支援連ニュース No.248

さあ来月はシャコが帰ってくる

2003/05/16 浴田由紀子

 お元気ですか。
 新聞は、有事関連法が、今国会で成立すると報じています。個人情報保護法も成立の見通しのようです。大方の人々の意志に反する法が、大方の人々を統制・支配するためにこうも安々と成立してしまう民主主義国とは何なんだろうかと思います。前に将司君が推めてくれたレジス・ドブレの『国家のしくみって何』を読んでいたら「〜市民とは、統治に参加する権利を勝ち得た人間のこと。市民とは、他の市民と共に権力を分かち合うことを受け入れたもの」「(権力とは)法律を作る権力、選挙で選ぶ権利、あるいは選ばれる権利…」という言葉がありました。選挙には投票しない、思想的・政治的立場を持つことはあたかも特殊な人であるかのように考えて拒否する、差別や排除の根拠にさえする、この国の圧倒的な「市民」は、自ら「市民」であることを放棄していることに他ならない、「市民」とは呼ぶことも、主張する資格もない。社会の「居そうろう的存在」とでも自覚するべきなのでしょうか。それでも、この国の進路と実情とへの責任と義務、そして小泉政権のいう「痛みの分かち合い」には一番に参画させられてしまうのですから、やっぱりもっと、「市民権」を行使していく一人一人が社会の主人公、「権力を行使する権利を持った市民であることを確認し合うことからしか、この国の「つるべ落としの後退」を阻止する道はないように思えます。
 イラク侵略戦争に対して、多くの人々が、ことに若者が「開戦NO」の声を上げ、「米大統領の決定を無条件に支持する」といとも簡単に言ってしまう小泉を批判しました。私はちょうど同じ頃、林えいだい氏の著書(ルポルタージュ)「霧社叛乱、民衆側の証言」を読んでいました。毎日の新聞が報じるイラクでの出来ごと(ことに侵略者米軍・米政庁とイラク住民との関係)と、1931年頃、日本帝国主義が、植民地台湾で行ったことのあまりの類似性に、おどろいていました。全く理不尽な、デッチ上げともいうべき口実で、無力に近い人々の大地を圧倒的な武力で侵略し「野蛮だの後れている」だのと言いくるめて、その地に住む人々の習慣も価値観も無視して自分たちの都合のいい価値観や生活システムを押しつけ、カイライを育て、抗う者は化学兵器による武力で「掃討」し……。まさに、今イラクで起こっていることごとくは、つい半世紀前までこの国の軍隊と「市民」とが、台湾や中国や朝鮮や……沖縄やアイヌモシリや、アジア各地で行っていた事々そのものであるのです。兵器は「近代化し」まさに「大量殺戮」可能な強力なもの自分の手をあまり汚さず、危険を犯さず戦争を遂行できるようになったかもしれませんが、侵略者と被侵略者の関係で見るとき、又、侵略の論理やその方法でみる時、何ひとつちがいはありません。
 米・ブッシュ大統領の決定を(無条件に)支持しますといいつつ、ヤスクニに行って英霊たちに「非戦の誓い」とやらをしているという小泉はいったいこのことをどれだけ自覚して理由説明さえできない「支持」を世界に向かって公言したのだろうか。そして若者たち、私たちが叫ぶ「反戦」の本当に直感的な思いの底にある、まさに今、米侵略へのNOは、かつてこの国自身のなした侵略と戦争、植民地支配へのNOそのものでもあることをたしかめ合いたいと思います。イラク人民への連帯や支持、米英侵略戦争とこれからすすめられるであろう植民地支配や収奪へのNOとは、まさにこの国を二度と同じ武力による侵略や戦争・植民地支配や、他国他民族からの収奪をしない国にしぬくこと以外ではないことも、確認し合いたい。イラク侵略戦争を目のあたりにして、世界中のこれだけの人々の反対の叫びの中でこの国が有事関連法という、まさに戦争をするための法律を、自らの平和憲法を逸脱してまで成立させたことを、同時代に生きる一人として世界の人々へのはずかしさと申し訳なさ、自分たちの無力への怒りでいっぱいになります。人類の歴史が今この時代を生きる我々にようやく与えてくれた市民としての権利も権力も、放棄することなく、守り、行使し、さらに発展させ、豊かにしていくことが私たちの役目のはずです。自立した、主権を持った人間・市民で居続けましょう。誰も、「平和で豊かな社会」を上げ膳据え膳してくれるわけきゃあないのですから。
