シャコのリハビリ日記(その31)

 ベイルートと言えば、中東である。まだ政情も揺れているところである。なんか不安であった。それに、私は元「爆弾犯人」である。「東アジア反日武装戦線」のメンバーだった。メンバーの何人かは、日本赤軍に奪還されていったままだ。その私が今、中東に行けば、それはそれなりに公安警察の注目の的になってしまう。せっかく、あまり目立たないようにと生きてきたのに、また目立ってしまうではないかと、実のところ困った。困ったが、「とにかく人がいないんだ。行ってくれないか?」、と言われれば、「しようがないなぁ。」と受けざるをえなかった。東アジア反日武装戦線のメンバーだった私には、日本赤軍に義理があったから、なおさら断れない。仲間を奪還して、面倒を見てもらった恩義があった。しかし、私としては、いろいろ考えてしまった。まかり間違って、モサドやCIAに誘拐されたりしたら嫌だなぁ、とか。ベイルートで入国拒否されて、強制送還されたら日本のマスコミの餌食だなぁ、とか。悪いことばかりを考えてしまい、私としてはかなりの覚悟をして飛んで行ったのであった。ベイルートに着くまでは、本当に悲壮な覚悟をしていったことは明らかにしておこう。そんなに軽い気持ちで行ったわけではなかった。なんせ英語もアラビア語もまったく分からない人間なのだ。その人間が片道26時間もかけて、たった一人で異国へ旅立たなければならないのだから、えらいこっちゃ!ベイルートへの旅立ちのことは、周囲の人たちには話さなかった。みんなには、九州の熊本へ障害者の介助の仕事で出稼ぎに行ってくるということにした。もちろん、私の母にもである。帰国したときには、有楽町の熊本館まで行って、熊本のお土産まで買って帰った。結局、滞在期間は初めの予定より延びてしまった。旅立ちは3月5日で、帰国したのは5月26日であった。
さて、仕事の方だが、文字通りに「障害者の介助」であった。リッダ闘争でただ一人生き残った岡本公三さんは、イスラエルに囚われの身となり、捕虜交換で解放されるまでの間十数年を軍刑務所で過ごすことになったが、その間筆舌に尽くしがたい拷問などを受けて、其の精神をズタボロにされてしまったようだ。本人は、「拷問なんてありませんでした。」と言うのだが、さて、どうなんでしょ。私は、彼と一緒に生活を共にして、彼をサポートしていた。サポートと言っても、掃除・洗濯・料理・買い物などの生活全般の介助をするくらいのことだった。公三さんの生活は、彼の決めた時間割りどおりに進む。私は、それにできるだけ合わせるということだった。朝6時半に起床して、洗面終えてからメシ。彼がキッチンにやってくる前に私は目玉焼きとホブス(アラブパン)、ホンモス(豆ペースト)と麦茶を揃えて置いておくのだ。そして、昼食は12時きっかりでなければならなかった。麺類をよく出したっけ。彼が好んだのは、日本赤軍特製の釜揚げうどんである。アラブの地で、日本のうどんが手に入らないから、スパゲッティーで代用したものだ。手軽に作れて良かったので、私などは手抜き介助でよく作ったものである。夕食も18時きっかりであった。夕食は、できるだけ手の込んだものを作ってあげた。公三さんにとって、食べることがまずもって一番の関心ごとのようだあった。ぷかり、ぷかりとタバコをふかすのも楽しみのようだった。
  そんな日常の中、私は買い物がてらにベイルートの街をよくぶらついた。マナーラ、ラウシェといった海岸通沿いを歩くのが、私は好きだった。昔、逃げているときにも時々海がむしょうに見たくなって、わざわざ見に行ったことがあった。私は、青い海が好きだ。ラウシェには、ピジョンロックという観光名所がある。しかし、観光名所というわりには、汚いところだ。ペットボトルやコーヒーカップがそこら中に捨てまくってある。私がベイルートをブラついていたのには、もうひとつ理由がある。ウヨウヨといる美人を見に行ったのである。なんで、ベイルートには美人が溢れているんだろうと、私はサプライズ!!
  ベイルートの交通事情はすさまじいものだったが、人間的でもあったと思う。確かに、その運転マナーは「ひどい!」というよりは「すごい!」と言った方が良かったが。日本のように、人を人とも思わないよりは良い。「すごい!」運転だけれども、人がいたらちゃんと止まるものね。だから日本と違って交通事故死する人があまりいないみたい。
  パレスティナ難民キャンプにも一人で行ってみたりした。釜ヶ崎のような風情。好きだよなぁ、こういうカンジ。私が最もココロ落ち着けられたところだった。私がよく行ったのは、シャティーラキャンプだった。サブラキャンプは、消えていた。シャティーラとサブラは隣り合って存在していたのだが・・・。路地が入り組んだシャティーラキャンプは、敵が来たときのために意識的に作られたのだろうか?あのアルジェのカスバのように。パレスティナ人は、レバノン政府によって、在日の人たち以上に無権利状態に置かれている。そんな中で若者たちは、夢と希望を持ち続けることができるだろうか。
私にとって、今回の旅は昨年の韓国の旅とともに、日本の外から日本を見るという旅であったが、それほどの感動はなかった。いよいよフーテンの寅さん化してきているのかもしれない。「どこに行っても、同じだわーなぁ。オテントウサンとオマンマが喰えりゃあ、いいわ。」といったところだろうか。しかし、日本に帰って来たとたんにウツウツとしてきてしまった。      2006年6月22日 

SHACO
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