と国産化の推進により、一層、防衛庁の調達を通して自衛隊という安定した市場
に依存せざるを得なくなったことを物語っている。
 防衛生産委員会、兵器工業会を始めとする軍需産業界の要望に答えるかの如く、三六年一一月
二二日には、契約担当官制度の創設・契約方式・公告の法的性格・落札方式・入札保証金と契約
保証金・契約書の作成および監督検査の各項目を主な改正点とする「会計法の一部を改正する法
律」が公布され、三七年八月二〇日に実施されたが、ここで注目すべきことは、今まで法文上で
は単に例外としてあった指名競争契約と随意契約が、一股競争契約と並列的に規定されたという
ことである。
 また、長期の“防衛計画”に裏づけられた軍事予算の編成獲得による軍需生産体制の強化は、
「第二次防衛力整備計画」によって実現されることとなり、61式戦車、60式装甲車、一〇六、ミリ
無反動砲、大型雪上車、62式七、六二ミリ機関銃、64式七、六二ミリ小銃、64式八一ミリ迫撃砲など
の長期一括契約による純国産化が進んでいった。
 こうした軍需産業界の圧力を背景に、「第二次防衛力整備計画」は、一次防(三四年〜三六年)
の後を受け、三六年七月国防会議で決定され、翌三七年から実施され、四一年をもって終る軍事
力増強計画であった。これを要約するならば、「日米安保体制の下で在来兵器の使用による局地
戦以下の侵略に対し有効に対処し得る防衛体制の基盤を確立」を目的として、約一兆一五〇〇〜
一八○○億円の資金で、陸上一八万人(一三個師団)、海上一四万トン(二四〇隻)、
航空一一〇〇機(二二飛行隊)、それにナイキ・ホークのミサイル部隊四個大隊とバッジシステ
ム(半自動防空警戒装置)を整備する、ということであった。
 二次防は、「装備の近代化、及び損耗分の計画的更新、機動力の増強、後方支援体制の強化、
基地後方施設の整備充実」という点に重点が置かれていることからもわかるように、「兵力の増
強というよりはむしろ、米軍供与の老朽兵器の国産兵器による更新」に、その骨幹があった。そ
れは先述のように、軍需産業界の利潤獲得への要求運動の成果の反映であった。指名競争契約、
随意契約などの実施、「主要武器」の長期一括契約の実施などば、その端的な現れであった。
 このように日本の軍需産業ば、二次防を通じて曲りなりにも独自の産業として確立するに至っ
た。つまり純国産〔設計図から材料まで〕を行い得て、独自に開発した兵器も、制式化されるま
でになったのであった。
 昭和四二年度から四六年度にわたる第三次防衛力整備計画は、とくに次の点で、現在の日本帝
国主義ブルジョアジーの意図を定着化していくものとしてある。
 すなわち、ベトナム戦争にその最も激烈な表現をみるアジア階級斗争の激化の中で、日本ブル
ジョアジーは、世界市場の停滞に規定され、アメリカ市場に将来的展望をかけることはできなく
なり、アジア、太平洋地域にその商品市場を開拓せざるを得なくなった。
 このような前提条件から、日本ブルジョアジーは、アジアヘの進出をはかるためには、当然、
自主防衛」のスローガンのもとに、アジア各地での階級斗争を自らのヘゲモニーで克服するため
の軍事力をたくわえなければならないのである。
 昭和四二年三月二二日の国防会議(議長−佐藤栄作)において決定された「第三次防衛力整
備主要項目について」によると、防空力強化、陸上防衛力の強化などの一般的な軍事力強化の方
針と同時に、「機動力向上のため、大型、中型のヘリコプター八三機および装甲輸送車約一六〇輌
を取得するほか、輸送機一〇機を整備する。また戦車約二八〇輌を更新する」と、その基本方針に
ある「わが国が整備すべき防衛力は、通常兵器による局地戦以下の侵略事態に対し、最も有効に
対応しうる効率的なものを目標」にするという項目を実体的に保証する計画がたてられているの
である。
 つまり局地戦、内戦などの事態に有効に対処しうる機動力ということが目ざされているわけで、
アジア各地における現在の階級斗争が、東西対立の一方の極である中国周辺部における局地戦、
ゲリラ戦として現象している現在的な特殊性に対応する戦略としてたてられていることは明白で
ある。
 もちろん、それと同時に、現在の世界軍事技術の上限である、核、ミサイル装備への計画もた
てられている。すなわち防空能力強化として、バッジシステムの配備のほか、核弾頭使用可能の
ミサイル、ナイキ・ハーキュリーズが導入されるのである。またFX(次期戦斗機)も核爆弾塔
載可能なものが予定されており、国際社会における一定の“位置”をこうした核装備を背景に占
めることで、世界市場分割を自己に有利におしすすめていくと同時に、アジア進出の威力として
機能させようとしていることは明白だ。
 日韓会談は、そうしたブルジョアジーの意図を政治的に公然化したものとしてある。そうした
ブルジョアジーの意図につきまとう内部の矛盾を合理化、労働強化、賃金抑圧などの諸政策で人
民への抑圧に転化してきたのがこの間の日本帝国主義の一貫した姿勢である。それにともなう人
民の反撃の表現としての階級斗争の激化は、昨今の羽田等、また全国学園での学生。労働者の斗
いとして、ブルジョアジーの側に「一大決意」を余儀なくせしめている。それは彼らの暴力装置を
不断に整備していくこととして、あるいは「国防イデオロギー」のもとに人民を彼らの体現する
「国家」にまきこんでいくこと等々として顕著なあらわれをみせているのである。
 こうした状況を人民が自らの力で、自らの論理で克服していかない限り、日本人民はブルジョ
アジーの鉄鎖のくびきのもとで“他国人民を抑圧”することになり、永遠に“自由”ではありえ
ないだろう。

