『ゆうき凛々』創刊号および第2号に掲載されたものです。

更新意見陳述

浴田由紀子

目次

はじめに
一、本件訴訟は、すでに放棄されている
二、東アジア反日武装戦線の闘い
 (一)1995年
 (二)1974〜1975年東アジア反日武装戦線の闘い
  1、いかなる時代にあったのか
  2、何故私は東アジア反日武装戦線に参加したのか
  3、東アジア反日武装戦線の闘いは何を目指したのか
  4、東アジア反日武装戦線の闘いは何をもたらしたのか
  5、その不十分点と誤りは何であったのか
  6、東アジア反日武装戦線の闘いから何を教訓にしていくのか
 (三)本件裁判批判
  1、東アジア反日武装戦線への捜査は違法に行われた
  2、「爆発物取締罰則違反」は違憲である
  3、裁判所には東アジア反日武装戦線の闘いを裁く資格はない
三、今我々に問われている事は何か
 (一)いかなる時代にあるのか
 (二)私達は何を目指しているのか
 (三)私の立場


はじめに

 1974年〜1975年に私達の担った海外侵略企業爆破闘争によって負傷され、あるいはかけがえのない生命を失われた方々、その御遺族の方々に対して、心からの謝罪を伝えたいと思います。
 負傷された方々と、突然御家族を奪われてしまった方々にとって、この年月は、理屈に合わない苦しみの日々であったろうと思います。とり返しのつかない誤りの前で、私は今適切なおわびの言葉を見い出す事が出来ません。そして、20年間もの長いあいだ、この思いを伝えられなかった事も重ねておわびしなければなりません。
 私達は、全ての人々が解放されるために、皆が平和に、対等にくらせる社会を、差別や抑圧のない社会を作るために革命運動に参加しました。しかし、その過程での私達の不十分性は、1つ1つの闘いの過程での配慮を不十分にし、意図しない多くの死傷者を出してしまいました。私達のつもりがどうであれ、失われた生命は帰っては来ません。真に攻撃するべき対象を明確にし、人々の殺傷を絶対にさけるためには、もっともっと万全の配慮がなされなければなりませんでした。その意味で当時の私達は、技術的にも知識的にも不十分でしたし、何よりも武器を扱う者としての思想的誤りをも持っていました。
 さらに三菱爆破闘争の後で出された声明文において、自分達の失敗を認め、予期しなかった死傷者の発生を謝罪するのではなく、「日帝中枢に寄生し〜植民者である」という言い方をして居直った事が、私達の第二の誤りとしてありました。それは、死傷された方々をさらにいためつけ、ゆき場のない気持にさせる事であったろうと思います。同時に闘う多くの人々に対して、共に闘う事を、失敗の教訓を共に克服する事を困難にさせる事でもありました。
 当時の私達は、自分達の誤りを公然と認め、公然と自己批判をして社会に対して、人々に対して率直に謝罪する勇気も、誤った時にとらえ返すために立ち止まる勇気も、持ち合わせてはいませんでした。逆にそうする事は、革命運動をダメにする事なのだとさえ考えていました。
 多くの闘う人々を信じて敗北の事実を認め、自己批判と教訓を返す事によって、誰も二度と同じ誤りをくり返さないように、人々と共に再構築しようとすべきでした。しかし私達は、自分たちの闘いを正しく進めていく事によってのみこの誤りを克服しうるのだと考えていました。そして私達は、失敗を克服しようとして、「自らの生命をいとわない闘いをする。自らの生命をかけて償うのだ」と考えて、カプセルを用意する事によって、二重三重に誤りをくり返してしまいました。「死ぬ事」によっては、失われた生命を取り返す事も、真の償いをはたす事も出来ません。それはあらたな生命を失う事でしかありませんでした。
 私達に問われていたのは、常に初志を問い返し、自分達の客観的な姿を認め点検するきびしい目と、自他の変革に対する確信と勇気、人々に対する信頼、そして何よりも自分達を含めて、生命を尊び守りぬく立場だったと思います。そのためにこそ私達は、革命運動に参加したはずです。
 今私は、私達がその不十分性の故に犯した誤りを痛苦に自己批判し、私達の誤りと不十分性を克服していく事を、死傷された方々とその御家族の前に明らかにしたいと思います。
 この私の思いは、先に裁判を進め、死刑や無期・年あるいは8年という重刑判決を受けて、今も獄内外で総括と自己批判実践・変革の闘いを担い続けている同志達、アラブの地で新しい任務を担っている同志達にも共通な思いです。
 年間私達は、誰も同じ誤りをくり返す事のないように、人々が対等に、尊び合って生きてゆける社会・誰もが誰をも抑圧したり搾取したりする事のない社会を作るために、今私達に何が求められているのか、より多くの人々から学び、より多くの人々と共に、自分達を変えていくことによって担おうとして来ました。
 生命を奪ってしまった方々、負傷させてしまった方々に、私達の自分達を変えていく生き方を持った、おわびの気持を伝えてゆけるようになりたいと思い続けて来ました。そして、彼らへの真の謝罪は、全ての人々が人としての尊厳を尊び合い、共に、自由に、解放されて生きてゆける社会を作っていくことだと考えて、今日まで生き、闘い続けて来ました。
 そして、これからも、そのためにこそ全力をつくして闘い続けます。生命を奪ってしまった彼らとこそ共に在りたいと思います。

一、本件訴訟は、すでに放棄されている。

  74〜75年の一連の海外侵略企業爆破闘争に関わる起訴は、年月、日本政府によってなされた「超法規的釈放」によって公訴権を放棄されたものと考える。従って同件に関わる公判の再開・公訴の再提起は無効である。即座に公訴棄却されなければならない。
(1)1977年10月2日、バングラデッシュ・ダッカ空港に駐機中の日航特別機タラップ上において、私は同行の法務省の役人(名前・役職は覚えていません。当時の書類を見れば明らかです)によって、「閣議決定に基づき、日本国政府の名において釈放する」と言い渡され、バングラデッシュ当局に身柄を引き渡されました。当時私は、いわゆる「海外侵略企業爆破闘争」に関わって、「被告人」として東京拘置所に拘留中であり、他の五人の同志達(「共同被告人」)と共に、東京地方裁判所において統一公判中でした。統一公判の場から突然に召喚され、日本政府(内閣)の責任において、国外であるダッカで釈放された時点で右裁判の公訴は取り下げられ、日本政府は私に対する裁判権を命令によって放棄したものと認識します。逆に私は「裁判を受ける権利」を喪失しました。
(2)ダッカ闘争は正義の闘いである。
 1977年9月28日、日本赤軍・日高隊の同志達によるハイジャック闘争は、1976年10月のヨルダン反動当局による日高敏彦同志拷問・虐殺と奥平同志強制送還に対する階級的報復として、同時に革命を目指す闘いの中で逮捕され、不当に拘留されている人々の獄中からの解放・革命基盤の獲得を目指して担われました。さらに党派や、政治的立場の違いを超えて日本共産主義運動の敗北の教訓を返し合い、共に克服していくさらなる階級的団結のよびかけとして担われました。日高隊声明は、「この闘いは私たちの自己批判です。私たちはどんな敗北や屈辱や欠陥をも共有し合い、共に学び克服しあい、不滅の同志的団結を築きたいと思います。私達は必ず出合います。そして日本革命の勝利完成の確信と階級の中核の団結をうち固めるでしょう。天皇制日本帝国主義と最前線で闘っている戦士は、「政治犯」「刑事犯」を問わず、全て同志です。今、日本共産主義者に、国際権威主義から自立し、皆が自分の頭で考え、率直に自己を変え、団結を武器として闘うことを呼びかけます・・・」と日本の同志・人民に闘争の位置と目的、彼らの立場を明らかにしています。
 しかしこの闘いは、一般乗客を「人質」という形で拘束することにおいて、人民性の欠如した闘争形態としてありました。それは当時の政治関係・軍事的力量の中でとられた最良のものでした。日本赤軍はその不十分性について78年1月の「78年にあたって」の中で「私たちは、武装闘争が人民を愛し、人民を守り、人民の利益を実現するものでなければ、革命を勝利へ導くことはできないと総括してきました。しかし9・28闘争は私たちの総括方向を切り開く闘いでありながらも、同時に私たちの現実の主体力量に制約されたものでした。・・・航空機制圧という闘争形態は、人民性を十分展開しぬけず、また革命基盤を獲得する闘いはさらにそれを欠如させます。私たちはその限界の中から人民性を最大限実現する事が問われていました。・・・私たちはこの限界を克服していくことを目指します。・・・」と自己批判的総括を提起しています。
(3)奪還指名された私に対する「出国意志確認」は、法務省の指令を受けた当時の東京拘置所長・田口某、東京地検・検事村田某他数名の立ち会いの下に行われました。この検察官村田某とは、年当時、私を取り調べた担当検事であり、東アジア反日武装戦線取り調べチームの一員でした。先ほど検事は「検察側冒頭意見陳述」なるものを読み上げられたわけですが、まさにその作成に責任を持つ者の一人であった取り調べ検事・村田某によって確認された、日高隊への呼応「出国意志」に基づく釈放であったわけです。検事も含めて釈放を認めたこの時点で、先の起訴、公判維持の意志は放棄されたというのが客観的な姿です。
 先に進められた統一公判において、弁護団と同志達の求釈明に対して検事古賀宏之・加藤圭一は、
「釈放の法的性格は・・・閣議決定に基づく法務大臣の命令によりなされたものである。すなわちこの事件において裁判の執行として被告人らの身柄を拘束している行政府としては刑罰権の適正な実現と多数人の生命・身体の安全の確保とのいずれを選ぶかの速やかな判断を迫られ、結論として多数人の生命・身体の安全確保のためには身柄を一時釈放するも止むをえないと判断したのであるが、このような異常かつ緊急な事態は現行実定法規が予想するところではなく、これに対するための手続きが規定されていないうえ、急を要することであって、立法府による措置を求める余地がなく、また司法機関の判断を求める由ないものであったので、行政の最高機関である内閣の責任において」、立法も司法も飛び超えて決定されている事を報告している。加えて、「今回の釈放措置は緊急の事態にかんがみ、人質の人命救助の為一時的に被告人らの身分の拘束を解いたにすぎないものであって、拘留の裁判はこれによって何ら影響を受けるものではなく」、被告人らに対しては、「拘留状の効力により原状回復として再度身柄を収監できるものである。」と言っているが、これ自体は事実に基づかない検事古賀らの願望に近い泣き言にすぎない。
  私はタラップの上で「一時的に釈放する」とは言われなかったし「裁判が終わってないので帰っていらっしゃい」とも言われなかった。まちがいなく「釈放する」と言われたのであり、ましてや当初日本政府は私たちに、日本国パスポートを発行し、正規に釈放・出国を許可したものである。この時点において日本政府は、私達に対し公訴権・裁判権を正式に放棄したのである。
(4)にもかかわらず数日後に日本政府は、このパスポートを無効として、在外日本人である我々に対する政府としての保護義務をも放棄したのである。さらに加えて数日後には我々被釈放者をも「日本赤軍メンバー」として国際指名手配するというハジ知らずな行為に出た。
 今回私を警察庁において「取り調べ」ていた担当デカは「ルーマニアの警察が捜査に協力してくれなくて困っている。”自分達がテロリストを釈放しておいて、テロリストだから捜査協力してくれと言われても困る。そんなのを何故釈放したのだ”と言われている」とボヤいていました。ルーマニア当局の言っている事があたりまえのルールなのです。パレスチナやラテンアメリカ、あるいは世界中の多くの地域で、多くの獄中者が闘争や政治交渉によって解放されていますが、いったん交渉によって解放した被釈放者を、再度「オタズネ者」にして追いまわしているのは日本政府・警察だけです。日本政府はもっと自分達の決定、自分達のやった事に対して責任を持つべきだし、見苦しいまねはやめるべきです。「超法規的釈放が撤回されるべき違法な事であった」というのであれば、我々をいきなりオタズネ者にするのではなく、それを行なった内閣の責任をまず聞かなければならないはずです。当時の状況の中で「人命は地球より重い」という福田内閣の判断は正しく行われました。
(5)上記したように、日本政府、内閣と法務省によって決定された年月2日の超法規的釈放によって、私に対する公訴権・裁判権は放棄されたものであり、刑事訴訟法257・339の3・338の1に基づき本件公訴はすみやかに棄却されなければならない。

