ゆうき凛々 37号

浴田由紀子の再会公判報告 5月10日・第4回

99.5.19 浴田由紀子

 前回公判から約二ヶ月間の準備期間を経て、ねむれない夜々のあとにこの日はやってきました。今日は、将司証人に直接質問を担当する。
 日本に強制送還をされる飛行機の中で、東アジア裁判を開始した時、彼らの証人採用がいよいよ本決まりになった時、そのたびに私は、この年月、彼らに直接聞いてみたかったこと、言いたかったこと、話し合いたいこと、伝えるべきことのアレコレを数えてきた。
そうして今それが、公然と、直接かなうことになったのだ。21年分の想いの全てを、聞き、そして伝え合う為に、私は万全の準備をするはずだった。
 というのに、前回公判が終わって、弁護人に「次回やれるから、準備して下さい」と言われた瞬間から私の頭の中は「直接話すんだ」という言葉以外にはカラッポになってしまったみたいだった。レジュメを作ろうとして白い紙の前でペンを握って時をすごす日が何日も続く。せめて質問項目レジュメ位は事前に知らせておかなければ、証人も、弁護団も困ってしまう。気持ちはあせるのに、いっこうに「山のような話」は、言葉にも形にもならない。彼らの書いたもの、公判記録、自分の書きためたメモを再びひっくり返して、……とりあえずの「レジュメ」ができたのはすで一ヵ月をすぎていた。
 その日は来た。少しあったか目の晴れ。顔のシワのばした300たたきで証人をだますことには一定成功しているようだ(?)。今回はちょっと若風の服装でと考えていたが、うまくいかなかった、ま、いいか。
 証人同志は前回カゼだったが、今回はもう良くなっているだろうか。とまっていると、「オウッ!」何と、目と鼻と口にヘルペスをもっている。どうしたのだ! ここ数年、日の当らない捨房と運動場で、太陽光線が不足して皮膚等の抵抗力がトコトン弱っているのではないかと思う。顔の青白さがますます目立つ。でも、目は元気だ、笑っている。

 日本赤軍の奪還闘争をめぐって

 尋問の始めは、前回の継続を内田先生から。話題は、アイヌ新法の成立に関して。この国の国内植民地化、同化政策、中曽根の日本人単一民族発言を経て、一貫したアイヌ民族抹殺政策と風雪の群像爆破闘争。武装闘争の思想的とらえ返しとして平和的共存権の問題。ダッカハイジャック闘争に関連して75年のクアラ闘争当時、連合赤軍の坂口君が釈放指名されたにもかかわらず、出国を拒否して獄中に停まったことについて。
 内田弁護人の「…坂口君が何故出国しなかったのか、そのことをどう考えていますか」という質問に、「(直接その件を討議したことはないが)坂口君の誠実な人柄、自分に正直であろうとする姿勢等から、日本赤軍との路線的な違い、連赤総括をアイマイにすることはできないという責任感そしてすでに当時の彼は武装闘争に批判的ということもあって、獄中に残って連赤総括を貫徹しようとしたのではないかと思う。」「少なくとも、連赤の敗北の総括として、自分の思った通りに行動しなかった、まちがいと知りつつやってしまったということから、状況に流されるのではなく、自分の考えに正直であろうとしたのではないか」。
 弁護人は続けて、釈放指名に応じて出国した同志たちとの関連で「総括は、獄中でなければできなかったのでしょうか」「……しかし、自己批判総括は、獄中でなければ出来ないということではなく、制約の多い獄中ではなく、他の同志達と率直に話すことのできる条件の中での方ができると思う。大切なことは、出国してからの行き方。総括を生かす生き方をするということなのじゃあないか。言葉でアレコレ引き出しても、実際の行動に反映されるのでなければ意味はない。出国した同志達が、そこでやりぬいた総括にもとづいて、しっかりと生きていてくれればいいと思う。」と言ってくれた。そう思って生き、闘って来た。十分であったろうかと、豊かな条件の中で進めた総括を、生かしぬいているだろうかと、あらためて思う。
 内田弁護人の質問は、できるだけ長い時間続けてほしかったのだが、(何せ、準備が不安で、不安なことは先延ばしにしたいという、なまけ心が……)反日思想について80年代・90年代の状況の中でさらに深化した内容について質問して終了。

被告人自らが質問する!

