支援連ニュース No.202

「だいじょうぶです」の一言に勇気をえて

                  99.5.31 浴田由紀子

 お元気ですか。
 5月10日、ついにやりました。将司同志への直接質問です。どうしたことか、私は完全にあがってしまって、シドロモドロの、オタオタの直接質問でしたが、とにかくやりました。
 もっと上手な、もっとスマートに、率直な、言い方も、聞き方も、話題も、あったろうという気もしますが、それ以上に、多くのことを伝え合い、感じ合えたのだという気がしています。よかったです。
 聞きたいことも、言いたいことも、山のようにあったはずなのに、何故かそれら全てが、スコーンとぬけてしまった話は、以前しました。私は、直接話せたら「21年間、元気によく生きていてくれて、ありがとう」ということと「私(達)は、日本赤軍に入ったけど、反日思想や、東アジアを清算したり、否定して日本赤軍になったわけじゃあない、今も反日思想だし、東アジアの一員だと思っている」ということをぜひ伝えたいと思っていました。しかし、準備する過程で、どうしても、裁判の尋問なのだから、とか、裁判長にストップされるようなことがあってはならないとか、自己規制も働いたり、人前で言いたくないと考えたり……うまく言葉にすることができませんでした。
 一夜漬けを含む“努力”にも関わらず、当日の朝になつても、準備未了のまま“その時”はやって着ました。内容的には、将司君の思想形成過程と反日思想を中心に質問された内田先生と重複し、なぞる形になるのですが、私の方はいちおう、事実関係はやらないで思想問題を中心にやる、ということで準備しました。項目としては、「反日思想について」「組織形態について」「何故武装闘争だったのか」「ダッカハイジャック闘争と超法規的釈放」「そして今どう思うか」というものです。さらに、“気の効いたひとこと”を用意したのはいうまでもありません。
 5月10日、内田先生が前回の続きとして、アイヌ新法の問題や、超法規的釈放で出国した同志達への想い等を質問して、(私は、できるだけ長くやってほしいと願っていたのですが)アッサリと終わってしまいました。
 いよいよ私の番です。この日証人は、目や口にヘルペスをかかえて、あまり体調が良さそうではありません。いくらか緊張ぎみの証人同志に向かって、ヤオラ……とっておきの「気の効いたひとこと」発しようとすると……出てこない! とてつもないブラックホールのかなたに消えてしまって……(メモしなかったのはまちがいです。)。仕方がないので、「浴田です。お久しぶりです」とか何とか、超ダサイ! 何の劇的英知もよびおこしえないひとことをささやいて……一世一代の直接尋問は始まりました。ここに来て、私の頭の中は、完全な「一次元!」。準備不足でゴチャゴチャで要領をえないメモを見ながら……どこまでが意見で、何が質問で……本人もわからないような「質問」をシドロモドロに続けたのです。それでも証人同志は、目玉を上下左右に忙しく動かし、ミケンにシワを寄せ、首をのり出して話を聞き……明かに苦闘しながら、超人的な理解力と包容力で、一つ一つていねいに答えてくれました。
 私は聞きました。この20数年間気になっていたことの一つ、「反日思想(腹々時計に提起し、私達がそれ故に闘いを担った)は、日本人総体を敵にまわし、否定するものでしたか」「第三世界の革命に依拠して、日本の革命を成そうとするものでしたか」「他の合法的な運動と、私達の武装闘争との関係をどのように考えていたのでしょうか」。証人同志はきっぱりと、「私たちは、自分たちは加害者だけれども、闘っていく中で自分たちを革命主体に鍛え上げていくんだということを「腹々時計」にも書いていますし、〜日本人総体を敵にするということは、一度も考えたことはありません。」「もし第三世界主義という立場に私達が立っていたら、間組の闘いのような連帯闘争はありえなかったわけです〜」「他の合法運動との関係ということでは、(必要な)両方の運動を一人の人が担うわけにはいかないのですから、役割分担といいますか――。」と証言。私は自分自身の反日思想理解への確信を一つ強めることができました。
 さらに、ダッカ闘争での私達の出国後、残された彼らが、東拘当局によって日本赤軍関連のいっさいの情報をスミヌリにされ、最近まで、ほとんど私達の「様子」を知ることができなかったこと、総括作業にあたっても、「外で闘っている同志達の闘いとか生き方の足を引っ張ることがあってはいけないと考えて、本音を総括するのがむつかしかったこと」を話してくれました。
 最後に私は、「8人8様の反日思想といわれながら、いっしょに闘って来て、今、おかれた立場や環境によって、言葉も闘い方も違うかもしれないけれど、私達は同じ総括をして来たと思うし、同じ初志をみんなして貫徹していけると確信できた」というようなことを言い、証人同志も「……獄中も対立的になったこともあるけど、違いがあることを認めつつ、その違いを広げたり固定化するのではなく、違いがあっても結びつけるところで結びついていこうということでやって来た〜〜最初の志はそれはやっぱりみんな残っている。獄中では私達を長い間支えてくれた人々の力は非常に大きかったと思う。基本的には、最初の私達の個々人が自分たちの主体的な責任において闘いを始めるというその出発がいきていたからやっぱりこれまでつながってこれたのじゃないか。浴田さんが強制送還されて、それは非常に残念なことだったのですけれども、浴田さんの考えがわかって、出国した同志達ともそういう意味では確認できたなという意味で、私は良かったなと思っているのですけど」。私もそう思う。内田先生がフォローする形で「出国した同志達への77年のメッセージ(気持)は今はどうでとょう」と質問。「話したメッセージは今も変わっていません。どこかで生きていてほしい。彼女たちが生きていてくれることが救いです。日本赤軍に参加しようが、あるいは全く別な生き方をしようが……(同志達の)総括にのった生き方、自己批判の仕方というものを貫徹してもらいたいと思ってきました。」あなたの同志で良かったと心から思います。
 午後後半は、藤田先生から、大地の牙との出合い、浴田との連絡員としての接触を順に質問。(質問者が、藤田先生に変わって、証人の表情に余裕がのぞき、肩の力が楽そうになったと思うのは、私のヒガミだろうか。)尋問は24日にも続いて行われましたが、この日の公判では、初めて二人が会った日に、浴田はいきなり「私は経験がないけど、私のような者でも闘えるでしょうか」と言い出して、「〜武闘とかずっとやって来て、こんな人はいないので、ちょっと困ったなあというか、正直なところだいじょうぶかなあと思いました。ダメとは言えないので、だいじょうぶですよとはげましましたが……」「(だいじょうぶだと言った根拠は)ありません。」とニガ笑いをしながら、証言していたなあ――。(裁判というのはザンコクだ。10年の恋も、20年の幻想もみんなうち砕くものなのだろうか――。)あの時の将司君の弱りきった顔と、「アレまずかったかな?」という不安な気持ちは、今もマジマジと思い起こすことができる。しかしやさしい彼は、“だいじょうぶです”と言ってくれたのだ。根拠があろうとなかろうと、あのひとことに勇気をえて、私は今ここにこうしている。!

