『ゆうき凛々』第三号に掲載されたものです。

更新意見陳述(第8回公判)

浴田由紀子

一、本裁判の特徴

(1) いったん放棄された問題がむし返されています。

 77年10月、政府決定に基づく釈放によって、実質的に公訴棄却されていた問題がむし返されています。
 第三回公判において検事側証人として立った証人、佐藤氏は、「被告人」について、「釈放されて・・・国外に逃亡中であった」と報告し、弁護人から「釈放された人間がどうして『逃亡中』なのか?」と聞かれて「いえ、ただ私は、書類を見て・・・」と言葉を濁し、自らの発言と認識にある矛盾を何ら説明する事が出来ませんでした。この事が何よりも、本来開かれるべきでない、何ら法的な存在根拠を有しないこの裁判の性質を明確に物語っています。
 77年10月2日、「日本政府の決定」によって国外において釈放された私が、何故に今、この場に「被告人」として、20年も前の起訴状を手にした検察官に対峠していなければならないのか。本裁判を進めるにあたっては、この事がまず、問われなければなりません。
 1977年10月、当時私は、一連の東アジア反日武装闘争に関わったとして他の五名の同志達と共に「東アジア反日武装戦線・統一公判被告団」の一人として東京拘置所に拘留中でした。日本赤軍・日高隊による獄中兵士奪還闘争によって釈放指名された私は、9月30日未明、東京拘置所において、東京拘置所・所長田口某、及び被逮捕時の取り調べ担当であった地検特捜部検事、村田某、他数名の法務省職員の立ち合いの下で「出国の意志確認」を行われて、同10月1日羽田空港より出国しました。10月2日には、バングラディッシュ・ダッカ空港に駐機中の日航特別機タラップ手前で、法務省職員によって、「日本政府の命において釈放する」と言い渡されて国外で正式に釈放されたものです。この時、日本政府は我々に対して、パスポートを発行し、「日本国民として」正式に出国する事を認めたのです。
 この時点で日本政府法務省は、自ら我々に対する裁判権・刑罰権を放棄し、東アジア反日武装戦線に関わる、大道寺あや子同志と私への公訴は実質的に棄却されたのです。
 何故に私は今、「政府決定にもとづいて」裁判を受ける権利を奪われ、正式に釈放された同じ起訴状をもってこの場に引きづり出されているのか・刑事訴訟法・日本国憲法のいずれにも「政府自らが刑罰権、裁判権を放棄して釈放した人間を、再び同じ理由で裁判に附し、罰を科す事」を許すカ条はないはずです。20年も前の起訴状を再び持ち出している事はまさに、「公訴権の濫用」に当たる愚挙というべきでしょう。検察官は即座に本件公訴を取り下げ、裁判所は、公訴棄却の判決を下すべきです。
 さらに日本警察は、被釈放者に対して、不法・不当に行った国際指名手配なるものを口実に、昨年3月ルーマニア当局を動かして私の身柄を獲保し、「偽造有印私文書行使」なるデッチ上げを行って再逮捕・起訴しているわけですが(この件に関するデタラメについては後で述べます。)それ自体が、先の加藤証人が何ら説明しえなかった事にも明らかなように、何ら正当な根拠を有する「国際手配」などではなく、日本赤軍の「獄中兵士奪還闘争勝利」に対する日本警察・自民党政府の反革命的報復でしかありません。
 いったん釈放された者が、何故に再び、「逃亡中」であったり、何を根拠に「指名手配」にされているのか、「政府決定」を確たる根拠もないままに、なしくずし、ないがしろにしている。それこそが違法・越権に基づくこの国における「二重権力状況」そのものではないのか。いったん発行したパスポートを正当な理由なく「無効化」して「日本国民」であった我々への保護義務を一方的に放棄したことの責任こそが問われなければなりません。
 「77年の超法規的釈放」という事実をしっかりと踏まえる事なく本裁判を正しく進める事は不可能です。
 裁判において守られるべきは、日本国憲法に定められた、民主主義の原則であり、それにもとづく「政府決定」の尊重です。

