支援連ニュース No.267

真の「更生」にむけて

2005/01/10 浴田由紀子

★今回はまず私が働いている「工場」の様子について話しましょう。前便に書きました。ここは「アクセサリー」と呼ぶおみくじやおまもりを組立ている人たち(五〇人くらい)と「ベアリング」の組立三〇人くらいの計八〇人前後で構成されています。職種も体系もまったく違うのに何故か一つの単位です。人員的には前に書いたように一/三くらいのお年寄りと一/三強のゆっくりさんと一/三くらいのお元気な人たちです。この第三のづループの多くはベアリング係ですが、その中で私は多分高齢から二番目の「としま」です。ベアリングは一つの長机に二人ずつ、アクセサリーは三人ずつが座って、担当台の方に向いて教室のように机を並べています。
 始業は原則七時三〇分ですが、私は後述のように毎日殿様出勤の八時到着なので、朝の様子はわかりません。私が着いた時はいつもみんなかなりの仕事を進めています。さあ、それから昼食の一二時まで、午後は一二時四〇分〜一六時一〇分まで、我が工場の中で黙々とヤットコをはじいているといつの間にか、パチンコホールのまん中に幼稚園の年中さんのお教室があるのではないかという錯覚にとらわれることはしばしばです。
 〈刑務所のしわぶきひとつ聞こえない懲役作業風景〉を想像してはいけません。担当職員と雑役さん(受刑者が他の受刑者の物品の出入り配布を担当する人)がのべつくまなし「○○番××さーん」「△△番**さーん」と名前を呼びます。投薬、差し入れの確認、願箋etc,etc……。そのたびに私たちは「ハーイ」と元気に返事をして席を立ちます。その間に別の職員は「××班トイレー」とこれまた順にトイレに行くグループを指定します。と私たちが自分のグループが呼ばれると大急ぎでヤットコを担当台において、トイレに並びます。その間に三〜五分おきにどこかで誰かが「先生! トイレ、いいですかー」とたずねて職員が、「さっきも行ったでしょ」とか何とかかんとか……。
 同時に次々と「先生、コーダンしまーす」「先生! 材料願いまーす」「トイレ願いまーす」「水のみまーす」……「作業報告願いまーす」「はい、○○さんに材料」「はい、××さんに作業指導」(と担当はいちいち作業員に指示しなおします)……その中でバックミュージックのようにベアリング組立の音は、パシャパシャ、パッチパチ……ジャラジャラジャーン……ガッシャーン、パシャパシャ……「先生、おトイレー」「またあー」……と繰り返すうちに「××班休憩お茶あー」とこれまた班ごとに担当台の前に行ってコップ一杯のお茶を与えられます。「しゃべるんじゃない」「立ち止まるんじゃない」「そこどいて台車が通る!」ジャラジャラ、バシャバシャー「先生トイレいいですかー」「交話しまーす」「○○さんプロンはずしてない来てー」……日課表では、休憩は一五分間となっていますが、実際には班ごと(十人くらいずつ?)に前に行ってお茶をもらって、座ることも仲間と話すことも、掲示物を読むこともできずに(三〜五ふんもそこにいられない)、立ったままごくごくとぬるい茶を口に入れて、さっさと机に戻るしかない(給水のみ)仕組みです。そうしてまた「××班トイレー」「○○班仕事始めー」と繰り返してようやくひるになると「○○班手洗い」「××班整列」とこれまた順に指示されて食堂にたどりつきます。
 食事は決まったテーブルで(六人一組)「配食」とか「食始始め」とか「食事やめ」とかの号令の下で食べますが(どういう仕組みで班を決めているのか)私の近くの班の一つは、バリバリ元気印さんの下にお年寄りとゆっくりした四人を配置して、毎回の中の誰かが泣いているか、気分こわして食事も取れなくなっている(ジャーン! 何故か私がこの班に入れられてしまいました。当局公認のいじめのターゲットなのでしょうか。コワイヨー!)。
 まだお年寄りが食べている。「やめ」の号令の前にさっさと片付けられて泣きそうになってるという「不可思議」が、堂々通用している???です。公認の虐待、いじめとして思えない――食事中も、交話は禁止、配る人と食べてる間以外は目をつむって下を向いているとどなりまくられます。お年寄りやゆっくり大人をどなるのはOKで、「元気!」とエールを送り合うようなやさしさや思いやりはNONという訳です。社会的には非常識の社会不適合人間はこうして育てられます。(中略次便で)
