YUHIQ SCHEDULE MAIL No29

第三十三回公判出廷記

浴田由紀子

 はじめに、九月に行われた二回分(三十一、三十二)の出延記『スケメイ』の発行が遅れてしまったために、何人かの読者から「公判は続いているのでしょうか」という手紙をいただきました。心配をかけて申し訳ありませんでした。公判はしっかり続いています。編集部の多忙で「スケメイ』の発行が遅れたことをお詫びします。今後編集体制を再編強化して続けることにします。心配してくださってありがとう。
 という状態で、我々の主体状況に関係なく、東拘の集中弾圧(公判資料=パンフ類の使用妨害)にもめげず、第二次統一公判はしっかりと進行しています。間組ビル内外の実況見分証人調べ。今回はその三回目です。
 はじめに間組ビル十一・十二階とビル北側通路の見分を行った河四証人。(検)はどうも私が外に書き送る手紙を読んでいるのか、『スケメイ』を定期「購読」。しているのか?時間をかけて調書が自分で書いたものであるのか否か確認する証人を、今回は黙って待っている。(参考前回スケメイ)ところがこの証人は、具体的なことになると(検)の質問に対してもことごとく「記憶にございません」か「わかりません」と、言うことで…ドンドンすすんでしまう。
 続く福嶋証人は、ビル、一・二階と駐車場の見分を行った。
「一階から出入りということで重要部分を担保するというので、配慮して行った記憶があります」というのだが…検分調書には、cmとmの誤記や、抜け字がいくつかあって、統一公判への証人出廷時それらを修正発言をしたという経過がある。
(検)「〜の修正発言はそのとうりですか?」
「はい。(統一公判での)証言は、時間がたっていないときなので…今は記憶がないですけど、間違いないと思います」
(検)「調書完了時に訂正しなかったのは何政ですか」
「何故かはっきり記憶にないです」ウーン。この手の検分調書を法廷に出していいのか?二十年前であるが故に証人の記憶は当然に曖昧になっている…それを曖昧なまま固定して…調書の信憑性はどうなるのだ?二十年もたって裁判を再会することの無理と不当に…限りなく不安を覚える。
 三人目の数藤証人は現役・大成の証人としてすでに登場している。が、今年の四月から「刑事部国際捜査課」に勤務だそうだ。
 証人は、当時強行犯というのをやっていて三菱・大成・間と三件の見分に参加しているが説明によると「刑事課の中で爆弾は強行犯に属する」ためなのだそうだ。現場に到着して「爆弾は上の階という説明と立会人はこの人という説明だけで」彼らはビルの地下三階・四階の検分を担当した。検分エリアには(爆発による損傷は)「なかったと思います」ということで、なんか愛想のない受け答え。裁判長は、早く終わろうと焦っていたらしく、休憩もとらないで三人の調べを進めたのだが、ついに数藤証人への弁護人質問に代理(?)で答える!
弁「ピータイルというのは?」
証「ビニール様のタイル」
裁「この床材ですよ」(と前の床を指さす)ごくろうさま!
 ということで今日の調べは終わる。次回は引き続き六階現場の検証デカ等の証人調べです。
 浴田裁判の今後の方向。小局的には、間闘争は三部隊の同時作戦ということで「共謀」をデッチ上げられていますが、三つのBの比較検証と作戦の客観的な相互関係性から「共謀」の粉砕の方向を、さらに、間闘争の被害の人半は九階の火災によるものですがこれまでの調べの中で出火延焼の原因は明らかにされていません。当時の新聞は同ビルが「新建材を大量に使用した“軽録ビル”という特殊な建物」であったことに火事の根拠を言及しています。こうした点についても「種」捜しとして追求していきます。
 進行のぺースとして、今後、間・大宮に関るデカ・鑑定人調べを行ったあと、オリエンタルメタル、韓産研の検分・鑑定人調べを続けて行きます。だいたい二〜三人づつ進んでたぶん今年度末頃には今の調子の「シコシコの種捜し」が終了することになるでしょう。その後、取調ベデカだの検事だの何だのカンだの(検)側立証のための証人が出てきて“熾烈な攻防”を続けることになります。そしてようやく初夏頃には将司君、利明君の登場。続いて(被告)弁護側反証活動へと入っていくことになります。
 弁護団・救援・被告人は、今、将司君達の証人調べ及びその後の反対立証に向けて準備を開始しています。彼らの証人調べに向けてはあくまで「公開の公平な裁判」を要求・実現していきます。さらに、反対立証については、第一次統一公判において、その拙速・強権裁判のゆえに十分にはたしえなかった闘争の歴史的根拠と正義性を明らかにし、第一次統一公判同志達への不当な重刑攻撃を粉砕しうる立証をしてゆきたいと考えています。もちろん「超法規」「爆取違憲」はその前提です。二十年の後にチャラにした話を持ち出すことの責任はしっかりととってもらわなければなりません。はりきっています。
 どうぞ知恵と力と、圧倒的な支援を寄せてください。
 秋、この国の軍事化、弱者切り捨てと人民支配の強化はますます深化しています。しかし抗する人民の怒りもまた、確実に大きな力になりつつあります。獄中から、可能な闘いをもって共に進みます。秋を、豊かなものにしましょう。
共に!再見!

