支援連ニュース No.214


   復活? ちょっと間借り   

2000.04.27 丸岡 修

 これから、まあ20年は続くことになるでしょう。Y同志がハガキに「10年後に(釈放されて)会えるから」と甘いことを書いていたが、今の日本の状況が続く限りありえない。身上調査書には、「事件」を認めよと実質的にはしている項(無実と書いた)と政治団体に所属か否かを問う項があった(自民党も政治団体だが、やはり書かせるのかな)。私は絵を踏まなかった。病舎にいれば累進級も準3級まで(仮釈放対象は2級以上)。つまり政権が代わり、法務省の姿勢も変わった時、初めて私が塀の外に出られる状況になる。それからの話。10年以内にそういう変化がないとは言えないが、希望的観測を私はしない。大体、日本共産党にも嫌われているし(笑)。
……(途中略)……
 4/24(月)、午前領置調べ、午後中止。この日に“断髪式”。中1の時と20代の時にしたのみ。20代の時は、髪が抜け出して、剃ると髪が強くなる説を信じ…。2/18(金)からはやした髭も落とす。2カ月の命やったか。顔見知りの職員たちにかわかわれる。看護婦や散髪の受刑者からは同情され、本格的ムショ暮らしの開始。婦長が自らの頭頂部を叩きながら「頭からカゼをひかないようにね」。「元々ないからダイジョーブ」と私。ヒゲがないのは淋しいなあ。一部の女性面会者を除けば評判良かったのに(若い看守らも含めて)。はやし始めた理由は、(1)ニュースステーションの久米宏がヒゲはやして叩かれたこと、へそまがりの私は私も生やそう、(2)レバノンの同志たちが皆はやしているから、(3)釈放されたら生やすと10年前に決めたが、どうも今をのがすと生やす機会がなさそうやから。
 東拘では、管理規則の範囲でなら現場の看守は皆親切である。刑務所ではこうはいかんやろ。ここでも受刑者の悲哀はある。未決の時自由だった夜なべが禁止。一時執行ということで就寝(21時)前に貸与ボールペン取り上げ。忍の字。恨みは日本革命のエネルギーの源にして、ここでは新環境に順応せんとあかん。これがストレスをためないコツ。3等兵以下の扱いになるけど軍隊生活は実は好きなんや。でも、獄外、未決被告人、受刑者の違いは、月、すっぽん、ゴキブリの違い。未決が動物扱いなら、受刑者は物扱い。東拘はまだましやが、刑務所でも私は何とかやるでしょう。96年の重体時の区長補佐(キャリア組看守長)は、某刑務所に居たそうで、「丸岡君なら刑務所に行くことになっても大丈夫」と言うてたし。
 体調はOK。上告棄却の日から意気軒昂。寝不足で微熱(37.2〜37.5℃)が続くようになったけど。4/12日は37.7℃になって医者には「もう微熱ではありません」と言われた(笑)。婦長はんが夕方来て「(看護婦が)皆心配しているので様子を見に来ました。体こわしたら元も子もないですからね」。ペース落とす。4/13は普通の微熱に。4/17、医者曰く「微熱が続くのはどこか内臓に問題があるかもしれない。あなたが自分で必要と思えば、いつでも言って。検査の準備はするから」。4/18、さすがに疲れてきた。「20日執行だとやばいなあ。いや死んだら元も子もない」と7時間も寝る。4/25、37.2℃、でも良好。
 3/30の新聞(一部で報道なし)、TVのニュースで私の上告棄却を知った人たちから、電報と面会申し込みがその夜から来始め、毎日、電報、速達便、普通便とごっつういっぱい励ましのお便りもろうた。20日以降もあるみたいやけど、受け取れたのは19日昼配達の分のみ。それ以降のは「出所時」やそうな…。走り書きでも返事書けた人は半分にも満たず。皆さんに礼状書けないのが悔しい。便りはせずに心で応援してくれている人たちも含めて、深い感謝の意を表しときます。
(4/27家族あて手紙より抜粋)


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