支援連ニュース No.241

「事件」の本質的解決とは?

浴田由紀子

 やれやれ、ようやっと酷暑の夏が終わりそうです。
 お元気ですか。頭湯豆腐状態は解消ですが、ホーケは続いています。今はどういう時代なのだろうかとわからない事が多すぎます。世界は、よってたかって「イラクに戦争を仕掛ける口実」を捜しています。「まず戦争ありき」なのです。米・ブッシュがフセイン打倒の口実として列挙している根拠のことごとくが、そのままブッシュ自身にあてはまることを、本人も、取り巻きも、マスコミも、世界中がまさか気づかないとは思えないのですが。
 核兵器も、大量破壊兵器も一番いっぱい持っていて、いつ何時使うかわからないのは、ブッシュです。民衆を抑圧している独裁政権なんていうのは、イラク人民にまず聞くべきです。世界最強の軍隊を地球中にばらまき、地球の富の大半を独占することを狙い、環境が破壊されようが、人々が飢えようが、「アメリカの豊かさ」はゆずらない。最大の『輸出品』は『戦争』と『アメリカ中心主義』という国の大統領よりも危険な、独裁・強健・人類の敵がいるとは思えません。
 何故とりまきも、マスコミも、世界も、「対イラク戦争の論理」のオカシサを拒否できないのでしょうか。一方では、毎月何十人・何百人のパレスチナ人を虐殺し、生活を奪い続けているシャロンの危険性には「支援」しているのです。発言できない訳ではない国にいながら、発言しない者たちは、本当に民主的で自由で、人が人として平和に生きていける社会を望んでいるという資格があるのだろうか。パレスチナはアルアクサ・インティファーダ二年目の秋です。イスラエルの虐殺による犠牲者たちの追悼式典に、世界中の施政者と、人民の代表、マスコミに招待状を発行したい気持ちです。ニューヨークに結集した「心」があれば、否とは言えないはずです。
 死刑制度廃止に向けて、終身刑の導入をどう考えるかが議論になっています。私自身は、まず死刑制度廃止を決めること、その上で銃犯罪者への科罰として他に方法がないなら、終身刑も止むを得ないと考えています。この間の議論のあれこれを見ていて、どうしても代替刑が必要ならば、何故有期上限二十年を二十五年や三十年にすることではどうかと考えないのかと疑問です。平均寿命がのびた時代の中では、検討されてもいいのではないかと思えます。
 加えて、この間明らかになっている「無期」という不定期刑の希望のなさ、それゆえの残酷さと、個人の尊厳を否定し、当局へのひたすらな隷従を強いるものであること、同時に、当局による恣意的な運用を許してしまう危険性です。まず刑を確定し、その上で仮釈放制度を採用するのではいけないのでしょうか。また、法務省は、再犯が多い、長期受刑させてもちっとも「更生」しない、ということを重刑化・死刑制度存置、加えて刑務所増設の口実にしていますが、本来この国の行刑制度は、教育刑であったはずです。
 再犯の増加・長期樹形が更生につながらないのは他ならない、行刑制度そのものに根拠があり、現行の行刑処遇が教育刑としての機能を果たしていないということです。その解決が、刑務所を増設して受刑人員を増やし、重無期を導入して……死刑を存置して……という話にはならないはずです。犯罪予防と、犯罪者更生への法務省の責任がまったく問われないまま、民衆への処罰・刑務所機能ばかりを拡大していくのは本末転倒です。
 受刑者の社会性の維持を保障し(少なくとも、外部との接見交通による人間関係、社会関係の維持を可能にし)、社会復帰に向けた学習教育の機会を増大することで、今法務省が列挙している「困難」の大半は解消されるように思えます。出獄者の何人かと文通していますが、みんな本当に一生懸命がんばって生きています。それでもまた、獄中にまいもどってしまいます。受け入れない社会が悪い、本人の意志が弱い、だけじゃない。本人はがんばっている、社会も何とか受け入れたくても、彼らには、社会の中で一人前に働き、生き抜くための「術」も「能力」も「技術」も「知識」も何もないのです。
 長年の獄中で、人と目を合わせちゃあいけない、アイサツをしてもいけない、何事も自分で考えて方策を出さずに、まず命令を待て、言われたことだけをやれ……と育てられた人間が、社会の中で生きていけるはずがありません。「中(獄)の方が私には向いているような気がします」なぞという手紙をもらうと、飛んで行ってひっぱたきたくなりますが、多分、これが彼らの本当の気持ちです。人を殺すという誤りを犯してしまった人間を本当に死刑にして殺さなければならないものなのかどうか、こうした側面からも問うてほしいと思います。
