伊達政保さんが語る、

  チンペイ「陳平」(浴田由紀子さん)の昔話

 陳平とは、策士として知られる前漢初期の政治家、漢の文帝の丞相をつとめた(?〜A.d.178)、もう一人、戦前・戦中・戦後を通じて有名な「マラヤ共産党」の書記長の名前にもかけてある、浴田由紀子さんの高校時代からのニックネーム。伊達さんと浴田さんは、楊明雄闘争、ダニエル・ロペス闘争などに一緒に参加。浴田さん曰く、
 最大の印象は、都職の試験前日、私達のみ会だって、年よりが「都職なんか止めちゃえ、のめのめ」と言って二人にサンザンのませて…翌日ほとんど二日よいで試験会場へ…。何故か会場もいっしょで。私は彼をナメテテ、あっちは一般職で私は技術職だから、私しゃうかるけど彼はおちるな、と思ってたら! 何のことはない、私がおちて彼はうかった?! 「何故や?!」と言ったら、「チンペーの英語じゃ話しにならんのです。加えてこれであなたは酒が強くないことが証明された」みたいなこと言われて…酒の強さが唯一のとりえだったから…ひどくプライドきずついて…以降しっかりライバルです。
とのこと。くれぐれも、お酒の飲み過ぎには気をつけましょう。それにしても、早く浴田さんと一緒に飲みたいものです。

チンペイとの出会い

 ぼくは中央大学で、学生のとき71年の三里塚の第1次代執行で逮捕されていて、今度逮捕されたら起訴されるから、おとなしくしていろということで、第2次には行かなかった。それで、その時はパクられた奴の救対みたいなことやっていて、また中大の叛旗派には知り合いが多くいたから、その関係でチンペイと救対会議なんかで顔を合わせたのが最初かな。彼女は北里大学で、中大の場合は大学ナショナリズムみたいなものがあって、中大ブント(赤ヘル)は、ブントならだれでもいいっていうところだった。その頃から彼女とは顔見知りだった。
 その後、平岡正明さんと知り合った時、テックという会社で争議が行われていて、平岡さんが座りこみとかしていた。その闘争にはいろいろな人が支援にきていて、朝倉喬司さんとか斎藤和君とか、チンペイもその一人で、争議の後半でまた会ったのかな。最初テック闘争が始まった頃、朝倉さんとS君たちが、何かが原因で平岡さんの家に殴り込みに行き、その時よくよく話したら、お互い一緒だということが分かって行動を共にするようになった、なんて話もある。
 それから楊明雄闘争を、竹中労さんたちと、チンペイを含めた平岡グループでやるようになった。元台湾人軍属である楊さんが、日の丸の鉢巻きとたすき掛で靖国神社への参拝に、皆で一緒に行ったり、その帰り明治大学学園祭でビラを撒いたら、コンサートに出演する浅川マキさんに出会い、おもしろそうな事やってるのね、と言われたりと、とんでもない闘争だった。
 その闘争の中で、今も京都で元気な宋斗会さんという、最初に入管の前で外国人登録証を焼き捨てた人と知り合い、宋さんが渋谷の山手教会でハンストをやっていて、その後ハンストのまま入管に突っ込んだりして、チンペイは衛生検査技師だったから、白衣来て聴診器持って駆けずり回っていた。最後には救急車で運ばれて行く宋さんに、チンペイが付き添い「病人だ、病人だ」と騒いで行ったのを覚えている。
 同じ時期にミクロネシアから、ダニエル・ロペス(ロペス闘争については『凛々』第6号「反日用語の基礎知識」(3)参照)が来て、同じようなメンバーと、船戸与一さんや布川徹郎さんとでその支援をやっているうちに、ミクロネシアの独立闘争ということで向こうに行く部隊が出来て、それでぼくは74年の春から1年間、向こうに行っちゃって、帰ってきたらチンペイたちの逮捕があった。だからチンペイが東アジア反日武装戦線に参加していった頃というのは知らないんだ。

