益永利明さんの獄中雑記

支援連ニュース No.166

 『 支援連ニュース』164号の将司の文を読みました。全体的に論点がズ
レている感じですが、これは、議論を続ける中で埋められるものでしょう。
 (1)まず、「利明君は武闘は対人攻撃と同義にとらえているようですが、狼
時代の彼は対人攻撃をめざしていたわけではないはずです」云々に、首をか
しげました。未完におわったけれど狼の虹作戦は対人攻撃そのものではなか
ったのか?虹作戦が挫折したあと狼で検討された、三菱商事社長に対する攻
撃は対人攻撃そのものではなかったか?また、対帝人作戦等で動くときに我
々が携帯していた改造けん銃やナイフ等は、必要とあれば(やむをえずとは
いえ)対人攻撃も辞さない「ゲリラ戦」のありようを端的に示すものではな
かったのか?将司の主張は、その前提自体に誤りがあります。三菱重工爆破
において狼のメンバーが人の殺傷を意図しなかったのは事実だけれども、私
自身を含め狼のメンバーが、狼の武装闘争から対人攻撃の可能性・必要性を
一切排除していたという事実はないのです(腹腹時計一号にも「新旧帝国主
義者の処刑」という文言があったと思う)。
 (2)将司が現在支持できる武闘は人ではなく物への攻撃だけなのだろうか?
「闘いの発展段階」を云々していることから見ると、彼の考えでは、今の情
況が変われば対人攻撃もまた正当ということになるようですが、物を攻撃対
象にしても、時として、巻き添えの犠牲者が出てしまうのは我々が十分に経
験ずみのことではないでしょうか。意図したものでなければ、人が死んでも
傷ついてもいいのだということでしょうか。そもそも、意図的に人を攻撃し
ても正当とされるような「段階」とは、具体的に、どのような情況になった
場合をいうのでしようか。日本の社会状況を、そのような(殺人が正当とさ
れるような)「段階」へと「発展」させるのが対物攻撃の目的に含まれるの
であれば、結局、対物攻撃に限定される武闘も、本質的に、対人攻撃を含む
武闘と変わりがないのではないでしょうか。これらの疑問に、彼はどう答え
るのでしょうか。
 (3)日本が「擬制の民主主義」であるというのは、民主主義を装った独裁と
いうことかな?もちろん私も、日本の民主主義が完全であるとは思っていま
せん。在日朝鮮人や中国人も選挙権が認められるべきだと思う(私自身、死
刑囚の選挙権を認めるよう、訴訟を起こしています)。しかし、日本の民主
主義が不完全であるということと、独裁とは違うと思う。ましてや、在日朝
鮮・中国人が選挙権がないことが、武闘の正当化理由になるはずがありませ
ん。完全な民主主義というものがありうるとしても、それは一挙に実現する
ものではなく、不完全なものを一歩一歩改善していくことでのみ実現するの
であり、その改善の手段は、暴力ではなく言論(広義。デモやストライキな
どの非暴力的な直接行動も言論に含めます)によるべきです。なぜなら、民
主主義は、問題の解決を暴力(あるいは物理的強制力)に頼る度合が大きい
ほど不完全となり、理想から遠ざかってしまうからです。我々は、真に民主
主義を求めるなら、暴力に頼る心と決別しなければならない。自分の主張が
通る間は“民主主義者”で、自分の主張が通らないときは暴力でそれを押し
通すというのでは、民主主義が泣くでしょう。自分に都合のいいときだけの
民主主義―――それこそ擬制の民主主義にほかならないのです。
 (4)「ヒロヒトの延命と引き換えにし、以後五〇年以上にわたって沖縄人民
に米軍の侵略基地を強い続けている事実だけでも武闘の道義性の根拠になる」
云々は、こんなに簡単に言いきれることなのだろうか?沖縄の人たちの苦し
みは一日も早く取り除かれ、償われなければなりませんが、そういう沖縄問
題の存在がなぜ「武闘の道義性の根拠」になるのでしょうか。右の引用文で
将司がいう「武闘」なるものが、具体的にどのような行為であるのか不明だ
けれど、いずれにしても、私には、沖縄問題を根拠にした武闘に道義性・正
当性があるとは思えません。
 日々抑圧に苦しむ人たちが、武闘という暴力に共感をもつことはあるでしょ
う。しかしそれは、殺人事件の被害者遺族が犯人の死刑を喜ぶ心情とかわり
がないと思う。犯罪者が死刑になっても犯罪の問題が解決するわけではない
し、その「みせしめ」効果で一時的に凶悪犯罪が減ることがあるとしても、
それは真の問題解決につながるものではありません。民主主義を前進させ、
すべての者の人権を確立するような方向での問題解決に役立たない点では、
死刑も武闘も同じものなのです(ただし、民主主義の名に値する政治的自由
