益永利明さんの獄中雑記

支援連ニュース No.176


▲ 先月のカンパ(三万円)は支援連からだと聞きました。どうもあり
がとう。(支援連ニュースの収支報告を見て、大丈夫かなと心配になっ
たけれど…)
▲ 支援連ニュース174号八頁の私の文の上段一行目「かな合わな
い」は「かみ合わない」の誤植ですね。訂正します。
▲ 同号で丸岡さんが「反日武闘=拾て石」説をとる将司の思想的立場
を「アナーキズム」と位置づけていますが、はたしてそうだろうか?
 確かに形の上で両者は似通ったところもあるけれど、将司の場合、革
命後の新しい社会のしくみや権力のあり方はどうあるべきかという、思
想的、理論的な問題(以下「この問題」という)に、無関心なだけであ
るように思えます。
 実際、彼と法政大学で出会い、一九七五年に逮捕されるまでの六年間
に、私はこの問題で彼と議論したことが一度もないし、この問題につい
て彼の考えを耳にしたことも一度もなかったのです。私が彼から聞くこ
とができたのは、なぜいま我々は武闘をやらなければならないかという
道義的根拠に関することだけでした。私自身も当時はそれだけで十分に
闘えたのです。しかし、逮捕後、闘いの根拠や正当性を問い直すなかで、
私はこの問題を避けて通ることができなくなった。そして、私なりにこ
の問題を研究し、考え続けた結果、反日武闘思想は誤りだったと認めざ
るをえなくなった。それほどこの問題は、反日武闘の総括に欠くことの
できない重大な問題であるはずなのです。ところが、今回の一連の議論
を見ると、この問題に対する将司の無関心は、二○年後の今も全然変わ
っていないように思えるのです。(この問題を具体的に研究する上で不
可欠な、経済学、哲学、法学等を、二○年間に彼が学んだ形跡はありま
せん)
 私にとって、これは驚くべきことです。二○年といえば、物を考える
には十分な年月でしょう。武闘の現場にいたときの我々は、次々に起き
る問題に対処するのに忙しくて、革命後の社会の姿まで考える余裕がな
かったといえないこともない。しかし、逮捕後の二○年間(正確には、
この五月で二二年間)については、そのような言い訳は通じません。彼
が反日武闘思想を堅持する立場をいまも変えていないとしても、その思
想の中味や根拠は、二○年前にはなかった広がりや深まりがあってよい
はずなのです。だが、残念なことに、私にはそれが見えてきません。彼
が武闘を肯定・支持する根拠として挙げたことがらは、思想的、理論的
に考え抜いたものではなく、その場の思いつきを並べたもののようにし
か感じられないのです。革命後の社会の姿については、彼も執筆に参加
した『反日革命宣言』の中で、原始共産制への復帰が語られています。
しかしこれは、理論の体裁を整えるために太田竜の理論を借りてきただ
けのものであって、将司が本気でそれ(原始共産制への復帰)をめざし
てきたとは思えないのです。
▼ 私は今、武闘で勝てるのかどうかという政治的、技術的な問題より
も、そもそも人間の幸福とは何なのかという哲学的問題のほうに関心が
あって、最近はもっぱらそういう方面の本を読んでいます。幸福という
のは誰でも判っているようで、実はとらえどころのないものです。革命
や社会改良はすべで人間の幸福を目的にしたものだと思うけれど、その
目的とされる「人間の幸福」というのが実は自明のものではないし、さ
らにいえば、幸福になることが本当の目的(人生の価値)なのかという
問いさえも可能なのです。反日武闘思想は、この問いに対する答えをも
っているのでしょうか?
▼ 以前、『キタコブシ』で将司は、死刑確定者は死について語るべき
ではない、という意味のことを書いていましたね。私は、彼とは逆に、
死刑確定者こそは死を語るべきだと思っています。その理由を判っても
らうために、例えば、R・A・ムーディ著『かいまみた死後の世界』(
評論社 一三○○円)を、どなたか彼に差入れしてあげて下さい。これ
を読めば、彼も、人間が死に直面することの意味について、全く新しい
観点をもつことができるのではないかと思うのです。
                         97・3・12記


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