     第三章 ベトナム特需
一、戦後概史
   ――特需を軸として――
 ごく大ざつぱにいえば、日本の戦後史に占める“特需”の位置は、兵器国産化、経済自立政策を
通じての帝国主義的政治経済体制確立の準備過程としてあった。いみじくもこれを、経団連防衛生
産委員会は次のように表現している。〈わが国の防衛機器産業は周知のとおり、第二次大戦中国家
予算の大半を占めた軍事費により賄われ、重工業の大部分を占めていたが、昭和二七年より米軍特
需によって再開し、爾来自衛隊の拡充により漸次その需要を充足する方向になった〉ということで
ある。日特金属もこれらの兵器産業の重要な一角を占めていたことはいうまでもない。
 以上は、主として朝鮮特需に関する記述である。一方ここで問題とすべきベトナム特需は、六〇
年安保改訂を期に米国とより緊密な経済的・軍事的協力関係に入り、かつ日韓条約締結を期にアジ
ア反革命軍事同盟体制=集団安全保障体制を作りあげようとする日米帝国主義間の政治的特需の性
格が濃厚である。
 アメリカの日本占領政策は当初、非軍事化と「民主化」政策を柱たして、日本資本主義の徹底し
た弱体化を通して、日本をアメリカの経済的植民地化し、日本をアメリカの独占市場として確保し
ようとする意図に貫かれていた。
 こうした一連の占領政策は、日本国内における二・一ゼネストヘ向けての高揚を頂点とする労働
者運動の盛り上りや、アジア大陸における中国革命の成功・朝鮮戦争の勃発を期に大転換が行なわ
れた。即ちアメリカ極東戦略体制強化のために非軍事化。「民主化」政策は大巾に修正され、日本
資本主義の復興と国内安定化政策(=人民弾圧政策)、更には軍事力漸次増強政策が施行された。
 こうしたアメリカ極東戦略下、積極的に対米従属関係をとり結んでいくことが当時の日本支配者
階級の基本的政策であった。朝鮮戦争を期にアメリカの対日占領政策はこのように大転換をきたし
たのだが、アメリカが日本を市場として確保する必要上、早晩日本資本家階級と結んで経済復興を
計り、消費能力を高め市場としての価値を増大させていく方針はとられたであろう。
 故に、一方で労働法改悪・日共中央委員追放・レッドパージ・国労を中心とした一〇〇万人合理
化(第一次合理化)、更には三鷹・松川事件のデッチアゲ等々労働者人民を徹底的に弾圧し抜く中
で、日本資本主義の再構成がなされていったのである。
 更に資本主義体制復活の一つの必然として、またアメリカが極東戦略の前方基地ないし、強力な
援助国として日本を必要としていたことによって、警察予備隊設置にはじまる再軍備の布石が敷か
れていった。
こうしたいわゆる逆コースなたどる占領軍および日本ブルジョア支配層に対抗して、彼らの意図を
越えて労働者人民の運動が高揚する中で、日本共産党は占領軍を、解放軍と規定し、反権力斗争
を放棄し、議席増加に欣喜し、むしろ占領軍の思うつぼであった〈平和と民主主義的方法によって
社会主義革命を遂行する〉方向に流れていったのであった。一面で「反体制」指導部=日共の不徹底
さにむしろ救われた形で、日本資本主義の再生産構造の復活が成功したといえよう。
 朝鮮戦争の勃発した一九五〇年には、一方では公職追放の第一次解除がなされ、太平洋戦争遂行
の指導的ブルジョアジーや政治家の復帰が企てられた。さらに警察予備隊を設置し軍事力漸次増強
政策を打ち出していった。
 朝鮮戦争は『局地戦争』の様相を呈しつつも、「体制間」戦争の危機の増大だとされ、それ故に
米帝を盟主とする西欧及び日本を含む世界資本主義諸国のブルジョア支配は急ピッチの軍備拡張を
計り、アメリカの戦時財政による物量作戦による援助をテコに国際的軍備拡張競争が展開された。
 日本経済も例にもれず、この朝鮮戦争による特需が崩壊寸前の日本資本主義にとって「神風」的
役割を果し、日本ブルジョア独占支配体制の再建と延命を可能にした。占領時のインフレ収奪と、
特需と、広義の特需である関連輸出に主導きれて重化学工業部門の独占企業の得た利潤の厖大な蓄
積は、これ以後の大規模な設備投資の基礎をなし、この間十年余に亘る好況的発展と労働者人民の
鎮圧を可能にしたのである。
 この間の推移は後に詳述するとして、ここでは経団連防衛生産委員会編『防衛機器産業の実態』
からの引用を記すにとどめる。
 〈戦後のわが国の防衛生産の動向をかえりみるとき、その再開はまず米軍特需を支柱としてはじ
められたことが判る。蓋し、昭和二七年四月の講和条約発効を機として、弾薬ならびに一部火砲等
の調達契約、車輌ならびに一部火砲等の修理契約が相次いで締結され、その金額も「特需統計」に
よれば、三二年六月末までに、兵器および同部品一億五〇〇〇万ドル、車輌および同部品六億四八
○〇万ドル、修理契約では車輌修理一億六〇〇万ドル、施設機械関係六三〇〇万ドル、船舶修理二
三〇〇万ドル、兵器修理一八〇〇万ドル、航空機修理二五〇〇万ドルというように、当時としては
可成厖大な額に達していたからである。(中略)これらの米軍特需は、単に防衛生産の再開という
ことのほかに、関連する機械工業再建のための足掛りを提供するという点からも、一つの重要な意
義をもつていたといえよう。〉
 これは戦後日本の政治経済体制が米帝のアジア侵略と密接な係りを持つことを自己暴露するもの
でしかない。しかし朝鮮特需によって、開戦後わずか一年足らずで日本の鉱工業生産水準は戦前(
昭和九年〜一一年)を上まわったのである、同時に国内独占体を中心に一勢に設備投資が開始され、
熱烈な外国技術の導入が行なわれた。一方労働者人民に対しては、賃上げの見返りとしての生産性
向上運動(合理化推進)にまき込んでいく“労費協調”の方針がとられていった。
 この間の特需の概要を示す。〈弾薬類ならびに車輌修理特需は数年を出ずして終 し、三七年度
まで引続いて発注されていたものは、車輌調達と航空機修理に過ぎず、その後これに代って防衛庁
調遠が武器、航空機、電子機器、艦船等の分野にわたり、逐次本格化することになったのである、
〉註@
  註@ 「防衛機器生産の実態」(頁七三)
 このような工業生産性の高度化による自国商品の国際競争力の強化を計っていく過程では、国際収
支の、恒常的な赤字をアメリカからの援助によつて補完しつつ、設備投資を計っていった。これは一
層の対米従属を結果する以外の何物でもなかった。
 しかし、生産性の向上、国際競争力の回復が成果をおさめるや、一方で五八年以降のアメリカの
国際収支の長期的な赤字などもあり、アメリカの援助が漸次減少されたことなどによって東南アジ
ア等におけるアメリカとの部分的競争関係に入る様相を示していく。こうして工業製品の輸出の伸
張をみせ、対米従属関係からいくぶん脱却し、資本輸出を行なう等の帝国主義的自立の過程にはい
っていったのである。
 この間ブルジョア支配体制は、一九五五年に行なわれた自由・民主党の保守合同によつて、権
力集中を果し、かえす刀でスト規制法、防犯二法、教育二法等々人民労働者層への弾圧を強化し、
政治的社会的支配体制の整備を果していった。
更に六〇年安保改訂期が目前に迫った五八年から全国的に教員に対する勤務評定が実施され、次
いで警職法の上呈がなされるなど、安保乗り切り用の教育政策治安体制の強化が支配者の日程にの
ぼってきた。
 この間五八年の大不況の中でエネルギー部門を中心とする第二次合理化が進行した。とくに三井
炭鉱の六〇〇〇人に及ぶ首切り合理化は熾烈をきわめたが、高度成長に酔いしれた一般的傾向と、
それを生産性向上運動にみちびいていった指導層の誤りによって、孤立無援の斗いを強いられてい
った。
 こうして六〇年の安保・三池の分断された二つの斗争が準備されていったのである。
 さてこの間の特需は〈二九年度・三〇年度には武器、航空機、車輌、電子機器の兵器産業四部門
四社の全兵器生産に対する特需の割合は、夫々五七・六%、六二・二%と防衛庁需要を遥かに凌い
でいたが、以後三二年度、三三年度はいつたん一〇%台に落ちて、さらに三五年度以降車輌特需の
影響で再び三〇〜四〇%前後に回復している〉といった状況をしめしている。
 これが三五年当時までの概略であるが、それ以後四〇年頃までには車輌特需は少なくなっては
いるが、半面戦車、装甲車、機関銃等の武器類の長期一括契約およびF104戦斗機の調達等によって、
防衛庁需要が急速に増大してきている。そして三三年頃からの米国の経済危機を反映した無償援助
打切り等とも関連して、兵器生産再開後一〇年余にして日本の兵器産薬は自律的なものへと移行し
ていったのである。
 五七年に発足した岸安保改訂内閣によって準備されてきた改訂安保の内容は、帝国主義列強に対
して日本の帝国主義的自立の成果を誇示するものであるとともに、世界資本主義の親分株アメリカ
の傘の下で、アジア反革命資本主義のシマをあずかる代貸しとしての日本の地位を決定づけるもの
としてあった。
 六〇年安保危機を乗り切ると、ブルジョアジーは、「新長期経済計画」にみられる経済自立政策
と「三次防−兵器国産化−」にみられる自主防衛政策を両輪として帝国主義的自立の方針を更に強
固に推進していった。
 六五年二月、アメリカの北ベトナム爆撃開始とともに再開されたベトナム特需は、池田内閣の「
高度成長政策」の反動によるデフレギャップに悩む日本経済の一定のはけ口を提供することになっ
た。しかし五八年以来のアメリカの“ドル防衛政策”強化によって朝鮮戦争当時のような物量作戦
はとられなかった。むしろ一定の経済的自立を果した日本は、アジアにおけるアメリカの負担軽減
のための経済協力政策をとるにいたる。特需についていえば、蓄積段階にある韓国、台湾等のより
安価な労働力との競争関係も生みだされて、ベトナム特需の表面的な契約額は比較的少ないものと
発表されている。
 しかし過度の設備投資によるデフレギャップ、つまり実に三兆〜四兆円にのぼったといわれてい
る供給能力と実際需要のアンバランスによる企業利潤の急激な低下によって、カメラ業界をはじめ
として諸々の業界に不況カルテルが結成される等々、日本資本主義の危機を救う役割を果したベト
ナム特需の役割は否定できない。
 六四年に続いて六五年から六六年秋まで続いた不況を乗り切るために果したベトナム特需の役割
は次のように理解される。つまり、デッドストックをかかえ、はけ口を見出しえず黒一色の不況ム
ードの中で、貿易収支のみが好調を示していた。一九六五年の輸出の前年比伸び率は二六・四%で
あった。世界の輸入伸び率が九・六%であったから、日本の輸出の伸びは相当大きいものであったと
いえよう。〈一般に不況の年には国内の需要が鈍るので、企業はもっぱら製品のはけ口を海外に求
めるから輸出は大きく伸びる傾向があるが、このほか六五年に輸出が伸びた理由には、(1)日本の国
際競争力が高まつたこと、(2)海外輸出環境のよかったことがあげられる。〉
 再びここで、日本資本主義の危機を救ったものは、「彼方」の戦争であった。“海外輸出環境の
好転”とは、とりもなおさず“ベトナム戦争エスカレートによるベトナム特需の増大”に他ならな
い。
 こうして自信を得た日本資本主義は、独占体制を更に固め、帝国主義的分業秩序の確立を焦眉の
課題とするに至る。その方向を端的に示すものが、六七年に設定された「新長期経済計画」と「第
三次防衛力整備計画」である、両者は軍事力を含めた、帝国主義国家としての諸条件の確立を目録
むものである。
 「新長期経済計画」と「第三次防衛力整備計画」は相互に有機的に連関して、さらに強力な搾取
と抑圧の体制を築き上げるものとして、労働者人民と対立する。ここではそれらのブルジョア的政
策を可能ならしめたベトナム特需について、若干述べることにする。
 まず、ベトナム戦争に対する政府筋の言動はねこの目のようにめまぐるしく変転したが、『日本
はベトナム戦争で純然たる中立の立場にはない。米国と防衛的な安全保障条約を結んでおり、米側
と特殊な関係をもっている』@というのが国会を通じての日本政府の公式見解である。また六六年
の通常国会で椎名外相は、『ベトナムでのアメリカ軍の軍事行動は極東の安全維持のためであり、
日本はそのために施設区域を供与する義務がある』Aと述べている。
  註@「経済評論」六七・一月号
   A「  〃 」  〃
 こうした政府の方針と相まって、資本家は“ベトナムの甘い汁”を求めてその触手をのばしてい
ったのである。それは直接間接特需の増大だけでなく、アジア開発銀行を通じての南ベトナムをは
じめとする関係東南アジア各国に対する経済援助や輸出の伸び、更にアメリカへの関連輸出の伸び
となってあらわれてきている。
 ベトナム特需の特質は、朝鮮特需のそれと比較することによってより明らかになる。〈朝鮮特需
が直接特需一本にしぼられ、しかもわが国に集中的に発注されたのに比べると、直接特需自身、わ
が国だけでなく韓国・台湾などへも発注されている。そしてその原料がわが国から韓国。台湾へ輸
出されることによって間接特需が形成されるといった具合で、ベトナム特需のルートは朝鮮特需に
比べて複雑多岐にわたっている。〉@特需ルートのこうした複雑化は、国際的な階級情勢の複雑化
に対応している。その結果アジア反革命資本主義諸国の分業的戦争遂行が現象している。
 特需の性格がこのように複雑になってきている上に、広義の間接特需としての東南アジア関連輸
出・経済援助、加えてアメリカをはじめとするベトナム派兵各国への関連輸出の伸びが加えられる
ので、ベトナム特需は朝鮮特需に比べて政治的軍事的背景が大きいといえよう。
  註@安藤慎三「ベトナム特需」七七頁
 六〇年代においてアメリカ経済の国際的信用が相対的に下落し、ベトナム人民解放斗争の勝利の
形成などによって、アメリカはベトナムからの一定の後退を余儀なくされている。そうした状況の
故に、日本はアジアにおける資本主義勢力の利害を補完する形で東南アジアへの経済進出を開始し
たのである。日本経済の自立と自主防衛路線は、こうした世界資本主義勢力の同盟化の動きの中で
の分割支配体制の一環を全うする能力をたくわえてきたことを意味している。

