カズ君を捜して

福田先生にうかがう高校時代のノドカ君

構成K
すっかりごぶさたしていたこのコーナー、やっと復活です。今回は斎藤さんの室蘭東高校時代、日本史の授業で教鞭をとられていた福田隆三先生のお話を紹介いたします。

 私は教師として斎藤和(のどか)君と関わっていて、彼のことを振り返ったとき、今でも「なぜ?」っていう気持ちが強いんですよ。なぜ、爆弾テロに向かったんだろうか、なぜ、ああいう死に方を選んだのかということが、彼を知っている私としてはあるんです。その行動といっても、思想的なこととかわからないし、彼と踏み込んで思想的なことを話したわけでもないし、知らないことを語ることはできないんだけど、一教員として教え子のことを振り返ったとき、彼は、いつまでも私の心の中に残っている教え子だな、ということは言えます。
 彼は生徒会の役員から立候補して生徒会長になったわけですが、生徒会の場での彼と他の先生方との話し合いだとか、会長としてのリーダーシップの取り方の中に、特別彼が異質な行動をしたというような記憶はありません。私の経験では生徒会の執行部の生徒とかで、言葉は悪いけど、彼より過激に先生方を批判したというのはその後にありますが、のどか君たちの時代では、先生と生徒がやりあうなんてことはなかったわけです。
 のどか君は、青白い顔の小柄な子で、どの教科でも成績は飛びぬけていたと思います。変に濁っていたり、変に誠実ぶったり、要領よかったりというところはなかったけど、ただ決して明るくはなく何かを考えているようで、ほかのギャンギャン騒ぐ高校生とは違っていました。仲間と一緒にはいるけど、そこで遊びの音頭を取るタイプではなかったですね。特に変わっているところもなく、誰とでも付き合っていたなと私は見ていたし、といって、特定の誰かとだけ深く付き合うとか、よくある何人かのグループで行動するというのでもなかったですね。私は担任ではなかったので、それ以上はわかりませんが。卒業して、私のうちに遊びに来たときの彼の服装だとか持ち物だとか思い浮かべてみても、いつも地味で質素な身なりでした。
 のどか君のことで印象深いのは、校内弁論大会があったときに、普通高校生の弁論大会といったら、具体的なテーマを出しますよね。当時だったら、ベトナム戦争の問題についてとか具体的なことを書くのに、彼の弁論のテーマは「ある情況」というテーマだったんです。先生方で、「おいおい、のどかが変な題で弁論やるっていうけど、どういうのだろうか」なんて話していたのを覚えています。
 当時、のどか君は高校三年生で、私は三十代の前半でしたから、彼の弁論の中身は当時の他の生徒にはわからなかったと思います。私もそのタイトルだけは強烈に残ってますけど、その中で彼が具体的に何をしゃべったかというのは、もうすっかり忘れてしまいました。具体的な事例にそくして結論を出すというのではなく、抽象論の展開だったような記憶が残っています。それは、彼の読書の集積したものなのか、それとも誰かの影響なのかはわかりません。
 彼はすごい読書家で、「ある情況」という吉本隆明氏を連想させるようなことをテーマにするように、進んでいて早熟な子でした。彼の読書量はすごかったと思います。普通の高校生にはわからない本であり、わからないパンフレットであり、わからない思想性だと思うけど、それを彼はかなり読みこなしていて、発想と展開が豊かで優れていたと思います。
 彼が都立大に入っても、大学一年から二年までの春休みや夏休みのような長期の休暇には、私の家にもよく遊びにきました。私たちの職員住宅には十二名の先生方が住んでいて、私のうちにもいろんな生徒が卒業してからも、休みになると寄ってきたものです。高校時代は教員と生徒ということで、彼は私とそんなに接触したんじゃないんだけど、彼も最初の夏休みに家に来ました。私の本棚をバーッと見て、「この本と、この本を貸してください」と言ったんですが、それがなんの本だったかは思い出せないんですよ。多分、私が日本史の担当をしていたから、歴史関係の本だったと思います。
