支援連ニュース No.237

出なおし獄中8年目の春、27回目の5・19を迎えています

2002.05.16 浴田由紀子


 お元気ですか。
 春だというのに東京は、暗い日が続いています。小泉キケン内閣で人々の気持が落ち込んでいるから、人々の心のドンヨリが東京の空をおおっているのじゃあないかと思うのは、私だけでしょうか。
 有事法制や個人情報保護法(名前と中味が全てちがうというのは『商標法違反』に類する犯罪ではないのだろうか?)が、市民の想いとは全く無関係に、人々の意を全くくむつもりのない人々によって構成される国会で、形式的に「質疑」されて、一人一人の議員の意志を踏みにじる「党議拘束」という反民主主義的システムに支えられて、通過成立しようとしている。マスコミも国政を監視するとか「国民の代表」者の仕事ぶりを監視し、市民の意志を人々と国会と社会に反映させるという役割よりも、「お上」の意志と恣意的な情報をたれ流す機関になり下がっているように見える。
 朝日新聞の川柳に「戦争に行かない人が決めたがり」というような句がのっていたけれど、まさに、戦争をしたがる人――戦争をさせられる人、働く人――もうかる人、がまんする人――成果を得る人、税金を払う人――福利を受ける人、etc,etcが全部別々な社会というのは何なのだろうか。完全に二重構造化している。私達(旧JRA)は、足元からの民主主義を徹底していれば、人が人らしく、対等に生きられる社会は必ずできるはずだと考えているけど、今の日本みたいなのを「ジューサー型民主主義」とでも呼べばいいのだろうか。ポンと入れてガーッとまわして…全く違うものが出てきて、栄養のあるおいしいジュースは、一部の人々へ…他の人々はカスを……。イヤ、市民権を行使して…議員を選ぼうが…しかるべく意志の表示をしようが……ブラックホールにブチ込むみたいなもので、出てくる成果は……戦争の出来る国づくりと人権の切りちぢめの支配体制の強化……という「ブラックホール型民主主義」で、いちおう、システムとしては、“民主主義!!”。
 獄中にいると、そんな時代状況に何もできないという思い以上に、シャバのみんなのきびしさや、あせりを自身の五感で知覚することさえもままならないことが、何とももどかしく、かぎりなく無力感におちいってしまう。なーに、あんたの想像力と人々への共感がたりないだけだよ、ということなのだろうか……。
 支援連ニュースの原稿が書けなくて、いよいよ、しめ切りをすぎようとしているので、今回はこの頃、思っている(考えているではない)ことを羅列します。
 (1)先日、高橋檀さんの『語られなかった連合赤軍』という本を読んで、いろいろなことをかんがえさせられています。高橋さんは、一人の主婦・キリスト者として、連赤の人々の支援に関ってきて、今も坂口菊枝さんを支える会を担っておられる同年輩の方なのですが、「支援者」と「被支援者」の関わり、共同について。これまでも相互に「前衛であり後衛である関係」とか、「もち場から共闘する」とか、「相互に対等な立場で支え合いたい」とか口にはしてきたけど、「支えられること」に安住し、いつの間にか支えられてあたりまえであるかのような錯覚におちいってしまっていたのではなかったか、ということです。獄中者にとって、よっぽど意識的に「外」に関わらないかぎり自身の今の状況(裁判、獄中処遇)との取組みが「全て」になってしまうけど、外の人々にとっては、裁判も支援も、いろいろある生活と闘いの一部でしかない、その違いをどう、理解し合って、共に進むか、「支え合う」関係にしていくのか、なのだと思うが……閉鎖された独房の中でどう「社会」に開かれたものとして自身の存在をカクトクするのか、獄中者の側からの課題なのだろうと思っている。
 (2)もうひとつは、いわゆる「連合赤軍」について、映画や小説が雑誌で話題になっているのに接して。こうして全ゆる立場の人々から様々な仕方で「論証」されつづけることによって「連合赤軍事件」は、一部左翼過激派の誤りや敗北の位置から、この国の社会変革上の、人々共通の問題になっていくのだなという思いです。それは、連赤被告団の赤裸々な告白と総括を前提として可能になっているし、彼らの総括の不十分をもこうして「人々」が乗り越えようとしているということです。
 私はかつて連赤同志たちの総括に「大きな疑問」と反発を持っていましたが、今、彼らの赤裸々な告白の真摯さに示された「自己批判」を読みとれなかった自分をとらえ返しています。自覚的ではなかったかもしれないけど自分自身の力では総括し切れない誤りを、人々に率直に開示することによって……かれらは、「教訓をだけでも」人々に返そうとしたのではなかったか、ということです。
 (3)前号で「パレスチナ連帯の力をひとつに」と書きました。そのあとで水田ふうさんが「黒」に書いた「代弁左翼」という文章を読んで、問われているのは、「支持」や「連帯」ではなく、直接イスラエルの砲火は飛んで来ないこの国の中で、自分はどういう立場でいかなる欲求をもってどう生きようとするのか、パレスチナやアフガンの現実にどう主体的に関わるのかということなのだと気付きました。支持や連帯といっている以上、あくまで「闘い」「前線」はパレスチナの人々の仕事であり、彼らのやり方によっちゃあ見はなしたり批判もする(現に石つぶての抵抗はいいけど自爆作戦は支持しないという人々もいる)という話になる。けど、軍事大国が強権をもってパレスチナやアフガンの人々をあのように抑圧し、支配している現実に対して、同じ人間として見逃せないという自身の人間としての立場を出発点にしたら、支持や連帯をこえて自分自身の問題として、今この国からなすべき能動的な闘い方が見えてくるのではないだろうかと思います。
 かつて東ア反日も「代行主義」とか「第三世界の革命に依拠する立場」とか言われ、自己否定というのは帝国主義本国人としての自身を免責する論理ではないかと批判されました。私自身、「そうかもしれない、たしかに私自身は窮してはいない」といううしろめたさみたいなものがありました。
 しかし、やっぱりそうじゃあない『人間はパンのみに生きるに非ず』。私達は一人の人間として、人々を抑圧し搾取してなりたつ社会にその構成員としてのうのうと生きていたくはなかったし、自分の隣人がそれをするのを黙って見ているのも嫌だったし、止めてもらはなければ、人がみな対等に生きていける社会は作れないのだから……という、自身の欲求を原点にした、当事者そのものであった。代行でも代弁でもないどんな社会に生きるのかという自身の問題としてあのように行動したのだと今は言える。
 そして今、ブッシュやシャロンの暴虐を黙って見すごす世界の一員ではありたくない、こんな世界は嫌なのだという自身の問題をこの地で、パレスチナの人々と「共に」「闘い」たいと切実に思う。
 …とオモイは散々に乱れて、何ひとつまとまった学習も作業もしないままに、出なおし獄中8年目の春、27回目の5・19を迎えています。「未決のうちにやるべきこと」の山(夢ともいう)はふくらむばかりで……足元では「囲碁」なぞ習い始めてしっかりはまっています。早く誰かと「勝負」したい。
 お元気で。体と心を上手になだめながら、元気でいましょう。
                共に、そして再見!!  ゆき子


YUKICO
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