二、東アジア反日武装戦線の闘い

(一) 一九九五年

@相次ぐ戦後補償要求と日本政府の対応
 日帝敗戦から五十年目にあたる今年、八月十五日をピークに日本による戦争犯罪とその責任、補償と謝罪を問う集会や記念行事が日本の内外で数多く行われました。
 従軍慰安婦とされた人々、BC級戦犯とされた韓国人やその家族、強制連行された中国人や韓国人、そして南京大虐殺や七三一部隊の細菌実験による犠牲者とその遺族等々、日本の侵略戦争、植民地支配の犠牲者達による戦後補償、謝罪を求める提訴が数多くなされています。
 村山政権はそうした国内外からの侵略・植民地支配への糾弾と謝罪要求に対して、国会での「不戦決議」によって、無反省な戦後を終わらせようとしました。しかし、その内容においても、国会議員の結集においても不戦決議強行裁決は、みじめな敗北を結果しました。また、政府は、従軍慰安婦とされた人々に対する「女性のためのアジア平和基金」なるものをデッチ上げて、国として、政府としてその責任をとる事をあくまで回避しようとしています。こうした日本政府の対応に対して、アジア各地からの反発と糾弾はますます激しくなっています。これだけ多くの事実のつきつけの前でなお、日本の国会議員や政府高官の多くは「あれは侵略ではなかった」とか「植民地時代には教育などの良い事もしたのだ」と公言し、日本帝国主義がアジア各地で行った侵略・植民地支配の誤りを認める事を拒否し、謝罪する必要はないと考えています。彼らは、歴史を正しく認識する事を恐れ、なかった事にしてやり過ごす事の方が、延命の道であり、国の利益であると考えているのでしょう。これが民主選挙で選ばれた、あるいはエリート集団といわれるこの国の指導層の実体です。「未来志向」とかいう美しい言葉で過去をあいまいにし、五十年間ズルズルと戦後補償も謝罪も引き延ばしてきたのと同じやり方で、今またのばしのばしにしていこうとしている。それは名前を変えた新しい侵略と植民地的支配・搾取を着々と進めてゆきたいというその本性を正直にあらわしているにすぎません。
 裁判所は、アジア各国の人々から出されている日本政府あるいは日本企業に対する補償要求・謝罪要求の声を率直に受けとめ、日帝と侵略企業が戦争の名において行った侵略と搾取・抑圧の責任を明確に問い、謝罪と補償をこそ促すべきです。
 二十一世紀に向けた日本の未来は、アジア近隣諸国との真の友好なしにはありえません。そのためには、過去をアイマイにするのではなく率直にその誤りを認め、謝罪するところからしか「共生」の第一歩を踏み出す事は出来ません。
AODAとPKO、日本の「国際協力」は何をもたらしているか。
 日本政府は、世界一に成長した経済力を背景に、憲法をも超越した自衛隊の海外派兵やODAという名の経済進出によって、「相応の役割」「国際貢献」を果たそうとしています。
 しかし、そうした日本政府の言葉とは逆に、日本のODAに対する各地からの反発の声があとを絶ちません。
 1970年代から行われているブラジル・ミナスジェラス州でのサバンナ開発によって「原生林が壊され、大豆やコーヒー栽培のような輸出用商品作物中心の大農経営が進められたために、零細農民が排除され、貧富の差が拡大し、農業労働者の間では農薬による健康被害が広がるとともに、都市周辺部ではスラムが拡大した。しかも大豆等の農作物の大半は日本等に輸出され、ブラジル人の口には入らない」と開発は生態系の破壊と人々の生活の破壊にしかならないと住民代表が来日して開発の中止を訴えている。
 フィリピン・ルソン島南部のバガンダン港再開発事業に対しては、銃による強制立ち退きを強いられている住民達から「住民の人権を侵害するODAは直ちに中止してほしい」と訴えがよせられている。
 今年七月、六年間に及ぶ自宅軟禁を解かれたミャンマーのアウン・サン・スーチーさんは、直後の日本大使との会見のなかで「今はまだミャンマーへの経済援助再開はしないで下さい」と要請した。日本政府は民主化団体の批判や各国の軍事政権への経済制裁の中でも、「民主化を進めればいい事があると思わせる事が民主化の促進につながる」という理由で「人道的援助」を続けてきた。在日ビルマ人協会のウン・ナイン会長は「民主化を進めるためではなく、ODA再開をビジネス再開のきっかけとしか思っていない人もいる」「援助で利益を受けるのは一部の人。都市の裏通りや地方の人々の生活は一向に良くならない」と指摘しています。
 これらは日本政府による「相応の国際貢献」「経済協力」がしばしば現地人民の意向に反し、彼らを援助するのではなく逆に環境を破壊し、人民の生活を破壊し、現地反動政権を助けて人民抑圧の道具となっている事を示している。
 そして今年八月二十九日、日本政府は中東ゴラン高原へのPKO自衛隊派遣を決定し、その準備を開始した。今年五月には「PKF本体業務にあたる可能性があり、なしくずし的にPKF参加凍結が解除される恐れがある」として見送られていたものを、七月参議院選での社会党の敗退でくつがえした。さらに今回の派遣では、これまでと違って軽火器での武装を決めている。PKO参加五原則のなしくずし的解除・実質的ACSAも行われる事は誰の目にも明らかなところまで来ている。
 八月二十八日付朝日新聞によれば、国際貢献というとすぐ自衛隊の派遣に結びつけがちな日本の政府のやり方に首をひねる国連関係者もいるというニューヨークからの報告がある。
「国連はいま、アフガニスタン和平推進のための常駐政務官の派遣を日本に要請している。しかし日本側は、紛争の先行きが不透明な事と安全性を理由に外務省の対応は鈍い」のだという。記者氏はいう「文民の派遣だからPKO五原則に抵触する心配はないし、国連からの正式要請だ。先行きが不透明とはいえ、和平の姿形が見えない段階から取り組んでこそ各国から尊敬されるのが国連だと複数の国連当局者は口をそろえる……。自衛隊と文民、たまたま同じ時期に重なった二つの国際貢献への取り組みぶりの差がこの問題に対する日本政府の姿勢を浮かび上がらせている」。
「国際貢献」「相応の役割」を目指す日本は、どこへ行こうとしているのであろうか。国連での常任理事国入りの画策と並行した自衛隊によるPKOへの積極参加の試みは、憲法の精神も、「過去への反省」も捨てて、米に次ぐ『世界の憲兵』としての地位を一歩ずつうち固めようとするたくらみに他ならない。ASEAN地域フォーラムでのASEAN安保構想提起は、その方向を明確に打ち出している。
B日本帝国主義による植民地支配と戦争犯罪に対する謝罪と補償は、敗戦後五十年たった今もまだ終わってはいない。
 そして今、同質の、形を変えた日本帝国主義による侵略と搾取・抑圧が世界各地で展開されている。
 敗戦後日帝は、米帝のアジア支配の野望に支えられて再軍備と安保条約による軍事基地提供と引き替えに戦後賠償を免罪された。さらに朝鮮戦争・ベトナム戦争での米軍の後方基地としての特需によって、戦後経済復興を果たした。遅れて開始されたアジア各国との「国交回復」「二国間協定」での「賠償」や「無償経済協力」を足がかりとして東南アジア各国への経済進出・新植民地的侵略を開始した。賠償や経済協力は各国の軍事独裁政権への援助としてなされ、各国人民をますます抑圧と窮乏に追いやるものでしかなかった。それはただ「協力」の名で乗り込んだ日本企業と、各国反動政権のフトコロを潤わせるものでしかなかった。
 「今はまだ経済協力はしないで下さい」というアウン・サン・スーチーさんの訴えや、自然破壊と現地住民の貧困化を促進するものでしかないODA中止を訴える人々の声に私たちはどう答えればいいのか。
 五十年間、「戦争のない平和な日本」を私たちは享受してきた。その一方に何の補償もされず、人にも言えない従軍慰安婦としての過去を背負って生きてきた人々がいる。夫や父を失い、あるいは傷ついた肉体をひきずって生きてきた人々がいる。私たちが今再び、日本政府のやり方に無関心であるなら、「国際貢献」という美しい言葉に惑わされてその実体を見ようとはせず、世界の人々の声に耳を傾けようとしなければ、私たちは再び三たび同じ誤りを繰り返す事になるだろう。もはや日本は「東海の孤島」ではありえない。二十一世紀は、望むと望まないとに関わらず、地球規模での共生が問われている。どう世界と共に生きてゆくのか。
C一九七四年十二月九日、マラヤ人民の利益に反する、マレーシアテメンゴールダム建設の中止を訴えて、マラヤ共産党武装勢力は反動政権と結託した間組に対する武装攻撃を行った。そして、一九七五年二月二十八日、東アジア反日武装戦線三部隊は、間組のマラヤでの人民抑圧を許している日帝本国人としての責任を果たすために、間組への爆破攻撃を行った。声明文にはその作戦名を「キソダニ・テメンゴール作戦」と記していた。
 間組は鹿島建設、飛鳥組と共に一九四四〜四五年木曽谷での日本発送電株式会社御嶽水力発電所工事に中国人捕虜一七一六人を強制連行し、強制労働を強い、虐殺を行った。木曽谷では、百六十五人が虐殺された。一九四五年日帝敗戦直後、間組の下で酷使されていた中国人捕虜約百人は下刈り鎌、鳶口等で武装決起した。木曽谷反日武装蜂起である。
 東アジア反日武装戦線の闘いは、日本帝国主義の敗戦前・後を通じた歴史的・現在的なアジア人民への抑圧と搾取・侵略に対して、日本帝国主義本国人の一人として、どうその責任をはたしていくのか、現在的な侵略と抑圧・搾取をどう阻止していくのかという闘いとしてありました。
 東アジア反日武装戦線がその闘いによって提起した歴史的・現在的問題は、今なお解決されないまま日本と日本人民の未来の前に立ちはだかっています。あれから二十年たった今、未解決の歴史の上に積み重ねられた「現在」を私たちは直視して進まなければなりません。二十一世紀を、世界と、アジアの人々と真に共生するためにです。

