シャコのリハビリ日記(その17)

 一月二八日、私は作業所を辞めた。
 その日の昼食時に私のお別れ会が行われた。お別れ会には、メンバーとスタッフだけでなく何人かの保護者も出席してくれた。一人一人が立ち上がって、私にお別れの言葉を送ってくれた。寄せ書きの色紙とプレゼント品も貰った。私からも、メンバー達と一緒に日々、楽しく過ごせたことを感謝した。メンバーの何人かからは、「やめないでください。」等と言われたりして、私もグッときてしまった。〈早まったかな〉と思ったのであった。僅か一年の付き合いであったけれど、けっこう凝縮した内容だったと思う。しかし、メンバー達との関係は、これで終わったわけではないのだ。今後もお互いが地域の中で生きていく限り、また繋がり合うときがある筈だ。私とメンバー達との関係は始まったばかりなのだ。
 二月二九日、三〇日には古川へチョー特別○○講座を受けに行った。講座の内容については、ここでは詳しくは書けない。古川在住の草莽の杜氏、某粟野さんとその弟子の加須在住の某友野さんは、「過激派」であるからして、権力などなんのそのなのである。しかし、シャモジの大きいやつで大樽の中をかき回していたら腰が痛くなったのは、歳の所為かしらん。早く講座の結果を楽しみたい! 味わいたい! 何のコチャッ!
 二月四日、作業所のスタッフ達と内輪の送別会。私は、性格の良いスタッフ達と仕事ができて良かったと思う。彼女達の支えがあったから何とかやってこられたと思っている。黒いニット帽もプレゼントしてもらった。
 二月一一日には、旧知の友人たちとの飲み会。熊本へ行くと言ったら、歓送会。なんでも理由をつけて飲むのであった。我々も歳をとった。あの頃は、二〇代であった。こいつも毛が薄くなったなぁ、と思いながら飲んだのであった。
 二月一三日、学生時代の友人達と横浜・中華街で昼食会。学生時代、頑張っていた友人達の中には、今はくすぶっているという友人達が多いようである。今の時代状況がそうさせているのだろうか。この時代状況をどこから突き破っていったらいいのだろうか。くすぶっているだけでは、流れに押し流されていくだけだろう。青春の思い出箱から情念を引っ張り出して、見果てぬ夢へ向けて更に走り抜いていって欲しいと思う。まあ、他者のことは言えない。私自身、少し前までウツ状態でずっと低空飛行だったのだから。昼食会では、今度は昔の友人達に呼びかけて、もう少し大きな集まりでも持ちましょうか? ということを話した。実現できれば、楽しいことになるのではないかと期待しちゃう私である。
 二月一四日の朝、私は旅の支度を慌しく始めた。今回の旅のために購入した三一七〇〇円の中古ノートPCやエスペラント講座のテキストをバッグに詰め込んだりした。その合い間には、母の薬を貰いに病院へ行ったりもした。家の周囲の庭木などの手入れをしたりした。本当に慌しかった。まあ、そんな慌しい旅立ちも逃亡中の私にとっては、普通だった。かえって、そういう方が落ち着いたりしてね。母からは、「いい仕事があったら、帰って来なくてもいいからね。」などと言われたりした。まあ、私の母も反対語を言うようなので、そんな言葉も真には受けとれない。今回、私は2ヶ月ほどの旅ということにした。
 一八:〇五 羽田空港発のスカイネットアジア航空で熊本へ発つことになった。一二三〇〇円の格安航空券である。「スカイネットアジア航空なんて、落ちそうでやばくて乗れないよ。」なーんてことをこれから乗る人間の前で、平気で言う奴もいる。
 午後二時頃、早めに家を出ることにした。飛行機に乗り遅れたら大変である。このところの不況と殺伐とした世相の中で鉄道事故が頻繁に起こっている。いつ電車が止まるか分からない。
 午後五時前には、羽田空港に到着。空港内の不味いラーメンを食い、生ビールを飲んで時間をつぶした。そして、出発口へ向かった。そこで、私は旅のルンルン気分をぶち壊された。女子高生風に言えば、「チョースゴーイ」身体検査をされてしまった。
 金属探知機でアチコチ触られた。そうしたら、音が鳴り始めた。すると、「スイマセン!」ときたもんだ。それからが大変である。股座や腰周りなどを探られたり、バッグの中身を全部出させられたりした。私一人がである。他の人はどんどん通過していく。ナンダ、こりゃ? と思ったね。ブラックリストにでも載っているのだろうか? 困ったもんだ。やっと解放されて、待合室へ向かった。すぐに飛行機に乗り込む。そして、離陸。
 熊本空港に着いたのは、午後八時頃であった。冷え冷えとした空港。八代行きの直行便のバスが出ている。料金は一一〇〇円である。
 八代のバス停に降り立つと、友人が出迎えてくれた。一緒に来てくれたのは、少し前まで路上で野宿していたSさん。八代滞在中は、彼が今住んでいるアパートで共同生活をすることになった。
 翌日から仕事だと言う。またバサバサと切っていくのである。
 しかし、庭師はお天気まかせの仕事のようだ。仕事がない。営業しなければ、仕事はないとのことである。営業などという事をやったことのない私には、とてもできそうにない。やったこともないことはないかな。逃亡中、新聞販売店で働いていた時に洗剤を持って、家々を回って拡張(営業)をしていたっけ。先行きは暗いかもしれない。まあ、温泉とお酒が美味ければいいか。前回、「女……云々。」と書いたら、クレームが来てしまった。魅力的な女性ご本人様からの「いい女は、傍に居ったでしょうが……」旨の内容であった。私は、深く反省したのであった。  八代は、人口一〇万人ほどの地方都市である。大した産業もなく、活気のない都市だ。ここには、二〇人から三〇人位の野宿者が居るみたい。橋の下にシートを張ったり、体育館などの公共施設の軒下などに野宿している人が多い。
 八代市では今、ホームレス支援のための会をキリスト者が中心となって立ち上げようとしているようだ。その辺の状況は今のところ分からないけれど、分かったらまた報告したいと思う。
 私とSさんの共同生活は、不和もなく淡々と続いている。その生活については、また次回にて。

SHACO
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