 もうひとつ、死刑制度存置の理由として語られず「被害者感情」について、本当に法務省の人たちは、被害者の本当の気持ちをどれだけ把握して理解して言われているのだろうかと疑問に思います。先日ある事件の加害者と被害者の面談のことを少し聞く機会がありました。被害者の方は、「うらみつづける。死んでしまえばいいと思ってきた」と言われたそうですが、人を傷つけるとは、これほどに深く相手の人生を、心までも奪ってしまうことなのだとあらためて知らされました。
 私はこれまで、「被害者にされてしまった人たちには、犯人をうらむことで生きるエネルギーになることもあるのかもしれない」と思っていましたが、まちがっていました。誰も一人の人間として、人を恨みながら、誰かの死を願いながら生きたくはなかったはずです。だのに、そんな人生を強いてしまいました。まず私たちがなすべきことは、あくまで「悪意」の不在を伝えて、誤りの大きさを追い続ける決意であったのだと、今よくわかります。
 七月の判決で、検事の主張する「確定的殺意」をていねいに否定して「未必の」と言い直し、それなりに「反省と謝罪の気持ち」を認められたことを知って、まず私は、率直に「ああこれで被害者の方々も少しはいやされる。救われる思いだろう」と安心もし、よかったと思いました。そのとき私の頭の中にあったのはもちろん、ありもしない殺意を言い募られて、本意をねじまげられて、いまだに被害者の方々にその真意を伝えられないでいる同志たちや、亡くなった同志たち、家族のことでしたが……東アジア反日武装闘争の、闘争主体たちの「殺意」によって死傷させられたと言われることに誰よりも、みじめでつらいやりばのない思いをさせられてきたのは、被害者の方々だったのではないかと思います。
 誰であれ、どんな目にあわされたのであれ、「誰かが自分を殺そうと意図したのだ。あなたに対して悪意を持った者がいる」と人に言われることほど、人間として恐ろしく、つらい、いたたまれないことはないように思います。そのつもりじゃあなかったのにオロカな誰かが、あなた自身に対する悪意はなかったのにオロカサの故にあなたをこんなにさせてしまったのだということとは、全くちがうのではないかと思います。
 事実認定は全て検察の主張どおりの判決に対して、検事は控訴しました。私をより重刑にするために、あえて判決に異議申し立てる理由として彼らは「殺意を認定しなかった」ことを争うつもりではないかと思います。私を重刑にしたい。そのために彼らが主張しうることは、ありもしない「殺意」を言い募って、被害者にされた人々を、二たび、三たび、寒々とした行き場のない思いにさせることしか方法はないのだろうか。彼らが本当に被害者の気持ちを大切にするのであるなら、「おそろしい殺意であなたがたは死傷されたのです」と強調するのではなく、他の方法で争ってほしい。
 それは被告人の利益や名誉のためだけではなくそれ以上に、被害者の人としての尊厳を守りぬくこと、でもあるような気がします。誰だって悪意や殺意によって死傷させられるよりは、同じ人間や社会のオロカサの中でこんな目にあわさせることのほうが、これから生きていくために、あるいは自身の人生をいとおしめることなのではないでしょうか。「殺意の故に」ではない、私たち自身の不十分さやオロカサ、誤りの故になしたこと、苦しめてしまった人々への責任は力を尽くして取り続けたいと思うし、その根拠を人々と共に追及し、克服していく闘いを避けようとは思わない。
 社会正義と被害者の立場に立った「事件」の解決とは、そうした真実の追究と誰も同じ誤りを繰り返さないための教訓を導くことにこそあって、いか犯人を悪人に仕立て上げ、被害者の心をこおらせるかにあるのではないように思う。なかった殺意を「あった」と「認める」ことが、本当に被害者をいやすのだとは、絶対に思えない。ま逆なのです。
 戸平同志の控訴審は九月五日に判決が行われました。裁判所はどこも、人の話をあんまり本気では聞かないようですね。「控訴棄却、懲役二年六カ月、未決通算六五〇日」で、来年五月には出獄の予定です。さあ、出獄後が正念場だぞ、とおどしていますが、元気に、ようやくこの国の人々と共に生き、闘う日のためのエネルギーをたくわえてきてほしく願っています。
 いろいろなことのあった八月でした。出会えた人々を大切にして、いつまでも共に在り続けたいと願っています。出会いを、共生をありがとう! いっぱいの感謝を抱いて、これからも元気にみんなと共に生き、闘いつづけます。
 秋です。みんなお元気で! 再見!
                                       ゆき子



YUKICO
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