 それから、彼が大学二年くらいだったか、「これこれという人の、こういう本はありませんか」って何冊か挙げたとき、私の全然知らない人であり、わからない本だったんです。名前の感じからして、当時のソ連の思想家かなにかの人かな、と推測した程度だったんです。そのとき、彼の読書量は私をもう超えちゃったし、私の本棚から持っていく必要がなくなったなと思いました。それから遊びには来なくなりました。それまでは、一人でポーッと来て、「先生、本貸してね」と借りていって、一週間くらいで読んだら律義に返しに来て、また一、二冊借りていっては返しに来るといった感じだったんですが、本棚を見ても借りるものがなくなってしまったんでしょう。そのときに、「恥ずかしいけどぼくはそのことを知らないし、そういう関係の本は持ってないよ」といったら、「そうですか」といって帰ったのが、多分私とは最後だと思います。それ以後は、一度だったか手紙が来たという記憶があるくらいで、音信不通になってしまいました。
 高校時代では学校祭での彼の姿に、大変強烈な印象が残っているんです。学校祭でライトを使いますよね。その時は卓球台を重ねてそこにスポットライトを置いて、ステージを照らしていました。そこで、のどか君がライトのところに張り付いて、熱心に暗転にしたり絞ったり、ずっとやっていたんです。照明係を自分で買って出たのか、生徒会執行部としてやっていたのかはわからないのですが、彼の意外な面を見たようで、それはすごく印象に残っています。また、当時エレキなんかが流行ってきたときで、学校祭でも生徒が演奏をしていると、あのおとなしいのどか君が熱心に聴きながら、さかんにリズムを取っていた姿を覚えています。
 進学に関して、北海道では北海道大学に入らなければだめだ、というのが今でもあるんですけど、私はどちらかというと生徒たちに、「出なさい」という方なんですよ。特にあの頃は、東京で学ぶということが、将来のいろんな情報を貯えるのには、絶対にいいはずだという気持ちもあって、それで彼が都立大に行きたいといったとき、それはよかったと思いました。当時都立大は結構華やかな先生方が何人かいたんですよね、それでのどか君は都立大を選んだのかな、とあとで推測しました。私はずっと彼を見ていて将来を考えたとき、東京に出た方がいい、東京でいろいろ吸収した方がいいと思ったので、都立大を受けるといったとき、「ああ、それはいいな。おまえなら現役で入る力もあるから、だいじょうぶだと思うよ」と激励した記憶があります。それで「そうですか。がんばります」と彼は都立大学に合格しました。
 それで、大学一、二年の頃は、特別に過激なことをいうわけでもなく、こんな本を読んでいますとか、ある先生の授業は面白いですねといった話を、ボソボソ、ボソボソと語る子でした。決して理路整然にガーッと語るタイプじゃなかったですね。
 どちらかというおとなしく、私からすると、将来学者になって研究活動で大成すればなと期待させる生徒でした。本当に学者の途に進むと思っていました。本人もそういう気持ちがあったんじゃないかと思います。それも、象牙の塔にこもってしまうような古いタイプではなく、実践と議論とを明確にした思想形成をし、黙々と調査し黙々と何かを実証していく新しいタイプの研究者像を、大学一、二年のときの彼に感じました。
 それだけに、ある日テレビで爆弾犯が捕まったというニュースを見たときのショックはすごかったですよ。「あれ、のどかだ!」とものすごく驚いて、そのときの画面は今でも焼き付いています。たしか、うちで夕飯を食べているときで、夕方のニュースに彼の顔が映ったときは、本当に信じられませんでした。
 私は郷土史、今の室蘭地方史研究会をもう四十年近くやっていて、北海道の自由民権運動を調べたり、室蘭の地方史研究、郷土史の発掘、それにアイヌの研究もやってきました。また、生徒を連れて発掘に行ったり、屯田兵の資料を探したり、室蘭の港湾労働者の資料を調べたり、ということは顧問として当然やりました。彼は郷土史研究部の部員じゃなかったけど、私がそういうことを研究しているというのを、彼は生徒として当然知っていたはずです。
