獄中処遇の国際基準化を

一九九八年一月十九日 吉村和江

 皆さん、お元気ですか? 今年の寒さは、昨年を上まわるものがありますが、獄中者の皆さんは、寒さをはねのけて、がんばっておられることと思います。
 予期せぬ執行猶予から一月。東拘生活十五カ月で弱った足腰のリハビリに励みつつ、職を捜す毎日ですが、我が国の獄中処遇の非近代性への怒りは、一向に衰えません。何しろ明治時代の監獄法が時々の手直しで、しかも、獄中者の身体を張った闘争がなかったら、プラス方向への手直しすらなかったまま、これからの二一世紀へ向かおうというのです。明治時代の発想とは、「民は、お上の言うがままにあれば良し」という事ができるでしょう。
 人間は平等であり、人として犯すべからざる権利を持っている、その権利は誰かが与えてくれるものではなく、自らが闘いとるものであるという人類の経験が、我が国の監獄法には全く反映されていないように見えます。
 自らの経験は実に狭く、短いものでしたが、東拘では、非人間的扱い、精神的・肉体的拷問としか言いようのない処遇の連続でした。私は未決でしたけれど、「推定無罪の原則」は適用されず、時間・色彩・音・声・個人の嗜好を奪われ、プライバシーは全く尊重されませんでした。所長面接を要求し、外国の例をひくなどして、処遇改善を求めましたが、その回答たるや、まさしく明治的。日本の形式民主主義は形骸化しているとも言われていますように、獄中では、民主主義の「み」の字もありません。
これは、東拘の所長個人の資質や人格の問題ではないと思われます。法務省、ひいては行政権力自体が、「法治」をふりかざして、国家に盾つく者、過ちを犯した者へのみせしめを何よりも重視しているからです。人間と社会の相関関係を正すことに無関心というか、人間が変わる存在であることに恐れを抱いているとも思われます。人間らしく扱われたら、子供が誰にでもなつくように、一度過ちを犯したとしても、それを共に正して行こうとする姿勢があれば、人間は進んで二度と過ちを犯すまいとするのではないでしょうか?
 どんなに我が国の政府が「人権大国」とか「文化大国」とかを標榜したとしても、実体は、昨年来の「領置品総領規制」に端的に見られるように、人を人とも思わぬコントロール、管理強化が本音なのです。国連人権宣言を批准した我が国の獄中で、獄中者が「モノ」として扱われているとは、国際社会で誰が想像できるでしょう? 私達自身が、小さな力ではあっても、力を出し合って、一つ一つ変えて行く歩みの中に、獄中処遇の国際基準化があると思います。
 「檻のこちら側にいるかどうかの相違はあっても、人間としては同じ。過ちを犯したのなら、直せば良い」と言った看守が二名いました。明治的世界そのものの東拘の中にも、そうした人間的な発想をする看守もいるのだという発見に、私は驚くと同時に、大変勇気づけられたものです。
 人として生きて行く道で、これまで多くの人々と出会いました。これからも出会うことでしょう。期待もしていない時に差しのべられた手のぬくもりは、忘れられません。非人間的処遇におしつぶされないで、それがまちがいであって、正さねばならないということを訴え続けて行きましょう。


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