ゆき子

第三十四回公判出廷記

浴田由紀子

 今日の出廷は、明日の吉村同志公判での証人出廷に向けた前哨戦。頭は完全に「明日」に飛んでたかもしれない。
 証人は六階検分者と採集証拠の選別者・缶体(六・九階)の鑑定人の三人。いよいよ間本社ビル証人もつめに入ってきた。
 始めに缶体の鑑定人高生某。彼は三菱・三井・大成と一連の爆破闘争に関与していて我々の公判にも二回ばかり出廷している。顔見知りというわけだ。
 彼らは、爆破闘争の三カ月近くあと、被告人達が逮捕されてから鑑定依頼を受け、被告人起訴後に鑑定結果を提出している。こういう“事実”につきあたると「あまりに被逮捕が早すぎて、彼らの活躍の機会を奪ってしまったのではないか」という気分(?)になってしまう。クソッタレ、だが、なぜにこんなに遅く鑑定依頼を受けたのか、当然彼は知らない。彼らは鑑定依頼書と共に六階の場所三つのアタッシュケースを、九階の場合明治の粉ミルク缶を与えられてその異同の鑑定を求められた。同じ日に他のチームは同じ検体での鑑定を依頼されている。それとの関係も、何故いきなりアタッシュケースや粉ミルク缶なのかについては「わかりません!」そうして彼らは六階検体の中からアタッシュケースの破片以外にも五・六×一五・七×一九・六位の缶体の存在に気付くのだが、それは何のために、何故そこにあったのか、爆弾とどういう関係があったのかについては「鑑定依頼にないので」何一つ追求しないままに、「こういうのがありました」という報告に停めた。六階起訴状は爆弾の大きさを三・六リットルであったと規定している。が、その根拠が何であるのか、「そのような容器の鑑定」についても科研の彼らは「そういう鑑定はしていない」!少なくとも現在(検)提出の証拠の中に起訴状にいう「三・六リットルの爆弾の根拠」は存在しないことになる。覚えておこう!
 続いて、各検分現場から袋に入れて赤坂署に持ち込んだ「残渣物」の選別・六階の物についてのみ二度目の選別作業を担当した熊上某。
 間爆破後の捜査検分過程は、これまでの爆破闘争時と違った方法がとられた。これまで検分担当者は、現場において証拠資料の領置収集にあたって検分報告をまとめていたが、今回は、現物では大ざっぱに目に付いたもののみを収集領置してその他のものはズタ袋に詰めて赤坂署に持ち込み(この袋を任意提出させている)赤坂署で他の係官が選別発見したものを各検分担当者の報告に「戻す」という方法をとっている。正確には発見場所も発見者も「報告書の通りではない」ということが明確なのだ。何故このような危険な(袋の移動過程で挿入したり、抜き取ったり出来なかったと誰も言えない!正確に現場が保全されていたわけではないということなのだ!)方法をとったのか?