支援連ニュース No.222

初心を忘れるなと…

2001.02.13 浴田由紀子

 お元気ですか、雪の多い冬ですね。カゼやシモ焼けや赤切れにやられていませんか。私はワセリンで治る程度の赤切れだけです。
 この冬も、東拘新舎にいるかぎり、それほど寒くはありません。何故って、寒いには寒いのですが、いつもは獄中者を威圧する、んmの高く暗い塀が適当な遠景になって、雪をかぶった桜の木を山水のように浮かび上がらせてくれるからです。これだけで、寒さが半分許せます。人は視野や触感によっても、暑さ寒さを納得するものなのだと思うのですが、窓いっぱいにフェンスをはった舎房や、外気の入らない外の全く見られない新北舎の仲間達は、それさえもできないままに、寒さ(暑さ)だけをおしつけられています。そして今、東拘では、そういう舎棟の中に人を押し込むような建物をセッセと作っています。心身ハカイの、拷問施設でしかありません。終日、365日、何十年も……お日様も、雨も雪も知らずに、人が人として生きてゆけるだろうかと、天井の目隠しネットの為に、さわることのできない雪の下で、フツフツとイカリをためています。
 自民党はついに、18才、高卒後の若者に半年間の奉仕活動を義務づけるなんていう「教育改革」案(?)を出してきたようですね。ナント、正直に! 自衛隊への体験入隊も“奉仕活動”として認める“寛容さ”ののちに、“徴兵義務化”へと進める前段階として、“教育としての奉仕”が語られているように思うのは、私だけでしょうか。施政者が、自らの義務である福祉の充実をほったらかしにして個人に“奉仕”だの“献身”だのを求める不純さには反対ですが、我々の側からは、“奉仕”だろうと、ボランティアだろうと、自治・共生の手段としての活動はドンドン進めていったらいいと思います。しかし、今語られている“教育としての奉仕活動義務化”については、今もっとも、無償の奉仕活動によって、社会の現実を知り、人をいたわる心を学ぶ必要のある人々は、若者じゃあなくて「高級」公務員と政治家なのではないでしょうか。18才の時の偏差値で、人生の通行切符を手に入れた××省キャリアとか、生涯、そのバッチの色だけで自らの「正義」を疑わない裸の王様である検事や裁判官、そして「子供達を指導することが出来る」と考えている先生達、こうした人々にまず、3,4年の奉仕活動や実社会を底辺で支える体験をしてもらって、その「効果」が社会に還元されれば、あえて多忙な若者に“義務”を課す必要はなくなるのではないでしょうか。若者がやさしくないとか、犯罪が増えているというけど、いわゆる(公務員・エリート)や政治家の犯罪率に比べればずい分低いように見えます。(ちなみに、石原も外国人犯罪が云々といって、第三国人だの不法入国者だのといっていましたが、これも在日米軍の比ではないはずです。もっとも彼にそれを言っても「だから自衛隊強化」にしかなりませんが……)
 そんなこんなで、キリキリすることの多い世紀始めですが、浴田裁判はきわめて順調に進行しています。(結審までの日程が決まりました。根性入れて、ガンバレ!)
 1月23日は、和君の日特金闘争の頃からの同志であり、私にとっても「この人に出会わなければ、左翼だの、活動家だのとは、全く無縁な人生やっていたかも……」と言える友人の一人である大島敬司(朝倉喬司)さんが、証人になってくれました。大島さんも、74年以来の再会です。私が300タタキに精を出したのはもちろんです。
 質問担当は内田弁護人。彼らは、同時代早稲田に在席した同窓生でもあります。60年代始めに「ジャーナリストになろうと思って入った」大学での安保闘争の余韻ともいえる学生運動の中で「自分がやろうとしたことよりも、もっと有意義なことが世の中にある」と思えて運動に参加するようになったことから話が始まりました。
 大島さん達は、日特金への攻撃の中で斎藤君に出会う。「機関銃をヴェトナムに送るなということを、ただ言っても止めない。これは、工場の操業を止めてしまうしかない」。彼らはヴェトナム反戦直接行動委員会を結成する。直接行動とは、「個人の意志が、集団の論理に解消されないように、対象に届く形態はありえないのか、という思いをこめて、直接行動ということです。……。」