 ついに、運命の時がやって来てしまった。いよいよ私の番だ。
 まず、立ち上がって(すでにコチコチ)、用意して来たはずの『気の効いたひとこと』が出てこない。クソーメモしてくるんだった。エーイしかたがない「浴田です、お久しぶりです」か何か。こんなはずじゃあなかったとあわてまくっていると裁判長が「座ってやってもいいですよ」と助け舟。よし。
 しかし、それで問題が解決したわけじゃあない。次は「目玉」だ。近眼鏡をかけると、手元のメモが見えない。メモを見るために老眼鏡にすると彼の顔が見えない。はずすもならず、のっけから冷や汗タラタラで直接尋問は始まった。
 用意したレジュメは、(1)「反日思想」について、(2)東アジア反日武装戦線の組織形態について、(3)何故武装闘争だったのか、(4)ダッカハイジャック闘争と超法規的釈放、そして、今について、というものだ。内田先生の質問をふまえて「同志としての立場から」質問するという構造には、いちおう考えているのだ。
 浴田「まず、反日思想といっている私達の思想的立場の内容についてもう一回いってみて下さい」という口頭試問のような質問から始まって、とにかくよく深い質問者は、自分が伝えたいこと、証人に聞きたいことを一つの「質問」という形でいっきにやってしまおうとするものだから、一つ一つの「問い」がベラボーに長いけじめのないものになってしまう。見ていると(メガネのせいでクリアーじゃあないのだが)証人同志の目玉は右往左往して、、弱りまくった顔をしている。ダメか、通じなかったか、言い直した方がいいか、と迷っていると、しっかり主旨を理解した答えが返ってくる。スマンなあ。圧倒的な証人の包容力と理解力(?)に支えられて「尋問」と証言は続けられた。
 「『反日思想』という言葉は、ハラハラ時計や、闘争時の声明文では使われていませんが、いつ誰によって使われるようになったのでしょうか。」「それは、ハラハラ時計で提起した問題提起を正しく反映したものだったのでしょうか」「第3世界革命に依拠しようとするものであるとか、日本人総体を敵視する思想であるという批判は正しいのでしょうか。そうした批判を生んだ根拠は何だったのでしょうか」というようなことを、ジドロモドロと聞いていった。
 第2項目の組織形態については、どのような組織を作ろうとしていたのか。実際はどうであったのかを聞いていく。組織形態について同志は「ピラミッド型の組織もあるけど、そのアンチですね。各部隊が内で民主主義・対等を目指すと同時に、各部隊同士も対等である組織・結集軸に集まるのではなく、水平な、柔軟な組織、あえて言えばアメーバーのような……。」ウン? 当時私は、アルジェ方式というのを斉藤君から教わって、てっきりあの三角形が無限に拡大していくのだと思っていたのじゃあなかったか? とちょっと思いは立ち止まるのだが……ここは「法廷」。用意したレジュメに以上に話をすすめ、あるいは立ち止まる精神的余裕はない。「そうだったんだあー。私はねー」とつもる話に駒を進めたいところを、グーッとおさえて、「次の質問に移ります。」
 狼の隊内民主主義・対等の徹底と、必ずしもそうではない「リーダー的存在」をかかえた牙、さそりとの違いを実感しつつ、あえて彼らに「民主主義」を強制しようとはしなかった。「狼は時間をかけて民主主義的になって来た。彼らはまだ時間的にも短い。物質的にも経験的にも先行している狼が、ああやれ、こうやれということは言えない。」「重視していたのは、形態よりも、共に闘うことの中で変わっていくこと」。検察・裁判所は彼ら自身の「革命組織観」にもとづいて、「3者会議」を「参謀本部」のように位置づけて、3グループの共同共謀正犯デッチ上げを行った。しかし、反日武装戦線の組織形態は、彼らの考える共同共謀を可能とする性質のものではなかったのだ。
