支援運ニュース No.182

浴田由紀子さんの便り

ダッカ闘争20周年に寄せて

 お元気ですか「うまこゆる」の秋です。
 20年目の9.28(ダッカ闘争開始の日)をクソッタレにも獄中で迎えてしまいました。20年間、何を積み重ねてきたろうかという思いと共に、言葉にしえない年月の重みと広がりをまちがいなく実感しながら……独房であたうかぎりの同志と仲間達、友人達1人1人の名を呼んで「カンパイ」しました。豊かな20年をありがとう、そして「もっと豊かなこれから」を共に創ってゆきたいです。獄中の同志達、再会を! ふたたびみたび、戦場で会おう!

☆「9.28の頃」

 アルジェに着いて最初の驚きは「犯罪者集団」であるはずの私達の車が町(下町)の中に入ると、大勢の人達が、手をふったり拍手をしたり、「ブラボー」と叫んだり…車に近づいてあく手を求めようとしたり……スターなみの扱いをするのです。
 何が起こっているのか信じられませんでした。同乗している部隊の同志が「オメデトウと言っているのだ」とか「もうTVで流しているのかな」とか話すのを聞いて……私達を歓迎し、私達の解放をこんなに堂々と喜んでくれる人々がいることにびっくりしました。「ちがう世界に来たのだ」ということを初めて実感した瞬間です。この時の感動とオドロキととまどいは、以後レバノンに入って世界中から来た様々な言語の様々な顔をした革命家達に出会い、パレスチナキャンプの人々と生活を共にする中でくり返し、くり返し、私の中にしみこんでいきました。世界には、本当に共産主義を実践し、反帝の闘いを価値とし、そのように生き、生活している人々がいるのです!(何せ「オマワリは敵じゃない!」これはちょっと頭の切りかえがむつかしいことですよ、実際!)
 第二のオドロキは、日高隊の同志達の作風です。(機内にいるときも)とっても印象的でした。その後全軍と合流していろいろな生活や活動を共同するなかで少しずつボロも見えてきて「あ、あれはいくらかよそいきで、作戦の緊張の中で」だったのだな、と思うこともなくはありませんが(??)。私はそれまでの経験で民青以外のセクトの人はだらしない、という偏見をもっていて、東アジアの同志達にまさる「活動家はなかなかいないんじゃないか」と思っていたので……彼らの作風とチームワークにはびっくりしました。「ふうん、赤軍にもなかなかの人達がいるんだ」と思うと同時に「やっぱこのくらいの人達じゃないとこんな作戦やれないよな」と感心したりしていました。
 彼らは、「団結」とか「自己批判の立場で」とか「同志に服務する」とかいう言葉を使うのですが、それは、東アジアの同志達の相互の信頼や愛情や「気が合う」関係とは少しちがうようでした。
「階級の責任は1つ、日本共産主義運動の敗北の総括を共に克服しよう。」「団結と統一を求めて……人は必ず変わるのだから」という日本赤軍・日高隊の呼びかけは、当時獄中でどう「東アジアの敗北」を克服していくのかという「重い課題」の前で自供してしまった自分にどう「オトシマエをつけるのか」と問いながら様々な人々の支援によって、ようやく「革命兵士にとって、獄中も又、し烈な1つの戦場に他ならないこと」を教えられ、「命の限り」闘いつづけることによってしか、誤りと敗北の責任を全うすることはできないのだ」という思いに立てつつあった私にとって、全く予期しえない「別の次元の話」でした。(中略)
 アルジェに着いて、部隊の同志達との数ヶ月間の共同生活は、今考えても「何がどういうことだったのかチンプンカンプン。雲の上を歩いているような」日々だったような気がします。(中略)同志達と開始した学習会や総括の討議の中で、当初私達は、「階級の責任は1つ」と言われても、「いやあ私達は党じゃないから、そこまでは考えていなかったのだし―」とか、「日本共産主義運動の総括を云々」されると「いやあ、それは日共とか、もっとかしこい人達の話で、私達はホンのささやかな武闘部分を担当しただけだから―」とかいう思いでいました。(私自身、自分自身の担った東ア・反日の闘いの位置も、意義も客観的にわかっていなかったのです。)
 とにかく総括だの政治学習だの(英語やアラビア語もやってたけど)そういうことにはほとんど関心はなくて、早く軍事訓練をやらしてもらって、今度は、のりお君とあやちゃんと、「私達で(東アの3人で!)」獄中の同志達を奪還するのが自分の役割なのだからという立場です。
 部隊の同志達と話すことの中で、彼らはみんな口をすっぱくして東アジアの「日本人民敵規定」(非革命主体論)を批判してきます。まず彼らの、「東アジアはこうだ」という規定自体が例えば三菱の声明を根拠にしたもので「決めつけ批判だ」と反発しつつ、何故三菱声明文を出してしまったのか根拠は問おうとしませんから「私達はそこまでは言っていない、日本人民の歴史的現在的な帝国主義本国人としての責任を問題にしているのだ」「批判はあたっていない」と抵抗します。
 相手は、日本の階級階層分析だのマルクスとかレーニンとか何とかカントカ、(どっかのセクトみたいな)むつかしい話をもち出して説明してくるのでたちうちできません。ていねいに聞いていると「ナルホドな」と思えて来ます。しかしゆずるわけにはゆかないので、あやちゃんと2人っきりになれる夜の寝室で「また○○同志に言われたよ」「明日はどう反論しようか」とか「1人でいる時はヘタに話にのらないようにしよう(のると必ず論破されるから)」とか「のりお君に会えれば彼がちゃんと反論してくれるからそれまでのがまんだから」…と話し合って、ひたすら「セクト防衛策」をねっていました。一方で彼らへの不満と疑問は「何故私らよぶんや、そんなことは将司君や芳正君やったらちゃんとこたえてくれるのに…」という外因論です。彼らの話の中味や問題提起される東アの思想の中味にふれることはほとんどありませんでした。(つづく)

