シャコのリハビリ日記(その11)

 塀の中にいた時、人の死というものを感じ取ることができなかった。人の死というものを感じ取るには、塀はあまりにも隔絶するものとして存在していた。
 何人もの死が通り過ぎていった。
 私は、それらをただ眺めていただけだった。ただ眺めていただけだった。死というものが、哀しみに溢れたものであることを再び教えられた。
 この5月10日と5月12日にふたつの別れがあった。
 荒井幹夫さんと大道寺幸子さん。
 反日家族会のなくてはならない存在の二人であった。
 私が二人と初めて会ったのは、東拘の面会室だった。
 反日の家族たち。
 東アジア反日武装戦線のメンバー、ひとりひとりに家族があった。
 メンバーひとりひとりに非国民と指弾され、迫害があったのは、当然としても、その家族たちにも同じような指弾と迫害があった。
 私の家族にしても、父親は長男であるにもかかわらず、自分の父親の葬儀にも呼ばれることがなかった。さぞ無念であったろう。また近所の人に嫌がらせを受けることも数知れず。雪の降った翌朝、家の前に雪を山と積まれたり、犬のクソを置いていかれたり、非国民と罵られたりもしたそうである。
 そうした嵐の中を、反日の家族たちは、ペシャンコにならずに頑張り抜いた。
 私は、そうした反日の家族の経験した嵐を知らない。しかし、今母から毎日のように聞かされている。本当によく耐え抜いたものである。
 そうした指弾と迫害に、私は果たして耐えられるだろうか、と自問するのであった。
 東拘の面会室で会った幹夫さんの印象などについては、『僕の翻身』に載っている。幹夫さんと面会室で会ったのは、そう多くはなかった。高校の先生らしく、オッ、頑張れよ!的な感じを毎回の面会で受けていたように思う。高校の先生と生徒みたいなもんかいな?
 『プチの大通り』は、東拘に居ようが、岐阜刑に移ろうが、必ず送られてきた。幹夫さんと智子さんの編集になる『プチの大通り』は、東アジア反日武装戦線被告の救援に留まることなく、権力の横暴に対する東北原(現)住民の抵抗の拠点のひとつとなっていった。そうした息吹きを獄中に伝えてもらえることは、私にとって大きな支えとなっていった。
 荒井幹夫さん・智子さん夫婦が家族会の核となってくれていたから、東アジア反日武装戦線の救援線は途切れることなく、今日まで続いてこられていると言えるだろう。
 昨年6月14日の出獄歓迎会での再会では、相変わらずお互いの頭を見ながら、どちらがマシだろうか?と張り合っていた。
 由紀ちゃんの公判に上京した時だろうか。池田さんが東京駅まで一緒に行ってあげてくれと言うので、私は幹夫さんと東京駅まで行ったことがあった。東京駅で私たちは夕食を食べた。店を出る時、幹夫さんは、払いを済ませてくれようとしたので、あわてて断ったことがあった。あれが、私たちの最後の晩餐となったと言うわけだ。そして、東北新幹線に乗せて、座ったことを確認してから私は帰路に着いたのだが、今になってみると、その一つ一つのことが何かしら意味あることだったように思えるのである。
 12日の朝、永井迅からメールが送られてきていたので見たところ、幹夫さんが10日に亡くなられたということだった。驚きであった。そして、同日の昼休みに友野さんから電話が入って、幸子さんがなくなられたということを知らされた。えっ!どうしてなんだ!なんか泣けてきてしまった。丁度昼休みだったので、クルマに行き、その中で泣いた。
 その後、友野さんの誘いもあって、こりゃあ行くしかないだあろうと思い、古川へご苦労さんにもクルマで飛んだ。飛んだら、そこには池田さんが居た。すでに、智子さんに「なんで、亡くなっていたことを知らせてくれなかった!」と怒鳴り込んで、いくらか発散したためか、私たちの到着した時にはおとなしく酒を飲んでいた。しかし、飲むわ、飲むわ。翌3時頃まで飲んで、そのまま棺おけに入った幹夫さんの横で寝てしまった。(注:棺おけの中に一緒に入ったというわけではない。誤解のないように。)