(二)一九七四〜一九七五年・東アジア反日武装戦線の闘い

1 いかなる時代であったのか

 一九六五年北爆をもって開始された米帝のベトナム侵略戦争は、時と共に泥沼化し、米帝本国内を含めた全世界でのヴェトナム反戦・ヴェトナム人民連帯の闘争が高揚していました。
 一九六七年一〇月九日、キューバ革命を担ったチェ・ゲバラは「二つ三つ、数多くのベトナムをつくれ、これが合い言葉だ」というアピールを残してボリビア山中で虐殺されました。
 一九六八年中国では文化大革命が発動され、仏では五月革命が起こり、世界中で反帝・反戦と独立・解放の闘いが高揚していました。
 日本においても、六五年日韓闘争に始まる闘いの高揚は、ヴェトナム反戦・砂川・三里塚等々の闘いとして六〇年安保・三池闘争に結集した人民の闘いを再編してゆきました。さらに、七〇年安保改定阻止・沖縄奪還の闘いと共に六八年〜六九年をピークに全国の学園では全共闘運動が高揚し、学生たちは「産軍学共同路線」を激しく糾弾すると共に「社会のエリート予備軍」としての自分達の「特権階級性」をも否定して「大学解体・自己否定」のスローガンを掲げて全国的闘争に参加していきました。
 五〇年問題での日共からの分裂以降、数次の分裂を繰り返した新左翼諸派は当時、十数余りの組織に分裂していました。彼らは時と共にエスカレートする機動隊の装備の前で、ゲバ棒と石ころ、ヘルメットでの武装を、火炎瓶と鉄パイプ爆弾、銃による武装という「権力との正面対峙戦」へと進めていきました。一九七二年二月連合赤軍による浅間山荘銃撃戦は、新左翼運動主体と権力との日本における始めての「正面対峙戦」としてありました。
 しかし、連合赤軍による山中での同志殺害という否定的事実は、我々闘う者全てに改めて、何のために、誰のために、何を目指して、誰と共に私達は武器を持つのか、闘うのかを問いかけるものとしてありました。新左翼諸党派の多くは沈黙に陥り、権力との対峙のために用意されたヘルメットとゲバ棒による「武器」はセクト間の内ゲバにその多くが使用されました。
 敗戦後、米帝のアジア支配の野望に支えられ、朝鮮特需・ベトナム特需を梃子としてその経済復興をはたした日帝は、一九六四年には東京オリンピック開催をもって内外に戦後復興の完了を宣言し、続く一九六五年日韓条約の批准強行採決によってアジア各国への再進出の突破口を切り開きました。
 一九七〇年、日帝は全国的な人民の結集をもって担われた安保拒否の闘いを実力粉砕し、三里塚闘争に対しても圧倒的な警察権力を動員して、まさに武力による強制執行で弾圧した。
 一方で水俣公害訴訟・部落解放闘争・ヴェトナム反戦等々、全国的な闘いへの人民の結集とそれを背景にした職場・地域での労働運動・住民運動・反公害運動からの逃避口を、賠償や借款を口実としたアジアを始めとする第三世界への進出へと求めていった。再生帝国主義としての行き詰まりを、まさに第三世界各国での資源収奪と低賃金労働力・公害等産業汚染の廃棄所確保としての企業進出と、一方で国内における労働者締め付け、分断策動によって乗り切ろうとしていた。
 「経済協力・援助」等々の名目で海外に出ていった日本企業が行った事は、テメンゴールダム建設がそうであったように、現地人民の生活と自然を破壊し、現地反動政権を手助けし、現地人民をますます搾取・抑圧するものでしかないが故に、同時に彼らをして過去の日帝軍隊による植民地支配を想起させるものでしかないが故に、マレーシアのみでなくタイや南朝鮮、フィリピンやラテンアメリカでさまざまな反日闘争が果敢に闘われていた。
 そのような内外状況の中で、誰もが今新帝国主義として再起した日本の我々にとっての闘いとは何なのかを問われていた。東アジア反日武装戦線は、「反日」の現在的闘いに呼応し、日帝本国人としての歴史的・現在的な自らの反革命性・犯罪性におとしまえをつける自己否定の闘いとしての反日武装闘争からその闘いを開始した。

