shacoリハビリ日記046

  シャコのリハビリ日記(その44 )

「救援連絡センター新人(?)は、生き残れるかぁ?!」
8月は,クソ暑い中、けっこうアチコチ歩き回った。自分自身の年齢を考えれば,オレ頑張ってるな!ってところか。肉体年齢は、まだ40代くらいだろうか。精神年齢は、21年間凍ったままだったから、まだ二十代かもしれないが。いささかボケてきてはいる。6日と7日には、横浜・関内にある世界エスペラント大会の展示場に行って、ボランティア係員をやった。エスペラント通信講座をずーっと怠けている私がやっていいものだか疑問だったが、中山広子ちゃんのお誘いについ乗ってしまった。ほんの2時間程度の仕事だったので、ラクはラクであったが、退屈で、退屈で‥‥。他の展示場まで見学に行ったりしていた。7日は終わってから、海外からの参加者を引き連れて、ビール工場へ見学に行くと言う広子ちゃんに対して、うらやましげな顔をして別れた私は、歩いて10分のところにある寿町へ行った。昔、アジトのアパートを借りる資金作りのために寿町から港湾荷役や飯場に入って働いたものだ。あれは、74年の夏で、もう33年も経った。昔の面影は、アチコチにまだ残っている。それにしてもだ。ジイさんばかりが目立つゼ。暴動の街というよりは、福祉、介護の街になってきたようだ。「さなぎ」と言うNPO食堂に入って、メシを食べた。かなり安く、けっこうオカズもたくさんある。これなら労働者というかジィさんたちに人気がありそうだ。腹も一杯になったので、京浜東北線に乗って,新橋の救援連絡センターに寄ってから帰路についた。
9日,10日の早朝に死刑執行阻止の為の監視行動をするというメールが来たので、9日に行けなかったので、ヨッシャ!とばかりに、10日の早朝に東拘近くの万葉公園(この名前がひどく気になる私……、胸にチクチクと。)に行ったが、誰も居なかった。10日には、ないだろうということで中止になったようだ。向こうからトボトボとAさんが歩いて来たので、二人で綾瀬の駅前のコーヒー店でモーニングを食べてから、また東拘へ面会に戻ったら、Mに会ったので、待合所にて、しばらく話をした。その後、彼女は利明に会ってから帰って行った。
11日は、夕方5時から山谷・玉姫公園で夏祭りがあるというので行ってみた。夏祭りは、30年以上ぶりかな。MASAが演奏するというので、楽しみにして行ったのだ。けっこうな人出だった。若い人も目立った。最後に、盆踊りが始まったので、一緒に踊ったりして楽しんだ。
15日は、反天連の集会、デモに行ったが、昼のデモには遅れて行ったので参加はできなかった。右翼が沢山集まって来ていたな。世の中が全体的に右傾化してしまっているので、右翼の存在意味が大して無くなって来ているのではないのかな。夜は,千駄ヶ谷区民会館で集会があり、それには参加した。一度、救援連絡センターに戻って救援ノート、救援等を持ってきた。事務局員であるからしてセールスもするのであった。Oさんが、本を売っていたのを見て、さすがだな、カラオケばかりに頑張っているわけではないんだな、と感心した私であった。
16日には、昼に統一獄中者組合の集中面会があり、参加した。私は、西川純さんに面会した。そして,その夜は、シンミョンの「立ち上がる人々」を三河島の旧真土小学校で見た。80年5月の光州蜂起をテーマとしたマダン劇だ。「花よ,花よ、息子の花よ、五月の花よ。‥‥ふたたび咲き出せ。」 死者たちとともに闘う!だな、ヤッパ!
ちょっと軽く書き過ぎた文章のあとに書きつづるには重いかもしれないが…。
8月30日、三菱重工爆破時の被害者の方のお墓参りをしてきた。三十三回忌と云うことになるのだろうか。今年で三回目の墓参りだった。
花束と線香一束を供え、線香の煙に燻されながら、墓の前で手を合せてきた。