二、特需の形態
まず発注から納入までのルートを左図によつて示す。




《図が入る》





 米軍に関係するあらゆる調達は、米国防省に直属するDSA(Defence Supply Agency)が総
括している。DSAは米国内及びヨーロッパ・アジアに夫々担当の下部機構をもっている。米国内
担当のビューローは図で示した如く調達品目によって五つに分かれている。
 この五つの機関による調達が軍の発注を満たしきれないときに、海外調達の各機関によって各国
に発注することになる。極東方面の調達を担当しているのはホノルルにある西太平洋総司令部であ
る。ここからの指令は、神奈川県座間に駐屯する米軍事顧問団を経由して、横浜にあるAPAを中
心に調達活動が行なわれる。
 米軍の調達は日本オンリーではない。西太平洋総司令部は極東地域を対象とした調達機関である
ので、APAと同時に韓国のKPA(Korean Procurement Agency)にも発注される。またA
PAからの調達には台湾政府の中央信託局(CTC=Central Trust Corporation  )を通じ
て、台湾の業者も参加している。朝鮮特需では日本に限られていた極東での米軍特需は、ベトナム
特需では韓国・台湾などのより安価な労働力との競争関係に入っている。
 以上が、米大使館の発表する特需統計にあらわれる公式の特需のルートである。なお、海軍は横
須賀で、陸軍は立川で独自の調達活動を若干行っている。
 APAの入札に参加している日本の商社のうち主なものは、三菱商事・三井物産・伊藤忠・丸紅
飯田・東綿・日綿などである。また大丸の商務部や高島屋などのデパート業界も加わっている。
 公式のルートの他に“幻の特需”とか“裏口特需”とか呼ばれているものがある。日米安保条約
に基づく地位協定によって、米軍が日本から運び出す物資は通関の必要がなく、日本政府も日本業
者も統計的にとらえる方法をもたない状態にあるものである。それ故軍事機密に属するたぐいはほ
とんど通告なしに搬出搬入が行なわれている。朝鮮特需の際に多最にあった武器弾薬の類は、ベト
ナム特需の場合公式ルートにあらわれた数字では一件もないことになっている。しかし、ナパーム
をはじめ直接戦斗に用いられる製品若しくは半製品が裏ロルートを通ってベトナムに送られている
ことは公然の秘密となっている。
 いままで述べてきた特需を形態別に表示すると次のようである。
(1)直接特需………APAによる調達
契約ベース {「物資」
       「役務」
      「円セール」
収入ベース{「米軍預金払込」
      「沖縄建設等」
(2) 間接特需………通常輸出の形態をとるもの
  @ 韓国および台湾等が米軍と契約した特需の過剰分を日本に発注してくる場合や同じく韓国
   や台湾等がとった特需品の原材料を日本に発注してくるもので、例えば日本から韓国に綿織
   物を輸出し韓国では軍服に仕立て、米軍ないしは南ベトナム軍に納入するものなどである。
   総じて東南アジア関連輸出と呼ぶ。
  Aアメリカ国内の産業の軍事化に伴なう民需品の不足分をアメリカ向けに輸出するもので、
対米関連輸出と呼ぶ。
(3) 裏口特需(幻の特需)
 (1)で示した直接特需は、在日米策調達本部(APA)などの正式機関を通じて、米軍が日本から
買付ける物資や役務である。これはふつう関係業者を対象に国際入札によって行なわれているが、
入札以外にも特定の業者と長期契約を結んでおき、米軍が必要とするときだけ発注してくるケース
もある。
 直接特需の中で「円セール」というのは、米軍振出しのドル小切手と引換えに米軍指定銀行が円
を売却した額を示す。こうして米軍が取得した円は主として軍人・軍属・家族の個人消費およびP
X等の維持、物資の買入れ費用にあてられる。
 また「米軍預金払込」は、在日米軍およびその附属機関が特需契約にもとづいて調達する物資お
よびサービス代金(賃金も含む)を指し、日本銀行本支店に設けられた円建の軍支出官名儀別当座
預金勘定に振込まれる。
 「沖縄建設等」は、沖縄基地建設に関連する調達であるが、金額的には少なく前二者が特需収入
の大半を占めている。
 通産省では毎月「特需統計」を発表しているが、それは直接特需をまとめたものであるが、米軍
が米大使館を通じて“好意的”に通報してくるもので、独自に調査をしたわけではないので正確な
実態を示すとはいえない。
 もともと在日米軍による調達は「日米安保条約に基づく施設および区域ならびに日本国における
合衆国軍隊との地位に関する協定」によって、調達内容について米軍が日本政府に報告する義務は
ないしくみになっている。また特需は「外国為替管理令の臨時措置法」によって「輸出貿易管理令」
の適用を除外されているので契約について日本政府の許可や税関での確認を必要としない。故に米
大使館発表の特需額も、どうにでも操作できることになるのである。
 次にAで示した「間接特需」について述べる。
 通産省の非公式な発表によっても、六六年度のベトナム特需のうち、直接特需一億四〇〇〇万ド
ルに対して、間接特需は五億六〇〇〇万ドルとはるかに大きなウェートを占めている(安藤慎三「
ベトナム特需」三一新書) といわれるように直接特需一本やりだった朝鮮特需に比べると、ベト
ナム特需で特に重要なのは「間接特需」である。
 これは単に数最的差異のみならず、朝鮮動乱当時とベトナム特需に関っている現在の日本経済の
発展段階の質的相違を明らかに反映しているのである。
 インフレ収奪と朝鮮特需等によって蓄積をはたした日本ブルジョアジーは三〇年代において熱烈
な設備投資をおしすすめ、何度かおとずれた経済危機を比較的短期に克服していくなかで産業の重
化学工業化を果し、一方数次に亘る合理化で労働者人民をしめつけつつ、長期的な経済成長を推進
してきた。
 こうした日本経済の発展的事象に加えて、アメリカでは予算の五〇%以上を軍事費が占める戦時
経済化し、国際収支の赤字がつづきドル危機がさけばれている状況にあることによって、日本はア
メリカ帝国主義を部分的に補完する意味で東南アジア関連輸出、経済援助の増大、さらにはアメリ
カの軍需の穴を補う対米関連輸出の伸びを現出している。
 この傾向を要約すると、朝鮮特需ば敗戦直後、多くの遊休設備をかかえて壊滅的な苦況に頻して
いた産業界、とりわけ軍需産業として太平洋戦争の実質的遂行者であった大独占の資本蓄積を果し、
その後の三〇年代の大規模な設備投資を可能にした。一方ベトナム特需によって、日本ブルジョア
支配階級は、米帝から一定の自立を果し、アメリカとの共同利害のもとで、自立的かつ目的意識的
に商ベトナム人民解放斗争およびアジア的拡がりでの人民の解放斗争阻止のためのベトナム反革命
軍に対する物資輸出を遂行しているととらえることが出来るだろう。
 三、特需の実体
1. 特需が兵器生産の再開をもたらし、日本の帝国主義的自立の政治的・経済的基礎を形成してきた
ことはすでに述べた。ここでは具体的に軍需量及び関連企業の実体について述べる。
 その前に、太平洋戦争中は国家予算の八〇%を占めていた軍事費は、一たん占領軍の非軍事化
・民主化政策によって皆無に等しくなったが、それが特需によって再び日本の予算にあらわれて
以来、どのような形で行われているか見てみよう。
 第一には日本の予算にあらわれた日本およびアメリカの軍事費としてあけられるのは、@警察
予備隊費−保安庁費−防衛庁費である。これは、日本独自の帝国主義軍隊の拡充にともなって年
々増加の一途をたどっている。Aに挙げられるのは終戦処理費−防衛分担金である。終戦処理費
と防衛分担金は五一年片面講和条約の締結を境として占領軍が駐留軍と名称を変えたのに応じて
変化しただけで、若干の相異はあれ、内容的に大差のないものである。さらにBとして対日援助
見返資金及び余剰農産物資金のようなアメリカの対日経済軍事援助が挙げられる。
 第二は、アメリカの対日軍事支出が挙げられよう。これらは一括して特需と呼ぶことの出来る
ものである。@として在日米軍の軍事支出および軍事調達、Aアメリカ軍の朝鮮・沖縄などの軍
事行動や軍事建設にともなう軍事支出、Bアメリカの対外援助の日本における調達などである。
2. 沖縄特需
 一九四九年頃から沖縄軍事基地建設にからんで若干日本の企業も参加していた。この時期日本
の建設業者はアメリカの建設業者の下請の形で沖縄に進出していた。
3. 朝鮮特需
 一九五〇年六月、マッカーサー指令によって警察予備隊が創設され、これに昭和二六年度予算
として二〇〇億円が計上された。ここに日米帝国主議者の間に、現在の日本の地位、つまりアメ
リカ帝国主義との共同利害の下、アジアにおける経済的軍事的盟主たるべき日本の地位の萌芽を
みることができる。日本資本主義のそうした復活と自立のきっかけを与えたのが朝鮮戦争による
特需に他ならなかった。
 朝鮮動乱の勃発を期にアメリカの日本占領政策は、意図的に日本の兵器産業の復活をうながし、
多量の兵器特需が行なわれた。これは第二次大戦後米軍が一時「平和」の到来ということで、戦
略物資のストックを欠いていたため朝鮮作戦行動に支障をきたしたため、アジアの要衝地にある
日本をアジアの兵器廠ならびに前線基地として確保しようとする戦略の一端であった。
当時日本の財界首脳は「自衛力をもつことを否定するという環境のなかで、ひとり防衛生産だ
けが、米軍の域外調達を支柱として、国の方針とはまったく無関係なままにはじめられた@」と
いうみせかけの姿勢を示しながら、積極的に対米従属関係をとり結ぶ中で、自らの「防衛」兵器
生産を拡大し、産業の重化学工業化を果し、新たなるアジア進出を行なうまでに至った。
 朝鮮戦争による物資調達は、開始されると間もなく、五〇年第二四半期には六六四八万ドル、
