連載:インターネットと市民運動(21)

日の丸・君が代と学校化する社会

小倉利丸

 日の丸・君が代法案が突然浮上し、自自公連立が維持されれば、そのまま通過する勢いだ。いまさらなぜ、日の丸、君が代なのか。それは、周辺事態法がらみの戦争協力の動員体制づくりにかかせないからだろうが、しかし、それだけではない。周辺事態法の発動は、米軍との軍事行動の際に具体的に発動されるが、日の丸・君が代はもっと日常的だ。そして、今回の法案では、日の丸・君が代を国旗・国歌とすることを定めているだけなのだが、法として制定されれば、次に各自治体で日の丸・君が代について、条例で盛り込むことができるようになる。
 「自治体主催の式典においては、国旗・国歌法に定めた国旗を掲揚し、国歌を斉唱することとする」
 なんていう規定が盛り込めるようになるのである。いままではこのようにはいえず、日の丸を掲揚し、君が代を歌う、と言ったとしても、
 「なぜ掲揚するのか、なぜ歌うのか」と詰問されると、役人たちは「慣習だから」としか返答できなかったわけである。法律そのものには一切の義務、強制規定を含ませないで、多分ありうるのがこうした条例レベルでの強制措置だろう。
 国旗・国歌法案が成立したとすると、政府が次にてがけるのは、刑法改正かもしれない。ほとんど関心をもたれないのだが、刑法九十二条に外国国章損壊等についての罪が規定されている。
 「外国に対して侮辱を加える目的で、その国の国旗その他の国章を損壊し、除去し、または汚損した者は、二年以下の懲役又は二十五万円以下の罰金に処す」
 というのである。実は、私が関わっている富山県立近代美術館の「遠近を抱えて」裁判で被告の富山県が、作品「遠近を抱えて」に描かれた天皇の表現を侮辱的なものとみなして処分したことを正当化する理由の一つに、この刑法九十二条を持ち出したことがある。もちろ裁判所はこ被告のこの主張を採用しなかった。この例のように、日の丸・君が代問題は、これにとどまらず、憲法で国民統合の象徴としての天皇やその肖像の扱いをこの刑法にいう「国章」に準じた扱いにする方向を含んでいる。これは、事実上の不敬罪の復活であるだろう。
 戦後の国民統合は、オリンピック、万博、ワールドカップなどすべてが文化やスポーツイベントであって、戦争による動員や統合は公然とは登場できなかった。周辺事態法以降の時代はお祭り騒ぎとは一線を画した統合、動員が政府にとっての重要課題になることは間違いなく、戦後体制は、国内の法制度のうえで根本に変わった。憲法改正が最後の仕上げということだろう。しかし、その一方で、とくに若い人たちのナショナルなアイデンティティは希薄化している。それにかわるアイデンティティは流行現象のなかで様々に提供されはするが、どこか一貫性がなくもろいものであることも事実であり、こうした脆さの前に、強いアイデンティティの提示がなされると一斉にそちらへなびいてしまう危険性もはらんでいる。
 七十年代のイタリアのアウトノミア運動のなかで、アントニオ・ネグリたちは、社会総体が資本の工場となったとして「社会的工場」という概念を提起した。この提起は興味深いが、日本にあてはめるとやたら勤勉な者たちの姿ばかりがめについてしまう。これになぞらえれば、いまの日本社会は巨大な学校体制と見た方がおもしろい。学校という体制にたいしては私たちは様々な拒否の形を今でもおおく持ち続けている。学校にまじめに協力しないおおくの若者たちを知っているし、そのようにして学校を卒業した大人たちもたくさんいる。こうした大人たちも含めて学校化された社会のなかでのサボりかたや登校拒否を編み出すことは、不可能ではないかもしれない。

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