手続きそのものが問題になる仕方(証拠能力を持たない可能性がある)ので検事自らしつこく聞いていた。しかし「押収の手続きに間違いがなければいいのではないか…という事で上司から…」という以上の答えはない。彼自身、作業の流れを示す(つもりの)写真を数枚とって報告書に添付しているが、その写真に作業の「公平」と「安全」を示す説得力はない。一連の作業を指揮した「上司」の証言を待ちたいと思うのだが、疑問はつきない。六階の残渣物について、一回目の選別後もとっておいて二週間後に「証拠品担当責任者からアタッシュケースらしいということでもう一回やれと…」、「それに見合うものがあるかどうか、自分たちでアタッシュを見て、こういうものがあるんだな、ということで…」と言うのだが、先の証人の六階缶体としてはアタッシュの異同のみを鑑定し、同時に存在していた缶体については爆弾との関係で「鑑定をしていない」発言と共に、「アタッシュは何だったのだ?デカ達にとって?」という疑問を持ってしまうのは、オカシイダローカ?
 最後の証人川上某は、六階現場の検分責任者。爆破当夜、理場に急行し状況観察・三点の「証拠品」の収集にあたっている。彼の調書には検分補助者名が正確にに記載されていないのだが(決まりでは書くことになっている)「二十数名の補助者がいましたが」、「本部の応援を含めて結成し、…ローテーションもあって…補助者の補助というような者もいたので…」書いていないというのだ。こんなことで六日間にわたる検分のあいだ、ちゃんと現場の保全は行われていたのだろうか。目の届かないところで誰かが何かを出し人れしてもわからないのじゃあないかと不安になってくる。六回残渣の保全・再選別を命じたのも彼自身なのだが…彼の収集した証拠品の中には現場検証も選別作業も終了した四月十七日になって「現場で、検分捜査が発見した」一覧表に記された任意提出も領置書も存在しない「証拠」がある。弁護人の質問に彼の答えは曖昧で、鑑定に出した科研で…どうのこうのというものだ(理解できなかった)。
 今日の公判でわかったのは、「証拠」がどのように「持ち込まれたのか」、「発見されたのか」検事の危惧は正しいのかも知れないということだ。続く法廷で再度確認していく必要がありそうだ。
 次回公判から裁判長が替わることになったそうです。それにともなって次回は「更新意見陳述」というのをやります。ガンバラナクッチャです。
 空を飛んだり、海を超えたり、忙しいなかを傍聴に来てくれた中間達がいて、とても元気づけられました。ありがとう!公判はまる二年です。シコシコですがこれからますますおもしろくなってゆきます。いっぱいの知恵と力をかしてください。。元気に楽しく進めます。共に!
寒くなります。みんなお体ご自愛ください。
                        再見!