★我が工場のむずかしさについて書きましたが、他の工場の様子はわからないので、まあこんなものなのか、特殊なのか、なんともいえません。ただ我が工場は、「被差別工場」であるらしいことは、職員の言動から明らかです(一部の中間管理職員なぞはむちゃくちゃな差別言辞で我々の仲間をどなったりしています。「人格研修受け直した方がいいのじゃないか?」と思うほどです。誰も自ら望んでこの被差別工場に来たわけじゃないのになあーと、あんたらが知覚や行動能力に限界のある老人や障害者を集めておいてなんだ!と反論したくなるほどです)。加えて、先日は「いじめが行なわれているので注意してください」なぞとアナウンスしたりしていましたが、「いじめ」やいやがらせ、おどしetcは、同囚間でというよりは、当局の公認で組織的なシステムの一環として活用されているように思えます。
 ことに前述した食事のグループのように老人や精神・知能に障害のある人たちが少なくないのですが、その人たちをいたわったり援助したりすることはタブー(違反)で、一日中どなりつけたり、せかしたり、おどしたりは公然と(職員は見て見ぬふりなのか、奨励なのか……)注意を受けることもありません。そうして彼女たちは適切な指導や援助を受けられないままに処遇困難者、あるいは規律違反者として、懲役や昼夜独居、工場でも皆と差別した席に座らされて、ますますついていけなくなるという不利益な処遇を受けるという悪循環です。
 社会で差別され、けおとされ、それ故の「犯罪」を裁判で訳を聞いて考えて救ってくれる人もないままに「犯罪者」にされて、ここへきて再び(当局は皆平等にといいつつ)やっぱり要領のいい力の強い者が優遇され、弱い立場の人々がけおとされ、差別や不利益を強いられる構造にかわりはありません。そうした人々に「懲役をやらせる」「当局の統制に従わせる」仕事が一部の強い懲役に役務としてまかされ、「いじめ」や「いびり」や「おどし」が公然と活用されているというわけです。食事のたびにお年寄りや知能障害者のだれかが泣かされているグループが何週間も何週間も放置される。そこが次々と新人と、老人、障害者の「統制・訓練場」のように使われること自体がそれを示しています。
 いろいろな人たちを一定の集団の中で行動させる、仕事をさせる(懲役刑である以上働かせざるをえない)困難はわかりますが、このやり方の中に「更生」(一人一人の懲役の)の観点は皆無です。各刑務所は、在監中いかに「おりこう」に従わせたのかを競うのではなく、再犯率の少なさをこそ競うような仕事の仕方にあらためるべきだし、そうすれば職員ももっと自分たちの仕事に人間らしい誇りを持つことができるのではないかと思います。同時に老人、障害者については、「犯罪者」にする前に(社会で、あるいは裁判で)解決すべき問題が山のようにあると思うし、たとえ刑務所が必要であっても、彼らが社会の中で「犯罪者にされずに」行きぬける「更生」を保障するシステムが早急に必要だと思います。法務省は犯罪が増えている、刑務所は満員とさかんに言っていますが、「犯罪者」と呼ぶこと自体がまちがいなのでは(?)と思われる人を増やしているのと、再犯者(社会で生きられなくなった人)を刑務所が育てていることにその主な根拠があるのじゃないかと大きな声で言いたい。
★ついでに私が入所以降入れられている舎房も、被差別舎房であることを報告しておきましょう。これは同囚たちにも同情され職員も「わかってはいるけどねー」といいつつ……いまだに被差別で、毎朝ゆっくりの人々と一緒に最終出勤、SAの図書館行きも最終です。「目立たないように」と職員は、私に言いつつ、皆に「この人特殊だからねー」と教えているみたいですね。ここには五五人のうち昼夜独居が二〇人くらい、懲役調べが計一二〜一三人くらい、心と体の病人らしい人が一〇人くらいで工場に出るのは車椅子を押してあるく人三人、手を支えられて歩く人一人を含めて、新入訓練を入れても一二〜一三人のみです。いかなる特殊な空間かおわかりでしょうが、同時にこれが刑務所の真の姿だということでもあるのでしょう。


YUKICO
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