『反日思想を考える』より

「東アジア反日武装戦線」闘いの軌跡

年表中の敬称は略しました


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1970年

「……ぼくは法大全共闘の一員として一九七〇年安保を闘い、敗北し、それで法政を中退しました。二年で中退した理由はいくつもありますが、一つはけじめをつけるためです。……それから、別の理由ですが、武装闘争の必要性、しかもぼく自身が本腰を入れてやるという決意を固めたからです。六九年、七〇年の闘いが機動隊の圧倒的な力の前に屈したという経験を踏まえ、そして、武装闘争によってこそ真の国際連帯を形成できるのだという確信からです。それまでも頭の中では武装闘争の必要性を理解していましたし、一発的な武装闘争にはおよび腰的に(あるいは助っ人的に)関わっていました。でも、腰を据えて、ぼく自身がやっていくことを決意したということです。それで、同じく法政を中退した同志たちとともに、武装闘争を射程に入れた実践的な研究会を設定しました。そして、この研究会の半年間を経て、反日思想の骨格を形成し、実際に武装闘争に入っていききした。」(大道寺将司「明けの星を見上げて」)

1971年

 11月11日 “狼”前身部隊は、興亜観音像と殉国七士の碑(静岡県熱海市伊豆山)を同時爆破。
「興亜観音像を建てたのは、日帝反革命軍の中国侵略戦争において、南京市攻略を指揮した陸軍大将松井石根である。この第一級の帝国主義者である松井石根は、南京大虐殺を悔み、オノレが奉ずる『大アジア主義』の思想にのっとって、日本と中国との融和一体化を祈るために、興亜観音像を建てたとホザイているが、奴の本意は、天皇一族朝香宮指揮下の日帝反革命軍に虐殺された中国人民の反日の怨念を鎮め、南京大虐殺の反革命犯罪を清算し、日帝反革命軍の侵略戦争の成功をこそ祈るという、徹頭徹尾、反革命的なものであった。殉国七士の碑は、一九六八年、第一級の帝国主義者である吉田茂のきごうによって、A級戦犯を慰霊するものとして建てられた。明らかに、旧日帝の侵略反革命イデオロギーを復権・肯定・美化し、日帝の新たな植民地主義侵略のイデオロギー的支柱たらしめることにあった。」(東アジア反目武装戦線KF部隊[準]著「反目革命宣言』)

1972年

 4月6日 “狼”前身部隊は、曹洞宗大本山総持寺常照殿(納骨堂)を爆破。
「……一九一〇年以降日帝の朝鮮植民地支配の期間中に死んだ無名日本人植民者・侵略者の遺骨五〇〇〇柱の合祀台が、一九六五年『韓日条約』締結後、韓国ソウル近郊に建てられた。これに対して朝鮮人民は、合祀台の建設の計画段階から……建設阻止の反日闘争に決起し、完成後も碑面や台座を破壊したり、ガソリンをかけて焼き打ちしたり、抗議声明を発表する等して合祀台を攻撃した。この根強い朝鮮人民の反日闘争の拡大を恐れた日帝は、遺骨五〇〇〇柱を引き取ると発表し、一九七一年九月、日帝本国にもちかえり、総持寺常照殿(納骨堂)に安置した。……日本人植民者の慰霊観音像を建立しようという帝国主義者どもの意図は明らかである。朝鮮に対する日帝の侵略・植民地支配を正当化し、日本人植民者・侵略者の反革命犯罪を免罪し、死後のことは国家にまかせて、国家のために安心して侵略・植民地支配に励めとハッパをかけるものである。」(「反日革命宣言」)
 10月23日 “狼”前身部隊、札幌市北海道大学文学部北方文化研究施設と旭川市常盤公園内「風雪の群像」を同時爆破。
「……北方文化研究施設は、アイヌモシリ侵略のイデオロギー生産とアイヌ文化遺産収奪の拠点としての役割を果たしてきた。『風雪の群像』は、日帝−道庁−日本人植民者によるアイヌモシリ征服戦の完了、日本へのアイヌの同化吸収の完成を、手前ミソに記念する反革命的モニュメントである。……これら前史の戦いは、……いわば政治宣伝を主目的とした象徴主義的武闘の域を出てはいなかった。しかし、これらの各戦闘を通して、…主体形成を行なっていたという意味で、不可避の過程であった。すなわち、これら前史の一連の闘争という実践を通して、“子狼”は“青年狼”へと思想的にも技術的にも成長し、以下に述べる虹作戦、そしてダイヤモンド作戦とそれ以降の戦いを保障していったのである。前史の闘いは“狼”部隊の主体形成として、反日思想を主体的に検討しつつ、本格的反日都市ゲリラ戦のための技術的前提を準備していった……」(「反目革命宣言」)。

1973年

 夏 天皇暗殺計画の検討をはじめる。
「一九七三年夏以降、私たちは天皇暗殺計画を検討しはじめました。私たちは、『殺ろうと努力した』というような、見せかけだけには反対でしたから(たとえば、皇居の石垣を爆破するとか、『死刑執行!!』などと何百回も叫びながら皇居に突入するとか等々)確実に殺る方法を検討し、金城鉄壁な皇居から天皇ヒロヒトが外に出てきたところを狙うことにしたのです。天皇ヒロヒトが外出するのはきわめて少ないのですが、それでも探してみると、国会の開会式(日時は未定)、毎年八月十五日、日本武道館で開催される『敗戦記念日、戦没者慰霊式典』等には出席するし、また例年、葉山や那須に静養に出かけているのです。それらの一つ一つを具体的に詳細に検討し、私たちは天皇ヒロヒトが那須の静養先から『御召』列車で帰京する時に、その『御召』列車を爆破転覆させて処刑するという『卸召』列車爆破作戦計画を立てました。」(「虹作戦・アジア人民の歴史的な憎悪と怨念は……」『反日革命宣言』)