(2) 東アジア反日武装戦線「統一公判」との関係

@ 元来本裁判・75年起訴部分は、75年12月から他五名の同志達と共に統一公判として審理に付されていたものです。
 前述したように77年10月大道寺あや子同志と私の二名がその裁判の場から突如召喚され「政府決定」に基づいて釈放される事によって実質的に公訴を取り下げられていたものです。この時点で国は、我々二名に対する公訴権・裁判権を放棄したものであり、本来開かれる理由のない法廷がここに開かれています。
 77年10月、突如「政府決定」によって二名の「共同被告人」を奪われた「東アジア反日武装戦線統一公判」はその後も、ファシスト・ミノハラ裁判長の強権的訴訟指揮の下で、東アジア反日武装闘争に対する、ただただ報復・重刑攻撃を狙う拙速・超スピード裁判として強行されました。元来ミノハラ裁判長は、着任以来革命勢力への政治的報復の意図を前面に押し出し、月4回の公判期日指定、弁護人・「被告人」の打ち合わせ時間の廃止、弁護人・「被告人」抜き開廷、拘束・監置・退廷命令の乱発等々・・・のムチャクチャな訴訟指揮を行っていたのですが、ここに至って獄中兵士奪還への報復の意図も加えて、ひたすらなりふりかまわぬ拙速裁判として強行しました。
 統一公判「被告団」弁護団は、こうしたミノハラ裁判長の訴訟指揮に対して、何よりも裁判を受ける権利を維持する闘いに追われ、実質審理に向けた準備をすることさえも不可能にされていたのです。事実の究明・真理を求めるのではなく、ひたすら拙速・スピード判決を期したミノハラ判決は、「被告人」・弁護人の主張をことごとく退けて、「死刑」と「無期」、加えて、一連の爆破闘争には全く無関係な友人であった荒井まり子さんに対して、その不屈の思想性と仲間達への深い同志愛の故を持って、「精神的無形的幇助」なる「罪」をでっち上げて、8年もの重刑を課したのです。この一事をもってしてもミノハラ裁判においては事実を問うのではなく、まさに治安維持法をも越える思想裁判が強行された事が明らかです。
 ミノハラ裁判のかかる結末も、唐突な本法廷の開廷も、決して77年の超法規的釈放と無縁にあるのではなく、一体のものとして今改めて問い直さなければなりません。
A ミノハラ裁判における証拠採用の恣意性にみられる「真理求明」の軽視について。
 先にも述べたように東アジア反日武装戦線統一公判は、その関係「事件」数の多さ、複雑さにも関わらず、ただただスピード審理・早期判決のための拙速裁判として強行されました。そうした中で、統一公判弁護団と「被告団」は獄中兵士奪還闘争によって国外で釈放された三名の「相被告人」に関わる検面調書を証拠採用することは、その信憑性も確認しえず、「被告人」の反対尋問権を保障しえないが故に、これに反対しました。にも関わらずミノハラ裁判長は、私を含む在外三同志に関わる「検面調書」を証拠採用したのみならず、その判決において無批判に「被告人」達の「殺意」でっち上げの証拠として引用しました。
 その一方で、後日「被告団」弁護団が求めた員面調書の証拠請求に対しては、その内容が「被告人」達「殺意の存在」を否定する証拠としてあるが故に、その採用を拒んだのです。
 こうした事実は、一連の「統一公判」法廷が事実を明らかにし真理を求める為にではなく、ひたすら「被告人」達に、いかに重刑・極刑判決を課すかという「目的」にもとづいて、恣意的に、「被告人」への極刑・重刑攻撃の資としてのみ証拠の採否を決定した事を示しています。
B このミノハラ裁判に始まる「統一公判」の不当性と誤りについては、今なお再審を請求中であり、事実の明確化・真理の求明が問われ続けています。
 裁判所が、警察・検察の不当な再公訴提起をもって、いったん放棄された私に対する、「東アジア反日武装戦線の一連の企業爆破闘争に関わる裁判」を再開している以上は、元来私自身が同志達と共に裁判を受ける権利を剥奪された場であり、同志達も又、「相被告人」を奪われたまま審理を強行されたところのミノハラ法廷をも同時に問い返し、同法廷と同じ誤りをくり返さないためにも、あらゆる予断と偏見を排して、十全かつ緻密な審理・検証が行われなければなりません。
 統一公判の中で審理検証されるべきであったにも関わらず、ミノハラ裁判長のただただ「スピード・極刑」の意図の中で切り捨てられ、ないがしろにされた数々の問題点について、事実・証拠の全てについて、しっかりと審理・検証されなければなりません。