死者を弔うとは、どういうことだろうか。死者を忘れない、忘れてはならないということ。死者が死者として、生者としての私の思い出の中にあり続けるということ。私が私の今ある生、これから続くのであろう生について、死者とともにとらえ直し、ほんとうの生を生きるということ。死者のいのちを引き継ぎ、生き続けるということ。あまりにも多き死者たち(被害者だけでなく、「同志」たちも)、彼女、彼らの、思いを引き継ぎ、引き継ぎして、生き続けること。だから、忘れてはならないのだ。忘却の彼方に置き放した時にこそ、彼らは完全に抹殺されてしまうのだ。私が、私たちがふたたび殺してしまうことになるのだ。だから、忘れないこと、忘れてはならないこと、忘れさせてはならないこと。私の生が終わるその時まで、私は、私に課すのだ。忘れないことを。(br)死者をして生者とともに生きさしめよ!戦わさしめよ!と…。
墓参りのあと、何故かひどく疲れてしまった。当世風に言えば、霊に憑依されたかのようなドロドロな感じであった。怒られているのかな、とかちょっと思ったりした。
と云うことで、8月はまだ少し残っているが、とにかくアチコチ動けた。私は,動くこと自体は好きだ。7年間の逃亡者の生き方が染み付いているのだろうか。
9月5日、古川へ遊びに行って来た…、チュウのは、冗談半分?懇意にしている丸岡修ちゃんにも会いに行った。ついでに行ったのは、さて、どちらでしょう。古川へ行ってから、宮城刑務所に、っていうコースだから、古川が第一目的で、ついでに丸岡修ちゃんに会いに行ったってのがホントのところかも。実は、私の良く聞き取りにくい両耳に荒井智子さんの料理がひどくおいしく、一度は食べに来るべきだ、なんて評判が飛びこんで来たからなのだ…………私は、こんなお世辞を言っていいのかしら、口がひん曲がらないかと心配である。料理でひん曲がることはないだろう、と思うのだが…。そうそう。宮城刑務所の面会所の待合室って、栃木刑務所よりちょっと広いかな。
6日の午後2時過ぎに面会終わって、私は急ぎ、新幹線に乗った。その日の夜6時半から早稲田で「完黙」についての学習会に誘われていたので、義理堅い私は台風の中、行ったのであった!帰りは、ビチョビチョ!雨にも負けず、風にも負けず、シャコはひたすら泳ぐのであった。スイスイ、スーダラッタ、スラスラスー、と。
13日は、救援の発送日。人海戦術と言えるほどの数ではなかったが、献身的に手伝いにきてくれる人たちがいて、救援連絡センターは支えられているんだな、と毎回感心する私なのであった。
14日の昼、東京地裁前で法政大での弾圧裁判についてのビラ撒きに参加してから、救援連絡センターに帰って一服してから、その夜、恵比寿区民会館で行われた全都反弾圧労働者集会に参加した。集会室一杯になっていた。約150名くらいかな。私は、「救援ノート」と「救援」のセールスマンとして店を広げていた。
15日、救援連絡センターの運営員会の会議に参加。万年財政危機の救援連絡センターをなんとかしないと、このままでは日本の社会運動にとって損失となる。多田反権力人権基金と救援連絡センターは、なんとしても存続させていかなくてはならないものなのだ。運営委員会では、私もふたつの提案をした。ひとつは、獄中医療実態調査をやりたいということ。最近、獄中医療についての獄中者から訴えが多く寄せられているのだ。もうひとつは、活動家や獄中者のための健康法講座をするということ。これらについての詳細は「救援」や救援連絡センターのホームページなどを見て下さい。
救援連絡センター事務局に入ったので、個人的な救援連絡センター事務局日記をブログとして立ち上げた。興味ある人は読んでみて下さい。

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