四、五月公判報告   ●浴田由紀子

 間・大宮工場〜韓産研・オリエンタルメタル事件〜家宅捜索関連 

 裁判は、着々と進んでいます。
 四月に入って、まず右陪審席裁判官が、女性に変わりました。検事の方も男女のコンビから、男性(老若)二人になりました。
 四月一五日の公判は、まず裁判官交替に伴う更新意見陳述からです。
 初めに「被告人」浴田の意見陳述(共犯証人調べは、公開法廷で。東拘の公判準備妨害に抗議する)を行いました。続いて川村弁護人が、共犯証人調べについて、公開でなけれならない理由及び非公開の弊害について、法的根拠を示しつつ意見をのべました。
 一五日にはその後、間大宮の検分指揮を行った浅見永治と爆弾鑑定人の阿部孟郎。
 間大宮工場の爆弾は、約2mの高さの塀の内側で爆発しているが、検分において「侵入路」は明らかになっていない。「よじのぼった形跡も検証の上からは把握出来ませんでした。(正門は)開いていたと思います。が(正門からの侵入は)わかりません。」
 爆弾鑑定人の結論については、覚えておいてほしい。「黒色火薬ということはありえない。」「オージャンドルです。」と言いきっている。この証人の時、新任の検事は、統一公判での尋問と全く同じ言葉を繰り返し、証人は全く同じ反応を示すという「公判記録の再現劇」が行われた。二〇年たって……ここにこの公判のウソがある。こういうことにイチイチウンザリする私はまだ裁判の何たるかが「わかってない」のだろうか?
 これでひとまず、問組証人調べを終えて、次へ進むことになったのだが、間組についても、他と同様、予告電話を受けた人や、隣の工場から爆発物設置を見ることの出来た管理人達は、「見つかっていない」。この国では、地下生活者や、流浪生活者というわけではない「普通の善良な市民」も二〇年たってしまったら、警察でさえ行方がわからなくなるほど《人民は管理されていない》のだろうか。それなのに、ウォンテッドをよくつかまえるよな、ツヅタク!

 四月二七日(第四四回)と五月二二日(第四五回)公判は、オリエンタルメタル工業。尼崎市にある同工業本社は、七五年四月一九日、韓産研と同時に爆破攻撃された。韓産研が主催していた「韓国工業団地視察団」の団長をつとめ当時すでに韓国への企業進出をはたしていた。
 初めの証人常俊定彦は、爆弾の鑑定を行った人。彼の結論は「黒色火薬以外考えられない」というものである。前記した間大宮の証人発言を思い出してほしい。オリエンタルメタルと同時爆破の韓産研については、かの荻原氏が「(爆薬は)白色火薬であって黒い粉を入れたとは思えない」と明確に証言している。「浴田供述調書」というものがある(クソッタレ!)。その中で「(爆薬は、亀戸のアパートで)白い粉と黒い粉を混ぜて、いっしょに作りました」とある。白い粉と黒い粉を混ぜて、いっしょに作った爆薬の1つは黒色火薬で、一方は白色火薬。鑑定結論が分かれているだけなのか。元々ちがう爆薬だったのか。わからない。
 続く証人は、第四二回にも登場のリズム時計工場長吉村新氏。前回「三菱以降ほとんど全事件の時計を鑑定している」といったので弁護人は聞いた。「四件の時計について、同じような加工は見あたらなかったということですか(報告はそうなっている)」「加工技術の上達は?」証人「見あたらない。」弁護人「同一人物か、別の人物ということは。」証人「見当つきません。」ハラハラ時計を参考にしたはずなのに、何故このようなことがおこったのでしょうか?

 五月一三日証人粟田久。オリエンタルメタルの松本ビル全階と、ビル周辺の全て、の検証指揮をとった人物。といっても元気なジイチャン、なのだが。彼の調書で彼自身が書いたところはひとつもない。全部「九班に分かれて検分した」その班の責任者が「検証調書」として提出したものを重ねただけなのだ。彼は、「全部承知しておりますから」と言うのだが……はなはだ疑問だ。各階で同時に進行している検分の全てに、体が一つしかないスーパーマンでもない彼は当然立ち会うことはできなかったわけだが、弁護人「実際の検証・立会人の説明に立ち会っていない部分があるとするとその証言が正確かどうかは証人(粟田)の口からは言えないのではないですか?」証人「だって……検証官も、一生懸命やっているんですから」ウーン?(一生懸命だったから法と手順に従ってなくてもいいのか?)情にもろい階級性と敵愾心のうすい無原則な私は、こういうのを聞くと……。
 このビル西側の窓は全階異常なし。しかしビル西側の駐車場に停まっていた車の傷は、爆発の落下物によってついたことになっている。弁護人「西側の窓は全くこわれていないのですよね。」証人「ああ、そうですか。」とにかく証人は全くヘコタレナイ。一階の郵便受けから発見された黒封筒(声明文といわれている)については(検証押収の責任者であり「全て承知していた」はずの彼は)「私知りません」(しかし調書に書いてある)「覚えておりませんねえ。」弁護人「爆破痕は壁にはなかったのですか。」証人「ありました。」弁護人「検証調書には書いてないけど本当にありましたか?」「わかりませんねえ。」
 加えて彼の調書には、検証から三年余が経過した統一公判の証人出廷直前に作成された「フロク」がある。それは、検事加藤あての「差押物件の所在箇所について」と題する報告書である。彼の調書に添付された「押収品一覧共」にはその発見場所が記されていなかったため、あわてて作ったものだと思われる。弁護人「検証から三年後なのですが、どうして押収場所が具体的にわかりましたか?」証人「各検証官が(メモを)持っとりました。自分のノートに書いておりました。」ウン、持つべきものは「一生懸命やる」「物持ちのいい」部下なのです。 栗田証言について私達は、証拠能力を認められないので証拠採用を却下するよう申し立てている。
 つづいて、オリエンタルメタル缶体の鑑定人、上肥幸弘。いきなり「ニンベンフレッシュパック」缶大・中・小を並べて…「大」である、という結論。根拠は、絵柄(の一部)が類似していますので……「外観で落ちたものについては(必要ないということで)材質検査等はやっておりません」という大胆な鑑定。
 この日の公判で検事は、全同志一〇人分と、二人の「支援者」と彼らが言うところの人々の家宅捜索・検証調書を証拠請求してきた。第二次統一公判として、全面展開するのだという検事側の意思表示なのだろう。しかし、弁護人側から三人の「共犯」被告人の分については、本件被告人とは関係がないのではないかという異議が出され、証拠調べは行わないことになった。それでもまだ、家宅捜索・関連証人は、八人、場所は九カ所。