(言論の自由や普通選挙権)が初めから存在せず、非暴力的な民主化運動が
全く不可能であるような専制支配の情況を打ち破るための武闘は例外です)。
 (5)新宿のホームレスの人たちが強制排除されたことが、武闘の根拠になる
というのですが?将司にとって許せないと思うことがらは、何でも武闘の根
拠になるわけだね。私は、ホームレスの人たちに対する東京都の対応は誤り
であり、不当だと思うけれど、それを正す手段として武闘が正当化されると
は思いません。理由は、沖縄問題の場合と同じであり、違法であり民主主義
に反する武闘は、問題の真の解決に役立たないからです(それどころが、ホ
ームレスの人たちを苦境におとしいれることになるでしょう)。
[中略]
 最後に、「利明君の発想は一国主義的」云々もおかしな批判だと思う。い
わゆる南北間題の存在を私が否定したことがあるでしょうか。第三世界(そ
の定義や範囲はここでは論じません)に対する日本の政府や企業の行動、そ
して日本人一人一人のあり方を変えるべきだという私の信念は、昔(武闘を
していた時)も今も変わりがない。しかし、その解決のために武闘という手
段を用いること―――恐怖によって人の考えや行動を変えようとすること―
――は誤りであり、少しも問題の解決に役立たないばかりか、逆に(意図に
反して)問題の解決を一層困難にする。それはまさに、死刑制度が凶悪犯罪
の抑止力になるよりも、かえって人心を荒廃させて凶悪犯罪を増やすことに
なるのと同じです。〔中略〕
 たしかに、武闘否定の立場を明確にして以降、私は「日帝本国人批判」的
発言を積極的にしていません。しかし私は、日本人の、あるいは“先進国”
のエゴイズムを肯認する考えに転向したわけではありません。あえていうな
ら、私は、被抑圧者=被害者の高みに自分をのりうつらせて他の日本人を裁
き、暴力行使の権利を主張する「反日(武闘)思想」や、それに類する思想
に、つくづくいや気がさしたということなのです。(反日武闘思想は自己否
定の思想であって他の日本人を裁くものではないとの反論があるかもしれま
せんが、自己否定の実践とされる武闘は他の日本人に向けて発動されるので
すから、自己否定ではなく他者否定の思想にほかならないのです。)
〔中略〕
 武闘の是非について議論を深めたいために、次の点について将司の考えを
知りたいので、可能なら答えてほしいと思います。
 @将司は日本の政治体制(議会制民主主義)と経済体制(私有財産制を基
礎とする市場経済制度)それ自体を全否定するのか?そうだとすれば、将司
の考える、あるべき政治・経済の体制とは、具体的にどのようなものである
のか?
 A全否定ではなく、現在の政治・経済の体制の根幹は維持し、部分の変更
のみが必要と考えているのなら、そのあるべき変更の内容を説明してほしい。
もうひとつ聞いておきたいのは将司の法意識あるいは法律観です。
 @人間が社会をつくり維持していくためには、その社会を構成する全員が
従うべきルール、すなわち法が必要不可欠であると思うのですが、この点に
ついてどう考えますか。
 A社会には法が必要であるとした場合、次に問題になるのは、いったい何
が法であり、何が法でないかを、だれが、どうやって決めるのかということ
でしょう。規模の小さな社会では構成員が直接それを決めることができるけ
れども、規模の大きな社会(国家)では、構成員の中から一定数の代表を選
んで、間接的に法の支配を実現する方法をとらざるをえない。その代表を選
ぶことについて、各構成員に平等の権利(言論の自由と普通選挙権)を保障
するのが民主主義です。そして、法の支配を実現する方法として、今のとこ
ろ、これ以上に合理的で公正なやり方を人類は発見していない。そうであれ
ば、この民主主義の原理に従って定められた法律が、仮に、ある構成員の価
値観や正義感に反する場合があるとしても、民主主義の手続(議会による法
改正や裁判所による違憲審査等)によって無効化されるまで、その法律は全
構成員を拘束するのであり、構成員は、自分の価値観や正義感に反する法律
であってもそれに従うべき法的・道義的義務があると思うのですが、この点
について将司はどう考えますか。もし仮に将司が、民主主義の原理に従って
定められた法律であっても、自分はそれに拘束されないのだと考えているの
であれば、その理由・根拠を説明してほしいのです。(後略)

            [「ごましお通信」第31号より抜粋編集]


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