(3) 東アジア反日武装戦線への捜査・取調べ・起訴は、一貫して違法かつ恣意的に行われたものです。

@ 捜査本部員の監視下で、爆破闘争は続けられていました。
 75年5月19日、韓国産業経済研究所爆破闘争を口実に我々を拘束した警視庁特捜班は、以後の取調べの中で「4月18日にオマエが韓産研に爆弾を仕掛けたのを見たのだ」と私に「自供」を迫りました。
 前検事、伊藤英樹の回想録においても、74年末の段階からメンバーの一部を監視下に置き、当局の尾行監視の中で間組本社、韓産研、オリエンタルメタル工業、間組江戸川工事現場等々の爆破攻撃が東アジア反日武装戦線の名において闘われたことが明らかにされています。
 実際に我々の同志の一人は、75年の早い段階から尾行に存在に気づいていました。警視庁の発表によると、「3月末に狼グループの一人の引っ越しを手伝った狼グループ全員を確認した」。「当初の一名の尾行から次々と・・・3月末には(いわゆる)『三者会議』メンバーと『さそり』『大地の牙』のメンバーをも確認し、その監視下においた」のです。
 まさに韓産研の爆弾を設置したとされる4月18日夕刻、彼らはその尾行監視下にある東アジア反日武装戦線メンバーの一人として私を尾行中であり、「オマエが韓産研に爆弾を仕掛けたのを見たのだ」と言い、その日私が何時何分に、どのような服を着て帰宅したのかに至るまで「記録があるのだ」と言うのです。
 そして私たちは、翌5月19日になって「韓国産業経済研究所への爆破闘争の容疑」をもって逮捕され、後日五名の同志達と共に同件に関わって起訴されたのですが・・・もし当初の彼らの言葉や、先の伊藤英樹の回想が事実であるのなら、まさに韓産研の爆弾設置は、警察(特捜班)の監視下にあった人間が、チャンスを与えられて行ったものだということになります。そして彼らは、爆弾が設置された事を知ってて、何故設置された爆弾を取りはずし、不発処理をしなかったのだろうか。何故爆発を黙殺したのでしょうか。被害の生じる事が明白な事を知りつつ看過する仕方は何なのか。
 続いて行われた間組江戸川工事現場等の爆破闘争はどうだったのか?そうした事もまた、本裁判の中で明らかにされなければなりません。
A 第二に、75年5月19日被逮捕直後我々に対して行われた取調べの実態です。
 私は5月19日早朝8時頃、自室において斎藤和同志といっしょに逮捕され、いったん本庁の道場のような所に連れていかれ、そのまま菊屋橋署に連行されました。その直後から開始された私に対する扱いは、95年の逮捕時とは全く違う暴力的な、人権を無視したものでした。まず水風呂に入れて頭から水をかぶせ、若い女性であった私を裸にしてまた下をしらべる事であり、夜にはベッドに横にして膣の中をも調べられ、指紋採取、写真採映を拒否すると数人の男達に押さえつけられ強行されました。
 引き続く取調べは、同様に「肉体的拷問」でした。当時私のお尻にはサルのような「赤ムケ」ができていた、と言ったら一体どの位の時間、固い木の椅子に同じ姿勢で座らされていたかお分かりいただけると思います。
 私の自供は「5月28日に始まった」と言われていますが、彼らがどのように私に対して「自供」を迫ったのか。
 まず彼らは、5月19日、被逮捕直後に、日帝国家権力へのいかなる妥協も拒否して自死した斎藤和同志の死をもって私を精神的に追いつめるという手口に出ました。大声で「夫殺し!」「同志殺し!」「仲間殺し!」「オマエが斎藤に毒を渡した」「彼を殺しておいて、彼に何もかもおっかぶせて、自分は生きのびようとしているのだろう」とか「そうはさせない。斎藤が幽霊になって今夜お前の房に出る」とか「お前のような女に殺されて、彼は死にきれんよ」等々、等々。
 カプセルを用意し、「逮捕には死をもって抗することが、死傷させてしまった人々への責任をとることだ」という彼との確認を果たし得なかった自分を責めていた私をうちのめすには、これで十分でした。私の敗北感は、敵の前で階級性を見失って、多くの人々を死傷させてしまったのみならず、仲間をも先に死なせてしまって自分の責任を果たせないでいる自分自身への自己嫌悪と敗北感へと後退していきました。奴らは、取調べ室の中に彼の「戒名」を書いた紙を置き、その前に花や食べ物を置いて「拝め」と強制しました。ハンストをしていた私の食事は毎回その「戒名」の前にいったん置かれました。