2 なぜ私は東アジア反日武装戦線に参加したのか

 一九七二年秋、当時大学生であった私は、友人達と一緒に南朝鮮への団体旅行に参加する機会を得ました。
 ある朝仁川の丘の上を散歩していた私は、テニスラケットを持った中年の男性達に話しかけられました。学生で、観光旅行に来ていることを告げ、日本と朝鮮の文化の話、仁川近くの観光名所の話等をした後で彼らは、「あなたは、あなたのお祖父さんやお父さん達が朝鮮を侵略していたのを知っているか。……なぜ日本の人たちは今でも天皇を生かしているのか」と問うて来ました。
 それまで私は、父や祖父の時代の朝鮮や中国への侵略は、侵略と戦争を阻止しえず、自ら加担した彼らの不十分さと、一部支配階級の責任であって、私には関係がない、まして私は日本の中で反天皇制を言い、共産主義的な搾取も抑圧もない社会の建設を目指して反戦・反帝で闘っている左翼なのだから、そういう意味では抑圧された中国や朝鮮の人々の味方なのだからと考えていました。
 しかし、このオジサン達の質問は、アジア各地であれだけの人々を虐殺し、略奪と搾取の限りをつくした皇軍の責任者である天皇を未だに何の咎めもなく生かし続けている、たった二十一才の日本人である私に対して「オマエは何者なのだ」と問うものとしてありました。少なくとも人々を抑圧・搾取する側ではない左翼であると思っていた私は、それだけの存在ではない、日本人であるという事においてまず自覚しなければならない抑圧・民族としての責務を同時に問われているのだという事、さらにそれへの回答なしに近隣アジアの人々との真の友好は成立しえないのだという事を認識せざるをえませんでした。
 同時に南朝鮮では、元従軍慰安婦の人々の事、強制連行された人々の事、キーセン観光で来る日本人の存在と、過去と現在に貫かれているひとつの問題としてそれらを認識せざるをえませんでした。
 その後、台湾から来日して厚生省に対して戦争中の郵便貯金返済を求める人、ミクロネシアから来て、軍属として日本軍に従軍し、戦死した父親の遺族補償を求める人、等々の日本政府との交渉を支援する中で、日本という国がいかに戦争中「皇軍」の名でいためつけたアジアの人々に対して無責任であるのか、役人というものがいかに無責任に紙切れ一枚の言葉だけで、人々の生存の根底からの叫びを切り捨てるものなのか、まのあたりに見る事によって、仁川の丘の上で話しかけてきたオジサン達の問いかけが決して相手を間違えた問いではなく、日本が侵略と植民地支配によって行ったことの後始末は今、私達こそが担わなければならないのだと自覚するようになりました。
 当時私の周りでは、公害企業の存在、環境破壊や公害の南朝鮮や東南アジアへの輸出が、取り組むべき課題として問われていました。過去への反省も謝罪もないままに、それに目をつぶって形を変えたアジアへの再侵略が始まっていました。私達はこれ以上加害者であり続けること、加害に荷担することは出来ない。日本が侵略し続けるのを日本人として責任を持って止めさせない限り、戦争を阻止しえなかった人々と同じ事だと考えるようになりました。
 「腹腹時計vol.1」の「われわれは、その日本帝国主義者の子孫であり、敗戦後開始された日帝の新植民地主義侵略・支配を許容・黙認し、旧日本帝国主義者の官僚群・資本家どもを再び生き返らせた帝国主義本国人である。これは厳然たる事実であり、全ての問題はこの確認より始めなくてはならない」という提起は、当時の私にとって、まさにウツウツと何をどうすべきかと問うて来た自分の生き方に回答を与えるもののように思われました。
 東アジア反日武装戦線への参加はその意味で私にとって、抑圧者である側からの自己解放でした。ある意味で自分がより良く生きるための手段、自分を抑圧者、搾取者である側から解放するないし免罪されるためという傾向が多分にあったのではないかと今はとらえ返しています。
 その立場の不十分性(個的動機)は、予期しない死傷者の発生に直面した時、カプセルを用意して「自ら死をもって償う」という個的に責任をとろうとするあり方になっていたと思うし、逮捕されると「自分達の闘いは終わった」という自分達を中心にした発想からの敗北主義の根拠になっていたと思います。
 いま私は、腹腹時計の提起に接したときの「こういう立場で闘っていけばいいのだ」と感動した自分の喜びを、まずより多くの仲間達と共に生き闘う方法として共有していくべきであったと思うし、どう各地でさまざまに展開されている運動やそれを担う人々との共通の立場にしていくのかと考えるべきだったと思っています。
 そして今、二十年前と同様に過去の侵略・植民地支配に居直り、新たな侵略を繰り返している日本帝国主義に対する闘いを通して、被支配階級でありながら同時にアジア・第三世界の人々に対して抑圧民族としてある自分達を否定し、彼らと真に対等に、共に生きる新しい社会の建設を人々と共に、あらゆる分野で担ってゆきたいと考えています。

3 東アジア反日武装戦線の闘いは何を目指したのか

 当時私達は、日本帝国主義の歴史的・現在的な東アジア各国人民に対する侵略・抑圧・搾取の事実の前で、日本帝国主義本国人の一人としてどうその責任を果たしていくのかと考えました。私達は戦後日本の経済成長の豊かさの陰に、歴史的な日本帝国主義の侵略と搾取によって奪われたアジア人民の生命と富があることを、そして、今なお企業進出や「経済援助」という形での現地反動政権へのテコ入れ、協力によって行われている抑圧や搾取があることを学びました。
 そうした自分達のありようを否定して、彼らと共に生きるためには、新たな侵略と搾取・抑圧を日本人として責任を持って阻止していかなければならないという事を出発点としました。
 そして、海外進出反対とか戦後処理はちゃんとしろとかのスローガンを叫ぶ事や、要求や糾弾をくり返す事では、何一つ解決できないことを、日本の支配階級はそのような人々の声や言葉の圧力にはいっさい応えはしないのだという事をまのあたりにして来ました。幾百回のデモや集会ではなく、彼らに実質的な打撃を与えないかぎり解決しえないことを学んできました。
 私達は「平和で自由な日本」の我々が、反動政権下で闘う人々、デモやストライキのみで虐殺されたり、何年間も獄に捕らえられたり、それ自体が命がけで闘っているアジアの人々と同質の闘いを日本の国内で担うには、我々もまた、命をかけた闘い、退路を持たない闘いが問われているのだと考えました。
 同時に、連合赤軍の敗北以降日本国内には、武装闘争に対する否定的な見方が強くありました。それは「誰のために・何のために・武器を使うのか」を正しく提起しえなかった(正しく使いえなかった)結果だと思いました。敵を打ち倒して革命を勝利させようと考えるとき、いつの時代も圧倒的な軍事力をもって人民を制圧し、革命を妨害してきた敵に対して、敵の弾圧から革命と人民を守るためには人民の側の軍事的な闘争は絶対に必要です。連合赤軍の敗北で武器を持って闘うことを放棄するのではなく、私は、私達の闘いによって武装闘争の正当性と在り方を示していかなければならないと考えていました。またそのことによって停滞している日本における革命運動を(当時は主要に武装闘争を軸に)復興させる事が出来ると考えていました。

4 東アジア反日武装戦線の闘いは、何をもたらしたのか

 一連の東アジア反日武装戦線の闘いと「腹腹時計」出版を通じての問題提起は、第一に、敗戦前後の「日本人」による一連のアジア侵略に対して、抑圧民族としての日本人の加害者性について、自覚と自己否定を「日本人の立場として」せまるものとしてありました。それは今なお、アジアの人々との共生の前提として問われ続けています。当時日本では、左翼といわれる人々も進歩的な人々も、そして、さまざまな分野での「反日帝」の闘いにおいても、自分達の被害者性あるいは被抑圧者としての立場からの闘いのみで「加害者としての日本人」という観点は少なかったと思います。そのことが長い間連帯運動・反戦・平和運動を狭いものにし、アジア・第三世界の人々との連帯を困難にしていました。
 第二に、攻撃対象が正当であったこと、明確で持続的に闘われたこと(それは少なからぬ失敗を踏まえて総括をつみ重ねながら改造しつつ担われました)によって、日本の過去と現在の侵略の姿を白日の下にさらし、日本人民は被害者であり加害者であることの自覚を促すものとなりました。日本の独占資本を恐怖に陥れ、彼らをして自らの過去を点検させ、公安当局は二十数社にのぼる「海外侵略企業一覧表」なるものを作らざるをえなくなりました。
 第三に、そうした事実行為でのアジア人民の連帯は、彼らの闘いを有形・無形に支える真の国際主義実践の姿としてありました。アジア人民への真の連帯は、言葉ではなく行動・日本帝国主義への実質的打撃を与えることであることを示しえたと思います。
 東アジア反日武装戦線の闘いは、日本の革命運動に新しい観点・地平を切り開いた一方で、闘争主体の思想的・組織的不十分性の故にその肯定面を真に革命の前進を果たすものとして生かし切ることが出来ませんでした。

