前回は、克明に描いたルポルタージュによって、9・16の夜のことを明らかにした。そのルポルタージュの評判は、良くはなかったようだ。あまりにも克明に真実を書きすぎたようである。「君とは付き合いたくない。」などと言われてしまった。Vサインを掲げて、「イェーィッ!」とは、言ってくれなかった。残念である。  今回は、前回の反省もこめて、私自身のことを書き始めることにした。しかし、カラオケ好きじゃないからその話は出てこないぜよ。高齢者問題です。 「私の預金通帳なんだから返しなさい!お前の物じゃないんだから!」 「お前に預けとくから頼むよ、と言われたから、預かっただけじゃないか!」 そんな口論を、最近、私は母との間でよくするようになった。「お前は、私の預金通帳から勝手に金を引き出しているだろう。」と初めて言われたのは、去年の秋だったか。初め言われたときは、「俺を泥棒扱いするのか?!」とひどく腹が立ってしまった。そういうことを言われると、こちらもつい感情的に言葉を返してしまったりする。口論をすると、その日はもう私は落ちていく。何でこんなことばかり言われるのだろか、と。このところ、母の物忘れがひどくなったように思う。母自身が自分でこうすると言ったことでも、スグに忘れたりする。私が言ったことも、すぐに忘れたりする。「それは、今さっき言ったばかりじゃないか。」と言おうものなら、「そんなことは聞いてはいない、言ってはいない。ボケた、ボケたというんじゃない。」などと怒ったりする。何度も同じことを聞いてきたりするすることに一々対応していくほどの気の長さが私に無いのが問題なのだけれど・・・。 私も言ってはいけないと思いつつ、ホント、ボケちゃって困ったもんだと言ってしまう。そんなことで疲れる毎日である。私がどこかへ出かけた時には、母からときに「いまどこにいるんだ?!」などと訊いてきたり、帰りに何と何を買ってきてくれ、という電話が掛かってきたりすることもある。私がまた居なくなるのではないかという不安感があるのかもしれない。そういうカンジなのだが、口論なんかすると、「この家から出て、どこへでも行ったら?!」などと言い放ったりもする。私はムショから帰ってきてから、母と笑って話したことがほとんどない。母の年齢から考えても、母とはそう長くは一緒に居られないだろう。もう少し、母と笑って暮らしたいと思う。 昔は、そうでもなかった。私の件があってからか。私の家は、今、茨城県の片田舎にある。私が生まれたのは、東京・目黒。茨城に来るまでに、千葉県・松戸、そして、埼玉県・越谷に引っ越したことがある。と言っても、私が指名手配されて逃亡中の時だったので、よく分らない。とにかく、3回引っ越したそうだ。1回目は、私が指名手配されて、親族をも含めた周囲から「国賊」だの「非国民」だの言われてかなりの迫害をされたからだった。「水道管はぶっ切られる」、「石は投げられ」、「物は売ってもらえず」等というあらゆることをされたそうだ。おまけにデカがずっとつきまとい、家の中に寝転んでいたり、職場にまで来たり、とさんざんだったようだ。普通の神経だったら、やっていけなかったと、母は今言っている。二回目も私が逮捕されて名前が挙がったからのようだ。3回目も…。  そんな迫害の時の苦労話を今や毎日何回も繰り返し聴かされている。そう何回もだ。私が何も返事しなくても、母は同じことを何べんも話してくれる。その話は、ほとんど私の頭に刻み込まれてしまった。その苦労を強いた張本人なのだから、何にも言えないのだが、それにしても聞いているのはキツイ。しかし、私がツライとは言えない、辛かったのは、母だから…。と言え、私もウンザリしてきてしまっているのは確かなのだ。母のトラウマとなってしまっているのだろう。それに…、母は多分、初期の認知症なのではないかと思うのだけれど。マダラなんとかというものかもしれない。覚えていることはシッカリ覚えている。私がもう酒を飲まないよ、と言ったことをシッカリ覚えていて、お前は飲まないと言ったじゃないか!と言う。困ったものである。美空ひばりから手紙が来た、という話も何度も聴いているが、どうやら、ホントのことらしい。当時、母は、赤坂の割烹料理店に賄い方として働いていたそうだ。そこの店の仲居に美空ひばりの付き人と親しい人がいて、私の母のことを話したようだ。美空ひばりも兄弟のことで社会的な指弾を受けていた頃だから、義侠心もあって、励ましの手紙を母に送ってくれたのだろうか。その手紙があれば、わが家のお宝となったであろうが、母は持っていない。仲介した仲居が、「私にちょうだい!」と言って、母の手からその手紙を掻っ攫って行ってしまったそうだ。今は、その破廉恥な仲居の「わが家のお宝」となっていることだろう。  母は、このところ足腰が弱ってきているようである。坐骨神経痛があるそうだ。最近は、母の起床時間も遅くなったようだ。以前は、朝5時半には、洗濯機の回る音で私は目を覚まされたのだが、今は遅いときには、母は朝6時半起床である。少しずつ母の体力が落ちてきているのだろう。しかし、毎晩、缶ビール2本は空けている。「飲みすぎるんじゃないの?」と母に言えば、「自分の金で飲むんだから、勝手じゃないか!」と言い返されるのであった。未だに自立できていない情けない息子を見ていると、イライラしてきて飲みたくなる心境になってしまうのかもしれない。  これから、母は認知症が進行していくだろうし、それにどう対応していくのかが私に問われてくることだろう。今の私は、ちゃんと対応できていない。母とケンカしてしまうこと自体、うまく対応できていないということなのだから…。オトナの対応ができるほどに私自身が人間的な成長を遂げていないもんなぁ。今は、私自身の生活の安定さえ確保できていない。そのへんは、母からも毎日何度も繰り返し、言われているのだが、なかなかできずにいる。だから、母も心配でならないのだろう。しかし、それにしてもうるさくてたまらない、と言いたい。ともあれ、そんなうるさく言う母が居たからこそ、今があるわけだ。ケンカせずに付き合っていくように頑張っていきたいと思っている。「頑張る」という言葉は、いけないのかもしれない。時々、ウツになる私が居るのだ。その私を刺激してはならない。  それにしても、私の周囲でも親とのことに頑張っている者が多くなったなぁ。私たちもすでに五十代。親も年老いたもの、仕方ないか。母が背負ってきてくれたから、今度は私が背負っていかなくてはならないのだろう。しかし、まだまだ力量不足。先進的に老親とのつきあいを上手くおこなっている方々からの貴重なアドバイスがあればよろしく。  生活の安定ということだが、私は10月8日をもって、知的障害者更生施設を辞めた。どうも合わなかった。規模が大きすぎた。バタバタしすぎて、要領の悪い私には、馴染めなかった。小規模の10人前後との付き合いがいいなぁ、と思っているが、もしかすると私にはそういう仕事は合わないのかもしれないという気もしてきている。  さて、辞めたはいいが、これからどうしようかな、といったところである。旅すること自体が仕事になるというのならいいがなぁ、などとフーテンの寅さんに憧れたりしている私であった。 inserted by FC2 system