 ある日刑事の一人は、真剣な顔をして「斎藤君の遺骨の引き取り手がなくて困っている」と言い、「お前の友人達は皆逃げ回って知らん顔をしている。自分の安全だけを計っている」「家族は、『もう家の息子じゃない』と言って受取を拒否しておられる」と、友人、家族への不信を植え付けようとしました。私は「そんなはずはない」と思いつつも、「その骨は私の所へ持って来て私の領置になっている荷物といっしょにしておいて下さい。一生私の行く所へ持っていきます」と、その日になって私は初めて彼らに口をききました。彼らが骨を持ってくる事はありませんでした。何故ならこの頃仲間達は、家族・弁護人と共に彼の遺体をしっかりと受取り、抗議行動をしていたのですから。
 この様な、今思えば実に単純な奸計に私はだまされました。しかし、彼の死に…約束を守れなかった自分に…動揺し、仲間・友人達への不信を増幅させるだけでは「自供」を開始させる事の出来なかった彼らは、次に、高橋弥生という女性を連れてきました。刑事達は「オマエのオバサンが来たから会え」と言ったのですが、調べ室の中にいきなり刑事達といっしょに入って来た女性は、私の知らない人でした。彼女は、調べ室の中で私の正面、いつも検事や調べ係りの刑事のすわる席にすわり、「私はこの好永さん(取調べ主任デカ)とは友達なのよ。悪いようにはしなさらんから、この刑事さんには全部本当の事を言いなさい」「弁護士もセンターの弁護士はよくないから、私が刑事さんに相談して捜してあげるから、センターの弁護士は解任しなさい」等とせまりました。彼女は取調べ主任好永の親友であり、たしかに母方の遠縁にあたる同郷の婦人ではありますが、何故に取調べ室にまで入って来られたのかは今だにわかりません。二、三日彼女は調べ室に通い、彼女が来ると刑事は一人も居なくなって私は彼女と二人っきりになったこともあります。そしてある夜彼女は、弁護人解任を迫りました。夜が深まっても「あんたが解任を書くまで帰らない」と言って居座りました。その夜私は、「いったん解任しても、また弁護人選任をすればいいのだろう」と考えて、センターの弁護人解任届けを書きました。翌日に予定されていた、センターの弁護人が請求してくれた拘留理由開示公判はそのために取り消されました。
 さらに彼らは、他の同志たちがデッチ上げられた「調書」を持って来て、「大地の牙は、斎藤とオマエだけじゃない。二人で本当にやったのか。やれるわけがない。オマエがしゃべらなければオマエたちの友達をかたっぱしから全部パクってやる。中学校の友達だろうと高等学校の友達だろうと全部パクる。そうすりゃあオマエの田舎の家族はもう一家心中だ」・・・。このようにして、弁護人の選任権も、黙秘権の行使も実質的に否定され、常に家族、友人への迫害のどう喝がくり返されたのです。その上で弁護人、家族、友人達との信頼関係も接触も破壊されて、刑事や検事の作文に指印と署名をせまるという形で「供述調書」のデッチ上げ「作成」が行われました。
 刑事達が何をしたのかを述べました。毎日毎日刑事達と打ち合わせをし、交替で、時にはいっしょになって、様々なストーリーを調べ室に持ちこみ、「刑事調書」の一部を引用する事から始まる検事の調べがそれらと異質のものであるはずのない事、デッチ上げられた「彼らの作文」がいかなる真実をも明らかにしうるものではない事は明白です。
B「虹かくし」に見られる起訴の恣意性
 虹作戦は狼グループの同志達にとって、まさに彼らの政治活動の根幹であり、彼らの政治的立場をもっとも端的に現すものであったが故に、同志達は、被逮捕後の敗北感の中で、三菱重工爆破闘争の誤りを自己批判すると共に、「せめて闘争の政治的意図を明らかにしたい」という考えで、虹作戦についてその根拠と意図を明らかにしました。(しかしそれが「計画・準備」でしかなかった事は今や誰の前にも明らかな事実です。)
 ところが取調べ担当の検事達(親崎某を筆頭とする捜査班)は、彼らをして虹作戦の存在を取り調べ刑事や弁護人に話す事を禁じ、その存在を封殺しようとしたのです。そして75年7月、「東アジア反日武装戦線に対する取り調べ起訴を全て終了した」と発表しました。
 ところが9月入って、虹作戦の存在がマスコミによって暴露されると10月の天皇訪米が終了するのを待って、急きょ、すでに公判期日の入っている狼グループの同志達への再逮捕に踏み切り、再取り調べ、起訴という暴挙を行ったのです。
 この事は、起訴も証拠の扱いも、検察(警察)の政治的意図にもとづいて恣意的に操作されたものであり、何ら真実を明示するものたりえない事を示しています。
 このように一貫した東アジア反日武装戦線に対する違法・不当な捜査取り調べに基づいてなされた起訴・公訴提起に正当性はなく、即座に公訴棄却されるべきものです。

