〈定期第137信〉
 さらに寒くなってきた今日この頃。東京ってのは、晴れてすっきりとした空ってそう見ることができないのだろうか。東京には空がない、というか。
 10年前の東拘での冬の思い出というと「シモヤケ」というのがすぐ浮かんできてしまう。とにかく、ひどいのがよくできてしまったもので当時は大変に困ったものである。
 さて、今東拘にいる私も、そろそろ冬だよ、と気になるわけで。しかし、すでに手指にはシモヤケができ始めてしまっている。いやはやさすが東拘である。それ以外は体調もまあ良好でいいかな。少し前までちょっと風邪っぽかった。11/7公判が終わってホッとしたためかな。
 11月9日(木) 午前中屋外運動。敷布団交換された。東拘では年2回交換があるそうだ。岐刑は年1回である。(そして2級者は新品、3,4級者は綿の打ち直しのものであるが)。敷布団フカフカで気持ち良いものである。これで良い夢が見られるであろうか…な、と。
 出廷の日当5,890円がもらえた。もらえるものはもらうのダ!
 差入れ票に指印したもの→人民新聞1058号〈日角八十治〉 言いたい放題No78、チラシ〈UPO〉。
 岐刑で受講している書道会の会誌『書泉』11月号が交付された。毎日、楷書、草書、かなの3枚を課題にそって提出するのである。草書はけっこう上達しているようであった。会誌を見たらあいかわらず(と言っても提出はじめてから3ヵ月だが)6級であるが、前から数えて3番目だった。草書のような、ちょっとわからんような字の方が私には向いているのか?
 新聞を見たら昨日の重信房子逮捕の記事が載っていたので、おおよそのことがわかった。しかし、残念である。岐刑にいたら、テレビが見れたのだ。そうしたら、おチャメな重信さんが動画できっちり、見ることができたのに。なーんて言うと、ゆきちゃんに叱られてしまうな。「言いたい放題」No78見ました。いろいろ仕事が多くなって大変だろうけど、頑張って!
 岐刑では、まだマークシート方式ではなかったな。私は週刊誌は購入したことがないのでわからんが最近は抹消が以前ほどやられなくなったという話は聞く。回覧の中日新聞なんかも最近抹消されたのはそうないものな。
 11月10日(金) 午後入浴。官給メリヤス上下貸与される。島田荘司『奇想天を動かす』を読了。なかなかおもしろかった。社会問題盛り沢山で読ませます。東拘では朝食に納豆が出されるのは週2回のようである。納豆好きの私には大変嬉しいことである。納豆はO157食中毒予防にもなるし、頭脳の働きをすこぶる良くなって賢くにもなるし、優良食品なのだそうだからね。
 11月11日(土) 11月12日(日)と免業日で2連休。この様々に社会問題が出ている時に、テレビが見れないというのはチェ!である。『報道特集』や『ザ・スクープ』『サンデープロジェクト』では、さぞかし、おもしろい内容が放映されているだろうに、う〜ん残念。
 東拘にいる今は、岐刑にいる時より情報量が少なく狭くなってしまうな。将司、トシは、こんな状態が確定後ずっと続いているのだからたまらんな。欧米の拘置所のように、テレビを自由に見せてもいいじゃないのかなぁ。
 11月13日(日) 午後屋上運動。手指のしもやけ初めて確認。ヒェ〜。軟弱なお手々。
 11月14日(火) 午後入浴。この日、朝に転房となる。北向きカメラ付き自殺房から南向きカメラなし自殺房へ。この仮設棟は1Fは雑居房で2,3,4Fは独居房だね?そして独居房は全て自殺房なのではないかな。どうもそうみたい。14F建てになると独居房はみんなそうなるってことかしら? ともあれ、カメラがなくなってよかったデス。
 寒竹弁護士が面会に来てくれた。マシンガンの連射なみの両目ウインクには圧倒されたが、ありゃ私の頭がまぶしくてだったのかも。広範囲にわたってお話した。
 私は11/7証人尋問のことで、怒られるかしらんと心配していたのだが、そうでなかったようで、若干ホッとしたところもあった。再審の方、頑張っていただきたい。
 11月15日(水) 午前屋上運動。差入れ票に指印したもの→エスペラント受講生通信73号〈沼津エスペラント会〉。エスペラント通信講座関係は、岐阜へ戻ってから見ることにしましょ。今は『はじめてのエスペラント』(日本エスペラント学会発行)で勉強するだけにしているが、さすが時間だけはある東拘生活、進み具合が早いものである。
 11月16日(木) 午前屋上運動。夕食はカレーであったが、もう少しおいしくしてほしいものだ。カレーってのは獄中の人気メニューのひとつだろうな。昔あった焼きサンマが今はなくなってしまったようだな。あれは、わりとうまかったのだが。今は、サンマの竜田揚げになったか。
 差入れ票に指印したもの→わたし味方です通信No4〈益永美幸〉 人民新聞11/15,ハガキ〈日角八十治〉
 処遇変更の告知放送があり、11/20〜3/31毛布肘掛許可、12/1〜3/31の手袋許可とか。肘掛毛布は未決と受刑者に処遇差がある。手袋も受刑者は許可されないのではないかな。岐刑だと手袋は医務の判断の上での特別許可ということらしいが。
 11月17日(金) 午後入浴。昼食、夕食の献立てには、必ずスープか汁ものが付くようになっているようだな。トシは汁ものは好きだったけかな。回覧読売新聞に重信さんの拘留理由開示の様子などの記事が載っていた。持病があるそうなので、これからの獄中生活がちょっと心配でもあるね。