5 その不十分点と誤りは何であったのか

 私達は、「これ以上加害者であり続けることは出来ない」「日本が侵略し続ける事を、日本人としての責任において阻止することが我々の任務なのだ」という使命感にもえて闘いを開始しました。
 しかし、その闘いの過程で私達は、予期しない死傷者を生み、さらに失敗した闘争に対して「日帝中枢に寄生し……植民者である」という声明文によって居直り、正当化するという誤りを犯しました。
 三菱重工爆破闘争においては、その威力も把握出来ていない、きわめて不安定な爆薬を使用したのみならず、他の作戦用に作成した爆弾をそのまま白昼のビジネス街路上に仕掛けるという、軍事作戦としては初歩的な・技術的な誤りによって八名の死者と数百名の負傷者を出してしまいました。闘争主体が、負傷者発生を避けるために払った配慮も、起こりうる事への予測も、彼らの知識と経験を超えた爆弾の威力の前では何の力にもなりませんでした。
 先に公判を進め、不当な死刑判決を受けている大道寺将司同志は、獄中から友人へ宛てた手紙の中で、
「武装闘争の原則から逸脱するという当時のぼくらの未熟さは、当時の〈狼〉部隊の思想的な未熟さにも規定されていたと思います。それは、日本人民の歴史的に蓄積されてきた重く深い反革命性に対するやりきれなさ、自分たちさえよければベトナム人民がアメリカ軍に殺されようが、韓国やフィリピンで日本の援助を受けた軍事独裁政権が人民を弾圧しようが〈知ったことではない〉という多くの日本人民に対する絶望感・不信感が抜きがたくあったことからぼくたち自身をも含む日本人民の生命に対する軽視があったということだと思います。そして、ぼくたち自身日本人民の一員であり、日本人民を否定しようが肯定しようが日本人民と共に歩んでいかなくてはならないという、最も基本的なことを忘れていたということでしょう。このような思想的な未熟さが杜撰な作戦計画の背景にあったことを否定することは出来ません。
 すなわち、いますぐに撃つべき敵は誰であるのか明確に出来なかったが故に、いつの日にか結びつくべき人々、そして権力の弾圧から防衛すべき人々を見失い、殺傷してしまったのだと。……ぼくらの誤りは厳しく糾弾されなければなりません。ぼくは繰り返し自己批判を深めています。」
と彼の総括を提起しています。
 同じ手紙の中で彼は「居直り声明文」にふれ、「三菱爆破攻撃に次ぐ二重の誤りだった」と述べています。
「当時の東アジア反日武装戦線〈狼〉に問われていたことは、三菱重工爆破の誤りと失敗を率直に自己批判し、死傷者の方々に謝罪し、その上でこの作戦と同じ誤りと失敗を繰り返さないための教訓を可能なかぎり明らかにして的確な反日武装闘争を続けていくことでした。これこそが真の自己批判実践だったのです。ぼくたちのこの声明文における誤りは、後続する同志・友人・そして心ある人民とぼくたちが結びあう回路を持たず、そのため彼らへの信頼感を持てなかったことによる誤りだったと思います。これはぼくたちの日本人民への絶望感・不信感の現れでした。このようなぼくたちの考え方は、大衆運動の軽視・あるいは否定につながり、武装闘争だけが唯一正しく、あるいは武装闘争しかやるべきではないという思い上がった、独善的で偏狭な考え方に陥っていた結果だと思います。この点に対して強く自己批判します」
と書いています。
 それは単に三菱重工爆破闘争を担った〈狼〉部隊のみの誤りとしてあるのではなく、「この作戦は失敗したのに違いない。でも三菱重工を攻撃することは断乎正義であるから、同じ誤りを繰り返さないように闘いを継続させなければならない」と考えて、三菱重工爆破闘争において意に反して多くの死傷者を出してしまった「失敗した」思想的・軍事的根拠を徹底的に総括し、批判し抜くことなく運動的前進をのみ目指した部分の誤りでもありました。一点の正当性にしがみつき、そこから何とか突破しようとすることは、自分たち自身で闘争の否定面・肯定面を正しく把握しえず、失敗を克服しているつもりで同じ誤りを繰り返す事にしかなりませんでした。公然と失敗を認め自己批判することは、何か闘争全体を否定してしまうことのように考え、失敗を率直に認め教訓を引き出して改造していく勇気も確信も持ち合わせてはいませんでした。その事が、東アジア反日武装戦線の闘いを理解しづらいものにし、闘いによって人々の闘いを援助し人々に勇気と勝利への確信を与えるのではなく、逆に闘っている人々に困難を押しつけ、武装闘争への反発を組織しました。
 私達は、七五・五・一九に逮捕されたときに、闘争の中で私達の不十分性によって死傷された方々への責任をはたすために、そして日本帝国主義国家権力への非妥協を貫くためにと考えて〈自死のためのカプセル〉を持っていました。七五・五・一九に斉藤和同志は「日帝国家権力への非妥協を貫いて」自死しました。そして、荒井なほ子同志・藤沢義美同志・船本洲治同志が、続く日々の中で若い生命を断ちました。残された私達は、「私達の闘いは終わった」という敗北主義に陥り、自供を開始するという誤りを犯しました。カプセルを持っていたことは、そしてそのカプセルで同志を自死させてしまったことは、はっきりと誤りでした。私達が持っていた日本人民への不信(私達は日本の闘う人々に対しても「彼らは安逸で平和な今の生活を捨てるつもりはない」と考え、何か自分たちだけが闘う者であるかのような思い上がった考えを持っていました)、革命に対する狭い考え方、革命勝利への確信のなさ、自ら勝利への展望を切り開こうとしなかった在り方が彼らを死に追いやってしまったのだと考えています。
 東アジア反日武装戦線の闘いの不十分性によって死傷させてしまった人々への責任は、自ら死ぬ事によってはたせるものではありません。自分たちが犯した誤りの根拠を率直にとらえ返し、克服していく闘いによってしか彼らへの償いをはたす事は出来ません。それはまた、より多くの人々に率直に敗北の総括と教訓を返し、共に克服していく人々との共同の力によって初めてなしうるのだと思うし、そこからこそ勝利の確信を組織しあう事が出来るのだと思います。
 こうした私達の誤りを痛苦に自覚させてくれたのは、逮捕直後の「テロリスト」「爆弾魔」という警察とマスコミによる膨大なキャンペーンの中で支援と救援活動を開始してくれた家族・友人達の存在、そしてその後の闘いの中で出会うことの出来たさまざまな層の、年齢の、活動分野の友人達の存在でした。武装闘争だけが闘いなのではないことを、強い戦士だけが革命を担っているのではないことを、革命過程で犯した誤りを率直に認め、変革していく勇気を持ってこそ初めて、私達はより良く闘いうるのだということを教えてくれたのは、敗北の中で出会った人々です。革命が全ての人々を解放する事業であるためには、全ての人々によって、人々の生活の全ての領域において担われるのでなければ、それは真に全ての人々を解放するものとはなりえないでしょう。