二、この間の法廷で明らかになった事実が、本件(偽造有印私文書行使)起訴の不当性を明らかにしています。

(1)そもそも私は何故に国外において日本国パスポートを所持していなかったのか?

 先にも述べたように77年超法規的釈放直後、及びその後の日本政府・警察当局が不当に行ったパスポートの無効化・正当な根拠を持たない「国際指名手配」によって引き起こされた事態です。日本国には、私が日本国パスポートを持っていなかった事に関連して私を裁く資格はいっさいありません。
 この法廷において証言台に立ち、今回私への逮捕状請求を行った警視庁警部加藤某は、私に関して出されていた「国際指名手配」の理由を「知らない」と証言したのですが、逮捕状請求の責任者さえも「知らない」と言わざるを得ないような「国際指名手配」とはいったい何なのでしょうか・まさにそれが「公の場で口にするのも恥ずかしい程に根拠の希薄な、おそまつ、かつ違法・不当なもの」であるが故に、加藤氏は本法廷での証言を「拒否」せざる得なかったのです。言ってしまうと「国際手配」を口実にルーマニア当局に圧力をかけ、当国の法律も、国際慣習も全て無視して、日本国領土外であるルーマニア領土内において身柄を獲得し、強制連行してきた全ての虚構が崩れさる事を恐怖するが故に、加藤は言う事ができなかったのです。
 「政府決定」に基づいて釈放されながら、いわれのない「理由」によって18年間にわたって「国の保護」を放棄されたまま、国外に放り出されて、何故に今、再び、その故をもって獄に繋がれなければならないのか・ただ、ただ革命勢力による獄中兵士奪還闘争に対する反革命的報復としてのみ我々被奪還者になされた「国際指名手配」の不当性こそが問われなければなりません。

(2)ルーマニア当局への日本警察の圧力と介入の事実

 第四・五回公判における証人豊見永及び井手の証言によると、ルーマニアにおける私の身柄拘束は、そもそも「非公式ルート」によって日本警察が得た情報に基づいて、ルーマニア当局に対して「捜査協力要請」を行い、ルーマニア当局を動員して行わせたものである事が明らかになっています。
 第四回公判において証人豊見永は、捜査権を持たないルーマニアにおいて「日本赤軍に関する捜査」を要請したのみならず、明らかに越権行為であるところの「写真による人物の特定」という形で現地警察の捜査活動に協力・関与していた事を証言しています。
 3月20日朝、私を拘束した「ルーマニア当局者」(この者達の役職名は法廷において各証人から今だに証言拒否されていますが)は、その身分を「我々は日本警察とコラボレイトしている者である」とのみ「説明」したのですが。彼らが「自分達はルーマニア警察ないしは当局者である」と言わなかった理由は、ここにあったのではないかと思われます。彼らはルーマニア当局の意志によってではなく、3月15日以降ルーマニア当地に乗り込んで直接的に捜査・逮捕要請を行った豊見永ら日本警察の圧力と要請によって、私の身柄獲保に協力したに過ぎないのです。それ故に、ルーマニアにおいて私の身柄は、当地警察施設ではなく、別荘のような建物におかれ彼らは私に「我々のゲストである」と言わざるを得なかったのです。
 ルーマニア国内における日本警察の越権・捜査協力活動の事実こそが問われなければなりません。