役務を合わせると一億一四二六万ドルに達した。そして五一年六月二三日、ソ連のマリク国連大
使の提案がなされるまでの一年間に三億二九〇〇万ドルの特需がなされた。A
  註@ 経団連パンフレット第二三号「わが国防衛生産部門の現状分析」(六〇頁)
   A 資料「ベトナム特需」(七五頁)
 この間の調達品目は、五〇年第二四半期には、トラック・ドラムかん・麻袋・軟質材・乾電池
・貨車・ケーブル・建設資材・Vメーター・木箱等第二次戦斗資材が多かった。また五一年度第
二四半期は、自動車・綿織物・石炭・硫安・セメント・建設用鋼材・ドラムかん・軟質材・麻袋
・有刺鉄線・同鋼柱等建設用ならびに民政用の資材調達が主だったもので、新三品ブーム(鋼・
ゴム・ジュート)と呼ばれた。B
   B 資料「ベトナム特需」(七五頁)
 この間五一年九月九日、サンフランシスコにおいて四九ヶ国の「自由国家群」との間に片面溝
和条約が調印された。日本がアメリカを盟主とする「自由国家群」の一員として復活する方向が
決定するや否や、五二年度の第二四半期には、軍需資材の調達が一躍トップにおどりでる。アメ
リカ軍が完成兵器の発注を開始したのも、そうした日本の国際的地位の固定化に確信をもった五
二年五月からであった。つまり五二年三月、兵器生産制限に関する占領軍総司令部覚書が交付さ
れ、四月には兵器航空機生産権限が日本政府に委譲されたのである、完成兵器特需の第一号は、
四二吋迫撃砲四五八門を受注した大阪機工と、八一ミリ迫撃砲弾六二万発を受注した小松製作所
であった。@
  註@ 資料「ベトナム特需」(七五頁)
 日本の資本主義的復活の方向が決定的になったため、五三年七月朝鮮動乱の休戦協定の成立以
後になっても、兵器特需はむしろ増加していった。その額は動乱勃発以後五七年六月までの発注
で、総額四億五〇〇〇万ドルに達した。兵器の品種は、迫撃砲・ライフル銃・ロケット弾・ナパ
ーム弾・手榴弾等多様化された。これらの生産にあたったのが〈第一章兵器産業の実態〉で取りあ
げた日特金属その他の諸企業であった。
 朝鮮休戦協定以後も兵器特需が続いた理由は、一つはアメリカが第二第三の朝鮮を想定し、常
に臨戦体制を備える方針をとったためである。第二はアメリカのアジア戦略体系の一環として、
アジアの要衝地である日本に、自前の兵器生産設備と軍隊の保有なうながすためであった。この
               A
期に頻繁に語られた、日米経済協力などもこうした戦略的条件を日本が受け入れることを前提し
ていた。
  註A 経団連二六・三・一五「日米経済の協力熊勢に関する意見」
        二六・七・二四「日米経済協力と資金ならびに物価問題に関する意見」
経団連二七・二・一 「行政協定に関する意見」
   三七・三・一二「日米経済協力のための政府のとるべき措置に関する意見」
   二七・六・三 「米軍調達上の諸条件に関する意見」
4. 朝鮮特需反動期
 朝鮮休戦交渉の動きにつれて日本経済界は五三年頃から対策に乗り出した。その間の事情を『
経団連の十年』によってみることにする。〈二八年度に入って、朝鮮休戦交渉の進展等を背景と
する国際情勢の転換にともない、最気停滞の傾向はより明確な様相を呈した。とくにポンド圏貿
易を中心とする輸出不振は改善の気配はみえず、五月七日朝鮮休戦会談が事実上妥結するに及ん
で、これまでの朝鮮動乱に基づく特需等の臨時収入によりともかくも均衡を保ってきたわが国の
国際収支も、その前途は楽観を許さぬ事態となり、国内物価の割高是正と正常輸出の拡大による
経済自立の達成を目途とした、経済政策の確立が強く要請された。〉@
  註@経団連関西経済連合会二八・五・一二「経済基本政策に関する要望」
 こうした情勢を反映して、兵器特需は五五年頃から激減した。五三年には七〇〇〇万ドル以上
であったが、五四年度には約六五〇〇万ドル、五五年度には一〇〇〇万ドル以下になった。この
ため各企業は首切り合理化を切り札として企業再編に狂奔した。五二年に武器弾薬関係で一六〇
社に達した企業が二七社に減り、また航空機関係では三一社が一〇社以下に減った。Aこうして
不況下における企業合併、集中化が計られていき、大独占の焼け太り的復活が行なわれた。
  註A 「ベトナム特需」
 不況のあおりを食った企業の例として次のようなものが挙げられる。五三年秋には特需車輌の
修理作業の中絶で、小松製作所川崎工場、日野ディーゼル府中工場が閉鎖され、さらに五五年夏
には富士自動車追浜工場が三八○人の首切りを断行したのをはじめ、新日本飛行機相模工場、三
菱日本重工業東京製作所などいくつかの工場で大量首切りが相ついだ。兵器産業の本命といわれ
た日平産業までが五四年に不渡り手形を出すに至った、@その対策として石川一郎経団連会長(
当時)がアメリカに赴いて特需確保をアメリカ側に折衝したが、さしたる効果はなかった。A
  註@ 「ベトナム特需」(二九頁)
   A 「  〃   」(三〇頁)
 これ以後六四年まで特需は減少していった。五九年九月二七日、アイク=フルシチョフ共同声
明(キャンプデビッドの“雪どけ”声明)にみられる冷戦緩和の方向や、六二年夏頃から米政府
によってドル防衛のため、米軍の域外調達が原則的に禁止されたことなどが主たる原因としてあ
げられる。
5. ベトナム特需
 五二年の公称七億五〇〇〇万ドルの特需収入をピークに、その後朝鮮復興特需という形でつづ
いたものの、漸次減少し、六四年には三億一千万ドルにまで、減少した。
 六四年には池田内閣の高度成長政策の反動によるデフレギヤップで企業利潤は急激に低下し、
そのあおりをくった中小企業の倒産が続出していた。六五年三月には、大企業ともいえる三陽特
殊鋼まで倒産したのをはじめ、下請企業、関連企業の倒産が頻繁におこった。同じ五月、山一証
券が破綻をきたす等日本経済は大きな動揺をみせていた。
 こうした状況の進行するなかで、六五年二月アメリカの北ベトナム爆撃が開始されると間もな
く、六月米国防省軍事援助局次長補佐官M・ブリックが来日し、西独等の西欧諸国への売込みに
失敗したナイキハーキュリーズを日本に売りつけ、その見返りとしてベトナム向け軍需物資の買
付けを行うという情報が広がった。結局ナイキ問題は、発射台を米国から輸入し、弾体のみを国
産化することになったが、その後ベトナム戦争のエスカレートとともに特需の方も増大していっ
た。
 一時三億ドルにまで減少した特需収入は、六八年度には六億ドルを越えるに至った。特需品目は
主としてサンドバッグ・ジャングルシューズ・防虫網・セメント・カメラ・自動車部品・燃料・
航空機修理・米軍宿舎改修工事・船舶修理・その他となっている。
 朝鮮特需で主流を占めた武器弾薬の類は「輸出入管理令」「武器等製造法」「同施行令」など
の制約で、表面上はほとんどないことになっている。@六四年度までは米本国向け護身用ピスト
ルが中心といわれ、六五、六六両年度には豊和工業が各五〇〇〇丁のタイ向けの小銃を輸出した
といわれている。Aフィリッピンも西華産業・江商・太平洋オーバーシーズとの間に弾丸製造プ
ラント(旭精機)との輸入契約を結んだといわれている。また三井物産と火薬製造設備、日特金
とは機関銃の輸入商談をしている。
  註@ 「特需」(六一頁)
   A 「特需」(六一頁)、「経評」六七・一月号(六一頁)
 しかしながらこうして一応公けになっている部分だけでは全てとはいえない。それは「日本国
とアメリカ合衆国との間の相互協力および安保条約に基づく設備および区域ならびに日本国にお
ける合衆国軍隊の地位に関する協定」によって、米軍は日本国内から物資をもち去る場合、日本
側の輸出承認を必要としないし、「地位協定の実施にともなう外国替為管理令等の臨時特例に関
する政令」によって「輸出貿易管理令」は全く有名無実になっているからである。
 このことは後に触れるLST乗組員の役務提供や日本国内の米軍基地に持ち込まれる資材に関
しても同様である。例えば、米陸軍相模原補給廠では、CONEXの中に南方にのみ棲息する狂
暴性をもったアリが生存していたことや、修理に戻された装甲車に肉片が付着していたり、装甲
蓮内にあった不発弾が暴発して労働者が重傷を負った事などが明るみに出たが、こうしたことは
米軍基地で搬出搬入される物資が無通関無検疫のままであることを証明している。だから直談な
どによって受注した業者は、製品を兵たん基地内に送り込むか、あるいは横浜ノースピア渡しと
すればそこから先は政府も業者も関知しないということになっている。
 またナパーム弾を例にとれば六六年八月群馬県下の硫黄鉱山が一勢に増産体制に入ったという。
これらの硫黄の買付け先が日本油脂であり、同社は朝鮮戦争でナパーム弾原料油生産の主要メー
カーであったことなどから、ベトナム向けナパーム弾原料油生産を行っていることは間違いない
とされている。また六七年六月二七日付毎日新聞夕刊および六五年四月の中国の「人民日報」で
もアメリカ軍がベトナムで使用しているナパーム弾の大半は日本製であることを報じている。
 いままで主に直接特需について語ったが“ベトナム特需額”の算定について若干触れておく。
 ベトナム特需をベトナム戦争拡大以後増加した特需としてみると、その年の特需総額から在日
米軍の恒常的調達とみられる分を引いた額がおよそそれに相当するだろう。こうして算出した額
を次表のA欄に記す。しかし、アメリカのベトナム介入は、仏軍がディェンビェンフー敗退の結
果撤退して以来続いているのであるから、その間のベトナム向け特需の平均的数値とされている
六〇〇〇万ドルを加味した額をベトナム関係の特需の総額としてB欄に示す。
 また、通産省発表の年度別特需統計を、JETRO発行
行の「通商弘報」に掲載された資料によって示す。但し表
は別提出とする。

