シャコのリハビリ日記(その13)

 八月九日〜一三日まで沖縄へ旅に出た。
 出所したら、必ず行こうと思っていたところだった。沖縄は、僕にとって戦いの始まりの場だったからだ。そのことは、パンフ『僕の翻身』に書いているので、省略しておこう。知りたい人がいれば、パンフおくれ! と送料つけて、支援連宛てについでの時にでも連絡してくれ、スグ送る。なんせ、Nさんのところに眠っていたのが、ドッと送られてきて捌けなくて物置に山と積んである。今は、活字なんか読む人は少なくなっているので、捌けるわけはない。風塵社という某出版社の倉庫よりはマシか?
 一七歳の時、僕は沖縄にいた。まだ、渡航許可証が必要だった時だ。僕は、サトウキビ畑を歩いていた。どこまでも続くサトウキビ畑があった。青い空、青い海があった。そして、ヒッチハイクして通りがかったクルマに乗っけてもらった。
 五一歳の僕は、余り格安ではなかった格安航空券を買って沖縄に飛んでいた。運の悪いことに、と言うか、僕はどうもそういう星の下に生まれているようである。ナント、台風に祟られてしまった。四泊五日、最後の日にようやく晴れてきた。それまでは、ずっと雨と強風ばかりであった。青い空も青い海も、どこかへ行ってしまっていてお留守の沖縄であった。僕は、レンタカーを二日借りて一人で走り廻り、あとの二日はD・Kさんに自家用車に乗せてもらってあちこち案内してもらった。Kさんのクルマは、ブレーキがよく利かなくて停止線をはるかに越えて、いつも止まるのであった。
 沖縄の旅で、僕は何かを見つけられるのではないかと思っていた。自分にとっての何か。結論を言えば、期待していたような何かは見つからなかった。僕は、今、自分がいる場でやるしかないんだな、といったことが再確認できたってことだけだ。
 そして、何人かの人と出会えたってことが良かったか。直接会って話すと言うことは大事なことだ。
 沖縄も、道路沿いにファミレスがあったり、TUTAYAがあったり、コンビニがあったりと関東周辺と変わらなくなっていた。市街地は、どこもかしこも変わらぬ景色。
 しかし、市街地からはなれて海や山の方へ行けば、そこには青い海と青い空があリ、沖縄らしさがまだまだ残っている。市街地にも、夜ともなれば沖縄らしさが残っていることは残っている。昔(三〇年以上前)、那覇の遊郭街で見た店先を通る男達に椅子に座って微笑む女たち。
 沖縄の共同体意識がなくなりつつあるということも聞いた。最近、若い母親とこどもの心中があったそうだ。以前の沖縄ならば、周囲の助け合い、支え合いがあり、そんな結末にはならなかっただろうということだった。沖縄でさえ、そうなりつつある。人と人との関係が切断され、絶望が人々を覆い始めている状況。
 青い海も青い空も見ることがなかった今回の旅は、今僕らが生きているこの状況を反映して、僕に見せつけてくれたのだろうか。僕自身のショーモナイ状況をも含めて。今回は、名護の手前まで行った。辺野古の座り込み闘争を見てみたいと思って、近くまで行ったのだが行き着けなかった。ちょっと残念であった。
 海の近くを走っていると、道路沿いに「海を守れ!」等と書かれた立て看板がたくさん立っていた。沖縄の海は、汚れてきているといってもまだまだきれいだ。Kさんと「浜辺の茶屋」というガイドブックに載っていた店に入って、浜辺を見ながらアイスクリームとハーブティーを飲食して休憩をした。台風の影響で、風強く、降ったり止んだりの雨景色の浜辺は、それを見ている僕にふかーい溜め息を吐かせた。
 あぁ、五万六千円の格安航空券、五日間の休日が……。
 沖縄料理は、たいして食べなかったなぁ。どうも食べることに執着心がなくて。刑務所を出てからというもの、朝食を美味しいと思うことがなくなった。朝食が美味しく思えるようになりたい。さて、沖縄料理として食べたのはソーキそば、豆腐よう、ラフティー、足てびち、てんぷらといったところかな。そばばかり食っていたように思う。那覇など市内の交通事情は、大変なものである。方向指示器を出さずに、車線変更を強引にする奴が多い。出勤と退社時間の込みようは大変だ。狭い島なのに車の多きことよ。
 沖縄にある公共交通機関といったら、バスくらいでしょう。モノレールがあるが一部地域でしか走っていない。あとはタクシー。自分で自由に動きたかったら、レンタカーを借りるのが一番いい。しかし、今回の僕の反省は、事前に走る目的地とコースを考えておかなかったことだ。おかげで、無駄に時間をかけてしまった。まあ、無計画行動人間の僕だから仕様がないか。
 宿泊したところは、九日、一〇日は、糸満の民宿に。一一日は、某食堂に。一二日は、那覇の民宿に。沖縄は、仕事がなくて大変そうである。オジサンたちの自殺が多いそうである。オジサンの一人である僕も他人事ではない。かるーい気持ちでは、オジサンの場合は来られない所のようだ。
 一三日、オジサンは買って来てくれと頼まれたお土産の「ちんすーこー」と「どなん」を持って、那覇空港を飛び立ったのであった。さらば、沖縄。今度来る時は、二、三月頃来ることにしましょう。

=======以上=======

 由紀ちゃん、とうとう確定か。
 僕も確定した時は、あれこれ考えていたが、ムショに行ったら、考えすぎだったかなということが多々あった。まあ、どうにかなるさ。とにかく、何でも見てやろう、何でもやってやろう、という気持ちで毎日毎日を過ごしていってほしい。あと何年あるだろう、ということは余り考えずに僕は一三年を過ごしていった。毎日毎日を一生懸命に生きていって欲しい。そうしたら、いつのまにか釈放の日が明日ということになっていることだろう。そうそう、家族会通信も近く再発行して、外の家族たちの近況もできる限り伝えていくようにしたいと思う。なんだかんだと、いろいろな回路で外の仲間たちとの繋がりは切れることなく続いていくことだろう。今のような政治状況が、いつまでも続くこともなかろう。変わりゆく情況を仲間たちみんなで楽しむ日が来ることだろう。そんな日々の中、僕をも含めた仲間たちが由紀ちゃんを門の外で出迎える……僕の目は、そんな情景を今、見ている。

SHACO
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