 五月二九日(第四六回)公判から、いよいよ家宅捜索担当デカの証人調べが開始された。この日の証人は(H氏とS氏)をガサったデカ岡田昭彦、鈴木恒の二人。
 初めの証人岡田は、H氏宅を捜索した。六〇歳位なのに何故か、元気がなくて、声が小さい。何度か、注意を受けるのだが直らない。どうしたのだ?)
 外事課から公安1課に派遣されて、企業爆破の捜査に関与するようになったのだが、具体的に何をやっていたのかについてはノラリクラリ、シドロモドロ。弁護人「具体的には?」「数が多くて、キオクが……。」弁護人「尾行に関しては?」「いろんなことをやりましたから、そういうこともありましたが……おぼえておりません。」弁護人「尾行自体は(やったのですか)?一「私は担当ではありませんので…。」次に、弁護人「H氏も被疑者ということなのですか?」「いえ、被疑者ということではなく。」弁護人「H氏について当時どういう認識だったのか?」「東アジア反日武装戦線の支援者であるという話は聞いておりますけど。」弁護人「具体的にどういう支援を、金、爆弾製造とか……。」「わかりませんねえ。」弁護人「H氏は支援者であるといっているが、最終的に支援者だったわけですか?」「令状請求した人が言っていると思いますけど。そうであったかどうか、私は言えません。」どうも全てにはっきりしないというか、ノラリクラリとごまかそうという態度アリアリ。
 押収品の一つ一つが「本件」とどういう関連があると判断したのかという弁護人の質問には、チョー感情的になって、「Hのところにはまだまだいろんなものがありました。要するに押さえるべきじゃあないものですよ。フトンを押収するわけにはいきませんから」と返答。緒論は、「誰が行っても(現場で判断することは)出来ないと思いますよ」と居直り。全く関係ない人の所で関係ない物をゴッソりもって来てしまったいいのがれはこうだ。
 続く証人鈴木恒は、S氏宅の捜索、後日宇賀神、KM同志達の家宅捜索も担当している。
 S氏についても「企業爆破闘争の支援者」であり、その支援の中味については、「よく覚えておりません」とあたかも、何かあったかのような言い方をして……。「本件」と記された被疑事件についても「よく覚えておりません」(オイオイ、前日検事とうち合わせをしてるのだから、その位しっかり答えてくれよな)。この証人は、ほとんどの質問に対して「覚えていない」「忘れました」そして「わかりません。」最後に大量に押収したパンフ類について弁護人「これらのパンフと韓産研事件の関連は認められましたか?」「認められたと認定して差し押さえたと思います。」弁護人「具体的にですか。抽象的にですか?」「よく覚えておりません。」とういことで逃げまくった。
 最後に、これまで証人調べを進めて来た調書についていいかげんなシロウト鑑定しかしてないという星野(間大宮の缶体)と自分がやってもないことを「一生懸命やった」部下にかわって立証しようとした栗田証言をのぞいて、採用されることになった。

 公判は、着々と進んでいます。将司同志、利明同志の証人調べは今やっている家宅捜索デカのあと、今年の一〇、一一月頃になるでしょう。今年後半、浴田裁判は「最大の山」を迎えることになります。今や公判は、これまでの「物」に関わる攻防から具体的な「人との関連」を問うていく闘いへと進展することになります。さらにシビアに、緊張した闘いを問われます。が、はりきっています。
 忙しい中を傍聴に来て下さっているみんなに、とってもありがとう。知ってる顔や、味方そうな顔に出会うと、何倍も強くなった気分になっています。今私の心配事の一つは、「将司同志達が来た時、今の法廷では、傍聴席がせまいなあ」ということです。
 ワクワクするような夏を、そして九八年秋を、共に迎えましょう。「再会」です。お元気で!

九八・六・六

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