 11月18日(土) 免業日。あいかわらず読む1日である。こういう生活が続くと、毎週土曜日の昼食は哀しくもたのしみのひとつとなってきたね。獄中でのパン食はどこでもそうかな。自民党のゴタゴタはそれなりにおもしろいのだが、さて、どうなるか、ま、大して変わらんか。
 『黒No.3』でふうさんが選挙についてかいていたが、限界性をおさえておけば、人民側の議員が議会に存在していた方がいいんだろうね。総選挙になっても、今の並立制では、勢力図に変化ないってところかな。
 11月19日(日) 免業日である。晴れが昨日に続いているがフェンスの間から空と旧北舎が見える程度の箱詰め生活では青空2連休もつまらん。今日は昼食時に鯛焼きが1ヶ給与された。初めはアイスモナカみたいなものかと思ったが、さにあらず、フツーのタイ焼きが単に冷凍保存されていただけみたい。食中毒を警戒してのことなのだろう。夏だったら、冷えたタイ焼きもうまかっただろうに。
 東拘では、湯茶を保温するポットは、独居房には備えられていない。コヒー用のものか? 岐刑と同じ象印ステンレスポットの大型が沢山あったのを見た。岐刑では、独居房にも同じポットの小型が備えられているのだが。やっぱり、保安管理上支障ありということであえて備えていないのだろうか?(武器にされちゃかなわん?)そういうことだとすれば、将来的にも備品化は無理かな。予算上の問題なら、いつかは……と思うが。
 管理当局者もちょっといろいろ考えすぎのところがあるようだ。それでかえって全てがギスギスとゆとりのないものになっていってしまうのだろうか。
 ふとフェンスのすきまから外を見たら、旧北舎の壁際に、猫が陽なたボッコをしていた。薄茶色のブチのある奴だ。やっぱりチビンケ一族だろうか。時々、甘えたような鳴き声が下の方から聞こえてきたりして……なかなかおねだりのうまい野郎(?)である、と感心もしていた。春でないから、恋の歌は聞こえてこないなぁ。うるさくなくて良いけれど。
 そろそろインフルエンザの季節である。仙台の丸ちゃんは大丈夫だろうか。病舎におってもそう安心できるものでもないからな。気をつけれ。「逮捕」の件では、気になってしょうがないだろうな、きっと。この間報道されている記事などコピーまとめて送ってあげると少しは状況がわかって安心(?)するかも。「帰国者〜の会」の方で余裕があれば、やってやると喜ぶかもね。
 ★さて、11/7証人尋問は、今思いかえしても、やはり「クソッ!クソッ!」とつぶやきの出てしまう内容となってしまったな。私が証言していた時、ゆきちゃんが机に顔をうっぷして「アチャーッ!」と言ったりしてなかったかなぁ。そんなことがあったので、私は、もしかして、かなりドジなことを、また喋ってしまったのではないかと少々、不安になっている。
 やはり、シマッタゼ!!公判だったかと。
 三井、大成の件で「直後の感想」について尋ねられて、「憶えていません」と答えたが、あれは、本当忘れてしまったというか、憶えていないのだ。多分、自分がかかわったわけでなかったので、当時サソリも穴掘りや調査・製造などいろいろ忙しくて、刻み込まれなかったのかも。更に私の公判の時、三井、大成については、そう触れていなかったこともあって、記憶が薄まっていったか。
 ユッコ『シャコ尋問第二回に向けて』コピーに、逃亡中私がどう考えを変えていったか、私の公判で展開していないのは何故か?と書いてたが、私の性格的な問題とか口下手とか思想性のなさ、とかってことからもね。それに、裁判のああいう法廷で話すのはどうも気がのらないってこともあるか。
 逃亡中それまで自分が知っていた生き方と全く違った生き方と出会って、協働協生していく中で「革命社会」なるものは、今、ここから作ってゆくことが大切なんだって実感できたってところか。
 その実感は多分ゆきちゃんが海外で実感したこととけっこう近いんでないのかな。そんな中で私は、どうも武闘向きではなさそうだ、とわかってきたりしてね。武闘やってた時よりも、それまでと違った生き方の中で協働協生していくってのは本当に楽しかったもんじゃった。イキイキでけた。
 「5.19」以降、自決していった人たちが出たことについてどう思ったか?と尋ねられた時、全て権力による謀殺だと思った、と言ったのだが、ホント、あの当時はそう思っていた。当時は逃亡初期で情報も極めて限られており、全国指名手配で追われているという緊張した精神状況下だったからね。当時のことは今は笑って言えるが、その時は、必死だったからなぁ。「5.19」の2週間後には、新聞の求人広告を見て、私は某職場に入ったよ。所持金も残り少なくなり、他に選択肢はなかったものね。なるようになれ!といったところか。しかし、かえってそれがよかったかもしれんな。
 そして、そこから昔TVドラマでやっていて最近リバイバル映画化されたあの『逃亡者』の世界へ飛び込んでいったわけ。あんなカンジかな、それとも喜劇か。
 さて12/7で最後となる証人尋問。ゆきちゃんが机にうっぷして「アチャーッ!」などとならんように、気をつけたいと思うが…わからん。
 今日はこのへんでおしまい。では元気で!また。  2000.11.20 Shaco


SHACO
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