1974年

 3月1日 “狼”、『腹腹時計』(兵士読本)VOL・1を発行
「われわれは、アイヌ人民……、沖縄人民、台湾人民の反日帝闘争に呼応し彼らの闘いと合流すべく、反日帝の武装闘争を執ように闘う“狼”である。」(「腹腹時計』VOL・1より)
 8月14日 天皇列車爆破(ヒロヒト暗殺)計画、作戦準備中に中止。
「……私たちは東京と埼玉の間にある荒川鉄橋に爆弾を仕掛け、一九七四年八月十四日午前一〇時五八分〜午前一一時〇二分の間に通過する『御召』列車を爆破しようと考えたのです。……様子が変なのです。得体の知れない男達が最低三〜四人分散して私たちの方を注目しているのです。……私たちは散開し、その正体不明の男達を逆に取り囲み正体をひっぺがして何者であるか見極めようとしました。……敵の方がさらに散開し……注視しています。……すでに私たちが例えウルトラマンでも作業を完遂するのは絶望的に無理な時間です。」(「反目革命宣言」)
 30日 “狼”三菱重工を爆破、死者八名。
「付近のビル街の窓がこなごなに吹っとび、一帯は白煙がたちこめ、……通行人や昼休み中のサラリーマンなど六人が死に、百十九人が重軽傷を負う大惨事となった。……」(「朝日新聞」8・30夕刊)
「一九七四年八月三〇日三菱爆破=ダイヤモンド作戦を決行したのは、東アジア反日武装戦線“狼”である。三菱は、旧植民地主義時代から現在に至るまで、一貫して日帝中枢として機能し、商売の仮面の陰で死肉をくらう日帝の大黒柱である。今回のダイヤモンド作戦は、三菱をボスとする日帝の侵略企業・植民者に対する攻撃である。“狼”の爆弾に依り、爆死し、あるいは負傷した人間は、『同じ労働者』でも『無関係の一般市民』でもない。彼らは、日帝中枢に寄生し、植民地主義に参画し、植民地人民の血で肥え太る植民者である。“狼”は、日帝中枢地区を間断なき戦場と化す。戦死を恐れぬ日帝の寄生虫以外は速やかに同地区より撤退せよ。“狼”は、日帝本国内、及び世界の反日帝闘争に起ち上がっている人民に依拠し、日帝の政治・経済の中枢部を徐々に侵食し、破壊する。また『新大東亜共栄圏』に向かって再び策動する帝国主義者=植民地主義者を処刑する。最後に三菱をボスとする日帝の侵略企業・植民者に警告する。海外での活動を全て停止せよ。海外資産を整理し、『発展途上国』に於ける資産は全て放棄せよ。この警告に従うことが、これ以上に戦死者を増やさぬ唯一の道である。9月23日東アジア反日武装戦線“狼”情報部」(“狼”通信第一号)
 10月14日 “大地の牙”三井物産を爆破攻撃
「日帝ブルジョア報道新聞に告ぐ。東アジア反日武装戦線に志願し、その一翼を担うわが部隊は本日植民地主義侵略企業三井物産に対し、本社爆破攻撃を決行した。東アジア反日武装戦線“大地の牙”」(声明)
 11月25日 ”狼。帝人中央研究所を爆破攻撃
「一九七四年一一月二五日、東アジア反日武装戦線“狼”は、帝人中央研究所を爆破した。帝人は韓国ウルサンにおける、伊藤忠およびジャパンラインとの共同に依る石油精製基地建設を速やかに中止せよ」(“狼”通信第二号)
 12月10日 “大地の牙”、大成建設本社を爆破。
「東アジア反日武装戦線の一翼を担い、わが“大地の牙”は、本日(十日)大成建設(大倉土木)を筆頭とする旧大倉財閥系企業の本拠地を爆破攻撃した。大倉組は明治維新以来、政商『死の商人』として日本反革命軍と共にあり、台湾・朝鮮・アイヌモシリ・沖縄・中国大陸・東南アジア侵略の尖兵をつとめ、本国下層プロレタリアからの搾取と韓国・インドネシア・アラブ・ブラジルヘの侵略を推進している新旧日本帝国主義の代表的企業であり、大成建設の今日は一九二二年新潟県の信濃電力信濃川水力発電所工事現場で大量虐殺された朝鮮人労働者等、植民地人民の血と屍のうえに築かれている。わが部隊は植民地主義企業、帝国王義者を地上から掃減する戦いの一環として今回の作戦を決行した。一九七四年一二月一〇日東アジア反日武装戦線“大地の牙”情報部」(第二号通信)
 23日 “さそり”鹿島建設PH工場を爆破。
「本日、鹿島爆破=花岡作戦を決行したのは、東アジア反日武装戦線に参画する抗日パルチザン義勇軍“さそり”である。鹿島建設は、植民地人民の生血をすすり死肉をくらい獲得したすべての資産を放棄せよ。一九七四年二一月二一二日」(コミュニケ一号) 「8・30以降開始された警視庁秘密公安部隊を中核とした反ゲリラ作戦は、数億の金と延べ10数万人以上の捜査員を投入して、なりふりかまわぬ強引な非合法・違法捜査をもって、いわば日帝市民社会総体を戒厳令化せんとするものであった。」(「反日革命宣言」)
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1975年