(3)日本警察による身柄獲保及び証拠とされているパスポートの押収は、ルーマニア領土内で違法に行われました。

 第五回法廷において証人豊見永は、警視庁から「3月22日、ルーマニア当局が『国外退去』させる浴田由紀子と同じ飛行機に乗って、タイのバンコクまで浴田と同行するように」という指示を受けた事、及び、オトペニ空港に駐機中のタロム機内に連れてこられた浴田のまわりを、二名の警視庁出張中の警察官を含む七人の日本人で待機し、取り囲んで座らせた事を証言しています。この七名は、タイのバンコクでその一部が警視庁から出張していた佐藤らのグループと交替し、ほぼ同様の陣型で成田空港まで「浴田と同行した」と証言しました。
 又、ルーマニアから七名の内の一人である在ブカレスト日本大使館員天本某は、彼の同機への搭乗の理由を、「タイのバンコクまで浴田を届けるため」であったという報告書を提出しています。
 さらにバンコクに向かう飛行機の切符、バンコクから成田に向かう飛行機の切符を誰が手配し、支払いを行ったのかは今だに各証人によって「証言を拒否」されています。
 たしかに私は、オトペニ空港のタロム機内で目かくしと手錠をはずされて以降、日航機内で「逮捕」されるまで、いかなる直接的暴力も肉体的「拘束」も受けませんでした。しかし、四六時中7人以上の人間が回りを取り囲み、トイレに入れば戸の外で待機し、事あるごとに「私について来なさい」「こちらに進んで下さい」「この中にいて下さい」と言われ、他国の空港内で着衣以外には、パスポートも金も、腕時計さえも持てない状態で、私にいかなる自由意志の発露が可能であったのかは誰が考えても明らかでしょう。
 これらの事実は、ルーマニアから「国外退去」になった私が自らの意志によって日本領空までやってきたのではなく、全ては日本警察によって準備され、ルーマニア領土内であるオトペニ空港に駐機駐のルーマニア国営航空(タロム)機内において、私の身柄は日本当局の手に、その越権行為によって獲保されたものである事を示しています。逮捕経過の違法性はきわめて明白です。
 さらに、本件証拠品とされているパスポートの押収過程においてもその違法性は明らかです。
 まず本パスポートに対するルーマニア当局による正規の「押収書類」は存在していません。加えてルーマニア当局は、ルーマニアにおける「浴田の違法行為」を特定し得ないままに「正規に出国を認めた」と言っているにも関わらず、パスポートは「浴田に返却されるべく」ルーマニア・オトペニ空港で日本大使館員天本某に引き渡されて以降、私の手には返される事のないまま、タイのバンコクで同行の警視豊見永に渡されました。豊見永は証言の中で「自分が預かっている事を浴田に伝えました」と言っているのですが、「何故に浴田本人に返却しなかったのか」という理由については、何ら合理的な納得のいく説明をしていません。
 ルーマニア当局から天本、豊見永と引き継がれたパスポートは、そのまま私の被逮捕時に「押収品」として警察出向の佐藤に渡されたのです。この押収の過程は、まさに身柄獲保の過程と同様、他国領土内からの一貫した越権違法行為の連続の上に、ここにこうして「押収証拠品」として持ち込まれているのです。ルーマニア当局に対しても、又その国内法と国際慣習を無視させて、日本警察の越権行為への協力を強いた「やり方」こそが問われ、裁かれなければなりません。

(4)「犯罪」とされている「事実」と「被告人」との関連は、何ら立証されてはいない。

 検察官は、冒頭陳述において、「本件犯行状況」なる作文を読み上げました。しかしこの間の法廷でそれが「被告人」とは全く無関係な状況を羅列して「犯行」と表題をつけた作文でしかない事が明らかにされてきました。
 第七回公判廷において証人加藤は、検事が羅列するところの状況や事実は、単なる伝聞証拠でしかない事を明らかにし、又、検事言うところの事実或いは証拠とされているパスポートと「被告人」の関係については、何ら特定しうる証拠も「伝聞状況」すらも存在しない事をはっきりと証言しています。
 まさに本件起訴が「言いがかり」としか言いようのない、不当なデッチあげ起訴である事がすでに明らかにされているのです。
 以上、この間の法廷で明らかにされてきたのは、日本警察による違憲・違法な身柄の獲保・逮捕・証拠収集の事実であり、「被告人」とは何ら関係のない事実を列挙して「犯罪」と言いくるめるペテン的起訴の実体です。
 裁判所は、法廷内において明らかになった事実に基づいて、即座に公訴棄却を決定するべきです。

三、日米安保再定義に断固反対し、安保廃棄・非同盟中立・
  互恵対等の世界近隣諸国との関係を構築しよう!

