“さそり”の僕

 74年から75年にかけて行われた対侵略企業爆破闘争を僕は“さそり”という東アジア反日武装戦線の一部隊のメンバーとして闘いました。
 東アジア反日武装戦線の“狼”“大地の牙”“さそり”の三部隊は一つの思想を共有して闘っていったわけではありませんでした。当時、思想的にも実際の闘いに於ても、違い―独自性を持った三部隊がそれぞれの闘いを立案し、準備し、決行していったのです。
 75年5月19日の一斉逮捕によって、そうした三部隊の独自性は権力とマスコミが一体化して展開したデマキャンペーンの中、ひとまるめにされ、更に闘いの真実をも歪められ、「無差別テロ」「思想なき爆弾魔」とされていきました。また、反体制派の人々の中からも同じような非難もされました。そうした影響は今なお残っており、近しい人の中にさえ「東アジア反日武装戦線は日本の労働者人民に絶望して闘っていた」と言う人もいたりします。
 しかし、僕らは決して追いつめられて絶望的に武装闘争に走ったわけではありません。
 三部隊がひとまとめにされてしまったことによって歪められた事実は、まず個別″さそり″はどうであったのか、といったところからしか正すことができないでしょう。

 “さそり”は、72年山谷・釜ヶ崎での暴動等、下層労働者の解放闘争に参加し、そのインパクトを受けた黒川芳正君と僕が下層労働者の解放闘争を押し潰そうとする国家権力の暴力弾圧に反撃していくためにはどうしたらよいのか、という話し合いの中でつくっていった武装組織でした。″さそり″にとっての武装闘争とは、「打ち上げ花火」でもなく、追いつめられ絶望的になった結果でもありません。
 それは、下層労働者の解放闘争1革命戦争を如何に勝利させていくのかという戦略的観点に立って始められていった闘いでした。そして、その武装闘争は総力戦の一領域であるけれど、そのすべてではないという観点に立っていました。つまり、武装闘争だけでは勝利できないし、大衆運動だけでも勝利できない、その両方がうまく結合し連動していってこそ勝利できるという考えのもとに、“さそり”は下層労働者の大衆運動から分化し、武装組織を非公然につくっていったのです。

 山谷・釜ヶ崎闘争にとって、在日朝鮮人民との具体的連帯は、焦眉の課題である。
 この課題は同時に、日帝打倒の戦線構築における重要な環である。だが、しかし、それは、山谷・釜ヶ崎 の労働者に具体的に敵対し、かつ内外朝鮮人民にも具体的に敵対している可視的な敵を、事実行為として攻撃すること、そのような闘いの積み重ねによってしか形成されない。そういう闘いが現実に要請されている。
 (73年、黒川芳正論文「プロレタリア国際主義と我々の任路」)

 “さそり”が東アジア反日武装戦線に参画し、闘い始めたことによって、それまで戦前、戦中、東アジア人民に対して犯罪行為を行った日帝侵略企業にオトシマエをつけることに比重を置いていた闘いが、現在的な下層労勘者との共闘や国際主義共闘を目指した闘いとなっていきました。

 “さそり”の武装闘争は、鹿島建設をターゲットとした「花岡作戦」によって開始されました。戦中、強制連行されてきた中国人朝鮮人労務者が鹿島建設によって虐殺酷使されたことに対してオトシマエをつけ、日帝本国人としての責任を果たすこと、それとともに山谷・釜ヶ崎の下層労働者の闘いに連帯する意味で、寄せ場越冬闘争に時期を合わせて闘われていった闘いでした。
 更に続く問組への攻撃は、「キソダニーテメンゴール作戦」という作戦名が示すように、戦前戦中、強制連行されてきた中国人朝鮮人労務者が木曽谷事業所で虐殺酷使されたことに対してオトシマエをつけることと、74ー75年当時、間組がマレーシア独裁政権と結託し、更なる収奪と搾取をはかり、かつマラヤ共産党の根拠地を潰すために強行していたダム建設を中止させ、撤退させるために闘われていったのです。そして、この闘いは、当時マラヤ共産党ゲリラによってすでに行われていたダム建設現場への連続した武装攻撃に日帝本国内から戦闘呼応した闘いであり、真の国際主義共闘を目指した闘いだったのです。

 “さそり”は、下層労働者の闘いに根差し、東アジア人民−世界被抑圧人民の反日帝闘争と連動し、日帝を内外から挟撃して打倒していくことを目指して闘っていった武装組織であり、日帝本国の労働者人民が東アジア人民1世界被抑圧人民と共に生きあえる関係を希求し闘っていったという事実は断固として強調しておきたいと思います。
 そして、僕もまた、“さそり”として闘っていったのは、絶望の結果などではなく、連帯・共生・希望へ向けての
旅立ちだったのです。


SHACO
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