 2月28日 三部隊、間組本社六階(営業本部)、九階(コンピュータ室)、大宮工場を同時爆破。
「わが部隊はキソダニ・テメンゴール作戦の一端を担い、間組本部(六階)に対し爆破攻撃を行なった。」(声明) 「三戦闘部隊は、マラヤ共産党武装勢力の12・9間組攻撃の報に接するや、日帝本国人としてこの戦いに戦闘呼応し、間組のテメンゴール・ダム建設工事を具体的に阻止することの重要性を確認し、ただちに準備活動に入った。」(「腹腹時計」VOL・2)
 4月19日 東京中央区の韓産研と兵庫県尼埼市のオリエンタルメタルを同時爆破。
「韓国産業経済研究所は日帝企業の韓国・台湾・マラヤ侵略に奉仕する活動々停止せよ。オリエンタルメタル製造などによる『韓国工業団地視察団』の派遣を中止せよ。オリエンタルメタル製造は韓国から撤退し、在韓資産を放棄せよ。」
 27日 市川市の間組江戸川作業所爆破。
 5月4日 江戸川区間組江戸川作業所のコンプレッサー爆破。
 19日 「東アジア反日武装戦線」“狼”(大道寺将司、大道寺あや子、片岡利明、佐々木規夫)、“大地の牙”(斉藤和、浴田由紀子)、“さそり”(黒川芳正)とメンバーではない荒井まり子に、韓国産業経済研究所爆破容疑で警視庁公安部による一斉逮捕弾圧(斉藤和服毒自決)。
「……五月十九日は、早朝からひどい雨でした。ぼくはいつものように、八時二〇分すぎに彼女よりも一足先にアパートを出ました。……国電南千住駅近くの喫茶店『モア』の前に来たとき、土砂降りの雨の中を傘もささずにぼくの方に向かって歩いてくる青い背広の男に会いました。……何かピンとくるものがあり……。明らかにデカです。“ヤバイ”と思ってぼくは、常磐線のガード下をくぐり、地下鉄南千住駅の方に向って駆けだしました。……五〇メートルも進まないうちにぼくははさみ撃ちにあう恰好となり、常磐線沿いの土手の下で取り押さえられました」(大道寺将司『明けの星を見上げて』)
 20日 東京地検、斎藤和の遺体を警察病院から東大法医学教室→杏林大学病院へとタライまわし、秘密裏に解剖強行。
 23日 韓産研爆破容疑で宇賀神寿一、桐島聡、全国指名手配。
「U君の実家に……公安刑事が相次いで訪れそのうちの一人は電話機にカセット・テープレコーダーをセットしていった」(「救援」)
 28日 荒井まり子の姉、なほ子死亡。
「『列車事故によって死亡したと思われる女性の死体が発見された……』旨の電話があった。……逮捕後、八人の家族、親族、友人等に対する警察の聞きこみ、その手先となってあらゆる種類の相互矛盾する憶測をふりまいているマスコミの横暴……荒井なほ子さんの死は、自殺ではなく、警察とマスコミによる殺害であると考える。」(「救援」)
 6月2日 警視庁、釧路市F印刷所を『腹腹時計』印刷容疑で家宅捜索。関係者を取調べ。佐々木規夫の拘留理由開示公判で傍聴人一名監置一〇日。
 15日 警視庁、藤沢義美を指名手配。しかし、彼は六月一三日、すでに自死していた。
「私たちのこのような敗北主義は、……“狼”部隊と長い交流のあった藤沢義美君、荒井なほ子さんにも自決を強いてしまいました。」(大道寺将司「支援連ニュース」12号)
 30日 『腹腹時計』印刷所への弾圧を告発する集会(全電通会館)開催(七〇名)。
 7月19日 斉藤和の友人葬。
「五月一九日から二ヶ月たった。あの豪雨の日、斉藤君の若い生は断たれた。残った友人たちは、彼の生と死の意味を生涯考え続けてゆく。」(『「東アジア反目武装戦線」を救援する会通信』準備号1)
 20日 東アジア反日武装戦線に恐怖する権力の大弾圧を粉砕する集会(千駄ヶ谷区民会館)開催。
 8月4日 日本赤軍、クアラルンプールの在マレーシア米大使館、スウェーデン領事館占拠、日本人政治犯八名の釈放を要求。六日佐々木規夫ら五名、超法規的に釈放さる。
 東京拘置所、報道管制下におかれる。
「日本赤軍のクアラルンプール闘争は、どんな言葉よりもはっきりと、逮捕は闘いの終りではないことを事実行為をもって示していました。佐々木同志たちの獄外戦線への復帰がどれほどの感激と勇気を我々に与えてくれたかは言葉に表わすまでもないでしょう。」(「呼び声は獄舎を越えて」荒井まり子著)
 25日 東京地裁裁判長・西川潔、「東アジア反日武装戦線」に対する公判を三分割、月三回の公判期日にすることを明らかにする。
クアラルンプール作戦の「事後捜査」と称して、警視庁が全国六ヶ所を家宅捜索。
 10月26日 獄中同志呼応・「東アジア反日武装戦線」獄中兵士分離公判開始阻止集会。
 30日 分割裁判を獄中闘争で粉砕。
 31日 天皇ヒロヒト爆殺=虹作戦に関して大道寺将司、あや子、片岡利明を再逮捕、東京地検は、虹作戦の事実を四ヶ月間隠蔽・放置していたが九月二〇日、「朝日新聞」で報道されたため、公訴提起に対する訴追官としての責任回避の手段として、選任弁護人である鈴木弁護士が記者に数百万〜一千万で情報を売ったとデマをとばす。
 11月25日 第二回の分割公判を粉砕。
 12月25日 六名統一公判かちとる。

1976年

 3月31日 虹作戦取調べの際、検事が各被告に虚偽の事実を伝え弁護人を中傷したことに対し、国家賠償請求を東京地裁に提訴。
 4月17日 荒井まり子、南三舎(男区)へ。
[東拘はこの時すでに女区の闘いを圧殺するために、南三舎を闘う獄中者の恒常的な隔離房にしよつという策動の一環として、私を隔離したのだと思います。……三日後、私は永井人麿、森義則の男看守二名によって、点検の際に正座しないということをもって、髪をつかんでひきずリまわす、蹴る、投げる、腕をねじりあげる、逆エビ責めにする、顔、体を足でふみつける等の暴行を約三十分間にわたって受けました。……その後約半年にわたって、江口さん、前林さんと大道寺あや子同志、浴田由紀子同志と私の五人の南三舎における団結した闘いが開始されたのです。」(「呼び声は獄舎を越えて」荒井まり子著)
 26日 弁護団、荒井に暴行を加えた看守二名を特別公務員暴行陵虐・同致傷で告訴。
 7月22日 裁判長が西川潔から蓑原茂広に交代。
 30日 虹作戦国家賠償請求第一回口頭弁論
 10月21日 蓑原、被告人への看守の暴行に抗議した内田稚敏弁護士に一〇日、傍聴人一名に五日の監置処分。
 26日〜27日 大道寺将司、大道寺あや子、浴田、黒川、荒片に一二〜五日の監置処分。
 11月1日 「天皇在位50年式典」に対する抗議のハンスト闘争に突入(〜一〇日まで)。
「ヒロヒトの天皇在位五〇年とは、未だに乾くことのない血塗られた歴史そのものである……天皇ヒロヒトの公然たる復活は、天皇を頂点とした反革命治安体制の確立、つまり天皇制ファシズムの再登場をも意味している……反日ゲリラ兵士は、天皇ヒロヒトを五〇年間も生き長らえさせてきたことを恥じなければならない」(大道寺将司「『記念行事』爆砕にむけて)
 11日、17日 六被告、監置処分への抗議のため出廷拒否。
 15日 内田稚敏弁護士に村する制裁裁判を弾劾する会主催による抗議集会開かれる。
 12月3日 蓑原、七七年一月一四日以降、毎週金曜日を公判期日として指定(一二月は三・一〇・一六・二四日と四回の公判を強行)。