(1)日帝敗戦から51年目の今年4月17日、日本政府は、日本を再び50余年前と同じ、戦争と武力によって他国を制圧・支配しようとする道に引きづりこむものであり、実質的に、侵略戦争の反省に立って不戦・非武装を誓った平和憲法を否定し、軍備強化を計る「日米安保再定義・21世紀に向けての同盟」なる文章に調印しました。
 調印の後になって政府・各党は「憲法をどう『解釈』するのか」という論議を開始しています。まさに「安保」は日本の支配階級にとって憲法の上にある「法」そのものである事が明らかにされました。
 何故私たちは、世界に誇れる「平和憲法」を手にしながら、その中味に忠実でなく、空洞化させ、着々と軍拡を望む米帝国主義と一部支配階級・軍需産業に身をまかせていられるのでしょうか。何を持ってこの国を「民主主義」だと言い得るのか、21世紀に向けて、今一人一人が自らの立場を明確に問直す事が問われています。
(2)20数年前、東アジア反日武装戦線は、その一連の闘いの中で、日本帝国主義がその歴史的形成過程において行ったアイヌ・沖縄(ウチナー)・台湾・朝鮮(チョソン)を始めとする近隣諸国、小数民族への侵略・搾取と抑圧・同化強制の歴史、さらに皇軍の名による朝鮮・中国を始めとするアジア各国への侵略戦争の歴史過程を正面から見据え、侵略・抑圧民族としての歴史的反省に立って近隣諸国人民との真の共生を目指す事、そのための帝国主義本国人としての自己否定、自己変革を訴えました。そして、日帝本国人である私たちが、アジア近隣の人々と対等に共に生きる道とは、過去の歴史過程での誤りを率直に認め、謝罪を行うと同時に、同じ誤りを二度と繰り返さない事、今現在再び行われようとしている各国への再進出、資源と低賃金労働力を求め、自然破壊・公害のタレ流しの場を求めての侵略搾取と抑圧の構造、当時その象徴的形態としてあった戦犯企業による海外再進出を阻止する事が当面の我々の任務であると考えました。
 しかし、その闘いの過程において私達は、当時の私達の思想的技術的未熟さと誤りの故に、多数の人々を死傷させてしまいました。さらに当時その誤りを率直に自己批判する勇気を持ち得なかったが故に、我々の闘争の目的を正しく人々に伝える事ができず、この国が真に歴史的誤りを認め、同じ搾取と抑圧の道をくり返さないものに変えてゆく闘いを十分に押し進める事が出来ませんでした。
 その後も多くの心ある人々によって、日本政府に反省を求める闘いが担われ、各国人民と政府は日本政府の無反省な態度を批判し、侵略戦争への反省と戦後補償を促してきました。にもかかわらず日本政府と戦犯企業を含む一部支配階級は、各国と人民への抑圧と搾取、侵略支配の事実を認めようとせず、変わらぬアジアと世界への「支配」の野望を画策しています。
(3)先月中旬、ジュネーブの国連人権委員会は、旧日本軍の「従軍慰安婦」問題に関して、国家補償を日本政府に勧告したクマラスワミ報告を採択しました。アジア各国の「従軍慰安婦」とされた人々からの謝罪と補償を求める訴えに対して日本政府は昨年、「女性のためのアジア平和国民基金」という形で民間からの募金で集めた金を女性達に「送る」事によって国としての責任をあくまで回避しようと画策しました。しかしすでにこの日本政府の責任のがれに対しては、南・北朝鮮、フィリピン、台湾の元「慰安婦」とされた人々とその支援者達によって受取拒否が表明されています。
 日本政府は、今回の人権委会期中から「大国としての力を利用して同報告書の存在を記録からはずす事」を画策したのみならず、報告を認めた決議が行われた後もなお、「決議に勧告受け入れを求める主張はない」と反論し続けています。こうした日本政府の態度に対して、「戦後補償の速やかな実行を日本政府に迫る市民グループ」の人々は、「応じよ!国連勧告」という声明を発表しました。その中で、こうした日本政府の姿勢を「国家補償を回避し、国家の責任をあいまいにしてきた」と批判し、「勧告がなくても平和と人道に対する罪で法的責任を取るのは戦後の国際社会の常識であり、勧告を日本が変わるラストチャンスと考えて活用するべきではないか」と訴えています。
 まさに「従軍慰安婦」とされた人々への謝罪を始めとする戦後補償問題への日本の態度は、この国が、冷戦構造崩壊に続く21世紀に向けた世界再編の中で、どうアジア・世界の人々と対等に、共に生きてゆこうとしているのかと言う基本的な姿勢を明確に示す問題としてあります。
 日本政府は、国連人権委勧告を受け入れ、アジア近隣諸国の人々への率直な反省と謝罪を実戦する事によって、アジア近隣諸国人民との真の友好の道を目指すべきです。
(4)ところが去る4月17日、日米両国政府は、この地において「日米安保共同宣言・21世紀に向けての同盟」なるものを公表しました。