 私の方はこのところ、控訴審準備の一環として、75年自供調書の分析を進めています。(エライシンドイゾナコレハ!)
 検察控訴趣意書が、いわゆる「自供調書」をほとんど唯一の重刑要求根拠として多くの引用をもって展開していること、さらに、第一審での主張してきた自白の任意性、信用性を、具体的に粉砕するために、供述調書一通一通及び、その文言の一つ一つを解析していこうとしています。私たちは、いわゆる黙秘をつらぬいた訳でも「否認」した訳でもなくてかく関与は認め、自分自身の行為について、何らかの「供述」をしました。しかし、「供述調書」に書かれていることは、私たちの「言ったこと」の全てでもそのままでも、それだけでもなく、「言ったことも、言わなかったことも、調べ官の関心と表現力、必要の範囲で、調べ官自身の作文として」書かれています。言ったのに書かれなかったことももちろん少なくありません。そして、裁判の法廷で、検察の主張や判決に引用される文話のほとんどは、まさに私たちの「供述」そのものではない調べ官の必要によって挿入された「言ったことじゃない」「ちがういい方をした」部分です。それでも裁判所は、「署名指印があるのだから信用できる」と言います。「黙秘権の告知はされているのだから任意性はある」と言います。たしかに初めの日に一回、「黙秘権」は告知されます。そうして、その次のじかんから、「オマエのような奴には黙秘権なんかないんだよ!」とか、あの手この手の黙秘くずし、「おどし」「だまし」の「自白」強要が行われても、……それらは、法廷で「黙秘権は告知いたしました」という証人取り調べ官のひとことでなかったことななります。
 作業を進めながら、多くの冤罪被害者のことを思わずにいられません。今は、私たち自身の「自供」のしくみや、「自供調書の実体」を明らかにしていくことが少しでも、被疑者の人権を頭から否定し、公平な裁判を不可能にする、取り調べ室を変えさせるものにしていくものにしていきたいと思っています。被疑者になったことのない、裁判官たちに、いくら被告人が訴えても通じない公務員であり、社会のエリートである検察官や刑事達がウソを言うはずがない、法を守らないはずがない、犯罪人はウソもいう、犯罪も犯す、という予断の中で切りすてられている取り調べ室の実体をバクロしていくこと、ビデオやテープレコーダーあるいは、被疑者自身の表現による「自供」以外は認めない取り調べ室の公平性を確立していくための少しでも力になるような取り組み方をしていけたらと思っています。
 95年再逮捕された時、本当の所「こういう調べだったら、75年も黙秘できたのにな」と思いました。検事はどなったり机をたたいたりしましたが、トイレ、食事、衣類や洗面具という生存の基本が取り調べ官のコントロール下にはないちゃんと保障されているだけで、精神的には「自分」を保つことが数倍可能になるのです。自供調書を読み直すのは、ハラワタのクサリソウナ作業ですが、敗北を勝利の土台へ!! 二度と誰も同じ敗北をしなくてすむように少しでも役に立てるように、28年間の未総括と格闘しています。
 さあ来月はシャコが帰ってくる。夏ごろには「和君の本」もまのにしたい。「和君の本」ができて出版パーティーなんぞやる時は、獄中のみんなを代理してカンパの音頭はシャコかしら、それとも未決12年のAちゃんかしら、なぞと夢もソーダイです。
 東拘穴ぐらし、きびしいですが、心身を奪わせるわけにはいきません。ますます、みんなとつながりを強くして心と気持を全開にして、やっていきます。
 シャバも閉塞感強化ですね。共に生きることでお互いを開き合っていこう。お元気で!
                        ゆき子


YUKICO
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