韓国旅行

 前後するけど、韓国に行ったのは72年の10月で、チンペイ、平岡さん、朝倉さん、森詠さんたちと一緒で、今から考えればメチャクチャなメンバーなんだけど、平岡さんの友人で浦充信というカメラマンがいて、彼が企画した韓国旅行だった。 韓国で朴(パク)政権が起した10月維新(国内の動揺を抑えるための無血クーデター。大統領権限を強化する「維新体制」を確立した)というのがあって、それが起きる前日まで韓国にいた。帰りに金浦(キンポ)空港に行くとき、まわりのハゲ山に落下傘部隊がダーッと降下して来た。訓練用は白なんだけど、実戦用の迷彩のが降りて来て、戦車隊は押し寄せてくるし、一体なにが起ったんだと思った。とんでもない状況になっているのは分かったんだけど、その時はなにがなんだか分からない。日本に到着してみたら、韓国の10月維新ということで、朴がクーデターを起したことが分かった。
 旅行中面白かったのは、ソウルの南山(ナムサン)の裏側のスラム街のようなところをぶらぶら歩いていったら、仲間の一人に長髪の人がいて、それで警察に捕まっちゃった。当時韓国は長髪禁止だったから、交番の前で中をのぞいていたら捕まっちゃったんだ。ヤバいなあと思っていたら直ぐ釈放されて、警官が言うのに、一応建て前でやっただけで、日本人というのは分かっていたって、全部日本語で言うんだよ。公務の場合は日本語は使えないんです、規則で職務質問しなきゃいけないので失礼しました、と警官が説明してくれて、頼みもしないのに近くの料理屋まで案内してくれた。その辺りは日本人など来ないとこだから、みんな寄ってくるわけ。昔統治下に日本語叩き込まれて、それでもなつかしさで日本語喋りたいおじさん、おばさんとか、日本から引き上げて来た人もいたんだよ。
外国人労働者
 今も日本への入国は韓国からが一番多くて、日本にいる親類を頼ってやって来る。中国系マフィアが『不夜城』という小説などで話題になったけど、ほとんどフィクション。ぼく自身が新宿区役所の職員だったからよく知っているけど、新宿のやくざは大体が韓国系。最近になって中国系も増えたけどね。建物は台湾人名義になっているけど、極東三浦連合が入っている風林会館というのが歌舞伎町にあるでしょ。その極東組というのが在日系で、それで水商売とか仕切っちゃっている。どこがやくざでどこからが水商売かってのは、その辺線引きというのは難しいんだけど、店経営しているのは一応経営者ということになって、境界線というのはないよね。やくざというのはやくざだけで食っているわけじゃないから、必ず自分の店を持ったりしている。そこで働いている人も、自分の親族が日本に来て働きたいといったら受け入れちゃうし、まして親族訪問だったらビザもうるさくないし、親戚の家にいるということなら、観光ビザも延長がきくしね。
 中国人も日本にかなり来ている。外国人労働者50万人とか言われているけど、密入国が見つかったのは氷山の一角なんだから、もっと来ているはず。その辺りは今現在ぼくの関心事なんだけれども、駅の立ち食いそばのおばちゃんなんかも、今中国人が多い。あの年じゃどうしても就学生として、正規に入国しているとはとても思えないよ。そうした仕事を日本人がやりたがらないから多いんだ。先週、上々颱風のコンサートで山形の酒田に行ったら、町の中のあちこちから中国語が聞こえてくるんだ。アレッと思ったら、普段の買い物などをしている中国人が結構いる。地方のほうが多いんだ。工場とかあると、日本の若い人は都会に出ちゃっているし、過疎地だと特に労働力が必要になってくる。賃金もそんなに低くはなく、使う方は、労働力が無ければ仕事にならないから、そりゃ必死になって人を集める。だから働いてくれれば、外国人だろうが非合法だろうが、お願いしますということになる。それだから必要以上の人件費ダンピングをしようなんて、経営者も考えていないよね。