1977年

 1月14日 蓑原の月四回公判指定に弁護人、被告団、抗議の出廷拒否、蓑原、公判強行。
 20日弁護団五名全員が抗議の辞任。
「庄司宏弁護士ら弁護入五名全員が二〇日@蓑原裁判長が指定した月四回の公判ぺースでは、十分な弁護ができないA欠席裁判を強行するような訴訟指揮には納得できないことなどを理由に弁護人を辞任……」(「朝日新聞」1・21朝刊)
 2月14日 自殺房に拘禁中の黒川、持病の本格的な喘息の発作に襲われる。
 24日 蓑原、被告人全員に国選弁護人をつけることを決定。
 6月22日 東京弁護士全二委(法廷委・国選弁護人運営委)が決議「月四回指定は明らかに弁護権の侵害である。」
 7月18日 蓑原月四回指定を放棄、弁護団復帰。
 8月12日 二年三ヶ月の長期にわたる六人の接見禁止解除。
 29日 七ヶ月ぶりに公判再開。
 9月28日 日本赤軍、日航機をハイジャック、ダッカ空港着陸。日本国内の獄中者六名(浴田、大道寺あや子を含む)と六〇〇万ドルを日本政府に要求。
「一〇月一日未明の同志たちの旅立ちの日の感激を、私は一生忘れることはできないでしょう。看守の妨害によって、別れの朝同志たちの顔さえみることができなかったけれど、『反日の闘いを堅持しよう!』『じゃあ先にいくわね』の短い言葉を残して、ヒタヒタとサンダルの音が南三舎の廊下の隅に消えるのを、私はドキドキしながら耳をすまして聞いていました。」(「呼び声は獄舎を越えて」荒井まり子著)
 10月2日 ダッカ空港において、日本赤軍と奪還された六名が合流。
 12日 警視庁公安部、9・26日航機ハイジャック事件の捜査と称し、全国一八ヶ所を家宅捜索(一四日も八ヶ所を捜索)。
 11月26日 ICPO、クアラルンプール闘争で奪還された佐々木規夫ら五人を国際手配。
 12月23日 女性でただひとり東拘南三舎に隔離されている荒井に看守暴行。
 26日 警視庁公安部、9・26日航機ハイジャックの実行者として、佐々木規夫ら四人をハイジャック防止法一条(強奪)と監禁罪で全国指名手配。

1978年

 5月10日 七七年一二月二二日の東拘看守による荒井まり子への暴行に対し、全国各地の拘置所からの獄中共同告発の告発状を東京地検へ提出。
 7月27日 蓑原、黒川方正の喘息悪化に対する弁護人と本人の発言を無視。
「七五年七月の『移監』以来、三年以上にわたり東拘当局は、黒川芳正君に対して自殺房拘禁を強制し続けている。窓が鉄板とプラスチックによって新鮮な空気、通風、太陽を完全に奪い、房内はそのため一年中ほこりっぽく、かつ、しめっぽい。黒川君はこのような状態の中で、去年二月の喘息発作にひきつづき、七八年六月一日から再び発作を誘発させた。……激しい喘息発作は一日もやむことなく運日連夜、彼を襲った。……七月一八日まで昼夜を問わず続き、この間房内で意識を失い転倒する(6・9)、連日の発作で重積発作状態に陥り歩行できず会話できない(7・7)、そしてついに気管支閉塞、窒息死寸則(7・13)という最悪の状態にまで悪化した。」(『氾濫』19号)

1979年

 3月19日 三月に入って黒川の喘息が急速に悪化し、連日数時間から八時間もの発作に苦しめられ、十五日からはじまった重積発作は三二時間ぶっとおしというひどさであった。公判当日、東拘で自殺房において、午前O時から重積発作が続き、出廷時間である八時になっても発作は収まらず、九時四〇分、警備隊が重病の黒川を房内から暴力的に出そうとした。このため黒川は発作が再び悪化呼吸困難におちいる。
 5月14日 蓑原、弁護側の申請した証人八○名のうち三名しか採用せず。
 黒川の喘息悪化(一二日から四〇時間にわたる重積発作)し、一時間以上おくれて出廷。
 31日 山谷で「東アジア反日武装戦線」救援のステハリで四人逮捕。
 8月20日 大道寺将司、片岡利明に死刑、黒川芳正に無期、荒井まり子に懲役一〇年を求刑。
 10月1日〜3日弁護団・被告団による最終弁論意見陳述。
 3日 山谷労働者A氏へのデッチ上げ「爆取」容疑で「東アジア反日武装戦線を救援する会」事務所など全国二七ヶ所にガサ。
 20日 『反日革命宣言――東アジア反日武装戦線の戦闘史』(KF部隊〔準〕著)刊行。
 27日 東アジア反日武装戦線兵士への死刑重刑攻撃粉砕――反弾圧集会開かれる。
 29日 蓑原、判決日を二週間後と通告。
 11月12日 一審判決公判、大道寺、片岡に殺人・爆取一条で死刑、黒川に殺人未遂・爆取一条で無期、荒井に爆取一条ほう助(精神的無形的ほう助)で八年の判決。
「同地裁の厳重警備が始まったのは判決五日前の今月七日から。丸の内署と機動隊七十人が同地裁周辺をぐるりと固めた。入る人の身分チェック、通行車両の検問など開港当時の成田空港なみの厳戒ぶりになった。また、同公判の蓑原裁判長ら三人の判事には、テロを警戒して、VIPなみの二十四時間警護。……同地裁はこの日、他のすべての刑事裁判を休みにするなどピリピリ。地裁に入るすべての人に職務質間、身分証明書の提示を求めるなどきびしいチェックを実施していた。」(「東新京聞」11・12夕刊)
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1980年

 2月13日 片岡利明、東拘処遇改悪に抗議し鈴木国男虐殺(七六・二・一六)糾弾闘争とも呼応した一〇日間のハンスト。
 3月18日荒井まり子、男区南三合四年間隔離を粉砕し、女医への奪還をかちとる。
「三月一九日朝、転房の際に切抜用に赤ペンで印をつけておいた新聞と、まだ読んでない新聞を勝手に廃棄したというので、抗議し、大切な公判資料なので返してもらいたいと要求していたら……女区長、女医主任ら……によって有無をいわさず暴力的に保安房へぶちこまれた。」(『 呼び声は獄舎を越えて』荒井まり子著)
 23日 七七・九・二八のダッカ・ハイジャック闘争に対し、国は丸岡修、西川純、坂東国男、往々木規夫の四氏に対し一六億一八五〇万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起す(時効三年を中断させるため)
 30日 控訴趣意書を東京高裁に提出。
 10月3日〜4日 10・2弾圧(九月二九日山谷での暴力飯場―半タコ部屋、山村組追放の労働争議、大衆団交に対する権力―資本の一体となった報復弾圧。六名逮捕四名起訴)に乗じて、東アジア反日武装戦線を救援する会の事務所個人宅など計一一ヶ所にガサ入れ。公安部総務課の荒井勝美、三森貫一、谷井和夫、高見賢夫ら5・19以来の専従班。
 12月13日 「大逆罪復活、企業の海外信路を許すな!東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃に抗議する討論集会」(東京都勤労福祉会館)に六〇名余。このころ、「東アジア反日武装戦線」諸氏への死刑重刑攻撃に抗議するキリスト者の会が署名運動を展開。