 これが私達の、東アジアの大地の牙の出発点であり、全てだった。和君はくり返し『直接的に、具体的に日帝の今現在の侵略を阻止することです』と言っていた。内田さんと大島さんのやりとりを聞きながら『ああこれは、二人共謀して、今の私自身へのゲキなんだ』初心を忘れるなと……。そうだった。大島さん達と出会った頃の私自身が、彼らが好きで好きで、彼らといっしょに生きたい、いつまでも友達でいたいと思ったのも又、「自分の意志と行動に、自分自身で責任を持とうとする人々」であり、私もそうありたいと思ったからではなかったのか。
 将司君は、証人尋問の中でくり返し「東アジアは、参加した一人一人の同志の主体的結集が……」「それが東アの強さであり、今なお皆が初心を忘れずにそれぞれの場で闘い続けている根拠だと思う」と言っていた。一人一人の意志に、どう誇りと責任を持って生き、闘い続けるのか!
 大島さんは、二人がパクられたニュースで、始めて二人と東アの関係を知った。それまで、一連の闘争を和君や浴田と関連づけて考えることは、全くなかった。弁護人の「二人の名前が出て、どう思いましたが」という質問に「びっくりしました。斎藤君に関しては、多少“やっぱり”という思いがありましたね。しかし、浴田さんについては“よくまああのチンペイがここまで決意したな”と思いました。“エーッ”ですね」。
 彼らは翌日から和君の遺体ひき取り、浴田達の救援に走りまわるのだが、大島さんは今「その前後のことは、記憶がはっきりしません。全くボーゼンとしていたのだろうと思います。」と言う。毎日、菊屋橋署の受付で、大声でやり合っていた彼らの声に、私はどれだけの勇気をもらったか知れない。にも関わらず、私は自供した。
 そして今、26年ぶりの法廷で、証人席に坐らされた大島さんは、あの頃と全く変わらない笑顔で、目で、声で、…「今もチンペーさんは、私の同志だと思っています」と言って被告人を完全にまい上がらせてくれた。大声で「オーイカズクーン! 大島くんたちはー今もー こんなに私達とちかしくしていてくれてるぞーッ!」と叫び出したい気持だ。
 最後に裁判長は、何故か顔をゆがめて「何故あなたは、爆弾を投げなかったのですか」「みんな爆弾をなげたのに、あなたは、勇気がなかった?」と聞いた。傍聴席の仲間から抗議がわいた。証人席の大島さんは「裁判長、そんな誘導尋問みたいな質問は失礼じゃないですか」と抗議した上で、「私は自分が勇気のない人間だとは思っていません。私には人間として必要な勇気はあります。ただ私には、武装闘争によって革命をやろうという根性はなかったと言っているのです。」とキゼンとして答えた。
 法廷中の非難の中で裁判長は、左右陪席に質問の機会を与えることなく閉廷してしまった。この質問は、裁判長、あなたにこそ、答えてほしかった。「革命」を目指す者にとって、爆弾は、境界ではなかった。あったのはただ、爆弾であれ、他のいかなる手段であれ、自らの意志と行動に主体的責任をもちつつ、初心を貫ぬこうとするのか否かという“勇気”だけなのだということを、大島証言は、同時代人である裁判長につきつけ、裁判長の、おそらく本音であろう質問は、あの時代あの場にいた全ての者に、ひとつながりの時代の中で、同じ歴史を作り合って来た当事者であったことを知らしめた。
 私達は「裁判」をこえて人民の闘争の歴史を記録する大きな事業を今進めているのかもしれないと、いつもノホホーンとして再会だの初会だのとルンルンの300たたきにうつつをぬかしている被告人はようやく気付く。さて、問題は、本人尋問の始まるこれからだ。ガンバレ!
 1月中旬すぎてなお、シャコが東拘に止めおかれているのは、何とも申し訳ない。でも、将司君に再会できたのは良かった! 二人のニヤニタ顔が目に浮かぶ。将司君は目が丸くなって口が「ホウ!」ととがったでしょう。シャコは腹の皮がピクピクふるえて、口とホッペタがタレーッとしたでしょう。岐阜で「もう帰ってくんな」と言われてるのなら、このさい、希望の山口県職業訓練所に移ったらどうです。どこでも「イラン」と言うなら、早目に出獄したらいい。
 JRAの同志達へのデッチ上げ、逮捕・起訴・裁判での訴因変更、ひきのばしetc.etc.不当ガサに続くやりたいほうだいが行われている。気をひきしめて、力を合わせて、原則的反撃を進めよう。まだまだ気温も状況も寒いけど、みんな心はあったかくして、お元気で!
     ガンバロウ 共に!

ゆき子 

YUKICO
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