《表が入る》

 次に東南アジア向け関連輸出を追ってみよう。派兵六ヶ国(つまり当事国である南ベトナムを
はじめ韓国・台湾・香港・タイ・フィリッピン)が中心であることはいうまでもない。
 これらの国々では現在兵員派遣をはじめ軍需物資を中心としたアメリカからの特需の発注によ
り生産が拡大し、そのための原材料の輸入が増加している。その結果日本の派兵各国を中心とし
た東南アジア向けの輸出が増大している。アメリカが軍需に追われて輸出余力を減退させている
こともこの傾向に拍車をかけている。
 これらアジアのベトナム派兵六ヶ国へはいずれも六六年以降、日本の輸出が増加している。
輸出品目についてみても、南ベトナム向けは直接軍需民需に向けられるようなものであり、他の
五ヶ国は機械、原燃料冬しくは加工用中間製品が多くなっている。また東商アジア各国は貿易収支
が赤字つづきにもかかわらず、外貨準備が着実に増加しているのは特需によるドル収入のおかげ
とみてよいだろう。
 これらの間接特需の算出法を二例あげておく。
(例1)「経済評論」六七年一月号の方法
八億九三〇〇万ドル(六五年の日本の五ヶ国向け輸出額)×三、四%(ベトナム戦争による輸入増
加率)×○、九(五ヶ国の輸入増加率に対する日本の輸出弾性値)=三二〇〇万ドル(直接的な増
加)………………(a)
九億四七〇〇万ドル(六五年のアメリカの五ヶ国向け輸出額)×九%(ベトナム戦争による輸入
増加率)×一(五ヶ国の輸入増加率に対するアメリカの輸出弾性値)=八五〇〇万ドル(日本の
肩代り輸出高)………………(b)
(a)+(b) 一億一七〇〇万ドル(五ヶ国向け輸出額)
(例2)「ベトナム特需」(三一新書)の方法
一一億七九〇〇万ドル(六五年実績)×一、二一(六五年の対前年比伸び率)=一四億二六〇〇万
ドル(六六年の予想輸出高)……………(a)
一六億七五〇〇万ドル(六六年輸出実績……………(b)
(b)-(a) 二億四九〇〇万ドル(東南アジア六ヶ国向け関連輸出額)
 右の二例をみても、その確かな額を提出することは困難であるが、これはかえって日本経済・
政治状況が、アジア反革命軍の行動と有機的な連関をもって機能しているといえるだろう。日本
の東南アジア向け輸出は、民族ブルジョアジーと結んだアメリカ帝国主義のアジア支配をより円
滑ならしめるために行なわれていることは論をまたない。
 細かい事例についてみると「経済評論」六七年一月号によると〈六六年にはいつて南ベトナム
向けに浮きさん橋・ブイ・しゅんせつ船などの輸出が急増した。これらは形式的には武器ではな
い。しかしアメリカ軍の上陸や補給物資の陸揚げに使われるのは当然として、なかにはヘリポー
ト用の移動基地用鉄製箱船が含まれているという噂がある。八月横浜のAPA(在日アメリカ軍
調達局)は貨車二〇〇輌の入札を行ない、車輌一二社が落札したが、これらの貨車はサイゴン―ユ
エ間約四キロの軍事物資輸送用である。本田技研・ブリジストンタイヤ・鈴木自動車は南ベトナ
ム向けに三万台以上のオートバイの輸出契約を結んだが、軍人家族の慰安用と同時に対ゲリラ戦
用ともいわれる。(後略)〉等々戦斗に関連する特需物資を挙げただけでも無数といえるほどで
ある。通産省はかってこうした特需物資の内容分析を行っていたが、六四年度までで六五年度か
らはこれを取りやめている。これは丁度アメリカの北爆開始と時期を同じくしている。こうした
人民の目を欺く政府の処置は、かえってベトナム戦争に自国の利害と世界資本主義の利害を賭け
て、意識的かつ積極的に加担している政府の状態を逆証明するものである。
 以上述べてきたものに加えて、アメリカ国内の民需工場が軍需生産に転換したとかの理由で薄
手になった民需品の対米輸出等、ベトナム戦争のエスカレートによる対米輸出の伸びを如えたも
のがベトナム特需の総体であると考えられる。もちろん特需の政治的要因ば別のところで述べて
いるとおりである。
 ここでいくつかの調査機関の試算によるベトナム需要を次頁の表によって列記する。@
  註@ 資料「ベトナム特需」(一〇五〜一〇六頁)
6. 特需に関連する企業の特需実績および特需品の出先での使われ方
(1) サンドバッグ
 主要な受注会社は日本麻袋他二社。六五年の実績は三社計一〇〇〇万袋。六六年は夏までに同
じく三社合計二〇〇〇万袋受注。その平均単価を一四セントと見積ると合計二八○万ドルが六六
年前半の実績である。サンドバッグは基地の土のうや塹壕の堤などに使われている。
(2) ジャングルシューズ
 主要会社は興国化学・藤倉ゴムなど。五六年頃からジャングル戦における対ゲリラ用戦斗靴と
して輸出。ベトナム関係では六五年を中心に約五〇〇万足日本に対する発注があった。多くは韓
国が安価な労働力によるコストダウンを行って落
札している。日本から韓国に向けて靴ひもやピン
などの材料輸出が続いている。
(3) 防虫網
 ジャングル戦において蚊を防ぐために用いら
れている。日本では日東紡績一社である。六五年
に三〇メートル巻一〇〇〇本納入。六六年八月に
あった一二〇〇〇本の引合いは断っている。
(4) セメント
 三菱セメントと住友セメントが主力であるが、
多少の差はあってもほとんどのセメント業者が特
需に応じている。例えば本年五月中旬に秩父セメ
ント約一〇〇袋が米軍相模原兵器廠より出荷され
たと基地労働者は語っている。主として基地建設
用に使用されているセメント特需の実績は六六年六月からの一ヶ年間に六万七〇〇〇トン、六七
年六月から年末までの契約分として三菱セメントが二〇万袋を受注するなどの動きがあった。ま
た住友セメントでは総売上げの三%、総輸出の三〇%を特需が占めているので決してバカに出来
ないとしている。
(5) カメラ
 日本製カメラは主としてベトナムの米軍PXで米兵に売られている。またベトナム帰休兵が日
本で買う分も特需とみることができるが記録にはあらわれない。
 カメラ業界は池田高度成長政策にのっかって六二、三年頃大巾に設備を拡大した矢先に六四年
の不況にあって生産過剰状態になった。カメラ業界は六五年からのベトナム特需の出現によって
救われたようなものだ、特需の実績としては、六五年が二〇万台(二四億八○○〇万円)、六六
年が三二万六〇〇〇台(四三億五〇〇〇万円)が記録され、これに帰休兵が日本で買った分を合
わせて大量のはけ口をカメラ業界は見出したことになる。
(6) 自動車部品
 一九五七年以降米軍車輌更新計画により、第一次(五八〜六〇年)、第二次(六〇〜六五年)頃
まで多量の発注かあった。その際三菱重工(当時新三菱)、いすず、日産、トヨタが競争入札し、
ジープタイプのO、二五トントラックを三菱重工が、兵員輸送用O、二五トントラック及び武器運搬
用O、七五トントラックをトヨタが夫々落札した、しかし六四年以降はバイアメリカン政策の一環
として軍用車の域外調達を原則として禁止したチェンバレン法によって完成品の特需は杜絶した。
トヨタの場合、第一次、第二次合わせて五万一〇〇〇台の武器運搬軍やトラックを納入した。し
かしチェンバレン法以降わずかに病院車。消防車などの特殊車輌五〇台弱が発注されたにとどま
っている。しかしそれまでに納入した車輌の補修部品の発注は、月一億五〇〇〇万円〜二億円の
ペースでつづいている。
(7) 燃料
 既に米軍燃料タンク車輸送に対する反対斗争は、六八年の反戦斗争の主要課題となったことに
よっても明らかにされているJP4と呼ばれるジェット燃料である。米軍の燃料特需は六七年に
はいつて本格化した。六六年前半で三〇万キロリットル、同年後半には六〇万キロリットルの発
注があった。石油業界は半分が限度と語っている。
(8) 航空機修理
 空軍関係機の修理の仕事は三菱重工と川崎航空機が、海軍関係(第七艦隊艦載機)は日本飛行
機と新明和工業で、米海兵隊の使用するベル型ヘリコプターの修理は富士重工が夫々請負ってい
る。修理作業の内容は定期的オーバーホールが主とされている。
 一番仕事量の多い日本飛行機では、修理作業は防衛庁関係四に対して米海軍関係六の割合で行
っているといわれている。六五年後半から特需が増大し、六六年の修理契約高は一七億円で、そ
の実績一五億円は実に同社の総売上げの四五%にのぼっている。同社の修理機はA4ファントム、
F8など艦載戦斗機が主である。
 また川崎飛行機では五五年頃からT33練習機の修理を行っている。三菱重工ではF102戦斗爆撃
機の修理を続けている。六五年の実績が六五機、六六年は三四機と減少気味である。
 航空機会社が米軍機修理にすがりついている思惑として、CX(自衛隊次期輸送機)、TX(
同次期練習機)、FX(同次期戦斗機)の獲得のための技術温存の配慮がある。
(9) 米軍宿舎改修工事
 古くなった基地内建物、軍人家族宿合の改修。多くは地元中小建設業者の手によって行なわれ
ているが、大成建設・間組なども入っている。

(10) 船舶修理
 六六年初めころから急増。四〜五〇〇〇トン級のLSTが大部分。直接戦火を受けた艦船の修
理は佐世保や横須賀の米軍ドックで行われ、日本人の目に触れないように工作している。特需統
計による船舶修理契約高は六五年が一〇二万二〇〇〇ドル(三億六七〇〇万円)、六六年が三八
六万六〇〇〇ドル(一三億九一〇〇万円)であった。

(11) その他
 ジャングルプリント(南ベトナム兵士用戦斗服)、有刺鉄線(住友電工・神戸製鋼等)、農産
物、トラック・バス輸送などが特需品目としてあげられる。トラッ・バス輸送は日本の運輸業者が
内地や沖縄などで米軍の人員や物資の輸送を請負っているもので、その主力である国際興業は六
五年度三四七万ドル、六六年度六〇四万ドルの実績をあげている。