1981年

 3月21日「「東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃粉砕、控訴審をたたかう支援連絡会議」(略称・支援連)結成。これまでの「救援する会」に、反弾圧の運動、死刑制度廃止運動などに関わるさまざまな団体、個人が合流。
 4月30日 『支援連ニュース』創刊。
 5月7日 支援の連続討論集会@野本三吉
 8日 控訴審第一回公判。東京高裁刑事五部、裁判長は内藤丈夫。厳戒体制がしかれ、傍聴人の所持品検査、「裁判公開の原則」をふみにじる私服の介入(傍聴席を専有しようとする目論み)などさまざなな妨害。傍聴しようとする私服十数人全員を撃退、圧倒的な傍聴体制をかちとる。法廷内でも四人の前後左右に一二人の看守がはりつき、おたがいの交通、弁護人との交通ままならず。明らかに秘密交通権の浸害。再三の抗議にもかかわらず内藤は一切これを無視。
 公判は、弁護人の控訴趣意書朗読(前半)。主に、三菱重工本社爆破における殺意の不存在を論じる。
 29日 控訴審第二回公判。弁護人、原判決が「被告人」の動機の正当性をひたすら隠蔽し、すべてを手段の問題としてかたづけていることを指摘(控訴趣意書朗読)。
6月4日 連続討論集会Aテーマは「三菱爆破闘争の総括をめぐって」。獄中から大道号将司が「攻撃すべきでない通行人多数を殺傷した三菱重工爆破攻撃の作戦計画の誤りと戦術的失敗は明白である」として「私はすべての死傷者に対して、深く自己批判します。」との書簡。
 5日 控訴審第三回公判。控訴趣意書朗読終了。
――この頃、荒井まり子、「聴覚障害」のKさんとの面会のため『わたしたちの手話』という本の差し入れを依頼したところ東拘はこれを閲読不許可とする。「この弾圧をバネにして、差別を許さない闘いを、より多くの仲間たちと共に闘いぬいていきたいと思っている。獄中獄外の仲間たち共に闘いましょう。」(「救援」一四八号)とアピール。
 7月3日 控訴審第四回公判。情状証人として片岡の旧友鈴木英一、荒井・黒川の母。
 24日 連続討論集会B樋口篤三。
 8月28日 控訴審第六回、山岡強一証人出廷。
 9月12日 連続討論集会CG・マコーマック。
 10月17日 連続討論集会D田川建三。
 11月20日 控訴審第一〇回 大道寺被告人質問に続き、アメリカよりかけつけた片岡の妹、フローレンス和代証言。
「高校生のころから教会の内部改革をめざし運動を始め、教会ベ平連で活動していました。……兄は幼いころから、優しい正義感の強い人でした。……たとえ一生刑務所にいても兄に生き続けてほしいと思っています。」
 12月12日 連続討論集会E加藤晴康・松沢哲成。
 25日 控訴審筆一一回 片岡・荒井被告人質問。冒頭、鈴木弁護人の要求と共にAさんがKさんに手話、裁判長が規制、Aさん、Kさんを含め一〇名が暴力的に退廷させられる。

1982年

 1月23日 連続討論集会F山田塊也
 3月7日 「60年代からの解放闘争の中でそれはどんな光を放ったのか――東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃阻止!3・7反弾圧集会」(四谷公会堂)に四三〇名結集。
「仲間たち!3・7集会は成功した。四三〇名もの人々が集まったのだ。そのうちの多くははじめて出会った若い仲間たちだ。敵―権力、マスコミのデマキャンぺーンやいやがらせによる分断策動をこえ、ささやかな意見の違いや思惑をこえて、死刑重刑をうち砕くためにこんなにも多くの人々が一堂に会したのだ。」(「支援運ニュース」11号)
 6月25日 大逆罪攻撃粉砕・〈反日〉を考えるキリスト者の集会(日本キリスト教会館)
 7月2日 控訴審第一六回最終弁論一回。
 9日 控訴審第一七回最終弁論終了。結審。
 12日 宇賀神寿一、板橋区内の路上で無念の逮捕。四ヶ所にガサ弾圧。
「私は七月一二日に、ふがいなくも逮捕されてしまいました。まさに、自己の怠まんさの故のことであると厳しく反省しています。しかし、私は『疲れた中年』でも『逃走』に疲れ果てた不様な爆弾魔でも決してありません。この七年間は、私にとって敵が言うような“忍従”と“苦痛”の歳月ではありませんでした。それはジュール・ベルヌの『地底旅行』のような素晴しく、楽しく、そして常に新鮮な日々であったのが真実です。ほんとうのところ『逃走』ほど面白いことはないのです。ただ、運悪く『地底』から出たところが警察の中だったということであったと云うわけです。」(10・28判決前夜集会への宇賀神寿一アピール)
 7月13日 警視庁公安部、A氏を爆取罰則九条(犯人蔵匿)違反の容疑でデッチあげ逮捕。A氏完全黙秘で8・3釈放をかちとる。
 25日 判決前全国キャラバン、那覇から開始。
 8月2日 宇賀神寿一、黙秘のまま起訴される(結局、三回逮捕をくり返した後九月二二日東拘へ移監)。
 21日 仙台判決前集会(労働福祉会館)に二一〇名。
 9月4日 群衆集会(東京動労福祉会館)に二六〇名。
 5日 ハラハラ大集会一大阪、三和会館)に四〇〇名。
 12日 名古屋集会(エレクトリックレディランド)。台風一八号の中を八○名。
 10月16日 京都集会(部落解放センター)。
 29日 控訴棄却判決。
 前夜集会に続き、当日水谷橋公園から東京高裁までデモ。高裁脇での抗議中に一名不当逮捕。東京南部地区集配局で小包爆弾爆発。労働者二名負傷。
「謀略である場合はいうまでもなく、未知の同志が起こした誤爆であっても批判しなくてはなりません。特に未知の同志が起こした誤爆である場合は、私たちの三菱重工爆破の誤りと失敗の教訓を何ら生かしていないことを、厳しく批判したいと思います。」(大道号将司「支援連ニュース」17号)
 11月11日 宇賀神寿一公判第一回。弁護側、検察の「公訴事実」について、全面的に争うと意見陳述。宇賀神、六九日間におよぶ不当な「取調べ」の実能をバクロ、糾弾。傍聴席の仲間たちに熱いアピール。

