シャコのリハビリ日記(その16)

 作業所のメンバーたちとのつきあいは、それなりに刺激的だ。
 僕は、月曜から金曜までの週五日の出勤だ。毎朝九時半前には作業所に行っているようにしている。すでに、正職員は出勤している。そして、続々とメンバーたちがやってくる。まずAさんがやってくる。CPの三十代の女性、スタッフとおしゃべりをするのが大好きである。僕は、彼女によくおちょくられている。さて、次に来るのは、自閉症傾向と診断を受けた四十代男性のBさんである。そして、三番手は身長が一b九十aもある仕事が大好きな三十代男性のCさん、四番手は仕事をキッチリやって頼りになる、ほとんど喋らない二十代女性のDさん、五番手はオウム返しに答えたりする二十代男性のEさん、彼は「おはよう!」と言いながら、みんなの手に自分の手をパチャッ、パチャッと当てていく。六番手は右目が失明し喋ることができない二十代男性のFさん、七番手は歩いたりなど、動くときに足を出したり引っ込めたりしてなかなか前に進めない二十代男性のGさん、八番手は統合失調症の二十代男性のHさん、九番手は自閉症の三十代男性のIさん。HさんとIさんは曲に合わせて踊ったりするのが大好きなパフォーマーだ。十番手は他人のことをアレコレ注意することが好きな二十代男性のJさん。「宇賀神先生なんか回送電車に乗って行っちゃえ!」と、Bさんが僕に言う。僕が作業所で働き働き始めてしばらくしてから彼とのバトルが始まった。彼は、この作業所が作られた当初からの最長老メンバーである。彼にとって、この作業所は彼のテリトリーである。そこへ見知らぬオスがやってきたのだ。エライコッチャッ!
 トイレにこもる彼を呼び出しにいくとき、女性スタッフであればトラブルなくていいのだが、僕が呼びに行くとトラブルとなる。(因みに、この作業所の男性スタッフは、僕一人だけである。)つかみかかってきたり、水をかけたりとやってくる。いやはや、大変なものである。この間なんかは、彼の足の傷のかさぶたを耳に突っ込まれたりした。彼にとって、僕はにっくきオスなのであった。
 毎日のように引掻き傷をつけられて、消えることがなかった。なんで、こんなにも憎まれなきゃならないんだろうかと、僕は悩んだりもした。
 最近は、トイレへ僕が呼び出しに行くことはなくなった。その方がいいだろうということになったからだ。しかし、それで彼の攻撃が止んだわけではない。時々、足の傷のカサブタを「あげる。」と言って、投げつけてきたりする。また「チューする。」などと口を突き出して迫ってくる。どうも、それらは彼にとっては嫌がらせ方法のひとつらしい。それで、僕が彼に「チューするか?」と迫っていくと、逃げたりする。
 ぶつかり合えば、必ず何かが残る。それを期待して、あと僅かのつきあいのときを楽しんでいこうと思っている。
 メンバーを連れて、作業所で借りている畑で作業したことも楽しかった。ほとんどのメンバーが畑仕事をそれなり楽しんでいるようだった。
 HさんとIさんの二人は畑仕事がけっこう好きなようだ。Iさんには、ラディッシュを種蒔きから収穫まで任せて、日記を書いてもらった。なかなかいい絵を描く。
 管理機をメンバーにつかわせたことがあった。私がついてだったが。けっこうメンバーたちは喜んでいた。後日、それは施設長から注意された。ケガさせたらどうするのか? ということだった。しかし、危ないということで何でもやらせなかったり、もしものときの責任問題を恐れてやらせないということは、メンバーたちにとってはかえってよくないのではないかと思う。野菜の種蒔きや収穫に際しても、施設長とはよくやりあったものだ。「メンバーに任せたら、ちゃんとやらないからダメだ。」というようなことを言われるのだ。あまり細かくやらなんでもええのになあ、と僕は思いながら「大丈夫ですよ。」と言い返したりした。しかし、大丈夫でなかったりしたときなどは、「ほら、私が言ったとおりでしょ!」などと怒られたりもした。
 先日は、とうとう僕もプッツンしてしまった。施設長と野菜の施肥方法などについて遣り合ってしまい、「それならお任せしますから(一人で)やってください!」と言い放し、それ以降、僕は畑には行っていない。それから、僕がメンバーに何かやってもらうときに「…して下さい。お願いします。」といったら、また注意されてしまった。メンバーとスタッフは対等な関係ではないとのことであった。
 とにかくこの施設長とはよくやりあう。「ちょっと来てください。」と言うから、行ってみたら、「あなた、私を施設長とは思っていないのでしょう! 自分が施設長だとおもっているんでしょう!」などとわけの分らないことを言ってきたりもする。僕がこれまでの慣例的なところを変えてしまうのが嫌なようである。メンバーとの付き合いより、施設長との付き合いの方が大変なのである。施設長は、早く僕をクビにしたいようだが、あと二ヶ月の辛抱なので我慢しているようである。この頃の僕は、なんか雰囲気の悪い(施設長との関係に於いて)中で働いている。しかし、メンバーや他のスタッフとは、まあいい感じで付き合っていけているので、なんとか毎日楽しく過ごしている。
 ……それから二週間後。
 僕は、作業所を一月二十八日でやめることになった。
