シャコのリハビリ日記(その41)

  やっと、ウツから這い上がったぜぃ!(太田某氏のようにVサインを掲げながら、イェーイ!などと奇声を上げ、恥かしげもなく熟年パワーを誇示できない小心な私は、人知れず微笑まん。)いやはや、ッたく!これからも何回となく、ウツになるんだろうな。
 5月は、いろいろと忙しかったなぁ、と言うか、いろいろなところへ行ったなぁ。
 そのいろいろなところで沢山の刺激を受けた。それは、私にとっては、とてもとても良いことだった。わたしのウツは、やりきっていない自分、やりきれない自分に対する自家中毒反応とでも言うべきものかも知れない。前回でも少し書いたが、「目立たないように」とか、及び腰である姿勢を改め、堂々とおおらかに、気楽に生きていくことにしようと思う。少なくとも、そのように生きていけるようにしようと思う。
 ウカウカしてられないよ、もう。政治状況が文字通り座視できないことになってきているのだから。
 5月20日に、港区白金の明治学院大学で行われた「2007年シンミョン来日記念特別プレ企画第一弾!光のとどくところまで」に行って来た。
‘80年の韓国・光州の中で形づくられていったマダン劇。それは、あの光州コンミューンの中から産み出された。死者たちの魂魄(生エネルギー)がマダン劇となって、その意志を伝えようとしている。そんな気がした。ユン・マンシクのインタビューでは、当時の現場の状況が語られ、鮮やかに蘇ってきた。
明日は総攻撃という前日に、退避するように言われて、劇団は光州コンミューンを去った。そして、徹底抗戦を唱えた人々は、鎮圧部隊の蛮行によって倒れていった。
 その事実を聞いたとき我々も同じような思いを共有することが認識できた。
 そうだ。共に戦いながらも、生き残りし、我らこそ死者の魂魄を総身にまとい、彼らの意志を引き継いで戦い続けなければならないのだ‥‥,と思った私なのであった。
 この集会では、学生時代に狭山差別裁判糾弾闘争をともに戦った友人とも再会した。
 この頃、何かの予兆なのだろうか? 物事の変化が私に係わって見られるようになったように思う。
 私に変われ!といことなのだろうか?
 お、お、変わってやろうじゃないか‥‥、そんなことを言っちゃって良いのだろうか?
 なんか、こわ?い!
 今は、流れ始めている状況の中、私は我が身を任せることにしよう。ドンブラコ、ドンブラコ、川の流れのように‥‥、どこかで聞いたような‥‥。
 5月26日には、救援連絡センターのダブル人権賞受賞記念集会があったので、行って来た。ここでも多大な刺激を受けた。多田謡子反権力人権賞の運営委員会が初めに連帯挨拶を述べたことに象徴されたように、多田反権力人権賞と救援連絡センターは、反権力、人権擁護、社会運動を発展させていく為のクルマの両輪と考えても良いのではないだろうか。多田謡子にとっても、それは本望であろう。死してなお戦い続けていけるわけだし、見えてきた敵は、今や強大になってきているのだから戦い甲斐があろう。
 救援連絡センターの存在意義は、これからますます大きくなっていくのかもしれない。受賞記念集会に集まった人たちの多くは、直面している状況の危機に対して、反権力・抵抗勢力の連帯・協同を求めていたように思う。今、協力して戦わずして、どうして生存できるだろうか。そう、生存の問題なのだ。すでに、昔から繰り返し言われてきたように、あのナチスの勃興期に、初めは過激派・共産主義者が、次には、民主主義者が、キリスト者が、と次々に迫害と撲滅がなされていった過去を見ていけば、自ずと分るだろう。
  inserted by FC2 system