 第四章ベトナム戦争

一、世界革命の現代
 一九一七年十月ロシアプロレタリア武装蜂起は、単にロシア“国内”革命の開始としてあったの
ではない。それは、まさしく世界帝国主義ブルジョアジーに対する“世界革命”の宣戦布告であっ
た。それ以降の歴史は、地球的規模(今や宇宙空間をも含む)における革命(戦争)と反革命(戦
争)との不断の抗争の過程である。
 資本主義的商品生産は、一八世紀後半、消費財部門における機械制大工業という固有の生産力を
つくりだし、ついで一九世紀後半〜二〇世紀初頭、生産財部門の大工業化という発展段階を経過し
た。そして、帝国主義がただ一つの経済構造として世界を征覇したのである。
 帝国主義は第一次大戦以降、全世界人民の革命斗争の、痛烈かつ連続的な打撃にさらされてきた。
現在、世界的な規模での“革命的情勢”のなかで、帝国主義は追いつめられ、必至の防衛戦を展開
している。
 この防衛は主としてアジア・アフリカ・ラテンアメリカの植民地従属諸国に対するその支配を維
持することに向けられる。なぜならそれなしに帝国主義は生存しえない(従ってまた資本主義も
崩壊する)からである。
 帝国主義は第二次「世界」大戦後の情勢の中で、やむをえず、植民地従属諸国に対する支配の手
をややゆるめ、新たな段階に転移した。すなわち、植民地領有という形態での「後進国」支配を後
退させ、それらの国の民族資本ないし買弁費本、封建勢力等に“政治的権力”を譲り渡し、“経済
的権力”のみを確保する@。そして、この枠を乗り超えようとする人民の抵抗に対しては、(南ベ
トナムの例にみるように)帝国主義の武力による弾圧を加えるというやり方をとるのである。
  註@ 例えば、南ベトナム=ベトナム共和国について言えば、大幅な輸入超過とインフレに苦
    しんでいて、輸入額の九〇%はアメリカ合衆国の「援助」でまかなわれており、その見返
    り資金とアメリカの援助による輸入品の税収とが、国家歳入の約八○%に相当している。
 この戦術的後退“新植民地主義”の体系の中で、依然として世界帝国主義は植民地人民に対
する支配を続けている。
 この支配の維持こそ、今日の世界帝国主義を生存させている本質的な要素であり、そしてそれが
帝国主義をして自国の労働運動を買収し、労働貴族による労働運動の支配を可能ならしめているの
である。
 ロシア十月武装蜂起から一九三七年末にいたる間、ヨーロッパ大陸は世界革命の主戦場=前線で
あり、アメリカ合衆国が、国際帝国主義の第二線=予備軍の役割を有効に果たす状況にあった。植
民地世界の革命的昂揚は、帝国主義本国ヨーロッパの革命に合流することなく、ヨーロッパプロレ
タリアートは、敗北を重ねた。
 第二次帝国主義戦争において、一九四三年、ナチス・ドイツとファッシスト。イタリーの権力が
崩壊し始めるとともに、全ヨーロッパ的規模で、労働者の革命闘争(工場占拠。労働者民兵の形態
を端初とする)が激化した。米帝は厖大な軍隊をエルベ川以西のヨーロッパ大陸に進駐させ、解体
・没落の危機に瀕したヨーロッパ資本主義を防衛した。(西欧のスターリニスト共産党は、この時
突きつけられていた、アメリカ反革命軍に支えられたヨーロッパ帝国主義との革命戦争の課題から
逃亡したのである。)
 一九四三〜四八年のヨーロッパ大陸の社会主義革命の展開はだが、東欧(ギリシャを除く)に
おいてのみ、官僚的に歪曲されたかたちで「一国社会主義」革命が実現され、他の部分では社共官
僚によって革命は武装解除された。そして、一九五三年にフランスのスターリニストが提唱したゼ
ネストが失敗して、第二次大戦後の革命的情勢はほぼ完全に退潮するのである。
 こうして、ヨーロッパ社会主霧革命が中断する一九四九〜六七年の時期に、植民地革命が世界帝
国主義打倒の最前線に登場する。一九四九年の第三中国革命の勝利を突破口とする植民地革命の昴
揚こそ、一九四三〜四八年の危機を脱した世界帝国主義に痛撃を加え、次の危機を準備したひとつ
のファクターなのであった。
 北朝鮮(一九四五年)、中国(一九四九年)、北ベトナム(一九五四年)、キューバ(一九六〇
年)の四つの労働者国家の登場は、労働者国家(一国社会主義戦略を指標とする)陣営にとって、
その矛盾を著しく尖鋭なものたらしめた。ソ連はそれまで、東欧の社会主義革命をその国境の内部
に抑圧しておくための力と、世界帝国主義との「平和共存」を協定しうる条件とを維持しえてきた
のだがA、これら四つの革命においては、この同じ試みは、いずれも数年のうちに破産してしまった
のである(たとえば、中ソの密月は一九四九〜五七年で終結)。これら四つの国の革命の公式指導
部は(一国社会主議の戦略を否定したのではないが)一九六〇年以降、ソ連特権官僚政府との激烈
な斗争に大衆を動員してきた。
  註A 今日のソ連邦の役割は、たとえばその経済力においては、植民地革命の端初においてエ
    ネルギーを与えるが、次の段階――植民地革命が永続的に共産主義社会へ向けて前進しよ
    うとする――には革命の抑止力に転化するように設定されている。
 その背景には第二次大戦後の巨大な植民地革命の昴揚がある。それはまず、中国革命の勝利(一
九四六〜四九年)、続いて朝鮮戦争(一九五〇〜五三年)、ベトナム・ディエンビェンフー(一九
五四年)であった。中国革命の勝利は、アメリカ帝国主義を、世界反革命の予備軍から現役主力軍
へと引きずり出し、その戦略重点を中国に向けさせた。そして国際帝国主義による新たな中国包囲
網の形成と出動が、アフリカ。アメリカ大陸における極めて著しい圧力の低下となってはね返った
のである。アルジェリア独立革命戦争(一九五四〜六二年)は、フランスのみならず、ヨーロッパ
帝国主義に深刻な打撃を与え、しかもそれに触発されて、アラブ。アフリカ革命が一九六〇年以降、
巨大な潜勢力を爆発させた。同じくラテンアメリカでは一九六〇年のキューバ第二(社会主義)革
命の開始を転機として、急速に階級対立が激化した。キューバ、アルジェリアにおける戦線突破に
より、国際帝国主義はその力をこの方面に割くことになり、それが逆に、一九五四年一時的に封じ
込められた南ベトナム解放戦争の再高揚を、一九六〇年以降導き出したのである。アメリカ帝国主
義はベトナムに引ずり込まれる。まさに一九六〇年以降は、アジア・アフリカ・アメリカの全面的
な植民地人民の反乱の合流とその相互さようの加速化が見られる。(そのメルクマールとしては、
一九六三年の中ソの決裂、一九六四〜六五年のエルネスト・チエ・ゲバラのソ連との衝突、一九六
四年以降のソ連による「ベトナム局地化」の完全なる失敗など。)
 一九六八年、五月闘争の発火をみたフランス帝国主義こそは、ベトナム(一九四六〜五四年)→
アルジェリア(一九五四〜六二年)への反革命的遠征の中で消耗しつくした最も脆弱な環なのであ
った。反乱する植民地=「第三世界」に追いつめられたヨーロッパ帝国主義は、一九六四年十月の
英国労働党政権の成立と前後して、いずれも社民の政府もしくはそれとの連立政府をつくるに至っ
た。
 一九六四〜六七年は、まさしくベトナムをテコとして、世界の帝国主義を土台からゆさぶる植民
地反乱の深化の時期であった。一九六四年夏以降、ベトナムは植民地革命戦線の中心的環として位
置づけられてきた。そして、一九六五年には、「ベトナム」がアメリカ帝国主義本国それじたいに
(すなわち、その内なる植民地=辺境である黒人社会に)展開し始め、黒人の武装反乱が開始された。
世界資本主義打倒の革命運動史上はじめて、共通の敵に対する攻撃において、帝国主義本国と植民
地の革命の現実的結合の可能性が登場してきたのは、実に一九六四〜六五年(北爆開始・マルコム
X暗殺が一九六五年二月)であった。北爆とともに、北ベトナム、ホーチミン指導部の「二分の一
ヵ国(!)社会主義建設」というべき戦略ば破産し、そしてソ連特権官僚政府ば、フルシチョフ綱
領―一九八○年までに一国共産主義社会(!)を建設する―がベトナムをテコとして崩されていく
という惨めな四年間を経験させられたのである。
 一九六八年初頭の局面は、第一線を引き受けたアメリカ帝国主義の戦線が、ベトナムと本国それ
じたいで崩れはじめたことを実証した(テト攻勢、キング牧師暗殺後の黒人暴動)。現在、国際帝
国主義の第一線が破られる時、次に有効に出動すべき第二線・予備軍は健在ではないのである。
 一九六四〜六七年、ベトナムに世界革命の焦点が凝縮した時期にまた、帝国主義本国の新たな革
命的昂揚の局面が準備されたのであった。一九六八年、フランスを突破口として西ヨーロッパ・ア
メリカ合衆国・日本を含む帝国主義本国はゆるぎ始める。植民地従属諸国(及び本国の内部の植民
地)のプロレタリアートが、世界帝国主義ブルジョアジーの国家権力、その軍隊の一部に、一定の
敗北(敗戦)を強制していることによって、総体としての世界帝国主義ブルジョアジーの戦線が後
退しているのである。(その一つの現象形態として、ドル・ポンド・フラン危機=国際通貨危機が
帰結されてくる。)B
  註B 一九五〇年代末からの国際市場競争の激化とドル・ポンド国際通貨体制の動揺は、植民
  地革命の一契機となっている。ドル・ポンド通貨体制崩壊の最初の局面から、アジア・ア
  フリカ・ラテンアメリカの植民地従属諸国は経済危機に見舞われ、したがってまた政治危
  機を経験しつつある。ベトナム戦争はその焦点なのであり、これに対する米帝の介入(=
  侵略・抑圧)は、ドル危機にはねかえって、ドル・ポンド体制の動揺を一層促進させ(ベ
  トナム戦争による米帝の戦費急増―一九六五年一億ドルだったのが、六六年五八一億ドル、
  六七年二〇一億ドル、六八年二四五億ドルと増し、一九六九年度予算は二五八億ドル―も
  また、ドル危機の有力な促進剤として働いている)、一九六八年三月一七日、ついに金の
  二重価格制への移行、すなわちドル・ポンド体制を崩壊に至らしめた。
二、ベトナムの革命と反革命