 冷戦構造崩壊後の21世紀に向けた世界再編過程の中でASEAN各国の目ざましい経済成長と民主化の進展の中で、米国の長期にわたる構造不況と経済的弱体化の前で、これまで「アジア・極東地域の平和と安定のために」と言いくるめてきた「日米安保条約の存在根拠」を失っ両国軍需産業と支配階級は、その延命のために今、共同してアジアのみならず、太平洋・中近東地域をもその視野に入れ軍事体制の確立・「世界の盟主としての地位」を獲得するための新しい段階に踏み出しました。これまで日本政府は、日本の経済力をテコに「基地の提供と思いやり予算を払って戦争をやってもらう」という形をとる事で、平和憲法を形態的には守ろうとしてきました。しかし今回の日米安保再定義の内容は、それをさらに数歩踏み出して、日本の経済力を力に「共同した軍事力」で世界支配に乗り出す事を宣言したものです。さらに、これまでは「不戦・平和」の日本国憲法を守ろうとする事によって踏みとどまる事の可能であった「他国を軍事的に侵略・支配しない」という基本姿勢も、米帝のアジア戦略の都合に合わせて行われた自衛隊の創設以来着々と進められてきた憲法のなし崩し改悪・骨ぬき化の延長上で、日米軍需産業と一部資本家たちの野望の前にうち破られようとしています。すでに今年の一月、日本国政府は、敗戦以来初めて自衛隊という名の日本国軍隊に銃を持たせて中東ゴラン高原に派遣しました。
 クリントンと橋本は記者会見の中で、「二国間の共通の価値」として「民主主義、自由経済・・・の擁護」を口にしました。しかし、21世紀に向けた国の進路を左右する「安保再定義」の内容は、民主主義の象徴であるはずの国会の場でさえ、一度の討議も検討もされる事のないままに調印されました。これが本当に民主主義を守り得るものでないことは、この一事だけをもってしても誰の目にも明きらかです。そして今になって、保守勢力は、「安保再定義に基づいた憲法の新たな解釈」なるものを求めて画策しています。まさにこの国では、「憲法」を日米安保条約の下に位置するものへと落とし込めようとする事態が進行しているのです。
 敗戦後50余年間、基地と日米両帝国主義の支配に苦しめられ、日米安保条約に生活と生命を奪われてきた沖縄(ウチナー)の人々は、昨年9月以来、結束して基地返還と安保反対の闘いを強固に押し進めてきました。
 その中で太田知事は、沖縄(ウチナー)人民の苦痛に何ら配慮する事無く、米に対して抗議一つ出来ない日本政府の支配にNONを突きつける「代理署名拒否」の闘いに起ち上がりました。そうした沖縄(ウチナー)の人々の闘いに対して日本政府が行った事は、人々の痛苦な叫びを聞き、人々を守るために米帝軍に「出て行ってくれ」と言うのではなく、逆に太田知事に罪を問い、期限の切れた反戦地主の土地を不法に占拠して米帝軍に奉仕する事です。そして今、普天間基地の「返還」と引き替えにさらなる基地機能の強化・拡充がうち出されています。日米安保条約締結以来くり返されてきた沖縄(ウチナー)を始めとする各地の人々の反基地・反安保の血の叫びは、このように、まさに日本政府そのものによって踏みにじられているのです。
 今、沖縄(ウチナー)の人々の闘いに呼応し、基地も安保も許さない闘いを押し進める事が問われています。米帝との軍事共同の中でアジア・世界の盟主としての位置を再び画策しようとしている日米帝国主義支配階級の野望をうち砕く闘いを押し進める事こそが先進帝国主義本国人として、真に世界とアジアの人々との共生を可能にする道だと思います。70年代、私達は、日本の地から飛び立つ米軍機がヴェトナムの子供達を爆撃し続ける事を阻止することができませんでした。もしこの地に米帝軍にとってこれほど自由な基地の存在がなかったら、ヴェトナムの子供達は、あんなに大勢死んでしまい傷つけられる事はなかったでしょう。同じ誤りをくり返す事は出来ません。
 日本国政府は、もはや空洞化している世界一の経済力という幻想のもとに米帝国主義の世界支配の野望に追随し、米帝の軍事力の下で自らも又、世界・アジア支配をもくろもうとするのではなく、敗戦後の不戦・非武装の平和憲法に支えられて高度に発達した科学・技術力を人類の平和と真の豊かさ(自然環境破壊の防止や飢餓を駆逐するため)真の人類共生の為にこそ役立てるべきです。
 冷戦構造崩壊後の各国・各地人民の急速な主体性確立の流れは、全ての国家・民族の対等と互恵・協助の原則なくして平和も、繁栄もあり得ない事を明確にしています。この国の進路も又、その例外ではあり得ません。
 今や「日米安保条約」は日本国憲法の上に位置して、日本国民を戦争体制に動員するのみならず、再びアジア・世界人民への支配・抑圧者として動員しようとしています。私達は、こうした米日反動と、軍需産業・一部資本家どものたくらみに断固として反対し、不戦平和の憲法を実践することによって、安保廃棄・非同盟中立の立場で互恵・対等の近隣アジア諸国人民、世界の人々との共生をめざす闘いを押し進めてゆきます。 

[終]

RINRIN
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