6 東アジア反日武装戦線の闘いから何を教訓にしていくのか

@私達は日本人民へのしっかりとした信頼を持ちえていませんでした。「第三世界からの収奪のオコボレにあずかり」「ぬくぬくとした生活を享受している……」という形で、第三世界人民との関係での加害者性のみを強調し、彼らもまた一部独占資本階級によって搾取・抑圧されている事を見ようとせず、彼らを革命の主体とは考えず、日本の革命はアジア各国からの反日闘争の盛り上がりのような国際的な包囲と最下層労働者の決起によってようやくなしうるのだというような考えを持っていました。
 日本人民がこのままでは革命主体たりえないという事を固定的に考え、人々が変革する事への確信を持っていませんでした。どう共に革命主体へと変革していくのかというところでは「つきつける」という傲慢さを持っていました。そうした日本人民への不信と変革への不確信は、自分達を唯一の革命主体であるかのように考え、逮捕されると「闘いは終わった」という悲観主義に陥り、自供するという闘いの私物化、他の形態の闘いを客観的には認めない在り方になっていました。
 いま私は、闘っているのは一部の前衛やすぐれた戦士だけではなく、日々の生活の中にこそ真の人々の闘いがあるのだし、日常の生活を切り捨てて本当の意味で人々を解放する社会は作りえないのだと考えています。その意味で闘いの場も、闘いの方法も限りなくあるはずです。そうしたあらゆる領域の、層の闘いの統一した力によって初めて「全ての人々を解放する革命」を勝利させることが出来るのだと考えています。自分も含めて人は変わるのだという確信の側から私達が作っていきたい社会は人々が「生活」をする社会なのだという側から、どう日々の生きている今の生活の場から共に生きていくのかという観点に立たないかぎり、真に我々が目指す解放された共に生きる社会はつくれないのだと思います。
A自国革命に責任を持つ立場における誤りがありました。
 私達は、自国帝国主義の新植民地主義的侵略を阻止する事が、我々日帝本国人革命主体の責務だと考えました。しかし、それを誰と共に担うのかというところで、自国人民というより〈第三世界人民の闘いに支えられて〉という形で第三世界に依拠する傾向を持っていました。自国人民への信頼の欠如、自国革命の展望(いかなる日本を作るのか)のアイマイさがそれを生んでいました。
 日帝本国内から日帝打倒の闘いをどう責任を持って担っていくのか、帝国主義国の革命によってどう第三世界の解放を支援していくのか、という真の意味での共同・共闘の取り組みを正しく担いえない在り方でした。いかなる国の革命も、いかなる民族の解放も、その地の当事者、人民によって担われるものでない限り、それはあらたな抑圧と支配の始まりでしかありません。我々が第三世界人民の革命を代行することも、彼らに日本の革命を代行してもらうことも出来ません。真に彼らと共に闘う唯一の道は、相互が自国革命に、自国帝国主義者・自国反動支配階級打倒に責任を持つことによって、国際的な帝国主義者どもの支配の環を打ち破っていくことです。それこそが彼我の国の人々の闘いを後方からしっかり支えあうことになるのだと思います。
B軍事のとらえ方において、東アジア反日武装戦線は、しっかりとした戦略的見通しを持っておらず、武闘を通して人民の闘いを組織していくという観点が薄かったと思います。それは、誰と共に闘っていくのかというところでの日本人民に対する考え方の誤りとして端的にはありました。そして、国内外で闘われている各現場での大衆運動・連帯運動等をどう支えていくのか、どう彼らの闘いと結合していくのかという観点を十分に持たず、武闘をひとり歩きさせることによって逆に他の闘いの現場に困難を押しつけるものになっていました。武装闘争はあくまで人民の闘いを支えるものとして担われなければなりません。当時、反公害輸出の運動を長年担っている友人に会い、彼らが今担っている運動に参加し、一緒に闘うことを呼びかけられて答えに困ったことがありました。「この人々とどう一緒に闘えるのか」と考えました。もし私達が今彼らが糾弾している公害企業に対する爆破攻撃を行えば、権力の弾圧はモロ彼らの運動をつぶしに来るのだということを痛感しました。武装闘争は最も尖鋭に、最も的確に敵に打撃を与えうる闘いの一つとしてあります。しかしそれは、武装闘争が人民と革命を防衛し、人民の闘いと生活を発展させうるときにのみその役割を良く果たすことが出来ます。
 そして、三菱重工爆破闘争の痛苦な教訓は、武器を扱う者が、武器の性格を熟知することなくそれを扱うとき、武器は敵を打倒するのではなく、味方を傷つける凶器に転化するという事です。武器は、それ自体に思想性があるのではなく、使う者の思想性を反映してその威力を発揮するのだということです。
 そうした東アジア反日武装戦線の在り様は、誰のために、何のために武器を持つのかという連合赤軍敗北直後の批判的総括を、真に克服しえず、出発点を自ら忘れ去った姿でした。連合赤軍の誤りを正しく総括しえていたなら、武装闘争後退の根拠を正しく把握し、人民性のないところで戦略的見通しと組織的蓄積のないところで武闘を開始していくことの限界と誤りを正しく把握できたと思います。その上で取り組まれる武装闘争は、「突出した武闘」(に価値をおくの)ではなく、人民の主体力量の蓄積として、より広範な大衆運動との結合として担われなければなりませんでした。
 敵を含めて人の命を殺傷することは、いかなる闘いの時においても極力回避されなければなりません。話し合いや民主的方法で全ての人々の人権が尊重され、人々の対等と平和が守られるなら、私達は武器を使うことはないでしょうし、そのような社会の建設のためにこそ我々は闘っています。しかし今、世界の歴史と現実を見るとき、武器を独占し、使っているのは誰なのか、それによって何が生み出されているのかを直視するとき、敵の人民抑圧と支配の道具である軍事力に対して人民を防衛する手段を我々が放棄することは、真に人民への責任をはたすことになりえないと思います。人を殺傷するものである武器が、一日も早く全世界から消滅することを我々もまた望むものです。
Cそして、「革命の前衛」とは何であるのかという事です。
 私達には当時、自分達の失敗と誤りを人々の前にはっきりと認め、謝罪する勇気がありませんでした。そうする事は、運動を後退させ、自分達の目的と闘いを全否定することであるかのように考えていました。私達にはまた、自分達だけが唯一闘っているかのような強い責任感と使命感がありました。自分達は絶対に誤りを犯してはならない、常に正しいものでなければならないという誤った「前衛観」がその根底にありました。
 革命とは、自分自身をも含めた世界を変革していくことのはずです。変革しうる自分自身と世界・社会を信じることなくして革命を希求する事は出来ません。変革が問われているからこそ私達は革命を目指すのです。それは、自分も変わりうるのだという確信に裏打ちされていなければ担いえないという事でもあります。同時に私達自身は、今ある社会の中でいかようにも社会に規定された存在でしか在りえません。その事を自覚しうるならば、自分もまた完成した存在では在りえず変革を問われる社会の一部でしかないことを認めないわけにはゆきません。社会が変われば「前衛」が果たす役割もまた変わってくるはずです。自分を含めて社会と共に変革し続ける事によってしか勝利しえないのです。
 「革命の前衛性」とは何か、絶対的な正しさや、誤りを絶対に犯さないという事にあるのではなく、不断に変化する社会の中で、常に全ての人々を解放していく、抑圧や搾取のない社会を作っていくという目的に向かって、今何が問われているのかを問い返し、つもりではなく、そうなっていない客観的な自分の姿を直視し、どう自分を変えてそれを果たしていくのかを追求し、実践していくこと、そこでの献身性と謙虚さ、誤りや不十分さを認め変革する勇気にこそあるのだと思います。
 
 東アジア反日武装戦線の闘いは、日本の革命運動に新しい地平を切り開いたと同時に、その過程において、闘争主体の不十分性の故に誤りを犯し、日本における革命運動の前進に少なからぬ後退を強いる側面がありました。しかし今、だからこそ我々は闘い続ける根拠をしっかりと持っているのだし、痛苦な誤りと敗北の中で獲得した教訓は、これからの闘いをより良く担っていく、勝利に向けた大きな力になりうるのだと確信します。

(三)本件裁判批判

1 東アジア反日武装戦線への捜査は違法に行われた

 一九七四年五月一九日、東アジア反日武装戦線を逮捕した警視庁特捜部は、直後の記者会見において、「狼のしっぽをつかまえた」と発表した。
 そして数日後には、特別捜査班の手柄話として「一月には佐々木規夫他の尾行を開始し、三月には狼グループの全メンバーと『三者会議』をその監視下においた」「東アジア反日武装戦線を根こそぎ逮捕した」と発表を変更した。
 朝日新聞に載った〈正義の使者〉伊藤栄樹の回想録では、「五十年の春たけなわになると、警視庁の努力が効を奏しはじめ、犯人像やアジトがある程度絞り込まれてきた。……五月二十一日早朝に一斉検挙……サンケイ・NHKが察知……一斉検挙は十九日早朝とする」とある。
 私は取り調べの時、「尾行記録」というのを見せられて、「四月十八日にオマエが韓産研の爆弾を持っていったのを見たのだ」といわれた。この事はもし本当ならば、警察は四月十九日には私を韓産研爆破闘争の主体だと断定し、五月十九日までそれを放置していたという事であり、さらに、三月末からいわゆる「三者会議」をフォローしていたという警察の言を信じるなら、四月十九日以降に担われた市川市の間組江戸川作業所爆破(四月二十七日)、江戸川区間組江戸川作業所爆破(五月四日)は韓産研同様に警察の監視下で担われたという事に他ならない。一月から狼グループの一部を尾行していたという彼らの言う事が本当であるなら(我々の同志の一部は一月に尾行に気がついていたし、彼らは私に数名の〈尾行記録〉を見せたのだから、それは本当なのだが)間組爆破闘争直後に尾行していた人々を逮捕し、連続企業爆破闘争をその時点でストップさせることが出来たはずである。何故そうしなかったのだろうか。
 「犯人グループ」である事を知りつつ放置し、次の闘争を止めさせるのではなく、看過したのである。これはまさに、米帝がよく行っている「オヨガセ捜査」「オトリ捜査」という類のものである。当時日本の法律は、こうした捜査の在り方を禁止していた。
 七五年一月、佐々木規夫同志を尾行することから始まったという東アジア反日武装戦線への捜査活動は、このように約四カ月間に渡って、捜査員の監視下で七つの爆弾闘争を許すという前代未聞の違法なものであった。
 違法になされた捜査に基づく逮捕・起訴は即刻取り消されなければならない。