 「ベトナム戦争」を、ブルジョア階級は「自由主義陣営に対する共産主義の侵略」と宣伝し、一
方多くはこれに対置して、一面的に「米帝の植民地獲得への侵略」と規定する。だが、ベトナム戦
争は、怒涛の進撃を開始した被抑圧階級の、植民地の独立から社会主義への永続的発展を生みだす
攻撃の前に、日々後退せざるをえない世界帝国主義の、革命に対する必死の反撃なのである。
 アジア・アフリカが、世界の大植民地帝国の間に分割されていた一九世紀を通じて、フランスは
インドシナ半島を掌握していた。
 だが仏帝は、第一次大戦の消耗から立ちなおりえず、一九四〇〜四五年、日帝は仏領インドシナ
を占領し、仏帝の権力機構は解体された。日帝は、米英ソと対戦中で、過酷な植民地的搾取をもっ
てインドシナを統治した。(日帝の第一次“ベトナム戦争犯罪”である。)
 抵抗する労働者・農民の革命的闘争が発展し、これを基に、一九四一年にベトミンが形成され、
日帝及びそれに協力したフランス(ペタン政権)の出先官憲に対するゲリラ戦争を開始した。
 一九四五年初頭、日本人は旧貴族の一員バオ・ダイを「独立ベトナム」の支配者として権力の座
につけた。八月、日本がアメリカ合衆国をはじめとする連合軍に降伏すると、ベトミンは全国的な
大衆的昂揚の波に乗って権力を握り、ベトナム民主共和国を樹立した。この国家権力は、(ベトミ
ンが第二次大戦中、米帝を含む連合軍から武器援助と支持を得ていたことにも象徴されるように)
スターリニストの反フアッシズム国際統一戦線と、植民地における二段階革命戦略に沿った、封建
地主・民族ブルジョアジー・農民・労働者の愛国的・超階級的連合独裁という名のもとでの反革命
的な階級的性格のものであった。この政府(カトリックからコミュニストに至る一五人の大臣から
なる)は、みずからが幅広い「統一戦線」の政府であるという口実のもとに、“持たざる農民”に
よる土地占拠に反対し処罰した。
 ポツダム会談(一九四五年七月)で、ソ米英三列強は、インドシナ半島の一六度線を境に北半部
は蒋介石に与え、南部はイギリスに与えるという秘密協定を結んでいた。一九四五年九月、この秘
密協定にもとづき、イギリス軍隊がサイゴンに上陸した。サイゴンの人民は武装していたが、ベト
ミンを牛耳っていた共産党指導者は、この「英国の盟友」を歓迎し、武器を捨てた。ベトミンの中
で、こうした投降政策に反対した民族主義者、社会主義者の多くが、スターリニストベトナム共産
党によって粛清された。(ベトナム共産党指導部は、ベトナム人民の革命的決起を、ソ連スターリ
ニスト官僚のソ米英三国協調の反革命的外交の利益のために犠牲にしたのである。)上陸一週間後、
支配権を確立した英軍は、ベトミン弾圧を開始し、フランスの「権威」を回復する。アメリカ合衆
国はこの英仏共同のベトナム侵略を、輸送船隊で何千人ものフランス将兵(再度インドシナを植民
地化するための兵力)をヨーロッパから運ぶことにより援助した。こうして仏軍隊は、南ベトナム
を再占領し、更に北部ベトナムを占領していた蒋介石との取引きで、仏が蒋に経済援助を与えるの
とひきかえに、彼が国民軍を北部からひきあげることを取り決めた。
 一九四六年三月六日、ハノイのホーチミンを首班とするベトミン政権は、仏帝と投降的協定を結
んだ。ホーチミンは、仏軍が北ベトナムに進駐することを承諾し、やがてそのうち独立させるとい
う約束とひきかえにベトナムを仏連邦とすることに同意した。だが、このような裏切りを、ベトナ
ム全土の農民は、仏帝、自国の対建的地主、買弁資本家に対する下からの武装反乱によって突き崩
した。ベトミンのスターリニスト指導部は、ベトナム人民を帝国主義に売りわたすことに完全に失
敗した。
 一九四六年十一月、フランスは、これらの大衆の攻撃を口実に、ホー政権との偽りの共存を破棄
し、ハイフオン港を爆撃、一カ月後、仏軍はハノイを占領した。ベトナムのスターリニスト指導部
は、農民の強烈な圧力に突き上けられて否応なしに、スターリンに事実上反逆し、その現状維持=
「平和共存」路線と決裂する道へ進むよう強制された。
 ところで、一九四七年三月、仏政府のインドシナ再侵略の戦争開始政策に、トレーズ副首相をは
じめとする仏共産党閣僚は署名する。フランスが「それ自身の小さな本国」に縮小されるのを欲し
ないと主張し「昨日シリアとレバノンを失った後で、我々は明日にはインドシナを明後日には北ア
フリカを失なうことになるのだろうか?」と嘆いた(仏共産党機関紙「ユマニテ」一九四六年七月
二四日号)。仏スターリニスト「共産」党は、まぎれもなく植民地主義侵略者の共犯者である。
 一九五四年までに、フランスがベトナムでの戦争に敗北しつつあることが明らかとなった。一九
五四年五月、ディェンビェンフーの五五日間の包囲のあとでベトミンはフランスがその植民地を維
持しようという最後の希望を打ち砕いた。
 だが、ホーチミン一派=ベトナム労働党は、勝利を目前に控えた一九五四年、クレムリンと北京
の主人たちの命令でジュネーブにおいて、南半部・ラオス・カンボジアを帝国主義者に売り渡す再
度の裏切り協定に署名したのである。(米合衆国は、ジュネーブ協定に署名するのを拒否し、最終
宣言にも加わらなかったが、会議で決められた決議を守ることには同意した。)
 米帝が、ベトナム戦争においてフランスを援助したのは、中国革命の勝利と朝鮮戦争とによって
アジアの共産主義勢力、特に中国への警戒心を強めた結果である。ベトナムは中国とアジアの植民
地革命に対抗する反革命の基地=太平洋地域における戦略的拠点の一環であり、しかも南ベトナム
の革命運動が勝利したならば、全世界に大きな励ましとなる。この警戒心にもとづくベトナム援助
をアイゼンハワー大統領は一九五四年、ドミノ理論で正当化しようとした。米帝はジュネーブ会
議には参加したが、南ベトナムとともに協定に調印せず、会議終了後の一九五四年九月に、英仏な
どとともにSEATO(東南アジア条約機構)を結成し、南ベトナムを適用区域に入れた。
 一九五五年、ゴ・ジン・ジエムが大統領になった。彼を祭り上けた代価として、アメリカ合衆国
はジュネーブ協定を無視し、軍事基地を建設した、ジエム政権は、ジュネーブ協定で規定された南
北統一選挙の実施に反対する一方、反革命=地主の存在に基礎を置いて「土地改革」を始め、また
政治的反革命を実行し、ベトミンを支持した数千人の農民を逮捕した。
 一九六〇年十二月、バラバラだったゲリラ集団は南ベトナム解放民族戦線(NFL)を結成し(
人民革命党=共産党が主導)、武力抗争を強化した。幾多の困難にもかかわらず、NFLは成長し、
一九六一年までには強大になったので、ケネディ大統領は、米帝の軍事介入の第一歩を踏み出した。
「顧問団」と呼ばれた米軍隊は、最新の武器で装備されベトナムヘ送られた。ジエム政権は米帝の
援助を得てNFLに対抗した。だが、一九六三年夏以来、ますます多くのベトナム人が政府に反対
する闘争に参加し、仏教徒・学生等のデモは闘争を都市へ拡大し、それとクーデターによってジエ
ム政権は崩壊し、ジエム大統領は殺された(一九六三年一一月)。
 戦争の拡大と米帝の直接介入が着々と進められ、一九六四年八月の「トンキン湾事件」をきっか
けに、「報復」爆撃が北ベトナムの港と石油貯蔵所に対して行なわれ、ジョンソン大統領は上下両
院の決議で本格的介入の「国内法的権限」なるものをとりつけた。
 米帝国主義者は一九六五年二月七日、北爆を開始した。この時点で、米帝の植民地革命抑圧の戦
争が、労働者国家北ベトナムとの闘争をも含むものとなり、全世界的に労働者国家と植民地革命の
同盟が帝国主義との武力衝突にまで進み始めたのであるC。それとともに米軍を地上戦闘に参加さ
せ(六月)、これによって、米軍が反革命戦争側の主役となり、戦いの様相は「特殊戦争」から「
限定戦争」へと発展した。
註C 三月二二日、NFL中央委は、全世界人民に向けて、道義的・物資的援助と義勇軍派遺
  要請のアピールを発し、これに応えて、中国・ハンガリー・朝鮮・インドネシア・ベネズ
  エラ・ソ連・インド・日本・ブルガリア・キューバなどの人民が義勇兵としてベトナムに
  いく意志表示を行ない、その具体的工作が展開された。
 インドネシアにおける一九六五年の反革命の一時的成功は帝国主義者を励まし、労働者国家ブロ
ック及びアジアの共産主義勢力に亀裂と流動化をひき起した。米軍は一九六五年内に二〇万人に増
強され、原子力空母が太西洋から移送された。米帝本国においては、反戦運動の拡大と同時に、極
右派がそれ以上の速いテンポで強化された。
 これ以後一九六七年にかけて米帝の大増派(一九六六年末で四〇万人、米軍の数は「政府」軍の
数を越えた。死傷者数もまた然り)、北爆の拡大、韓国などの参戦と、米帝側のエスカレーション
が続いたが、NELと北ベトナムも強力に対抗した。この間の、ウ・タント国連事務総長らの「和
平工作」や、一九五四年の平和五原則にもとづく「平和共存」実現のためのベトナムの局地的平和
解決という裏切りの路線(一股論としては国連な普遍的平和機構として認識)は、失敗しまた破産
せずにはいなかった。
 一九六六〜六七年を通じて、ベトナムは世界階級斗争の焦点として、革命と反革命の対立を急速
に成熟させた。何よりもまず、アメリカ帝国本国内部の辺境=黒人の抵抗が、非暴力直接行動の次
元から街頭占拠・反乱―「暴動」へと転化し始めた。「第二、第三のベトナム」が合衆国本国に形
成される方向が顕在化することによって、アメリカ帝国主義は重圧を加えられ、そしてまた他の帝
国主義諸国においても、ベトナム革命勝利=自国帝国主義敗戦の方向性を持ったベトナム闘争の潮
流が登場した。このようにして、一九六七年後半には、世界帝国主義の主柱・米帝は、ベトナム戦
線においてきわめて重大な危地に追いつめられ、そしてそれは世界通貨ドル体制の解体の危機へと
押しつめられた。ドル危機を媒介として、ベトナム革命戦争は、西ヨーロッパ及び日本帝国主義に
対しても、現実に強烈な打撃を加えることになったのである。
 一九六八年一月末から一カ月あまり続いたNFL側のテト攻勢によって、農村を政府側の支配下
に入れるための平定計画ば大きく後退し、米軍の作戦は積極的な攻撃よりも拠点防衛に重点をおく
ようになった。
 ジョンソン大統領は、一九六八年三月三一日、「北爆を、一部を除き停止する」と述べ、北ベト
ナムに和平交渉を呼びかけ、次期大統領選に出馬しないという声明を行なった。そして、五月から
パリ会談が開始された。米帝は一歩後退し、ベトナム民族解放運動内部の階級対立を顕在
化させ、民族ブルジョアジー及びスターリニストを通じて、ベトナム革命の永久革命性を圧殺しよ
うとしている。この後退とともに、帝国主義のマスコミは厖大なエネルギーを投入して
「ベトナム和平」の世論工作を図っている。
 フランスのベトナム闘争は、自国帝国主義との闘争へ移行し、一九六六年五月、パリ和平会談と
いうベトナム革命の「局地解決」を目標とする政治舞台への挑戦として再度ベトナムとの相互作用
に突き進んだ。
 一九六八年十月三〇日、ジョンソン大統領は、北爆を全面停止し、南ベトナム政府とNFLを含
めて和平交渉を進めることを発表した。
 NFLの「平和・民主。独立・中立」という政治目標は、すでに、明確な桎梏に転化している。
農村において遂行されている土地革命Dは、農民の巨大なエネルギーの源泉となっている。「独立
・中立」とは、資本主義的生産関係総体の打倒をめざすプロレタリア的性格ではなく、地主の土地
を分配する農民、帝国主義に対して自己のためにヨリ多くの分け前を追求する民族ブルジョアジー
の階級的性格の表現なのだ。
  註D 今日の国際帝国主義体制にあって、いかなる辺境であっても、その「土地革命」は、総
    体としての世界帝国主義の生産手段体系の収奪に至る出発点としての階級的性格を付与さ
    れる。
 NFLがパリ和平会談に提出した一九六九年五月九日の「十項目提案」は、南ベトナムのすべて
の平和勢力の連立内閣の樹立を提唱した。そして、六月八日、南ベトナム共和国臨時革命政府が樹
立された(首班はフィン・タン・ファトNFL書記長)。一一日に「十二項目行動計画」と国民代
表大会(六月六〜八日)の決議(「暫定憲法」)を発表した。ソ連と北ベトナムの一国社
会主義特権官僚権力の緊密な協力のもとに、NFLのスターリニストと民族ブルジョアジーの代表
によって推進されつつある、南部ベトナムプロレタリア革命戦争の絞殺は、なおもこの臨時
政府の階級的性格を、南ベトナムのブルジョアジーの財産を防衛し、資本主議的生産関係を
維持し、農村の土地革命を資本主義的限界に封じこめるものとしている。
 一九六五年以降、アメリカ合衆国の黒人大衆は、ベトナム戦争に動員され、アジア(革命)を、
実践のなかで自覚する契機をつかんだ。一九六九年六月八日、ニクソン米大統領とグエン・バン・
チュー南ベトナム大統領のミッドウェー会談で、米軍二万五千人の八月中撤退を発表した。七月八
日には、引き揚げ第一陣の米第九師団の八一四人が帰国した。だが、国際(いくつかの諸国を含む)
反革命戦争の遂行者=在ベトナム五五万人の米軍、及び韓国軍をはじめとする諸国の侵略軍が、内
部からの革命的反乱の追求がなされることなく、その階級矛盾を隠蔽したままベトナムから撤退す
るならば、その兵力は、たとえば米軍においては、米帝本国の反乱に立ち上った黒人を弾圧するた
めに転用されるのであり、ベトナム「独立」はかちとられても、アメリカの黒人は強いダメジを
受けることになるのである。(米軍「撤退」の要求とは、素町人的「侵略《戦争》なき帝国主義《
資本主義》」願望である。)
 米帝が「名誉ある解決」望もうとも、依然としてベトナムの永久革命E、世界のベトナム化の推
進に「終結」や「停止」はないのである。
  註B 現在ベトナムにおいて、ひとつには都市それ自体で資本主義的生産関係を打倒する目標
のもとに、都市プロレタリアートを結集することが必要であるし、それは、全世界の闘争
におけるベトナム革命との連帯=結合の質の深化に呼応する。

