支援連ニュースNO.216

丸岡修さんからの便り

……… 移監先が決まったので、また再開お願いします。購読料はほとんど払っておらず、不等価交換でとても申し訳なく。そしていつも有り難く。皆さん、大きに!
 パンフの閲読量制限があるので、複数部数送る時は同じサイズのものやビラは1つに綴じてお願いします。尚、今までの日誌に、私に送ったはずの図書・パンフなどの名がなければ、それは当局が私に通知せずに差し押さえている時(「好ましくない人物」などという勝手な中傷による。ペンネームや住所不明も不許可の因になる)。尚、告知が私にあっても、不許可になることもあり。
………6月12日、夕めし直後16時、警備隊員2人が来て「やあ、久しぶり。いよいよだね。これから領置調べをするから、荷物をまとめてください」。病舎2階の空き診療室がずっと私の荷物の整理場になっていたけど、そこに領置課の主任も待機。1時間余り。カバン1、ダンボール箱1、ショッピングバック2。リストつける間、警備隊員2人ヒマだから、彼らに「実録!刑務所のなか」を見せて、私の文章を教える。「あっ、これこれ聞いている」と2人。終わった頃、区の主任(係長)と「移送言い渡し」の主任(も顔見知り)も来る。「いよいよだなあ」と皆。言い渡しの儀式に。「気をつけ!礼!」と号令かかる。移監先が「宮城刑務所」明朝移動と告げられる。「礼!」と声かかり、主任も他の4人の職員も敬礼。私もつられて思わず敬礼しかかる(正規軍の訓練も受けたことあって…)。「あっ、違った」と普通の礼を返す。
 「どうだ、予想がはずれただろう」と主任。確かに、宮城とは。某氏らが服役しているから宮城はないと思っていた。「丸岡だったら、ここでのようにやっていたら(そう、模範囚なのだ)仮釈放は遠くはないはずだから、頑張るように」。「いや、公安事犯だから無理でしょう。骨を埋める覚悟をしている」と私。「公安事犯でも大丈夫と思う。時代も変わってきているから」と一同になぐさめられる(笑)。他は雑談。「刑務所はここ(東拘)みたいに優しくないから、とにかく我慢して頑張ってくれ」とさんざんおどかされる(笑)。「朝4時に僕が迎えに行きますから」と警備隊員の1人。18時過ぎ房に戻る。当直の2人の看守に「どこになった?」と聞かれる。宮城刑は、「空気もきれいし、静か。千葉刑は国道の近くでホコリっぽい」とのこと。未明出発なので顔を合わせない医療スタッフらや看病夫(病舎担当雑役囚)や担当部長らへの礼の伝言と、3時に起こしてと頼む。「起つ鳥跡を濁さず」として、房の掃除、便器も磨いておく。雑誌の読みおさめ、22時に寝る。
 6月13日(火)3時起床。布団、毛布を折り目正しくベッドの上にたたむ。用便も済まし、薬も片づけ、雑誌を読みながら待機。4時過ぎ2人が迎えに来て「入所調べ所」へ。囚人服から私服に着替え。皮靴を12年ぶりにはく。足の幅が広くなっていて痛いが、ジーパンと合って気持ちがいい。見送り(というより確認)に来た区の主任ら東拘看守たちに別れのあいさつ。4時半頃、宮城刑の看守と看護士(全員私服)らと引き合わされる。引渡し儀式。手錠、腰縄をつけられ、専用の車(11人乗りの大型ボックスカー。警告灯、サイレンつき)。運転手、看護士含めて5人。背広の下に防弾チョッキがちらり。考え過ぎとちゃうか(笑)。出発。数百m東拘の車が先導。高速入り口で無線連絡「………(略)……」。首都高速から東北自動車道に入って一直線。東京から福島あたりまで雨の中。仙台の高速出て無線連絡。9時頃、刑務所着。…………
〈7月初めの家族あて手紙より抜粋。丸岡さんの日誌は「夢と希望つうしん」に全文載ります〉


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