1983年

 1月24日 宇賀神公判第二回。警察官四人に対する証人尋間、傍聴人に対する金属探知器を用いての身体検査。
 2月12日 連続講座開始。粉川哲夫「イタリアの熱い日々――アウトノミアの運動と私達」
 3月25日 連続講座2 小柳伸顕。
 4月23日 連続講座3 栗原幸夫。
 29日 天皇がなんか気になる日、大阪集会(太融寺)に二〇〇余名。
 5月25日 宇賀神公判第七回 黒川と感動の再開(証人として出廷)。
 6月5日 「時間はあるけど、時間がない」集会(代々木八幡区民会館)二一〇名。救援運動諸団体を招いて横断的結合を企図。
 19日 メディアの牢獄から解放のアウトノミアヘ(法政大学ホール)。
 25日 連続講座4 中村丈夫。
この頃、支援連は最高裁宛の意見書運動を開始。
 7月12日 宇賀神の接見禁止、一年ぶりに解除。
 10月1日 映画『鉛の時代』上映と池田浩士講演(千代田公会堂)。
 2日 土浦シンポジウム「いま反文明・反日を考える」(土浦市中央公民館)。
 15日 反日を考える集い(仙台労働福祉会館)。イレーヌ。アイアンクラウド講演。
 20日 中川孝志の「私文書偽造」の容疑で支援連事務所にガサ。
 23日 反日アンデパンダン展(和光大)
「総てのミュージシャンたちに、この最良の人々に村する最大重量の弾圧に反撃しうる質を持った音楽を創り出すメディアとして、アンデパンダン形式のコンサートヘの参加を呼びかけたいと思う。(誘い)」
「これまでも現在も、帝国主義は私たちの住む近くで、また遠いところで、殺された被抑圧人民の死体の上に自らを築いてきた。……アメリカは中奥アメリカから出ていけ!イギリスは北アイルランドから出ていけ!帝国主義と闘おう!!」(フレッド・フリス、トム・コラのアピール)
 10月29日 露を劈く集会シンポジウム「国際主義とは何か」(菅孝行、白川真澄、山崎カヲル)午前中デモ。
 11月26日 名古屋、「控訴棄却一年!東アジア反日武装戦線への死刑・重刑阻止」集会。

1984年

 2月20日 『明けの星を見上げて』(大道寺将司著)刊行。
 2月末 死刑重刑攻撃阻止のための一万人署名運動開始。
 4日 大阪虹の会集会(六〇名)。
 6月2日 連続講座5 小倉利丸。
 9月10日 東京地検、宇賀神に無期求刑。
 10月10日 FREE TOKYO 5集会(東京勤労福祉会館)
「私が命を賭けての戦場で知り合った我が友、片岡利明さんたちのために、日本人民の一人として共に闘うことを誓い、死刑制度を覆すために、共闘の輪をより大きく、より強固なものにすべく頑張ります。」(花柳幻舟アピール)
 25日 宇賀神公判 最終意見陳述。
 11月17日 恨から汎へ仙台集会。
 23日 連続講座6 粉川哲夫。
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1985年

 3月13日 宇賀神寿一判決公判。
 5月19日 「東アジア反日武装戦線一斉逮捕から10年許すな!死刑・重刑攻撃5・19反弾圧集金」(パレスチナの日本赤軍・大道寺あや子らからアピール届く)
「肌寒く、不透明な雨でおおわれていた東京のあの日から十年。あの日、斉藤和同志は、敵との一切の妥協を拒否して自決しました。そして、私たちの敗北主義への埋没の日々の中で、人民・革命事業への裏切り行為(自白)の日々の中で、荒井なほ子同志、藤沢義美同志、船本州治同志と、私たちはかけがえのない同志たちを失なってしまいました。彼らの“義”と“志”の真の意味を受けとめ、そしてそれを発展させていくことが、生き残った私たちの責務だという思いを新たにしています。(後略)」(「支援連ニュース」45号)
 7月7日 「死刑をなくせ」群馬集会。
 9月28日 「死刑・重刑反対集会」(京都)。
 29日 「反日を考える」討論集会(東京)。
    「死刑を考えるる集い」(坂戸)
 10月12日 「死刑制度よさようなら」麦の会集会。
 26日 東拘抗議行動(以降、月一回)「東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃粉砕!対最高裁行動実行委員会」結成集会。
 12月8日〜15日 嶋崎法相による三名の死刑執行に対する抗議のハンスト(麦の会)。
 8日 大阪・虹の会、デモ。
 14日 対最高裁デモ。

1986年

 2月8日 「東アジア反日武装戦線について語ろう!2・8集会」(東京)。
 9日 対最高裁デモ。
    新聞差入れ不許可に対する獄中共同訴訟開始。
 4月6日 全国同時集会行動。
     「いまこそ虹作戦について語ろう!4・6集会」(東京)
     「4・6行動IN仙台」(仙台)。
 12日 名古屋集会。
 5月14日 最高裁、口頭弁論期日(七月一一日)を打診――弁護団、受け入れられないと、抗議。
 20日 東拘、死刑囚二名を処刑(木村繁治・徳永励一)。
    最高裁、口頭弁論を一一月七日に決定。
 6月28日 対最高裁デモ。
7月13日 宇賀神重刑攻撃阻止集会(東京)。
 14日 宇賀神控訴審開始。
    黒川方正を獄中監督として、映画『母たち』制作開始。
 9月8日 死刑廃止・口頭弁論阻止集会。
 14日「反日やじ馬大博覧会」(大阪)。
「千人集会“反日ヤジ馬大博覧会”と銘打って、9月14日12時半(開場11時半)大阪中之島中央公会堂(定員一六三六名、地下鉄御堂筋線「淀屋橋」下車三分)でひらかれる―東アジア反日武装戦線への最高裁なんかづく大道寺・益永両氏への―「戦後はじめての政治犯死刑確定」を許さぬとする集会が、何よりもまず「千人を集める」という話題性で、いま各方面の注目・関心をあびている。」(「支援連ニュース」59号)
 21日 死刑廃止集会(日本キリスト教団社会委員会)。
 10月12日 「うみの会」集会(福岡)。
 18日 獄中、弁護団との交渉などにより一一月七日の弁論、二月三日に延期。
    京都集会、仙台集会。。
 25日 口頭弁論阻止集会。
    ハンスト共同行動。
 10月25日〜11月6日 リレーハンストに一〇八名参加。
    最高裁、木村修治の口頭弁論を一二月一一日に指定。
    最高裁、秋山芳光の口頭弁論を一一月二八日に指定。
 11月7日 対最高裁デモ。
    秋山・木村、口頭弁論の延期をかちとる。
 30日 「北部の集い」(東京・荒川)。