三、 アジア反革命の根拠地―日本
 一九一七年十月武装蜂起したロシア人民と、一九三七年七月日帝侵略軍に対する闘争
に決起した中国人民によって火蓋が切られて以来、帝国主義本国と植民地世界の労働者・農民の武
装反乱ばひとつの世界的な革命戦争へ合流していく傾向を示すことになった。世界帝国主義の死命
を制する世界革命の週程が、すでに開始されているのである。第二次大戦後の二四年間は、少しも
“平和”な時代ではない。それは大規模な戦争の間断のない(本質的な意味において「停戦」のな
い)継続の時代である。
 総理府発行(一九六九年五月)『日本の安全を守るには―安全保障についての政府の考え方―』
(八〜九頁)には「…………この二十数年間に、世界では戦争と呼んでもいいような武力を使った
大規模な紛争は四〇回以上も起っているのです。しかも、こういった紛争の原因が一向なくなる様
子はないところからみると、これから先も日本にそういった紛争の火の粉がふりかかつてくること
が絶対ないとはだれもいい切れないでしよう。」とあるが、わが国こそが、反革命の「火の粉」を
ふりまいてきた一員である。
 “八・一五”はけっして戦争の終りを宣書したものではない。アメリカ占領軍の駐留した七年間
は戦争の続きであるし、朝鮮戦争(いうまでもなくそれは、一九四五年八月に開始された朝鮮
のプロレタリア革命を貫徹しようとする朝鮮人民及び中国人民義勇軍と、それに対抗する米軍及び
その買弁カイライ軍隊との革命―反革命戦争だ)でも日本はれっきとした当事者であった(補給・
中継・発進基地などとして果した役割を児よ)。沖縄では二四年間、戦争状態は維持されている。
いわゆる「戦後民主主義」の平和な年月の実質は、中国・朝戦・ベトナム及び全世界的な植民地人
民の武装反乱に対する帝国主義の反革命戦争に後方予備軍として参加することであったのだ。
 日韓条約の締結(一九六五年)によって新たな段階に入った日帝による労働運動の重大な再編(
労使関係の再編は、日帝の復活とその本格的再登場―「離陸」―の産物である)の指標は、労働
貴族層という一つの社会層(巨大独占体の職制=管理労働者)の出現である。この社会層は、韓国
への新植民地主義的侵略、東南アジアへの侵略の拡大と共に急速に結晶した。この特権的プロレ
タリア階層の経済的基礎は、巨大独占体の独占利潤であり、さらにすすんで、新植民地主義的搾取
である。これらの超過利潤の一部が新たな労働貴族を層としてつくりだすために支出されているの
である。IMFJCの運動のヘゲモニーは、鉄鋼・電機・造船・自動車などの巨大独占体の労働貴
族層の手中にある。この運動は、日帝(その中核としての巨大独占体)の利益を擁護することを明
確に運動方針に掲げている。
 日帝の現在の主要な課題は、経済の効率化、「国威」の発揚―「自由アジア」の「安全保障」に
“責任を負う”一つの大国としての登場、として設定されている。経済の効率化の内容は、日帝の
中核企業としてのいくつかの巨大独占体の支配の強化に集約される。この傾向が、日帝の新たな社
会的支柱としての、巨大独占体の労働貴族と労働官僚(労働貴族層の利益を労働組合という場にお
いて執行する)とを生みだしたのであるし、また労働貴族層はこの方向に賛成である。なぜなら、
巨大独占の手にヨリ多くの独占利潤が、更に新植民地的超過利潤が流れ込み、労働貴族の分け前も
それにつれて増大するからである。
 このような根底的事実が、自民党内における主流、佐藤派のヘゲモニーの確立と、同時に社会党
右翼の堅い結集と既成労働組合運動の総ナメ的右傾として表現されたのである。
 日帝はまた、米国及び西欧の巨大独占体に対抗することに大きな力を集中しなければならない。
このために、国内での中小企業・農民の収奪・駆逐を強めるとともに、国外での韓国をはじめとす
る「低開発諸国」への帝国主義的支配を強化していく。そして不可避的に日本以外の国の諸勢力を
渦の中にまきこんでいく国際的階級斗争において、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの人民の巨
涛の如き反撃→攻撃の力が、日帝支配体制と衝突し、新憲法・ポツダム宣言・中立主義の基調は破
産せざるをえない。佐藤内閣(一九六四年十一月〜)の一連の反動攻勢が、その政府の基礎を固め
るのではなく、逆に一層それを根底的にゆさぶることになった。そして、支配の完成に接近した
“議会制度”が巨大独占体、及び肥大化した政府(行政)権力の支配体制を蔽っているのである。

 現在、日帝は、日米安保条約を媒介に、積極的にベトナム侵略戦争に参加している。日本は決し
て太平ムード下の、平和時にあるのではない。とりわけ一九六五年の北爆以後、日本はすでに一種
の戦時下にある。戦時動員も海外派兵もないから、そういう意味では、日帝ブルジョアジーの番頭
佐藤栄作の詭弁でいいくるめるなら「日本ほど自由で平和な国があるだろうか」! しかし米国は
日本の基地なしに現在の戦争を続けることはできないのであり、日帝は、軍需生産とその貯蔵・輸
送・また兵員の休養(ベトナム侵略を遂行してきた帰休兵が安らかに憩える地、日本!)等に、後
方基地・補給基地の役割をフルに果しているF。椎名外相が言明している(一九六六年の通常国会)
ように、日本はベトナム戦争において中立ではない。日帝もまたベトナムに侵略しているのである。
  註F ちなみに、日本にある反革命戦争遂行のための米軍の施設を挙げてみるなら、飛行場(
三沢・立川・横田・木更津・厚木・岩国。板付)、港湾施設(八戸LSTけい留施設など)
、演習場・射爆場、工場(相模総合補給廠など)、医療施設(米陸軍王子病院など)、兵
舎、通信所、倉庫(山田・秋月などの弾薬庫、貯油所など)、事務所(キャンプ王子など)
、住宅、教育研究所その他。また沖縄は、アジア唯一(?)の米軍化学兵器庫(放射性廃棄物も
処理)になっている。
また、ベトナム革命の深化によって、日本帝国主義の大学・研究所が、ベトナム反革命戦争の主
体として活動的役割を果している事実が顕在化されることになった。(反革命のための各種の研究
機関における、ブルジョアジーの富をふんだんに注ぎ込んだ「研究」は、日帝の“侵出”の土台と
なっている。)
 この侵略に具体的に抵抗しないかぎり、日本の「人民」は事実上ベトナム革命弾圧のために動員
されていることになるのだ。(軍需工場労働者然り、国鉄労働者然り、“学生”然り………)

 現在自衛隊(憲法第九条の限定付きの日帝の軍隊)の主要任務は、ソ連極東軍・中国軍・朝鮮軍
との戦闘(米帝太平洋軍の一モメントとして)を指向しており、事実上、ソ連・朝鮮・中国・北ベ
トナム及び反乱するアジア人民という“仮想敵軍”との潜在的戦争状態にある。このプログラムに
沿って、戦闘準備・演習・日常訓練が行なわれている。(海外侵略・国家間戦争が、日帝ブルジョ
アジーの切迫した政治課題となる場合は、当然、自衛隊増強・憲法「改正」・非常時立法・核兵器生産
・徴兵制施行などが必須となる。)
 今日の情勢は、いつまでもわが“革新勢力”が「平和憲法」とジャレ合ってはおれないことを物
語っている。今までそれが可能であったのは、日本が世界情勢の焦点からずれて、国際的階級戦
争の第二線にあったという相対的な「平和的状況」によっている。彼らは必死に「平和を守れ」と
さけんでみせるが、情勢は日本を第一線へと押し上げずにはおかない。アジアにおける帝国主義陣
営の拠点、日本のブルジョアジーがひとり「平和的状況」をむさぼり、経済主義に浸っていること
は、その同盟者たちの許すべからざる事態であり、一三七万人に達する南ベトナムにおける帝国主
義の軍隊Bに一兵も派兵していないのは、その地位にとってあまりにも似つかわしくない現実なの
である。
  註G 一九六八年度の統計によれば、商ベトナム政府軍七六万八千、米軍五三万五千、韓国
軍五万、オーストラリア・タイ・フィリピン・ニュージーランド併せて一万五千百、合計
一三六万八千百名。
 日帝ブルジョアジーは、「沖縄返還」を「沖縄自主防衛」と結びつけ、それを契機に一九七〇年
代に、アジア太平洋圏の帝国主義反革命の(米帝と並ぶ)主力軍として再登場せんと図っている。
自衛隊の飛躍的増強→シンガポール。マラッカ海峡の制海権の部分的掌握→中東の石油資源及びそ
の海上輸送路の「自主防衛」、という方向こそ、日帝ブルジョアジーにとって切実な課題である。
一九六九年六月、日本において閣僚会議が開催されたASPAC(アジア・大平洋協議会)は、日
帝ブルジョアジーによって、こうした方向を具体化する当面の機構として位置づけられている。ま
た、同年同月の「沖縄返還交渉」のための愛知外相訪米は、日帝ブルジョアジーが沖縄を自らの手
に取り戻し、台湾―沖縄―韓国ラインを、南ベトナム―タイ―マラヤ・シンガポール―インドネシ
アにつなぎ、アジアの帝国主義支配体制の主力として登場するための布石に他ならない。
 アメリカ帝国主義にとってもまた、本国における黒人を先頭とする反乱と更にラテンアメリカ・
アフリカ・アラブのプロレタリア・“土地なき(収奪された)農民”の革命闘争に対処するために、
アジアにおける兵力の展開を整理し、(日米安保条約=日米帝国主義ブルジョアジーの軍事同盟の
枠内で)日帝をアジアの帝国主義反革命の第一線に動員しないわけにはいかないのである。
 「安保問題」はまた、南部朝鮮にとっての問題でもある。現在、日本に最も近い「外国」韓国に
おいて、日本国家権力のこの間急速にエスカレートしてきた弾圧をはるかにしのぐ大弾圧が展開さ
れているH。米日韓ブルジョアジーは極東安保体制をヨリ強力に継続し、一九七〇年韓国改憲、七
一年韓国大頭領選(朴三選を目指す)を成功的に乗り切ることなしに、アジアにおける(国境を超
えた)反革命同盟を維持できないのだ。
 註H 南朝鮮統一革命党事件、荘子島・解放戦略党事件の被告に対し死刑を含む判決が下され
た。また北朝鮮スパイとして多数が摘発されている。そして一方、一九六八年十一月と六
九年三月の武装ゲリラ、麗水暴動にみられる武装闘争の開始があり、韓国学生の改憲・朴
三選阻止闘争が六九年六月下旬から街頭に進出し始めた。
 「安保問題」を、日本一国内に閉じこめてとらえることはできない。それは本質的に、極東(東
アジア)及び東南アジアの革命と反革命の相剋の局面なのである。


HOME inserted by FC2 system