シャコのリハビリ日記(その26)

 将司は、ちょっと思い違いをしているのかもしれない。私と母の口論(?)は、母が(軽度の)認知症ということを踏まえてもらわないとよく認識できないと思う。自分が言ったことを忘れて、また同じ事を繰り返して言ったり、貯金通帳から勝手に引き出されていると思い込んだりするというのは、認知症の症状としては、わりとよく見られるものだ。だから、話し合いで納得しあってなんとかなるといったものでもないのではないかと思う。その時には、納得してもらっても、しばらくすると「納得」事項がすっかり忘れられていたということもよくある。そうなると、これはもう私の対応力の問題ということが大きく作用してくるのかもしれないと思っている。まあ、将司も要するに「シャコよ!しっかり対応してあげてくれ!」と言っているわけで、まあエエか。しかし、私らも歳をとったが、それ以上に親たちも歳を取ってきていて、親の介護の問題に取り組まざるおえない情況になってきているんだな。
 さて、韓国旅行の話に戻ろう。
 2日目の朝、インチョン空港からソウル行きのバスに乗った。空港からは、ソウル市内外の各観光名所に行くバスが出ている。明洞行きだった。明洞の終着駅で下りた。バス停の前が地下鉄の入り口だった。さあ、何処をどう観光したらいいのか、さっぱり分らない私であった。とにかく、歩くことにした。乙支路3街から東大門へ出てから市場をぬけた。大きな市場だった。それに庶民的だった。その日の家庭の食材を買いに来ている人が多かった。ひとりでそんな市場を歩いているとナンカ楽しい気持になってくる。食材を何か買って、家に帰ってなにか作ろうってんだったら、もっと楽しくなるのかもしれない。ざわめきの中のルンルン遊歩。鐘路5街から鐘路沿いに歩いていくとお爺さんたちが沢山たむろしている広場があった。そこが宗廟前の広場だった。広場をぶらついていると、そこ、ここでおたちが爺さん囲碁をしている。碁盤と碁石を置いて誰か相手をしてくれるのを待っているお爺さんたちもいる。韓国の囲碁人口はかなり多いのかもしれない。相手の居ないお爺さんの相手でもしようかと思ったが、なんせコチトラあの迅某に完敗してしまうほどの下手であるからやめた。宗廟を見学に行くことにしたのだが、行ったらちょうど休館日だった。ツイテいない。入口あたりには観光客らしき人たちが居て、私と同じように残念がっていた。その観光客たちは、中国人だった。その後も中国人の観光客たちにはよく出会った。わりと近い韓国が中国では観光ブームなのかもしれない。
 宗廟からタプコル広場へと歩き、鐘路タワーを経由してから光化門へと向かった。この辺からナンカ警官の姿が多くなってきた。光化門の前には警察軍のバスが何台も停まっていた。東京だと私のような怪しい雰囲気を持った人間というのは、スグに職質されてしまうのだが、韓国には怪しい人間がポピュラーなのか、警官たちの前を歩いていても大丈夫だった。ガイドブックを片手に道を聞くと親切に教えてもくれたのには感動!
 光化門から入って、民族博物館に入館した。さらに、景福宮に入ろうかと思ったら、工事中だったのか入ることができなかった。仕様がないので、塀づたいにグルリと一周してみることにした。坂道を上に行くにつれて、何故だか武装警官が多くなってきた。みんな短機関銃を持っている。コワ〜イ! ど、どうしてなのだろう? と私は若干あせった。どうもおかしなところに迷い込んだらしい。オ、オ、私服警官らしき輩が何人もたむろして、イヤホーンを耳につけ、小さなマイクに口をつけて何か話しているぞ。いやはや、えらい所へ来ちゃったよ。後ろから、ダッ、ダッ、ダと撃たれたらいやだなぁ。なにせ元テロリストだもんな。いかなる嫌疑をふっかけられるかも分らない。恐々と、さらに歩いて行くと、右手の方に青っぽい屋根瓦の建物が見えてきた。それで、私はハタと気がついた。そ、そうか。あれが大統領の住んでいる青瓦台なんだ!それ故に、警官がウジャウジャといるわけか、と納得。それにしてもいつもこんなカンジなのかなぁ、と思いつつ世宗路を市庁方面に歩いて行くと、なにやら歌声が聞こえてくる。さらに市庁に近づくと警察軍のバスが沢山停まっている。勿論、警官も隊伍を組んで立っていた。市庁舎前で沢山の労働者・市民が集会を開いていた。スゴイ! こんな人数の集会なんてもう日本ではあまり見かけることもなくなった。労働者・市民たちの顔がいい。軍事独裁政権下の韓国と日本の政治状況と今のそれが全く位置が入れ替わってしまったようだ。日本は今や、晩秋的状況?
 サウナへ戻る時間にもなったので、ちょっと寂しい気持になりながら、私はその場から離れていった。そうだ、サウナへ戻らなきゃ。バスの時間がなくなってしまったら、ソウルで夜を明かさなくちゃならない。私は、インチョン空港行きのバス乗り場を捜した。ソウル駅に行けばナントカなるだろうと行ってみたら、ナントカなった。その時にソウル駅の地下通路に沢山の労働者たちが整然と並んで座っているのを見た。炊き出しを待っていたのだろうか。スグ立ち去ったので、その後のことは分らない。しかし、日本の下層労働者の状況と同じ現実がそこにあった。
 サウナに戻った私は、友人のNさんとドッキング。彼は、建設機械操作の労働者と友達になっていた。その労働者は、まあまあの給料を取っているようだった。時々、サウナに来るようだった。サウナは、韓国ではわりと軽いカンジの一般的な宿泊所みたい。老若男女が来る。子ども連れも居たりして、30℃、40℃、60℃くらいに温度差を設けた部屋もあったりし、食堂やスナック、ゲームセンターみたいなものも備えたりして、それなりに楽しめるところだ。
 3日目、私とNさんは今回の旅の目的地に行った。教科書問題について語り合う場へ。
 そこで、3日間過ごした。まあ、この辺はまたの機会にと省略してしまう私。
 カンジとしては、日本の運動が尻を叩かれたように、私には思えた。
 アッという間に二泊三日が過ぎた。その二泊三日の内容を詳しく知りたい人は、中身の入った一升瓶を持って私のところに尋ねて来てほしい。肴は、できたら馬刺しか生カキにしてくれるといい。あ、アンギモでもよろしい。そういうことを期待して、私は敢えて書かないのであった。セコイ男なのである。
 で、アッという間に5日目となる。二泊三日の熱い話し合いは、終わった。サラバ友よ! 私は、自らの素性をハッキリ話すことをしなかった。だから、私が元テロリストだということは、ほとんどの人には知られることはなかった……が、一人だけいた。「あれぇ、宇賀神という有名な人が昔いましたよねぇ?」などと話しかけてくる人が……。で、正直者の私は、「ここだけの話ですけれど、実はその本人なんです」などと答えてしまうのであった。その人には、ズバリ賞として『僕の翻身』を贈呈した。読後感は後日送っていただいた。
 みんなと別れて、私とNさんはある地方都市へと向かうことにした。ソウル駅である地方都市行きの列車の切符を買った。列車に乗り込む際には、勿論ビールとつまみを買い込んだ。到着した地方都市で、私たちはまたまたサウナに宿泊した。
〈続く〉
     2006年1月22日 

SHACO
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