☆181号を手にする前の9月16日

「支援連ニュースに7/1付でシャコが2級になったとありました。ちょっとしたことをとがめられてチョーバツになったりしてたので、同じ頃に確定した人とくらべてずいぶんと遅れていたものね。いゃぁーよかった、よかった。「よかったね」とシャコに手紙を書きたいけどできないので――、昨日はスーパーで“シャコ”を買ってきて、缶ビール飲んで(まあいつも飲んでいますが)1人でお祝いしておきました。」というH・Mさんからのハガキが飛び込んで来た。
 ナヌ、シャコが昇進! さて私はどうしてやろうかと…181号を待っていると、来た! そうか3年おくれか、まあ、よかった。大器晩成ということはよくある。で私は例によってチョコレートと冷めたコーヒーでお祝いすることにした。しかし、考えてみると刑務所にはそれもないのだねえ。やっぱ早く出て来て、シャコをつまみにビールで祝ってほしい。元気で!(ところで私が送った「ゆきQスケイメ」はとどいたかしらん? 返ってはこなかった。)

☆浴田裁判はシコシコつづけています。来年の春には将司君達を「証人」として迎えるための準備も開始です。……知恵と力を寄せて下さいね。しっかり、公開の公平な裁判を要求します。
 予定では10月29日の吉村さん公判に丸岡君が証人出廷することになるでしょう。25年前パレスチナ革命の地で出会った若者達の生の姿が聞けるかもしれません。圧倒的な傍聴と支援を!
 レバノンの同志達の上級審も10月には開始されるでしょう。「死刑制度のある国へ」強制送還させてはなりません。アラブ、日本、そして世界を結ぶ包囲の中で、彼らの解放に向けた闘いを進めよう。共に! です。

「9.28の頃」未完なので、こきざみに出すことにしました。(インチキですけどねgomenゴメンマークを!)許して下さい。つづけます。秋です、ガイドライン、スンナリ、新内閣はしっぽ切りetcetc……ハラのたつこと多いけどたしかな闘いを進めましょう。地固めを! です、共に! お元気で!

YUKICO
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