2 「爆発物取締罰則」は違憲である。

@私は「爆発物取締罰則違反」という事で起訴されているわけですが、この法律は何と一八八四年、今から一一〇年・一世紀以上も前に「太政官布告三二号という事で制定された前時代の遺物とでもいうべき代物です。当時の日本が、国家体制・法制度において、また人権に対する考え方において今と全く違う、一八〇度と言える位違うものであったことは私が言うまでもないのですが、そのような時代の法律が、今の世の中で、人を裁く場である法廷の中をまかり通ると考えていること自体に驚きを禁じえない。
 一世紀以上も前の、今と全く違う国体の法律をそのまま主権在民と基本的人権の尊重、思想・信条・表現の自由をうたった現行憲法下で採用しうると考える事そのものが、現憲法を司法の場においてないがしろにする事でしかない。
 こうした前時代の法律は即刻廃止されるべきであるし、裁判官諸氏が現行憲法の精神、それに基づく法制度の立場に立つなら、少なくともその使用を停止させるべきである。
Aそもそも本法律は、十六世紀豊臣秀吉の刀狩以来の支配階級による武器の独占、人民の抵抗権・武装権剥奪手段の一つとして制定された。一八八四年、加波山武装蜂起、秩父困民党武装蜂起等々と続く自由民権運動の高揚に恐怖した明治天皇制政府藩閥官僚は、その専制支配と侵略・植民地政策を貫徹するために同年十二月に「爆取」を制定した。
 一八八〇年代後半は、日本軍や政商資本の朝鮮侵略に対して、朝鮮人民の反日闘争が激発していた。以後「爆取」は、天皇制・日帝の侵略・植民地支配と一体となって、それに抗する反日帝武装闘争への弾圧手段として人民の生血を吸い続けた。
 さらに一九一〇年(朝鮮併合の年)幸徳秋水ら二十六名を爆取違反で検挙し、大逆罪をもって二十六名全員に死刑を求刑し、天皇の名において十一名を虐殺した。以来日帝の朝鮮植民地化政策に対する人々の決起に対して、そして一九二三年関東大震災の年には、朝鮮人大虐殺の中で朴烈・金子文子らを検挙し、「爆取」違反で起訴し、大逆罪をおしつけて死刑を言い渡した。朝鮮総督府の資料によれば一九二二〜二五年までのわずか四年間に二十六件七十五人の爆取違反判決が記録されている。
 さらにこの法律の反動性は、刑法の殺人罪や傷害罪・火薬取締法規等で取り締まれる事案に対してあえて「爆取」を適用させることに端的にあらわされている。「治安妨害」目的という言葉で革命者及び革命組織と国家体制変革を目指す思想をも予防弾圧するものであり、既遂実行者以外の者をも一括して直接取締り、重罪を科す道を切り開くものである。その事によって単なる個人に対する弾圧ではなく革命組織全体に対する予防的・思想弾圧そのものである。
A以上一貫してこの法律は、新旧体制・支配層の維持・延命のために悪用され、支配階級による軍事力・武器の独占と人民の武装権・抵抗権・革命権を予防的に圧殺するための思想弾圧法として機能して来た。さらに成立当時の「国家主権」の理念に立って現行憲法の基本理念である「主権在民」基本的人権の尊重と、思想信条・表現の自由をいちじるしく侵害する違憲の法律である。かかる法律に基づく起訴は取り下げられるべきである。

3 裁判所には東アジア反日武装戦線の闘いを裁く資格はない

 東アジア反日武装戦線の闘いは、新旧日本帝国主義による一貫した海外侵略・アジア人民への抑圧と搾取に対する糾弾と反撃の闘いとしてありました。それは同時に、日本帝国主義・本国人としての責任において新たな侵略や搾取を続ける事を断乎阻止すべき、警告と糾弾の闘いでもありました。一部独占資本と反動支配層から人民と人民の利益を防衛し、日本帝国主義打倒の革命闘争を推進する正義の闘いとしてありました。
 日本帝国主義の新旧植民地主義的侵略と抑圧の数々を、戦争犯罪人を何ら断罪しえず、今なおそれを許し、その事によって加担を続けている日本国裁判所には、東アジア反日武装戦線の闘いを裁く資格はありません。
 東アジア反日武装戦線の闘いは、その過程において少なからぬ誤りを犯した事を認めるものです。この闘いの過程における誤りは、日本帝国主義の人民抑圧・支配に今だ加担し続ける日本国裁判所によってではなく、今も抑圧・搾取され続けている、そして来たるべき革命勝利の利益を享受すべき人民によってこそ、闘いの不十分性故にかけがえのない生命と生活とを奪われた人々によってこそ裁かれなければなりません。彼らにこそあらゆる敗北と勝利の教訓を、自己批判と変革の闘いを捧げます。

三、今我々に問われている事は何か

(一)いかなる時代にあるのか

 毎日飢餓で苦しんでいる人々が8億人以上に登り、発展途上国の子供のうち三人に一人が慢性的栄養失調状態におかれている一方で、飽食の中でダイエットに専念する人々がいるこの世界の現実、旧ユーゴスラビアのように昨日まで家族のように親しく共に生きていた異宗教・異民族の人々は憎悪にみちた戦争に追いやられました。世界の人民の格差が広がり続けており矛盾が一層深まっています。
 八十年代後半から開始された世界的な軍縮は今、帝国主義諸国による世界の武器の独占コントロールのためにのみ進められています。そして、軍事産業保護のための戦争の挑発は今も各地で引き起こされています。1992年に始まった湾岸戦争は米国の新兵器の試験場となりました。マスメディアを動員した西側(アメリカ)の価値観のおしつけ、世界的なマインドコントロールが日々進められています。
  多国籍化した帝国主義の資本家達こそ、こうした悲惨な戦争と飢餓・生活不安の根源です。
 米・日・独・ロ等、それぞれの帝国主義の野望と世界的規模で暗躍する多国籍金融資本の金融的収奪、それらしれつな攻防を相互に展開しながら共同して第三世界人民を抑圧し、収奪しています。多国籍産業資本と多国籍金融資本やIMFや世界銀行は、国境を越えて国家主義・民族主権を踏みにじり、各国人民に対して直接的搾取・収奪する現状は世界各国人民の決起の条件と各国人民の闘いが結びつく条件を創り出しています。援助や産業復興の名の下に、第三世界人民をますます搾取・収奪する構造に対して、実際にラテンアメリカで、アジア・アフリカで各国の人民は闘い続け、国際連帯を求めています。
 国連創設50周年にあたる今日、国連での様々な記念行事の一環として、次の半世紀を視野に入れた国連の役割を模索する記念特別総会が開かれました。ソ連・東欧の崩壊後、ポスト国際主義の絆は、大国依存や権威依存を断ち切った人民の湧き出る力を土台に育っています。今人民の闘いは、国連を始めとする国際機関の民主化なしに前進させることは出来ません。
 1989年を境とするいわゆる冷戦構造の崩壊以降、国連も又、変質をとげつつ在ります。湾岸戦争を機会にアメリカは国連を通した世界支配を試みました。さらに92年、ガリ事務総長の「平和への課題」提起によって国連の位置と役割を転換させようとしています。PKO審議を総会から安保理に移すことによって、平和に関する定義を変質させ、かつて紛争の原因であった貧困・差別を解消する目的であった平和建設を、紛争後の政治的解決の意味に変えてしまいました。そして、平和創設の話し合いの為の停戦部隊としてあったPKOを、当事国の合意なしに実働させる事、少数の意志である安保理の決定によって武力干渉し、帝国主義諸国の望む「平和」の道具としての国連の機能として活用する事を可能にしました。国連は、安保理決定を正義と言いくるめ、安保理を牛耳るアメリカと欧州帝国主義の意志を反映した紛争当事者の後押しとして「武力を持った国連」が登場する事を可能にしたのです。
 日本・ドイツの安保理入りの画策を含めて、国連はますます帝国主義諸国が小国・発展途上国を強制し、その支配下におこうとする企みを実現する道具になりつつあります。
大国も小国も対等に、自己の人民の要求に基づいて国際社会に参加し、行動しうる国連の民主化こそが問われています。世界の人々が人として同じ価値を求め、民族主義を堅持し、共に幸せに生きる事の出来る世界を創り出すために私達は、世界の人々と共に帝国主義との不屈の闘いを続けます。
 日本の支配階級は、国連の変質をテコに「国際貢献」という美しい言葉を持って自己の野望を達成しようとしています。PKOという形での自衛隊の海外巡兵を恒常化させ、戦争を放棄し、軍隊を持たない平和国家としての憲法を実質的に改悪し、既成事実化して、かぎりない軍事大国化をおし進めようとしています。同時に国連での常任理事国入りを目指し、日米安保を要として、特権的存在としての日本の政治大国化を確立し、アジア太平洋地域での軍事的・経済的・政治的支配権をアメリカ帝国主義と共同で担っていく事を目論んでいます。
 国会では、相次ぐ閣僚や官僚の「失言」・公金横領や汚職への無策の一方で、全てを官僚がお膳立てした質疑のくり返し、等々茶番がくり返されています。民主主義の原則にもとづいて選挙民の意志を受けて登場したはずの各級「政治家」は選挙が終わった瞬間から公約も選挙民も忘れて党利党略・自己の地位と裏金作りに汲々としています。民主憲法にうたわれた三権分立は形骸化し今や立法も行政も完全に一部独占資本の意を受けた官僚に牛耳られています。(司法が独立を維持している事を望みます。)
 そして今、戦後民主主義を支えて来た護憲社会党は、自民党の補完物に成り下がり、政権維持のために護憲を実質的に降ろし自衛隊・安保を容認し海外巡兵をも容認して解体しつつあります。実態として依拠して来た総評労働運動の解体・国際的に理念的に依拠して来たソ連・東欧社会主義の崩壊の前で、それまでの在り方では存在しえないのは必然でした。地域人民に根ざして、地域住民運動の結果として再建していくのか、平和・護憲勢力としての理念と人民を忘れて議会政党として延命していく道を選ぶのか今その選択を問われています。
 世界一の経済水準と言われる一方で人々の生活は、日々疎外と困窮に追いやられています。戦争に青春を奪われ、敗戦後の日本の経済復興と成長を第一線の労働力として先頭に立って支えて来た人々は今、高齢化社会の中で斬りすてられ、目的を失い、行き場のない老後の生活を強いられています。中高年の労働者はリストラの波に脅え、若者は就職難にあえいでいます。人生の中でもっとも明るく自由で、人々に愛され、愛される年令にある子供達は、いじめや受験戦争に追い立てられ、仲間からも、教師や家族・地域社会からも疎外され、行き場のない思いで多くの子供達が自ら幼い生命を絶っています。今年1月、自然の節理と人命の安全を無視した開発によって地震で崩壊した神戸の町の中には、今だに新しい住居を入手しえず慰安所や仮設住宅暮らしを強いられて、心の傷をいやしきれずにウツウツとした日々を強いられている人々がいます。最も弱い者が、持たない者が常により貧しく、苦しい在り方を強いられています。「日本の経済発展」が「世界一の豊かさ」が、何のために、誰のために、そして何であるのかを改めて問い直さざるをえない時に来ていると思います。豊かさとは、人々が自然を、全ての生命をいとおしみ、共に支え合い、精神的に、社会的・物質的に満たされて生きる事の中にこそあるのだと思います。物質的豊かさ、便利さはそのためにこそ準備されなければなりません。物質的豊かさのために人の要素を疎外する時、私達は最も大切な物を失ってしまうのだと思います。
 その一方で、人々の人としての共生を求める生活の場からの闘いは各地で、あらゆる領域で力強く展開されています。
 10月21日沖縄では、敗戦後年間にわたって植民地的生活を強いられて来た人々の基地撤去と日米安保条約の見直しを求める集会に8万5千人もの人々が結集しました。そして反安保・反基地の闘いの波は全国に広がっています。
 慰安婦問題を始めとする日帝の戦後補償を求めるアジアの人々の闘いには、年令を越えた人々の支援と連帯の運動が広がり、今も各地で侵略戦争と戦後を問い直す集会や催しが続いています。国際交流の中では、日帝による再侵略でしかないODAを問い直し、真の人民連帯としてのNGOによる世界人民との共生を求める運動が活発に担われています。
今年1月の阪神大震災直後に結集したボランティアの若者達の存在は、国や行政よりも実態的に被災した人々の力になっていました。
 官官接待に対する市民の監視・糾弾の実践は、各地で地道に進められ住民の力による民主主義の回復を一歩ずつ押し進める闘いになりつつあります。
 人々の自治と共生・民主主義を求める闘いは、各地で人々の生活の場から静かに深くこの国の内外で展開されています。

