『ゆうき凛々』第6号に掲載されたものです。

浴田由紀子さんの5月13日公判での更新意見陳述より


3月27日付検察官「意見陳述書」批判(抜粋)
5月13日公判での更新意見陳述では「超法規」をめぐる検察側「意見陳述書」の批判と、爆取違憲論が語られました。ここでその一部を紹介します。延々と引き伸ばしされた検察側「意見陳述書」が20年前の文書の引き写しにすぎなかったことには浴田さんならずとも怒りを覚えることでしょう。

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1 本裁判において私達は、一貫して「東アジア反日武装闘争に関わる75年起訴部分の審理に入る前に、77年超法規的釈放によって、国自ら放棄した75年起訴状を再びこの場に持ち出す事が妥当であるのか否かをまず明らかにすべきであること」、「超法規的釈放についての審理をまず行うべきであること」を主張してきました。それに対し昨年9月、検察官は、「準備に時間がかかるから超法規に関わる答弁を年末まで待ってほしい」と要請されました。公判は、将来「無駄であった」ことになる可能性を踏まえつつ、検事の答弁を待って、東アジア反日闘争の審理を開始しました。さらに12月に検事は「年度末までの延期」を要請し、年度内最後の法廷であった3月28日に至ってようやくに「意見陳述書」なるものが提出されました。
しかしながら、3月27日付“小泉昭”と署名のある「意見陳述書」は、この6ヶ月間、検察官がいったい何を準備されたのかと疑わざるをえないしろものです。
私の手元に「1977年10月14日、東アジア反日武装戦線統一公判・第26回公判記録」というものがあります。それには、同10月14日付検事古賀宏之・賀藤圭一が地裁刑事第5部に提出した「釈明書」が添付されています。今回小泉氏の名を付して提出された文書はこの古賀氏らの「釈明書」の「1事実経過」「2本件釈放措置の法的性格」の項目のうち、たった二つの言葉、「被告人ら」を「被告人」に、「今回とられた措置」を「昭和52年10月2日にとられた措置」にそれぞれ言い直し、末尾に一行、「これによって国が何ら公訴権を放棄したものでもなく、公訴権の効力に影響を及ぼすものでもない」と付け加えただけのものにすぎないしろものです。6ヶ月間、検事は何を準備なさっていたのか? 少なくとも一人の人間がその間不当に身柄を拘束されて自由を奪われている事実。三権分立に基づく法治国家である国の、法務大臣命令に基づいて行われた事に対して、明確な法的根拠も、命令をくつがえしうる新たな「決定」も存在しないままに、それをないがしろにする暴挙が進行しているのだという事について、その意味を正しく認識された「回答」であるとはとても思えません。
自ら、根拠を示す事も出来ない、6ヶ月かけても何ら正当性を見い出し得なかった事実を素直に認めて、根拠のない、不当な本件公訴はすみやかに取り下げるべきなのです。
2 内容批判(略・・・釈放の経過、勾留状の効力、釈放が一時的なものだったのかどうか、などについての反論です。出国の際、浴田さんは「行ったら帰れなくなるのだぞ」「親の死に目にも会えなくなるぞ」と恫喝はされていても、「いついつまでに帰って来い」「住所を知らせるように」などとは一言も言われていないんですよね)

3 この法廷が今、いったん放棄した公訴を、被告人の身柄を不当に追求し続けた結果として、むしかえしていることがいかに奇異な事であるのかを少し外国の例をあげて説明します。

@パレスチナ革命家であるライラ・ハリド同志の場合

彼女は1970年にイスラエル、エルアル航空機をハイジャックし、ロンドンで英国警察とイスラエル保安員との奪い合いの末、英国に身柄拘束されました。彼女はその前の米国TWA航空機ハイジャックで米国からも狙われていました。しかし、その後の英国BOAC航空機ハイジャックにより解放されました。彼女はその時、起訴前の「容疑者」でした。英国政府はその後、彼女の逮捕状を出してはいません。イスラエルのみが手配しました。イスラエルが国際会議参加中の彼女の身柄を、デンマーク当局に要求した事がありますが、デンマークは「国連の会議参加者である」と引き渡しを拒否し、逆に身辺警護を行ってイスラエルの暴挙から彼女を防衛しました。現在ライラ・ハリド同志は、イスラエル政府の承認の下にパレスチナ自治区に出入りし、パレスチナ建国の要職を担っています。

A日本赤軍の同志であったY君の場合

彼はPFLP内にいたイスラエル側のスパイの謀略によって74年7月にパリの空港で逮捕されました。容疑はニセ旅券による不法入国とニセ米ドル所持というものでした。彼はこの二件で起訴されました。9月、日本赤軍によるフランス大使館占拠闘争があって、仏政府は彼を釈放しました。公訴中でしたが「釈放」です。仏当局はその後も彼を国際手配になぞしていません。86年に彼は日本赤軍を脱盟して帰国し逮捕されましたが、日本当局も、又、仏当局も、74年のいずれの件に関しても彼にいかなる追求も起訴も行ってはいません。あたりまえです。すでに「釈放」され、「終了」した話なのですから。

B日本赤軍の岡本公三同志の場合

彼は、72年イスラエルの軍事法廷において、無期禁固の刑を言い渡され服役中でした。13年後の85年、国際赤十字とオーストリア政府が仲介し、ジュネーブ条約に則った戦争捕虜交換として釈放されました。当然その後イスラエルは岡本同志を「再手配」などしていません。ところが釈放直後、日本政府は、彼がイスラエルで刑を受け、すでに服役した「リッダ闘争」を口実に、一事不再理に日本国憲法にも、ジュネーブ条約にも違反して、彼を「殺人」で国際手配しています。そして今、レバノンで身柄拘束された岡本同志の身柄引き渡しを求めて画策しています。
いったん行った「釈放」をいかなる法的根拠も示すことなく、再び「再手配」「再逮捕」「公訴のむしかえし」によってチャラにしているのは日本だけです。法治国家ではない・・・姿を、自らこうして示しているのです。

4 以上、るる述べてきたように、77年10月2日、内閣の決定に基づき、法務大臣の命令によって行われた私に対する「釈放措置」は、今だにその効力を失ってはいません。
検察官が、「いいやあれはチャラにした」と言いつのるのであれば、「命令」をホゴにした法的根拠と、その事実が一つ一つ立証されなければなりません。それなしに75年起訴に関わる事項を、この法廷で審理することは、法廷をも又確たる法的根拠も手続きも経ないままに活用し、もて遊ぶ事でしかありません。被告人は、まさに、いわれのない理由において、すでに放棄された公訴権のむし返しによって自由を奪われ、身柄を拘束されています。
裁判は、今、正しくこの公判の性格をふまえ、現在不当に、何の法的根拠もうらづけもなく、行政庁の命令をホゴにして進められている誤った公訴提起に対し、しかるべく公訴取り下げの決定を下されるべきです。


RINRIN
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