 第3の何故武装闘争だったか、については、すでに内田先生のところでくり返し話されているので大巾に省略。
 当時、細々とではあっても闘われていた戦争責任の追及や、公害企業進出阻止のいわゆる公然闘争との関連でどう武闘を位置づけていたのかについて質問。「彼らの運動を評価していました。公然とやるべき運動と、その一方で、侵略企業等には直接ダメージを与えることが問われている中で、同じ人がその両方を担うことはできないわけです。『役割分担として』」
 第4項目は、ダッカ闘争と超法規的釈放について。質問者としては、ここでじっくり伝えるべきこと、つもる話があったのだが、裁判における証人尋問という“場”を意識してどうも思うように『話題』を用意できない。それでも証人は、私達の釈放後、10年近くも東拘による極端な抹消によって日本赤軍に関わる情報を入手しえなかったこと。そうした中でも、私達が元気に生き闘い続けることを願ってくれていたこと。獄中での総括作業も、獄外の私達の足をひっぱることになってはならないという思いから、本音を総括することがなかなかできなかったこと等々を話してくれた。
 最後に私は、「8人8様の反日思想、8人8様の総括」と言われて来たが、同志達の書いたものを読み、この裁判で直接同志の証言を聞いてそれぞれが今置かれた立場や環境の中で、闘いの方法や言葉に違いはあっても、私達は同じ総括をして来たし、同じ初志を皆がつらぬこうとしていることを確信することが出来てうれしい。というような、何よりもいいたかったかったことをシドロモドロにだが言った。
 同志は、「出獄した人々のことが長い間わからなかった。浴田の裁判が始まって、ようやくわかるようになった。残った者達にも違いはある。対立的になったこともある。それは獄中は孤立分断されてしまう中でやむおえないことでもあった。しかし違いがあることを認識しつつ、違いがあっても結びついていけるということで闘って来た。初志はみんな残っていて、獄中では支えてくれた人々の力も大きかった。基本は、最初に個々人の主体的責任において闘いを始めたことがこれまでつながり合ってこれた理由ではないかと思う。(私は、以下メモ不可能になってしまった。)」
 内田先生がフォローする形で、再び「ダッカで出獄する浴田達へのメッセージとして私に託した思いは今も変わっていないか?」と質問。「同志達には、どこかで生きていてほしい。同志達がどこかで生きていてくれることが私達のすくいです。日本赤軍に参加しようが、あるいは別の生き方をしようが、それは変わりありません。」
 内田先生「どこかでいきていてほしいということと、心から三菱の死傷者におわびしたいという思いとの関連は?」「三菱の責任のとり方という問題。当時の話の中でも闘いを止めてしまうことが責任のとり方になるのかと考えた。そうではない。〜克服する闘いを続けることが責任の取り方だと思う。出国した同志達はその中で総括に沿った生き方を貫徹してもらいたいと思って来た。」
 内田弁護人「いや、あなた自身の気持ちとしては」
 (間)「うまく表現できないです。」