ゆき子

◎10月29日吉村公判出廷報告

 ついにその日が来た。数日前から私は、アレも言うたろ、コレも言うたろと、丸岡公判の総括をいかすつもりで、ワクワク・ドキドキ・ホッケーーというのを極力排して「中味の準備」に余念がなかった。だというのに!証言はもうひとつうまくいかなかった。思っていたことの半分も言えなかったような気がする。一人の人間のことを、人に伝えるというのは限りなくむづかしいねエ。
 ようやく会えた吉村同志は、手紙でさかんに「太りました」と言ってたから期待していたのに、たいして太ってなくって…ちょっと顔色が白くなってしまって、はりがないのは拘禁生活による運動不足のせいか?公判のための寝不足のせいか?というくらいで、何も変わっていなかった。あの、ちっちゃな目の、控え目な微笑みと、すぐ泣いて、……そのくせガッツをやって励ましてくれて……「いつものよっちゃん」やった!!
 証言が始まった私は、チョーきばって固まってしまって…弁護人のトコトンやりずらそうな顔に、ようやく目覚めて修正に入ったが…。あせる。裁判官は三人とも表情ひとつ変えないタイプの人々でミノハラみたいなタイプの裁判長。『弁』の質問が終わって吉村同志の質問になったとき、私がいっしょうけんめい答えているのに、「そういうことは、二人で手紙ででもやってください」とか言い出す。ナンヤネン!弁護人と吉村さんが抗議!「検事がアンタラ、テロリストや、とか言うてる。不当にもそれを口実に手配もされてて反論するのアタリマエ」という主旨の意見を吉村さんも言ってくれて、簡潔に継続することになった!「テロリストというのは、米国のイラク空爆や:日本軍の三光作戦のようなみたいなのを……。私たちのような、抑圧と支配への抵抗闘争のことを言うのではありません」いちおう団結して「反論」を貫徹!
 続く検事の尋問(この(検)は浴田裁判と同じ奴)ネチッコイいつもの調子で聞いてくる。「子供に最後にあったのはいつか?」、「その時、吉村さんは一緒だったか?」
 「さあ、どうだったろう」覚えていないので隣の吉村同志に「どうだったっけ?」彼女も「さあ?」というので…。
 「吉村さん達がペルーに行ってから直接手紙か電話で報告をしてきましたか?」
 さあ、これも正確には覚えていない。「ねえ、どうだったっけ?」、「いやあ」誰も覚えていない。「そういうことはなかったように思います」。
 (検)の本件とは全く関係のない「子供の父親」に関する質問は裁判長が「記録から抹消」することを決定。
 という調子で、あっという間に証人尋問は終わってしまった。いやあもっと言いたい。と思ったけど…。傍聴の仲間達は、私の尋問が始まるまで近くに座って励ましてくれて…。私は、吉村同志励ましに行くつもりで出かけたのに、逆に「しっかりやりや」といつものように励まされてしまって。ちょっとだらしなかったけど「同志、いつまでも共に!」
                        思いは確認しあえた!

(浴田〉

論告求刑公判報告   十一月十日

吉村和江

 十一月五日(水)検事から、二年六カ月の懲役の求刑がありました。
 弁護側が要求した証拠能力の証明は一切行なわずに、無邪気なまでの独断と偏見に充ちた求刑でした。
 例えば、情状において「ペルー共和国において不法な組織活動を継続するため」とか、「要人誘拐」とか、「その背後に国際的な旅券偽造等を行なう組織が介在する計画的かつ組織的な犯行と認められ」とか、「身を潜めて外国の地で生活していた被告人が何の組織的支援もなしに、それらの偽造旅券を入手することは到底不可能である」とか、いかなる証拠にも基づかぬ非難まで出されたわけです。弁護側は、「証拠に基づいていない」として異議申し立てを行ないましたら、検事曰く「証拠はないが論理的に言える」。
 確かに、ペルーでT(浴田の息子)を育てていた訳ですが、そうせざるを得なくさせたのは誰だったか、思いおこしてほしいものです。私をハーグ事件関連でICPO手配したのも、「証拠はないが、論理的に言える」レベルの問題で、しかしながら、立件までは出来ないということなのでしょうか?
 もともと、今の日本の法廷には私はおろか、日本赤軍を裁く資格はありません。帝国主義法廷は帝国主義社会であるが故に過ちを犯した人々や革命を志す人々を裁く資格などないからです。加えて、事実や証拠に基づかないで、または、私の場合のように証拠とも言えないものを出してきて、「論理的に言える」とするような非科学的、偏見で断罪するやり方は明治的遺物でしかありません。
 こうした論告求刑に対し、十九日(水)に、弁護側は最終弁論、最終陳述を行なうことになっています。被逮捕という事にも関心を持っておくべきかも知れない。
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 十一月十九日、十三時 東京地裁にて
吉村和江さん公判(結審)は次号で報告させていただきます!


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