 イタンキ浜の事件についてのどか君が調べていたというのは、あとになって知りました。ところが、調査しているときに私のところに訪ねてくるということはまったくなかったのです。それが逆に私には不思議だったんです。私がそんなことをやっているのを彼は知っていただけに、なぜ私のところに来なかったんだろうという気持ちだったんです。もしかすると、何か私に迷惑をかけてはいけないと判断して遠慮したのか、そういう思いやりをもっている子でした。室蘭時代の仲間にも、そういう調査に参加を求めていないと思います。室蘭時代の人間関係を断ち切ったところで、どこかで新しいスタートをしていて、東京で出会った人々との行動として、自分の目で確かめて自分の身体で感じたかったんじゃないでしょうか。
 のどか君は新日鉄の長屋の労働者の息子で、社宅の子供と長屋の子供の差という独特のものが当時の室蘭にはあり、意識するしないにかかわらず、幼いときから感じていたと思います。私も炭坑夫の子供に生まれ、社宅の子供と長屋の子供の差を感じて反発を覚えたこともありました。のどか君とそんなこと話したことないけど、ひょっとすると、今ではそんなことほとんどなくなっている新日鉄の階級社会の中で、一生懸命働く自分の父親を見て、憤りのようなものを抱いていたのではないか、と私は自分の体験から間接的に思うこともあります。ただ、それと彼のその後の思想形成が、どんな風に関係しているのかはわかりません。
 それと、どの学校もそうですけど、のどか君たちのような一期生というのは特別な存在で、学校で「お前たちががんばらなきゃ」とギリギリにねじ込まれるんですよ。私は二年目に就任したんですが、新設校というのは生徒には期待するし先生方も張り切るし、古い学校に負けるな追い越せ、とやるわけです。彼らはもし室蘭東高校に入らなければ、栄高校という旧制中学からの伝統を持つ俗に言う伝統校に行っていたんですが、それが新しい高校ができて学区制があって、東高に入ったわけです。
 それで、もし彼らが栄高に行っていたらどうなっていたか、それもある面興味があります。人数の少ない新設校でなく、その地域のいわゆるエリート校に行っていたら、のどか君の選択も変わってきたんじゃないのかと、フッと思うときがあります。多くの先輩がいて、地域の政界、財界はほとんど栄高出身ですし、学級数も東高の三倍くらい、というところで高校生活を送っていたら、どういう高校時代だったか。新設校の一回生という上からの有形無形の圧力のない高校生活を送ったわけで、それが彼の思想の自由さを案外芽生させていたのかもしれません。これが栄高だったら、受験体制がもっとギリギリしていて、競争もより大変になるでしょうし、いろいろな中学の出身者が集まってきて、いろんな出会いがあるわけですよね。それが蘭東中という彼の出身中学の生徒がほとんど同じ高校に来ているわけで、かなり環境がちがいます。
 それにしても惜しい青年でした。結局は彼が選択したことですが、なぜああいう形で行動し、自ら命を絶っちゃったんだろうか、という気持ちを拭いさることができないんです。本当に消えない疑問です。彼の行動というのは、どんな組織の中でどんな位置づけに彼があって、本当のところ彼は何を求めて一連の行動をとり、ああいう最期を遂げたのか、まったく謎のままだし、それを知ることは難しいのだろうなと思います。
 まだ生きていれば、そのうち会えるかもしれないという思いが残りますけど、ああいう形で命を絶っちゃったら、高校時代ののどか、大学一、二年ののどかという姿しか、私には残っていません。教員であった私からしてみれば、暴力的な方向に進むようなタイプと思ってもいなかっただけに、なぜという気持ちは強く胸に残っています。


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福田隆三(ふくだ・りゅうぞう)
1935年釧路市に生まれる。58年に教職に就き、64年から室蘭東高校で教える。北海道史研究協議会会員、室蘭地方史研究会会員。


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