沖縄旅行

 73年の2月に、チンペイと彼女の友達とぼくの3人で、沖縄コザにジェームズ・ブラウンのコンサートに行ったことがある。コンサートは竹中労さんたちが企画したもので、平岡さんも先乗りして沖縄に入っていて、それの手伝い兼、観光に行ったんだ。晴海埠頭から船でまる2日がかりだった。沖縄の「復帰」直後だったから、一応沖縄問題というのが射程にあって、竹中労さんの「琉球独立論」という、沖縄は日本ではない、という考えがあったんだけど、当時は「日本復帰万歳」だったから、沖縄は日本じゃないと言うと、お前ら復帰に反対するのかという反応で、そんな中コンサートに行ったんだ。
 ドキュメンタリー映画「モトシンカカランヌー」(元の銭がかからないという意)というのがあって、沖縄コザの娼婦やヤクザなんかを描いているんだけど、これは布川徹郎さんの監督で、当時NDU(日本ドキュメンタリストユニオン)というのがあってそこで作ったもの、ベトナム戦争とか沖縄の黒人兵の問題をも取り上げていた。それで、沖縄問題をなんとかやろうということで、今も当時も黒人のスーパースターのジェームズ・ブラウンを呼んで、基地の外コザの闘牛場でのコンサートということになった。あのころの彼は最盛期だからね。黒人たちからすれば、神様みたいな存在だった。ぼくも黒人兵に聞いたんだけど、「ウソーっ、信じられない、なんでこんなとこに来るんだ」という反応だった。
 その時、チンペイの友達の親戚が那覇にいて、沖縄についてからまず3人で挨拶にいったんだよ。そこでこれからコザに行くと言ったら、「あんなところに行っちゃいけません」と止めるわけ。「あそこは沖縄人だって怖くて行かないんだから、若い学生さんが行くようなところじゃないですよ。やめた方がいいから」と言われたんだけど、行ってみたらやはり面白いところだった。今のりんけんバンドの照屋林賢さんの父親で、照屋林助さんという琉歌のミュージシャンのやっている店が黒人街にあったりして、町の雰囲気も本当に最高だった。
 ぼくたちはただのお客さんというよりも、コンサートの手伝いで行ってたから、会場の入り口にマイクロバスを置いて切符売り場にして、そこでチケットの販売をやっていたんだ。当時は復帰後だけど貨幣はドルで、黒人兵が金を払うときに、ドル紙幣をポンと出すならいいよ。じゃなくて、クォーター(25セント銀貨)からダイム(10セント銅貨)から全部ごちゃ混ぜでガシャッと出されると、どれがどれだか分からない。向こうは計算して出しているかもしれないけど、5セントよりも10セントの方が小さいなんて計算出来るわけないじゃない、アメリカのバカ野郎と思ったね。一緒に手伝ってくれた沖縄の女の子が、「おたくら、ヤマトンチュー?分からないの?」と言われて、こっちはごめんなさいだったよ。
 コンサートが終わってから、チンペイも含めて平岡さん、竹中さんたちと「なんた浜」という店に、嘉手刈林昌さんら当時最高のメンバーの琉歌を聴きに行ったんだ。沖縄が日本に復帰したとたんに、日本の深夜条例みたいなのが風俗営業に適用されちゃっていて、昔は通りがギンギンしていたというのが真っ暗になっていた。24時間営業している飲み屋なんてのは、分厚いカーテンの奥で、中は盛り上がってやっているわけ、そういう店に行ったんだ。
 翌日、チンペイと友達は観光に出かけ、平岡さんとぼくたちはコンサートに来た黒人兵にインタビューしたいと思い、嘉手納基地に行き、申し込んで基地の奥まで入ったんだ。すごいと思ったのが、基地内というのはリゾート地以上なんだよね。一番いい場所にレストハウスだとかバーがあって、芝生がワーッと広がっていて、その先にはものすごくきれいな海岸線があって、周りを見ても邪魔な物がなんにもない。いやあ、これはすごいなって思った。当時も今も、考えとしては沖縄基地返還なんだけども、ある意味では返還しないほうがいいなあと思ってしまう。日本に戻ったら全部開発して、メチャクチャにしちゃうだろうなと危惧している。それに沖縄の一番いい場所を米軍基地が占めているわけでしょ。だから裏返せば、米軍基地があるから、沖縄の自然が残っているところもあるんだ。

