『日の丸・君が代』〜小学校が危ない〜

益永美幸

 私が暮らす東京・小金井市というところは、さまざまな分野で市民運動が盛んだ。昔は「非国民の会」なんてのがあって、天皇制や在日朝鮮・韓国人の問題で集会や駅頭ビラまきをする人たちがいた。天皇代替わりの時には、子連れの反祝賀デモ隊が駅前の商店街をねり歩いたことも。“自自公”の数合わせで『日の丸・君が代』法制化の動きが出た時も、いち早く反対集会が開かれた。
 こういう地域だったら、さぞかし学校現場でも日の丸・君が代反対の運動が盛んかと思いきや、実際に子どもを学校に通わせている親たちのほとんどは無関心である。学校には、「子どもたちの豊かな将来を願い、地域・家庭・学校が連携して、子どものためのよりよい環境作りをめざす」という目標を掲げるPTAなんてものがあるが、小金井市の公立小中学校のPTAは、親睦会と称する自民党系市長や市議、教育委員会のエライさんの接待と、親同士での飲み食いを中心に活動し、金を使っている組織で、君が代の“き”の字も話題にすらのぼらない。ほんとに問題視し、何とかせねばと思っている親たちは、端からPTAなんぞには期待しないのである。
 今、うちの息子は小学6年生なのだが、俗にいう「学校現場」における『日の丸・君が代』問題ということを考えると、小学校という「学校現場」は、この問題を問いにくい。下は6歳から上は12歳までの子どもたち、親の歳にも開きがあり、若い親たちは、文部省の学習指導要領の“成果”(?)で、入学式・卒業式に日の丸が掲げられ、君が代が流れてもあまり違和感がないらしい。
 息子の学絞で日の丸と君が代が登湯するのは、入学式と卒業式のみである。日の丸は式場の隅っこに、短い棒に引っかかったただの布きれのように垂れ下がり、よく探さないと見つからないくらい控え目に置かれている。とても「掲げている」という感じではないから、式次第にも『日の丸掲揚』なんてのはない。来賓で呼んだ教育委員会のエライさん向けのアリバイ作りといった感じである。君が代はというと、こっちは一応式次第に『君が代斉唱』と書かれているが、校長のあいさつが終わったあとの『起立、礼』の号令で出席者全員が立ち上がっているところに、突然、曲が流されるというもの。私はこれを「だまし討ち君が代斉唱」と呼んでいる。ただ、実際に斉唱してるのは、校長・教頭、市長や教育委員会の来賓者だけ。一部の教師は座り、立っている教師も歌うことはない。子どもらはというと、もちろん歌わない。なんだか知らないが、毎年、音楽の教科書の最後尾に載っているだけで一度も習ったことのない歌を斉唱できるわけがない。それでも毎年、君が代は流れるのだ。
 こんな扱いの日の丸・君が代だから、子どもも親も取り立て問題にする気にならない。どうせ、6年間に2回しか関わらないのだし、と。今回の『法制化』が学校をターゲットにしていることは確かだと思うが、ホントのところ、私も『法制化』だけで日の丸・君が代を強制できるとは思わない。私がもっと危惧するのは『新・学習指導要領』のほうだ。日の丸・君が代法制化は、この指導要領とセットになってこそ、威力を発揮する。
 『新・学習指導要領』では、小学校低学年から毎年決まった時間、音楽の授業のなかで、君が代を子どもたちに教え、全ての子どもたちが君が代を歌えるように指導することと書かれている。君が代の君というのは、天皇のことですよ、代というのは国という意味ですよ、と説明して教えるのか、とにかく国歌だから歌いましょうと言って歌わせるのかは知らないが、授業のなかで歌うということは、子どもたちにとっては選択の余地なく歌うしかないのである。君が代の歌のテストなんてのがあった時には、嫌でも歌わなきやならない。「君が代を覚えてくること」なんていう宿題が出されれば、家でも君が代を練習することになる。授業で教帥の指示通りやらないということは、つまり成績に関係するわけで、親のほうもちやんと覚えなさいと言い出す。歌わざるをえない状況に子どもも親も追い込まれるのである。これはまさしく『強制』だ。日の丸についても、社会科の教科書に日の丸の写真を大きく掲載し、『これがニッポンの国旗ですよ』と授業で教えろという。これぞ『洗脳』である。
 だいたい、学校という場で、やたら『国、国家』と付くことをやりだすと、ロクなことがない。単に国旗と国家をどうするという問題じゃなく、子どもたちの思考を国家が管理するための動きであるという意味で、私は「日の丸・君が代法制化」に反対だ。


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