 智子さんもしっかりされていた。まりちゃんとりえちゃん姉妹もお母さんを支えて、葬儀の段取りなど含めたいろいろの事をテキパキとこなしていた。双子かと見違えるほど、体格が似ていた。やっぱ体格は、幹夫さん譲りだなと言ったら怒られそう。
 まりちゃんが言っていた。「大往生だった。」と。そういえば、最後に拝んだ幹夫さんの顔もいつもの顔だった。
 しかし、幹夫さんは最後の最後まで私のことを考えてくれたんだなあ、と分った。
 なんと! 幹夫さんの喪服のサイズが私にピッタリだった!(ズボンの股下が、2、3pほど短かったけれど。)それで、形見分けとしていただいてしまった。ジーパンしか持ち合わせのなかった私にとっては救いとなった。
 出棺に平野さんも間に合った。
 斎場で、幹夫さんとほんとの最後のお別れをした。そして、私と平野さんはスグにひばりが丘へと向かった。
 ひばりが丘駅で、ふうさん、スマ子さん、K君、一平、友野さんと落ち合った。7人で足早に幸子さん宅へ向かった。幸子さん宅に近づくにつれて、私の口は良く廻るようになった。まるで漫才師みたいである。緊張すると、昔からこうなのだ。サービス精神が旺盛なのだろうか? 単なるスケベか?
 幸子さん宅には、太田さんが居て、Tさん、京美さん、島谷さんと共に訪れてくる人たちの応対に追われていた。
 玄関脇の4畳ほどの小部屋に幸子さんは、棺に入れられて寝ていた。
 その夜、最後はTさんと島谷さんと私が番をすることとなった。私は、ラッキーにも幸子さんと二人だけの相部屋となった。わずかなビールで酔った私は、横になってすぐに眠りに入ったようだ。しかし、眠りは浅く。いろいろ考えていたみたい。
 夜もふけて、まどろみの中、棺の方から「カチャン!」と音がした。確かに音がした。もしかして、幸子さんが生き返ったのでは? と思った。
 まだ死ぬに死ねないだろう、将司と手を取り合って再会できていないのだから…。
 しかし、幸子さんは幾ら待っても立ち上がってくることはなかった。
 昨年の夏、ひばりが丘へ幸子さんを訪ねて行った時のことを思い出す。入院してから一生懸命にリハビリに努めて、周囲が驚くほどに回復して言った幸子さん。最後に私が病院で見た幸子さんは、ロビーのソファーに座っていたところから、助けを借りずに自ら立ち上がって、車椅子に移ったところだった。どうだい!ってな感じで見せてくれたのかもしれない。オシメを着けられて、寝たきりだったところからよくあそこまで回復したものである。本当に良く頑張ったと思う。そんなこんなを思って、そばで寝ていたら涙がとどめなく流れてきてしまった。
 翌朝、東拘の由紀ちゃんに面会に入ることになり、Tさんと東拘へと向かった。東拘で京美さんと合流した。京美さんは以前、面会できたことがあるので、今回もできるかと考えたがダメであった。
 私は、由紀ちゃんと面会をして、この間のことを話した。
 それにしてもである。反日の親たちが続けて亡くなったことは大きな痛手である。開いてしまったこの大きな穴を残された者が埋めていかなければならないのだろう。残されし者の代表的な人間に私も入っているんだろうなあ、やっぱり。
 死者の思いと生者の思いを重ね合わせて、生きていくか。少しだけ頑張って。しかし、私の力量でできることは大したことなさそうだ。
 ともあれ、幹夫さん! 幸子さん! 思いを重ね合わせて、もう少し頑張りましょう。合掌!

SHACO
inserted by FC2 system