 僕のいる作業所は、四月から他の社会福祉法人と合併することになっているそうだ。そうなると今いる全スタッフがそのまま移れるわけではないようだ。僕は契約どおり三月一杯まで。他のスタッフは、施設長がちゃんと推薦をしたそうだ。 しかし、僕は施設長からストレートに言われてしまった。
 「宇賀神さんは推薦してませんから。」と。
 別に、こちらも期待なんかしておらんかったしね。どうってこともないさ。
 「宇賀神さんは四月からどうするの?」と施設長が聞いてくるもんだから、「ちゃんと決まっていますよ。ご心配なく。」と僕は応えた。
 売り言葉に買い言葉みたいなもんで、「契約期限よりも早くやめるかもしれませんよ。」と言わなくともいいことまで言ってしまった。そうなると、もう止まらない。イケイケドンドンである。そんな調子で僕はこれまでの人生のポイント、ポイントでしくじることが多かった。僕って、損な星の下に生まれついているのね、きっと。
 ってなことで、僕の作業所での仕事はもう少しで終わることとなる。
 先日、作業所の新年会があり、餅つきが行われた。僕も初めて餅つきをした。なかなか面白かった。初めてではあるが経験者のごとくの顔をして、どういうわけか上手に餅をついたので、「宇賀神さんは頼りになるなぁ」等と重宝がられたのであった。
 僕は、今の作業所を辞めてもいつかまた懲りることなく福祉関係の仕事をしていることだろう。
 話は変わるが、僕は昨年暮れに熊本・八代に行ってきた。現地でホームレス支援をしている友人が起業したというその会社はホームレス雇用を目指している会社であるが、それを見に行ったのだ。僕も三日ほどその会社で仕事をした。便利屋みたいな会社ではないかと思うけれど、僕がした仕事は園芸(庭師)みたいなことであった。
 僕は、八代の民家の庭木をバサバサ切ってしまった。バサバサ切っていくというのは、ホント〜に気持いいのである。園芸作業なんかの経験などしたことなんかないというのに、バサバサ切っちゃうのですからこわいことです。しかし、ド素人がやった仕事であっても、お客さんからはエラク喜ばれるのは不思議なことであった。ハッキリ言って、僕は草木に関わる仕事は好きである。ムショに居るときには、園芸の通信教育を受講していた。樹木医の仕事にも興味を持っていた。だから、そこでの仕事に違和感はなかった。草木とともにノンビリと生きていきたいと思うのである。草木は喋ることもない。ただ黙って生きていくだけである。 そんな生き方がいいなぁ、と思う。
 ちょうど作業所も辞めることになったし、その八代の小さな会社で二ヶ月ほど働いてみようかと思っている。しかし、僕にとって最大の問題は営業をしなければ、仕事にありつけないということである。僕のような口下手に果たしてやっていけるだろうかということだ。まあ、それもいい勉強になるとポジティブに考えて楽しんでいくのがいいかもしれない。
 熊本には、いい温泉があるし、美味い酒があるし、いい女がいるというのが僕に対しての殺し文句であった。それを聞いて僕は、昨年暮れに川崎からフェリーに飛び乗って九州に旅立った。確かに、いい温泉はあった。美味い酒もあった。いい女には……。
 九州には十二月二十四日から三十一日まで居た。
 三十一日の夕方には、山谷に居た。水族館劇場の「さすらい姉妹」を羽田からどこにも寄らずに観に行ったのだが、残念ながら芝居はすでに終わっていた。しかし、一月三日に上野公園で行われた「さすらい姉妹」公演はしっかりと観ることができた。ストリップ劇場(ダンサー)の物語であった。なんか身につまされる話であった。僕も逃亡中、ストリップ劇場で働いていたことがあったからね。その頃の哀しい出来事を思い出し思わず、グッ、グッとセンチメンタルジャアニーになってきてしまったね。しかし、ストリッパー役の役者が僕の顔に腰をくっつけんばかりに振ってきた時には、思わず、ムクムクとなって野性の呼び声に応えてしまった……。
 芝居を観てから、美術館でも行こうかと思ったら,どこも休館日であった。少しばかり知的に過ごそうかと思っていたのに困ったものである。僕は反知的にしか生きられないのかもしれない。
 その夜は、旧友たちと新年会をした。そこで新潟での屋根の雪降ろしをみんなでやりに行こうじゃないかという話になった……のであるが、酒席の上での話の危うさよ、である。五名のうちの二名が脱落。三名で行くことになった。
 一月十五日、十六日に新潟・十日町へと我々は向かった。臭いけれど、あえて言わせてもらうと「トンネルを抜けるとそこは雪国であった。」
 白銀の世界があった。アチコチの屋根の上では人が雪下ろしをしていた。
 数時間後、我々も雪降ろしをすることとなった。酒を飲みながらの雪降ろし。危ない話である。いつ雪に埋もれるか分らない。カンジキを履いても膝までズブズブ入ってしまう。夜は、囲炉裏を囲んでの酒盛りをしていい気分で布団にもぐりこんだのであった。翌朝は、近くの温泉に入ってから一路家路へ。せっかく出所したのである。色んな人色んな風景に出逢いたい。

SHACO
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