支援連ニュース No.218

いよいよ、17日にはシャコに会えます!

2000.10.11 浴田由紀子

 お元気ですか。
 地震だの洪水だの噴火だの、次々といろんなことがあって、どうやらついに地球も堪忍袋の緒をきらしてしまったみたいでかね。支援連ニュースの仲間にも、災害地に住んでいる方があると思うので心配です。みんな無事だといいのですが。石原知事は自衛隊は災害の時の為に大訓練してもらわなくっちゃと言ったらしいですけど、災害ってたいてい戦車とかもって来て何とかなるものじゃないですよね。9月初めにやった訓練が今どういうふうに人々の助けになっているのか知りたいです。何せ毎日火山灰に苦しめられている三宅島をほうり出してまでした訓練なのですから。せっかくの出番に役立ってないようじゃあ、ただの税金ドロボー、職権を濫用して『趣味の戦争ゲーム』に「国の軍隊」を利用しただけです。
 ついでに共産党が「自衛隊容認」になって、防衛庁はルンルンで何かの祭典(?)に共産党を招待したという話もありましたね。新しい時代になるんだ! さすがに参加は拒否したみたいだけど、時間の問題なのでしょうか。誰かこんど、党本部は「祝日」に日の丸をたてているかどうか見てきてください。それにしても共産党は、何にも「とりえ」がなくなってしまって、この個性と実力が問われる自己宣伝と競争の時代をどう生きのびるつもりなのでしょうか。この国は右から左まで世界と人類の歴史を逆戻りしているように思えるのは私だけ? 流れに抗するのはむつかしいけど、束になって何とかがんばろう。
 いよいよ、17日にはシャコに会えます!
 8月末、支援連からシャコ裁判の本人尋問調書がドサッ!と送られてきた。ひじょうに気になったけど、その時はまだ「9・8冒陳」の文章化が終わっていなかったから「イヤイヤ、好きなことから先にやるのはナシ!」と自分に言い聞かせて、おあづけにしててた。9・8恐怖の冒陳が終わってからようやくシャコ公判調書と対面!! なんか、とってもケッサク(たぶん方言で、おもしろおかしいさま)だ。庄司さんとのやりとりなんかちょっとかけ合いまんざいみたいなところもある。飄々としてノラリクラリとして、そのクセけっこうガンコそうで、時々落ちこんだり、悩んだりしてたらしいけど、ちっとも悲壮感やシリアスさが伝わってこない。『何かアワモチ(粟餅)みたいな人なんだな』。(粟餅って知っていますか? 黄色いソフトな外見で、なかなか固くならない。そのくせ腰は強くて食べると口の中でとてもやさしい)ますますシャコへの関心は高まる。10月17日の対面が楽しみだ。いちおう弁護側証人だから、裁判の点をかせいでくれと言わないといけないのだが、もう何でもいい、言いたいことをドンドン行ってもらおう。
 統一公判――宇賀神公判に見える、芳正君とのチームプレーも哀しく美しい。調書や彼らの書いたものをみているかぎり性格も、行動パターンも対極にあるような二人が(まあ将司・利明コンビも、斎藤・浴田も似たようなものだが……)二人ともけっこう無口に、どういっしょにやっていたのだろうか? と興味はつきない。あの頃のことも、確定後のことも、この十年ばかり考えてきたことをじっくり話してほしい。獄中の同志達へは優秀な法廷サポーター(?)が、例によって、極めて私的かつ趣味的な、報告をしっかりと行うつもりだから。シャコガンバレ!
 9月27日、弁護側証人第一段、吉村同志は、無事に終了しました。傍聴の仲間達がいつもより多かったのは、大いに彼女をはげましていたはずです、ありがとう。
 吉村同志は、かなりコチンコチンで、例によってひかえ目に、えんりょがちに、言葉少なく淡々と証言していましたが、横でみていて、被告人は、彼女の行動原理が読める分、証人よりも緊張して頭の中は大忙し……彼女は、たぶん用意していたことの3分の一も言えなかったのでしょう。はりきりすぎて、気がせいて、というふうでした。「浴田は将来福祉の仕事が向いていると思います」と言ってくれた時は、わたしもびっくり! ウーン、そうだろうか?! 炭焼きになりたいという長年の夢は、やはり夢で終わるのだろうか、アラブにいる間にどの位のウデのいい検査技師なのか、力量を披露してみせなかったのは、返す返すも残念だ……。利明君は「革命家はむかない」って言うし……まあ、判決までには、将来の就職先を何とかメド立てよう。(やとってもいいという人がもしいたら、ヨロシク!!)
 216号で報告した、高校の同期性達が、みんなして「裁判のお役に立てるように」と古い作文を捜してくれている話の後日談です。
 9月に入って「先生」から「作文とうとう見つかりました!!」という手紙が届いた。彼らは、さらに捜索範囲を拡大し、別ルート(父母も友人にたのんだらしい)で捜していた人々の捜索網とも合流し「いろいろなツテをたよって」見つけてくれたそうです。私はもう信じられない思いで(何せ35年も前の小さな文集で教育委員会にも市の図書館にも、どこの学校にもないのですから)待つこと5日間。東拘の検閲の後に届いた作文のコピーは、私が見たこともない=こんな作文を書いていたことさえ忘れていた「大畑分校・浴田由紀子」の作文でした。同じ年に作文コンクールと弁論コンクールと二つ入選したことをすっかり忘れていて、作文・作文と言って捜したので、みんな作文コンクールを捜しまわってくれたのです。ありがたさと、申し訳なさと、くやしさとに涙がボタボタ……。こんな時私はいけません。捜してくれた人々に何とお礼をいったものかと、……弁護人にまで「どうしましょう」と相談の末に、ようやく勇気を出して「ありがとう、でも、この作文じゃあないんです、作文はちがうけど、あなた方の気持はしっかりと受けとって、裁判と、これからの人生に生かしていきます。」と手紙を書けたのは、何日かたってからでした。手紙を書き終えて、もいちど「作文」のコピーを読み直すと、14の秋、私は、さまよえる人生のとば口にいたのだと、そうして35年、今なお同じとば口で、人々と共に生きるための言葉を方法を探して、さまよっているのだと。気付きました。彼女の手紙には「……時を越えてこうしてお話ができること、やはり人間っていいなあと思っています」と結んであった。同じ空間を共有し合いながら、親しくつき合うことのなかった同期生達ともけっしておそくはなかった出会いにしていこうと思っています。
 秋です。寒くなる前にいっぱい楽しんで下さいね。私は、この秋も同志達との対面や再開や共同に、愉快な時をすごせそうです。ありがとう! の思いをいっぱいの力にします。共に!
 みんなお元気で!

ゆき子 

YUKICO
inserted by FC2 system