支援連ニュース No.205

4半世紀たって、今や私はバリバリの護憲論者です。

1999.9.5 浴田由紀子

 お元気ですか。いろいろな意味で、とんでもなく暑い夏でしたね。13日に小渕反動国会が終了して、読売新聞はさかんに「やった、やった、よくやった」と書いているのです。反対運動を担った仲間達はさぞガッカリしているだろうと心配していたら、「これからです」とか「敗戦直後の労働運動の始まりの頃のようです」とか、はりきった報告を受けとって、闘う者のしたたかさ、力強さを実感しています。何が問題なのか、打倒すべき“敵”の姿が明白になった分、団結もしやすい、闘いやすいということでしょうか。
 今まで、あたりまえのように考えて、その内実と実体を問うてみることさえおろそかにして来た民主主義とは何か、この国の憲法とは何かを、あらためて問い直し、主体化していく闘いの出発点に立てたのかもしれません。
 東アジア反日武装戦線の頃私は、憲法がどうなっているか、なんてことは考えることさえしませんでした。なんせ「いづれ国家は消滅する」のですから。ただ、基本的人権とか、反戦平和とか、国家権力が自らの「法」を侵害する時だけ『自分達が宣言していること位守らんかい』という立場で、糾弾し、あくまで憲法は、彼らのものという風に考えていたと思います。
 4半世紀たって、今や私はバリバリの護憲論者です。何が私をそうさせたのか? 何だって私は、おそろしい「転向」をするにいたったのか?
 どういう社会を作るのか。そのために今から、何をどう闘うのか。日本の国と人民は、今現在どういう状況(主体的・客観的)におかれているのかと考えた時始めて、日本国憲法が、よくも悪くもこの国の実情・人々の生活を規定しているという現実から出発しなければならないと気付きました。同時に、その内容は、象徴天皇制規定をのぞいて、民主主義の、共有と共生・反戦平和を追求する国の指針として、我々が作ろうとする新しい社会への道程に値するものであり、今この国を、人々が共に、人間らしく生きられない社会にしている根拠は、この憲法に沿った社会を実現していないことにも気付きました。
 一方、他の国の人々に会うと、「日本にはすばらしい憲法があるそうだね。君達は軍隊ももっていない、戦争を放棄して世界平和を実現しようとしながら、経済発展をとげたすばらしい国」というような言われ方をします。「ちがう。自衛隊という大きな軍隊がいて、米軍とつるんでいる。」「労働者は過重労働でつかれはて、小さな家に住んで、子育てにあえいでいる。」「ねる家のない人が町の中にあふれていて、行政は排除はしても生活保障はしてくれない」「差別は日常的で、貧富の差は年毎に拡大している」と言っても、あまり信じてもらえなくって、「ボクは学校で教わったんだ。君は反日本政府だから、針小棒大に政府の悪口を言うのだろう」とか言われるわけです。こういう話は、どこかの国の革命家がやるのわけでじゃなくて、アフリカやアラブのいわゆる第三世界から来た普通の留学生や出稼ぎ青年が言うわけです。そんな経験の中で、私らどうも宝の持ちぐされというか、目の前に理想がころがっているのに山の彼方に幸を求めているような……。
 人々の現実を規定し、良くも悪くもその根拠となっている憲法を軽視して来た在り方は、まさに私達の革命の観念性を象徴することであったと思います。そして今、共存、共生と民主主義を徹底し、人民が主人公の社会をどう作っていくのかという問題として、日本国憲法の基本理念(主権在民・民主主義・恒久平和・国際主義・基本的人権)をまず実践していくことがその第一歩であるし、そうなっていない現実・阻害する要素、そうしたくない勢力をこそ打倒していくことが、当面の闘いとして重視すべき点だと考えます。

 (話は飛んで)、この頃気になっていることの一つは、一部元左翼の人々と民族派右翼といわれる人々の共同・共闘・合流が進んでさかんに民族主義を主張していることです。
 彼らの主張と活動の実体を知っているわけではないので、とても感覚的な批判になりますが、今の大政翼賛・戦争のできる国作りの進行の中で、とても危険な役割をはたすのではないかと危惧しています。
 私も、民族自決権の確立・民族主義を支持する立場です。しかし、民族主義は、他民族との相互理解・共生・共存を前提にしないかぎり、しばしば民族利己主義に転化することをまずふまえるべきです。そして、それ以上に、日本帝国主義本国人が民族主義を主張することは、被抑圧民族・植民地人民の民族主義(民族解放・主権の確立等々)とは、本質的に異なり、明確に一線を画すべきで、むしろ対照的な位置にあるものだと思います。民族派右翼のほとんどは、天皇制を前提とした民族主義です。すなわち日本は単一民族という立場に立っていますし、過去の侵略・植民地支配を正当化しています。「アイヌ・ウチナンチューとの民族評議会の設定」といっていますが、アイヌ・ウチナンチューとの真の共生は、日本民族としての民族性の主張によってではなく、侵略・抑圧民族としての自己批判に立った民主主義の徹底・相互の違いを認め合い、主権を尊重し合う共存と共生、自治の社会の実現によって、始めて可能なのではないでしょうか。
 「反米・自立」ということが基調のようですが、自分が踏まれた痛みは感じることができるけど、踏みつけた“痛み”はわからない。日本帝国主義の一部支配階級は、自らの延命と強化のために、米帝との共存・共栄・軍事的「従属」の道を主体的に選択しているのであって、抑圧民族の強いられた「従属」とは明らかに違います。にもかかわらず一方で、アジア・世界の「第三世界」人民を搾取・抑圧しつつ「日本民族」を強調することが、この国を変える正しい方法とは思えません。どう考えますか?
 山口県育ちの私が、どの位上手に「君が代」を歌えて演奏できるか書こうと考えていましたが、紙面切れですね。ホントハラダタシイ「法の成立」です。人々をバカにするにもホドがある!
 今月末から、利明君の証人尋問が始まります。例によって準備は進まないのですが、どんなかなあー。とワクワクしています。300たたきはつづけてる! 次号では彼の元気をお知らせできるでしょう。こうご期待!
               みんなお元気で! ゆきこ


YUKICO
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