1987年

 1月 熊本集会。
 18日 横浜集会。
 21日 東京・練馬集会。
 23日 大道寺・黒川、弁護団解任。
    大阪集会。
 24日 東京・杉並集会。
 25日 東京・山谷集会。
 2月1日 「署名者会議」集会(東京)、『アルジェの戦い』上映、講演小田実ら。
    宮城実行委総決起集会。
 2日 口頭弁論阻止総決起集会。
 3日 最高裁、口頭弁論を強行。
    大道寺、舟木弁護士を選任。
    黒川の弁護士解任を無効決定、弁論なしで判決へ。
    口頭弁論阻止=対最高裁行動・デモ。
    全国各地から三〇〇名以上が結集。
 3月11日 最高裁、判決を三月二四日に指定。
 19日 木村修治口頭弁論。
 21日 「早期判決をふきとばそう!人ひとヒト緊急集会・デモ」
    集会入場検問に抗議した二名、不当逮捕。
 23日 判決前夜決起集会に八O名(東京)。
    Tシャツ訴訟提訴(福岡・うみの会)。
 24日 最高裁、上告棄却判決。
    判決粉砕=対最高裁行動・デモ。
    最高裁内外を四〇〇名以上が結集し雨の中、抗議行動を展開。不当逮捕二名。
    夜、報告集会に百数十名結集執行阻止署名開始。
    黒川の獄外治療要求署名開始。
 4月4日 東拘集中面会、抗議デモ。
 11日 神奈川の集い(みみずの会)。
    荒井まり子の絵の展示、映画上映、径書房の原田、野本三吉の話他。
 12日 福岡集会(うみの会)
    伊藤ルイ・松下竜一の話他。
 19日 名古屋集会「東アジア反日武装戦線を考えるつどい」(東アジア未来史研究会)。丸山友岐子、親族との交流他。
 21日 刑確定。
 27日 当局は逮捕後、養子縁組による親族および益永利明の妻に対しても接見交通を不許可。
 5月4日 「虹を消すな」集会(東京)。『侵略PART2』上映、森正孝講演他。
 8日 「ヤメロ死刑執行」集会(京都)、太田昌国、森毅の話他。
 15日 家族会が中心になって、「刑の執行停止を求める署名」を法務省に手渡す(四〇七七人分)。
 15日 「死刑確定判決を糾弾し、軌行停止をめざす講演集会」(東京)。
    松下竜一、李恢成の話、映画ほか。
 28日 荒井まり子が栃木刑務所に移監される。
 6月30日 黒川芳正が宮城刑務所に移監(昼夜間独居拘禁、月一回の面会)。
 8月8日 「死刑確定者の処遇について」をテーマに「市民と政府の土曜協議会」開催。
 12日 D.T(妹)、益永英子(妻)が、刑確定後初めて面会。月二回の制限つきで面会許可になったもの。これまでは、大道寺については母、益永については実父母および実妹弟の面会しか認められていなかった。
 9月 映画『母たち』完成、上映運動に入る。
 15日 再審研究会発足。
 22日 法務省と、黒川の医療間題を中心に交渉。
 24日 死刑執行阻止一日行動(対法務省行動実行委)。
 10月4日 仙台「断ち切れ死刑・あしたば集会」
    映画『母たち』、伊藤ルイの話他。
 11月15日 「死刑NO!東京宣言」集会(対法務省行動実行委)。免田栄の講演他。
 27日 荒井まり子出獄。
 12月12日・18日・26日 大規模家宅捜索(丸岡修の旅券法違反容疑を口実に)。
 13日 荒井まり子さんを囲む会。
 18日 みみずの会国賠訴訟提訴(最高裁判決の傍聴妨害国賠)。
 11月〜12月 『母たち』各地で上映(11月19日札幌、11月9日郡山、熊本、12月12日島根、12月20日大阪他)。

1988年

 1月21日 大森勝久控訴審で死刑判決。
 29日 大規模家宅捜索(泉水博の旅券法違反容疑を口実に)。
 2月14日 『母たち』上映GIG(バンド“野良”)。
 3月12日 「在監者の獄中医療について」をテーマに「市民と政府の土曜協議会」開催。
 24日 「ストップ!!死刑重刑」集全(対法務省行動実行委)。
 27日 「いまこそ狼煙を!大集会」(虹の会)。松本均、荒井幹夫の話、パフォーマンスアピール等。
 4月19日 加藤三郎控訴審判決(一審どおり、懲役一八年)。
 5月7日 反日インターアクション(東京)。
 12日 再審講座開始。
 28日 刑確定後一年を迎えての集会(東京)。
 6月30日 黒川芳正さんを支える会集会(東京)。
 7月9日 「彼らを殺すな!神奈川のつどい」(みみずの会)。
 30日 宮城刑務所抗議行動、仙台での街頭情宣(黒川芳正さんを支える会)。
 8月25日 宇賀神控訴審判決(一審どおり懲役一八年)。
 9月1日 再審請求提出。
 3日 「東アジア反日武装戦線の再審は今?」集会。松下竜一の講演、再審についての話他。
 10月2日 「意図せぬ死者たち」湯浅欽史さんを囲む集会(連絡会・京都)。
 5日 「爆弾の色は何色?」“湯浅欽史を囲んで”(にじの会)。
 8日〜10日 京都集会、仙台集会、反日文化祭(東京)。
 11月15日 ドイツ西ベルリンで『母たち』上映会。

1989年

 3月24日 「とめよう死刑考えよう戦争責任」集会。長間正吉講演、在日韓国・朝鮮人在留権についての話他。
   秋山・木村、口頭弁論延期をかちとる。
 7月14日 加藤三郎最高裁判決(上告棄却)。
   D.Tが参院選に立候補し「死刑廃止」を訴える。
 10月14日 京都集全(連絡会・京都)。内海愛子講演他。
 28日 「彼らとつながっていくために」集会(東京)。フィリピン情報センター・鈴木講演、死刑囚処遇についての話。
   雑誌『スーパージャンプ』編集部に抗議、謝罪文が掲載される。
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1990年