「大地の牙」が登場した頃

 続いて藤田弁護人が、「大地の牙」の登場から浴田の連絡員脱落までを順に事実検証。
 始めに、斉藤君と将司君の出合い・斉藤君の人となりを質問。「1968年から、斉藤君のことは知っていました。」まず、ここで私は、「エーッ!どうして二人とも私にひとことも言ってくれなかったの?!」という気分になる。藤田先生に質問者を交替して将司君はちょっとヤレヤレという顔つきになっているみたいだ。ホント、ゴクローサマ。ゴメンネ」
 書記官の交替に便乗して裁判官は、「早めに休憩にしましょうか、先の質問が重かったから」と、いつもより多目の40分近い休憩に入る。質問者は交替だからいいけど、それに一人で答える証人同志の疲れは相当なものだ。その原因の大半は、被告人メのジドロモドロの質問にある。何セ証人は、まず、質問者の言葉を選別してつなぎ合わせて……推稿することから始めなければならなかったのだから。
 休憩の後、再び藤田先生。斉藤同志との関係から、斉藤同志の東アジアへの賛同・参加の経過を順に追っていく。私よりくわしい。アイヌモシリでの調査や活動、風雪の群像爆破を彼らは相互に接触のないままに「理解」し合っていたのだ。東アジアで、出会うべくして出会ったのだ。連絡員を交替して第一回目の3者会議から帰って来た時のうれしそうで妙に興奮していた理由が今とてもよくわかる。私が当時想像しえた以上に、彼は、“同志”に“再会”したのだ。(それにしても、“知ってる奴だ”とひとことも言ってくれなかったことについては。プリプリ!)
 証言の中で印象が深かったのは、斉藤君のグループが「大地の牙」という名を名のることを知らされて証人同志は「大地はアイヌモシリ、牙は“狼”への連帯ということかなあというカンジを持ちました。」ということ。又、大地の牙が三井物産館を爆破する計画を知らされた時彼は、「三井にするのは、戦前も侵略企業で、今も海外浸出をしている。〜私はそれ以外に、狼が三菱で誤りを犯したので、同志的な批判として、批判しつつ連帯するという意思表示だったのではないかと思います。“三菱・三井”ということで三井を対象にし、内部を爆破することで彼らなりの総括、三菱の誤りを少しでも克服しようという同志的な連帯の表明だったのではないかと受け止めました。」
 当時私達は、週一回1〜2時間の喫茶店や公園での連絡接触だけで、多くを語り合うことは出来ませんでした。しかし、革命への同じ想いが、言葉以上に「行動の有り様」によって、互いのメッセージを伝え合うものになっていました。私達は、こうして出合いました。
 三井闘争のあと、連絡員として浴田が登場する。「斉藤君は(元々公然の活動をやっていた人で)名前を公安にマークされている。狼の方もオルグ担当の将司君に交替する」というものだ。二人は「新宿駅西口のゴキブリ横町か小便横町のペットショップで、週間新潮を目印に」会った。覚えてる!10m位むこうから、彼は私を見つけてニコニコしながら近づいて来た。
 弁護人「初めて会った時の印象は?」「ずい分若い人だなあという印象でした。」(これはまあいい。23才だったのだからね)
 弁護人「どういう話をしましたか」「〜自己紹介というか。〜浴田さんの方から”私は経験がないけど、私のような者でも闘えるかという話が出されたので……はげますというか、ヘンな話になって……。」
 弁護人「その話をどうとらえて、どうはげましたのですか」「率直な人なんだとは思ったけど、(間)武闘とかずっとやってきて、こんな人はいないので(言葉につまって笑いながら)ちょっと困ったなあというのが正直なところで、だいじょうぶかなあと思いました。まあ、ダメとは言えないので“だいじょうぶですよ。狼にも女性はいますから”というようなことを話したと思います。」
 弁護人「“だいじょうぶ”と言った根拠は?」「ありません」!!!
 ウーン、あの時のことを思い出すと今でも私しゃ顔があつくなる。(始めて会った彼の弱りきった顔を、覚えているぞ。“いけなかったかしら”とチラッと反省もした。)しかし、彼があの時、「オジョーサン、アンタそんなことじゃあこのカコクな武装闘争はやっていけませんよ」と言っていたら、今の私はなかった。さて、「だいじょうぶ」だという、根拠のないはげましは、はたして正解だったのかまちがいだったのか……やるっきゃないなあ。同志に後悔させるわけにはイカン。
 それにしてもあの時私は、当時の私としては最高にきどっていたはずなのだが。先の私の質問でサンザン困らされた証人は、「かわってないなあオイ。」と、またもあの時の「困ったこと」を強く思い出してしまったのじゃあなかろうか、それ故に先ほどの、言葉に窮した「笑い」があるのだ。この質問は、私の担当前にやっておいてもらえばもう少し「高い評価」になったかもしれない……なぞと……。「ちったあ、ましになったところを見せたい」という私の企みは、どうも失敗に終わったようだ。
 将司―ゆき子連絡会は、都合11回行われる。弁護人は一回ずつ順に話の内容をつめていく。この日の尋問は、二回目の会合で三菱の総括について話したところまでで、次回へと続く。
 聞く方も答える方も、うしろに待機する弁護団も油汗ものの直接質問はかくして終わった。もっといっぱい話すべきことがあったような気もするが、それ以上にいっぱいの思いを伝え合うことが出来たような気もする。誰にとってもたいへんだったが、やって良かった。そして、またやりたいと今は思っている。この次はもっと上手にやります。
 あのあと証人同志は、熱が出たんじゃないだろうかと心配しつつ……。
 私達は豊かにSAIKAIしています。このことを、どうみんなに伝えようかと、筆をかかえているうちに、もうすぐ第5回目です。
 しっかり準備して、おちついて公判にのぞんで、いっしょに闘っていきます。


rinirn
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