 24日、第5回証人尋問は、藤田先生の続きと、川村先生による、流れにそった3者会議の内容と、東アジア反日武装闘争の統括的な質問。この日の証人は、今までの中で一番元気そうだった。かつてまりちゃんが「将司君いつもジャンパーを着てた」と言っていたけど、白いコットンジャンパーがよく似合っている。
 藤田先生の質問ははじめ、将司・浴田連絡会議の内容を日を追って確認するものですが、第一回目の「ちょっと困った話」に続いて次々と「全くソーテーしていない話」がもちだされ、牙の連絡員は病気だったりケガ人だったり、闘争内容を聞いても涙ぐんで答えられなかったり……とても、スムーズに「部隊間の連絡を強化し〜」というものになりえなかった実体が、淡々と、バクロされ、ついに、連絡員は交替になってしまう。
 続いて、当時の11回の接触の中で感じた浴田についての印象を聞かれて証人は、言いづらそうに、(それでもひるむことなく?!)いろいろ言ってくれていた。最後に、今の浴田について「(日本赤軍幹部というのは信じがたいが(正しい!))当時とは違うな、政治的にも、人間的にも大きくなったなあ〜」と言ってくれたことだけを記しておく。
 川村先生に交替して、始めに3者会議の性格と位置づけ。3者会議が3部隊の連絡・調整機関であり、けっして決定機関ではありえなかったことを、事実にそって証明していく。
 3グループのスタンスの違いということの中で、さそりグループの黒川君は、マルクス主義者でありながら、下層労働者の解放を中心的にとり組んで闘う人であり、斉藤君は、マルクス主義とは一線を画する形でアナキスト、直接行動主義の人々と共に闘いながら、日本の侵略の問題を研究したりしていた。その中間に狼グループはいた。という話は興味深かった。又、斉藤同志と浴田との関係、大地の牙の作戦形態(現場へは原則一人でいく?)の根拠について、斉藤君が「(かけ出しの浴田と共に)権威権力を排し、対等な関係を作ろうとして、思想的に個の自立を目指し、(浴田への)訓練的要素ももちながら闘っていたと思う。そこが狼との闘争形態のちがいとしてあらわれていた」という主旨のことを言っていました。
 「私かけ出しです」と言いながら、斉藤君の一日一時間の学習会」をめんどうがり、今から、新しい社会の関係性を作ろうとする同志の努力を、理解することも、応えようとすることもできなかった私自身を反省させられました。
 将司証人は、多くのところで斉藤同志の経歴や人となり、思想を語ってくれています。何とか「和君の本」へ返していきたいと思っています。
 将司君への尋問はあと二回です。あと二回と聞いて、証人と被告人の反応は、「エーッ、あと二回も――」「二回だけ――」と、何故か「対立」するものでしたが、一日中、四方八方からの質問に苦しめられ、一人で対応する者と、ポカーンと口をあけて?……ながめている者との立場の違いによるのでしょうか。
 ともかく、大切に大切に、くいのないSAIKAIを深めます。
 5月20日に、家族会が開かれたことを、感謝と共に報告します。母は、初日と二日目、「使用前」と「使用後」みたいに顔つきがちがっていました。「長生きのもと」をもらったようです。
 いっぱいのありがとう、みんなのお元気がうれしいです。
                      再見!


YUKICO
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