 2月2日 連続講座T 韓国からの日本企業撤退と労働者の闘い。講師斉蔭諭(日韓労働者ネットワーク)。
 10日 「死刑廃止条約の批准を訴える集会」。主催「死刑を考える弁護士の会」
 27日 宇賀神最高裁判決(上告棄却)。
「僕が彼の逮捕を知ったのは、長野山中で開かれていた争議団合宿でだった。彼は運動の高揚期に山谷・馬場の寄せ場に入り、目的意識的に下層労働者の流動性を武器にするための調査や実践を担った仲間だ。……『会館が出来れば山谷は変わるよ』と言ってたシャコの言葉を、運動として位置づけていくのが獄外の責任だと思っている。彼が出獄してきたら大利根で祝盃をあげたいと思う。俺もそれまで頑張るから獄中でさらに心身を鍛えて下さい。」(山谷争謝団・南剛「支援連ニュース」100号)
 3月24日 「それぞれの反日」集会。(大阪・虹の会)
 4月16日 再審請求補充書提出。
 5月19日 「『いま反日を考える』東アジア反日武装戦線逮捕から15年目の日に」5・19集会。
 31日 宇賀神岐阜刑務所に移監。
「岐阜刑は山が周囲にあって、田んぼもあってと、自然環境に恵まれているところにあるので、私としては嬉しいね。晩には虫やカエルの鳴き声がケロケロとにぎやかだし、朝は小鳥たちの鳴き声がかしましくなってなんとも楽しいものだよ。夕焼けの山々を眺めることができて、よかった、よかったというところ。岐阜刑は、建物が新築されたばかりだね。その点もよかった。」(「支援連ニュース」100号)
 7月10日 連続講座U マレーシアARE事件を知る集い。講師 佐竹俊之(弁護士)。
 9月2日 「彼らを殺すな死刑反対集会」(神奈川みみずの会)。
 11日 連続講座V フィリピンにおける「ゲリラ討伐」という名の住民虐殺と日本人の問題。講師 石田甚太郎。
 23日〜24日 死刑廃止全国合宿in名吉屋。
 10月18日 連続講座「日本のここがイヤ」。主催大阪虹の会。「なんのこっちゃ大嘗祭」お話、吉田智也。
 12月1日 「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90」。主催、フォーラム実行委員会。



 1997年7月12日 「虹をわたる」コンサートのパンフレットより、1991年以降のものを掲載します。

“東アジア反日武装戦線”獄中支援の流れ死刑廃止運動ほか
1991年1991年
1月 90.5.19集会をもとに『反日思想を考える』刊行(支援連編) 2月24日「寒中死刑大会」(大阪かたつむりの会)
2月18日第1次”狼”再審請求棄却。即時抗告  
3月20日「再審請求棄却緊急」集会(東京) 7月11日死刑廃止国際条約発効記念丸1日行動日
6月29日再審請求特別抗告棄却  
7月9日益永さんらが提訴の「子供面会」訴訟最高裁で勝訴判決 10月3日「執行ゼロを確認」で「法務省交渉」
9月26日荒井さんらが提訴の「新聞切抜差入妨害等」民事訴訟(「検閲」訴訟)控訴審開始   
1992年1992年
3月22日「反日世間噺し」(虹の会) 3月7日第2回死刑廃止フォーラム
6月大道寺さん、益永さん死刑確定以来初めて「支援連ニュース」ほか差入れ可能となる5月19日「2年半執行ゼロを確認」で「法務省交渉」
7月27日益永さんが提訴の「ヌード」訴訟東京地裁で敗訴。即日控訴  24日アムネスティによる死刑執行停止街頭署名集め(東京)
  7月11日「死刑廃止国際条約発効1周年の集い」(東京)
1993年1993年
2月25日益永さんが提訴の「第2次子供面会訴訟」1審勝訴 3月26日法相後藤田正晴死刑執行再開、3名執行
3月17日Tシャツ訴訟の獄中原告(大道寺・益永さん)への東拘出張法廷   27日死刑執行抗議集会
4月3日第2次再審報告集会 7月9日第3回死刑廃止アジアフォーラム
6月18日第2次再審請求堤出
7月29日「むぐんふぁ・二一チェ」訴訟控訴審一部逆転勝訴。益永さんが提訴の「下書き」訴訟控訴審判決敗訴11月26日4名死刑執行(法相三ケ月 章)
  30日益永さん提訴の「投稿」訴訟1審敗訴  
1994年1994年
3月12日「反日縁起語り」(虹の会)3月死刑廃止議員連盟発足
5月「東アジア反日武装戦線」ブックフェア(模索舎)7月10日死刑廃止条約発効3周年記念行動(東京)
6月22日東拘で「殺すな94コンサート」(MASA)  
7月5日「第2次子供面会訴訟」高裁逆転敗訴12月1日2名死刑執行(法相前田勲男)
  12日「検閲」訴訟控訴審棄却判決  
9月14日支援連連続講座「プロローグ」(講師太田昌国)  
10月15日支援連連続講座「戦後教育が隠してきたものはどこにあるのか」(講師北村小夜)  
11月19日支援連連続講座「寄せ場と外国人労働者」(講師池内文平)  
12月10日支援連連続講座「『飽食』に刻印された者にとって真の『越境』は可能か」(講師加々美光行)  

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1995年1995年
1月14日支援連連続講座「戦後文学と戦後責任論」(講師梁石日) 5月26日3名死刑執行(法相前田勲男)
2月25日支援連連続講座「東アジアにおけるインターナショナリズムの歴史」(講師金靜美) 7月15日DON’T KILLコンサート(大阪かたつむりの会)
3月18日支援連連続講座「エピローグ」(講師天野恵一) 12月2日第4回死刑廃止フォーラム
  24日浴田由紀子さんルーマニアから強制送還   21日3名死刑執行(法相宮澤弘)
  26日「現代反日気質考」(虹の会)  
5月20日「狼なんか知らないよ!だれでもンストレーション95」  
7月15日ゆきゆきミーティング1  
8月15日第2次再審請求補充書提出  
9月みみずの会裁判1審敗訴  
10月14日ゆきゆきミーティングPART2、ゆきQ(浴田由紀子さんを救援する会)発足  
1996年1996年
3月15日「親族訴訟』1審敗訴 6月28日伊藤ルイさん死去
  24日「一年に反日」(虹の会) 7月11日3名死刑執行(法相長尾立子)
5月連続講座をもとに『あの狼煙はいま』刊行(支援連編) 12月20日3名死刑執行(法相松浦功)
7月5日Tシャツ訴訟東拘出張尋間  
9月21日「『あの狼煙はいま』出版記念」集会  
10月30日益永さん「国連人権委宛の発信差し止め」訴訟高裁判決勝訴  
11月22日大型ガサ国賠訴訟1審不当判決(原告の主張をほとんど認めない)  
  24日「超ホーキに乗った魔女の裁判物語」  
1997年1997年
3月26日Tシャツ訴訟1審判決(福岡地裁)一部勝訴 8月1日4名死刑執行(法相松浦功)
7月12日「虹をわたる」コンサート  

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