逮捕後

 75年にミクロネシアから帰ってきたらチンペイたちの逮捕があって、そのうち偶然チンペイに会ったんだよ。拘留理由開示公判のときに、ぼくたちもチンペイの顔を見ようということで地裁に行った。その途中信号が赤になって目の前に車が止まったんだ。そうしたら窓からワーイって手を大きく振っている奴がいるからなんだと思ったら、チンペイなんだよ。それでみんなドヤドヤと車に駆け寄って、「なんだよう」とか声をかけたんだ。チンペイも「元気だよ!」とか言って。警察も嫌な顔してたよね。でも赤信号だから突っ走るわけにも行かないし。
 東アジア反日武装戦線の闘争自体は、だれがやってもおかしくないと思ってたから、チンペイが逮捕されたということに、びっくりはしたけど、別に意外だとは思わなかった。その当時爆弾はポピュラーで、ぼくが学生の時の話だけど、知り合いに興味でピース缶爆弾作って、試しに大学のなかで爆発させて見たら、ちゃんと爆発したなんて奴がいる、そんな感覚だった。それに爆弾教本の「薔薇の詩」が、『構造』という雑誌の最終号に全文掲載されたりしていた。しかも当時は、クサトール(除草剤)とかの原料規制がなくて簡単に手に入ったから、高校の物理と科学の知識があれば出来るという感覚だった。
 それに強制連行に関する企業責任に対して「あんたの企業は落とし前つけなさいよ、あんたがつけなかったらこっちでつけてやる」といった感覚は、花岡事件の鹿島建設など、平岡さんや石飛仁さん、朝倉さんなんかが追及を始めていて、意外でも何でもない時代だった。もっと言っちゃえば、それでダメならダイナマイト・ドンというのは、日本の伝統だよ。明治・大正からの抵抗史にしても、昔の労働歌にしても、そういうことをやってきたり謳ってきていて、それが別に新左翼の時代だからっていって心情は変わっていないんだよ。それを変にどこかで抑えこんじゃっていることの方がおかしい。かえって昔の人の方が、「あー、やったか」くらいのものだと思う。
 そのあと80年にぼくはレバノンに行ったんだけど、そのときはチンペイに会えて、また飲めるかなと少しは思っていたんだ。だけどコンタクトとれば、向こうも迷惑だし、こっちも迷惑という状況だったから、会うのは難しかった。こっちは公式にPLOの訪問団を結成しているわけだから、PLO自体も赤軍に会わせたとなると大変なことになる。それでしょうがないかということになったんだ。PFLPの事務所に行って、そのときもしかしたらとなりの部屋に、チンペイたちいるんじゃないかなんて思ったんだけどね。あとで、難民キャンプで会っちゃうんだったら、たいしたことにはならなかったなあ、と思った。公式の場面でなら騒ぎになるけど、町を歩いていて出くわしたというなら別に問題にならないからね。惜しいことをしたな。
(談、97年8月9日、東京丸の内にて)


伊達政保(だて・まさやす)
1950年生まれ。中央大学在学中に全共闘運動に参加。80年代に入ってから、都区職員労働組合の活動の傍ら、評論活動を展開。1984年、不当配置転換に抗議して、勤務先の新宿区役所で割腹。著書に、『空飛ぶ冷し中華』『中東の革命と戦争』『日本一あぶない音楽 河内音頭の世界』(以上共著)、『ドゥ・ザ・レフト・シング』(批評社)『混民族芸術論 バスタード・オン・ザ・ボーダー』(ビレッジセンター出版局)など。全関東河内音頭振興隊隊員。水滸伝研究会会員。


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