(二)私達は何を目指しているのか

 私達は、日本社会を変革するためには、民主主義を徹底し、共生の社会を創り出すことであると考えています。
 民主主義の徹底とは、第一に、日本の進路においては自衛隊の海外派兵を即止め、日米安保軍事同盟を破棄し、どこの国とも軍事同盟を結ばず、全ての国と共生・共存を求める事です。日本の基本的な進路は、世界諸国人民、とりわけアジア・太平洋人民との共生に向かうことです。
  第二に、政治・社会の分野では、独占資本の為の反動政治を打破し、人民主権を確立することです。専門的な政治家は不要です。中央集権的な官僚国家体制を解体し、顔の見える範囲で、地域自治を住民が直接担えるようにすることが重要です。またアジア人民と共生し、人民が真に主人公になるためには、天皇制の廃止が不可欠です。
 第三に、経済的には、生産・消費・流通の全過程において人民主権を確立することです。地域における経済を活性化し、あらゆるレベルでの協同を発展させていくことです。
 問題は、民主主義は与えられるものではなく、人民自身が総体として闘い取るものだという事です。闘いとる過程において、人民自身が団結し、主権を行使する能力を身につけるように支援していくのは党の役割です。そして帝国主義の支配と闘い、それを打破することによって民主主義を徹底し、人民の主権を確立することを通して、真に人民が皆共生し合う社会を作り出す事が出来ると確信します。民主主義を徹底するという事は、何か個個人の民主的な権利が保証されるという事に基本があるのではなく、それ以上に人と人との関係が開放的に結びつき合っていくことにあります。そこにこそ人間の真の自由と解放があると考えます。民主主義の徹底を通して、真に人間が共に生きる社会を創り出すことを私達は目指します。
  日本の資本家も又、「共生」と言っています。資本家と労働者の共生?。一方が資本を持ち、もう一方が労働力しか持たない中でどう共生が成り立つのでしょうか。共生は同等の社会的条件、あるいは同等の社会的条件を創り出す闘いの過程においてしか成り立ちません。対等でない物質条件を固定化した所では「共生」は差別や抑圧の再生産になります。だから人間として対等になれる条件をつくることこそまず重要です。革命は、人間が人間として差別することも卑屈になる事もなく対等になれる社会的条件を作ろうということです。共生は、世界の人々との共生を実現することによってしか達成されません。民族間・宗教間の対立を克服し、肌の色や言葉の違いを越えて、人間として対等に結びつき合う世界を目指して対等な条件を作っていくために共同して帝国主義とその手先の国家支配と闘ってこそ共生は実現されることを私達は教訓としています。
 誰が敵なのか? 自らの野望の為に人民同士を分断し、憎悪させ合い闘わせ、殺し合いをさせている帝国主義者、ファシスト、シオニストどもに対する闘いをこそ人民と共に担ってゆきます。そして、人民自身が人民内の問題解決する能力を身につけてゆくことです。共生とは、人間が共に人間として生きてゆく事を妨げるものとの闘争です。私達日本赤軍は、ささやかながら人間が共生する社会の実現に向けて実践を総括し、過ちを正しながら全力を尽くして闘い続けます。(「1993年5・30声明」日本赤軍)

(三)私の立場

 今年三月警視庁で調べられている時、
「君ももう年ダ。いいかげんに考えなさい。ソ連も東欧も崩壊した。革命とか共産主義とか今はもう誰も言わない。終わったんだ。革命とか武装闘争とかいくら言っても今はもう誰も相手にしない。日本は変わったんだ。君達はもう古いんだ。」「君ももういい年なんだからいいかげんに足を洗って、この機会に普通の生活にもどった方がいい。そうしてがんばっていても誰も相手にしないよ。もう忘れなさい。取り残されるだけだ。君もアラブに行かないでちゃんと裁判を続けていれば今頃はもう普通の生活に戻れていたのになあ・・・。」という様な事を、検事は毎日2〜3時間、刑事は毎日数回くり返していました。
 革命を目指すという事が人間にとっていかなる種類の誇りに満ちた事業であるのか、どんぐりの背比べのような出世競争や、井の中の蛙のような日々の物質的豊かさにしか関心のない人間には理解出来ない事なのだと思います。
革命の事業・革命家の夢と任務には時効も定年もありません。そして、革命の任務は、強い者、すぐれた者、若者にのみ有るのではなく、人が今現在生きている生活しているその生活の場のどこにでも、どんな方法・形態からでも可能なのです。全ての人々が解放され、搾取も抑圧もない人が皆対等に人としての尊厳を尊び合って共に生きれる社会を建設するために、そしてそれを守りぬく為に、今この生活の場から人々と共に一つずつ変革していく、たったそれだけの事です。
 東アジア反日武装戦線で闘っている時私は、最も困難な任務を先頭で担う事が最も良く革命を担う事だと考えていました。そして逮捕された直後私は、「もう自分に出来る事は何もない。自分はもう革命の役には立てない」と考える敗北主義に陥っていました。この私の考えは、獄中で、そしてアラブの地で出会った多くの人々・仲間達・友人達に支えられ、彼らの生活と闘いから学び、日本赤軍の同志達と共に世界と日本の共産主義運動の歴史を総括し自分達の誤りと敗北を総括し、教訓を導きだしていく闘いの中で大きく変わりました。私達は誤りと敗北をくり返して来ました。そして今は、共産主義へと向かう人民の歴史の中で一つの停滞の波の中にあるのかも知れません。しかし、だからこそ私達は、かく闘うのだという革命の根拠と勝利への展望をしっかりと持っています。
 革命を勝利に導くには、まず自分がどう先頭に立って闘うのかでは無く、革命の主人公である人民がよりよく闘えるようにどうその闘いを援助していくのか、どう人々の力を一つにしてゆけるのか、そこにこそ力を注ぐべきであり、人民と共に支え合ってこそ始めてその役割を良くなしうるのだと思います。絶対的な強さや正しさに指導性があるのではなく人民の一部として、人民と共に自己変革を基軸に生き闘っていくことにこそ指導性があるのだと思います。
 あれから20年が絶ちました。今私は、アラブ・パレスチナの人々と共にした闘いと生活の中から、日本赤軍の同志達と共に学び、育んで来た闘いの総括と教訓、そして革命の勝利への確信、人々と共に在る事の確信があります。生きていて本当に良かったと思っています。残念な事は、私達の不十分性と誤りによって、かけがえのない生命を奪ってしまった方々と出合い、共に生きる機会を永遠に失わせてしまった事であり、自死させてしまった同志達とこの確信を分かち合えない事です。私達の不十分性によって失われた多くの生命をむくいる為にも、闘いの過程で自らあるいは敵の手によって若い生命を失った同志達の意志をしっかりと受けつぎ、子供達にたしかな未来を引き継げるように、教訓を生かし、全力をつくして闘い続けます。


RINRIN
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