12月27日、二人の死刑執行に抗議する

いとうけいこ

 93年死刑執行再開以来、11月末から12月の執行は、恒例化されていました(97年12月は、人身保護請求を提出、阻止されましたが)。しかし、今年こそは大丈夫ではないかという淡い期待感がありました。9月10日に執行があったばかりであり、3ヶ月も経たないでの執行はないのではないか、と思ったのです。
 10月2日の対東京拘置所デモの後、佐川和男さんへの執行をいかに回避するかという会議を数人で行ったのですが、その時の空気も、年内は大丈夫だろうというものでした。
 その雲行きがあやしくなったのが、12月10日過ぎ。年内に執行があるのではないかという情報が入りました。5年ぶりの総理府の世論調査で「死刑容認派」が過去最高の79.3%と発表され、また、最高裁に検察側が上告した無期懲役事件で差し戻し判決が出されたことなどを背景に執行をする可能性か゜あるというものでした。
 12月15日夜、佐川和男さん他4名の人身保護請求を東京地裁に提出、ただちに法務大臣と東拘所長宛に「人身保護請求を申し立てた。被拘束者5名の執行を中止せよ」との電報が発信されました。また、大阪のNさんは恩赦の請求を,福岡のMさんにも人身保護請求が出されました。
 17日朝、ひょっとすると今ある命が、数時間後に消されているかもしれないと思い、落ち着かない時を過ごしました。人が人を正義の名の下で計画的に殺すことは、なんという残酷で恐ろしいことか。
 1時、「そばの会」の仲間に電話をして、人身保護請求中であった佐川和男さん、再審請求中であった小野照男さんが処刑されたことを知りました。相次ぐオウム事件被告の死刑求刑、そして死刑肯定派が過去最高である今なら、何をやっても通ると法務省側は思ったのでしょうか。
 翌日、明治大学で「死刑執行抗議集会」が開かれました。その日は監獄人権センターのセミナーと安田好弘弁護士の多田遥子人権賞受賞式があり、それが終わったメンバーもかけつけ、参加者は80人位でした。
 執行当日、死刑廃止議連のメンバーと臼井法務大臣とのやりとりを、福島瑞穂議員の秘書の方が報告されました。法務大臣は「全く同じ理由でたびたび再審請求が繰り返されている場合は執行もあり得る。また、死刑判決に基づいて身体が拘束されているのだから、人身保護請求はそぐわない」と答えました。しかし、それは、法務省でなく裁判所が判断することです。そして、「決裁をした後でも(再審と人身保護請求が)耳に入れば見直して検討した」とも答えました。死刑執行のサインをしたのが13日の月曜日、同じ日に小野さんの弁護士が再審請求を提出、15日夜に佐川さんの人身保護請求が提出されました。これをきちんと法務大臣が把握していなかったとしたら、明らかに違法な執行であり、許すことができません。
 人身保護請求については、代理人である田鎖弁護士から、詳しい報告がありました。人身保護請求を東京地裁に提出した翌日、裁判官に面会、裁判官は「死刑の執行の停止を人身保護請求でやるのは間違っている」と言ったそうです。それに対し、「今、現に死刑確定囚のおかれている状況が著しく違法であり、違法な拘束状態はただちに改善されなければならない」と反論し、再度17日の朝、「被拘束者に弁護人を付すこと」「信書の発受・接見交通・物の授受に関する禁止を解除すること」「被拘束者やその親族、弁護士に対し、死刑執行期日を事前に告知すること」「被拘束者に精神鑑定を行うこと」などの内容で申し立てたそうです。しかし、信じられないことにそのすぐ後に佐川さんは執行され、その執行の事実に全く触れない東京拘置所長の通り一遍の答弁書が、夕方裁判所に提出されたとのことでした。
 佐川さんと小野さんの状況については、「佐川君と共に生きる友達の会」の方たちと「死刑廃止の会」の菊池さんから報告されました。
 佐川さんは、大宮母子殺人事件(81年)で91年に死刑が確定。佐川さんも小野さんも事件からわずか1年で一審の死刑判決が出されています。確定前の佐川さんは、麦の会の会員であり獄中者組合の運営委員で、死刑廃止運動や対監獄闘争などに熱心に関わり、積極的に発言などもしていたそうです。ハイキングに行く男女が「死刑廃止への道はどちらですか」「この道をまっすぐに行けばいいのですよ」と会話しているほほえましい絵も描いています。確定1年位前に書いた「守るべき者」という詩は集会で朗読されました。しかし、確定後、外部との交通が制限され、精神的に不安定になり、すっかり生きる意欲をなくしたようでした。手紙も98年の夏以来途絶え、最近は「何もしたくない。再審請求も恩赦の出願もしたくない。今のままでいい」「死刑囚は外の人に手紙なんか書きたくないんだ」と言っていたそうです。「遺体は東拘にまかせる」と言わされたようで、家族の方は、東拘に逆らってまで、遺体を引き取る意志をなくしていたようでした。また、息子をこれ以上さらしものにしたくないとも思われたようで、結局、仲間内でのお別れ会はできず、ご家族と職員10人位で東拘内でお葬式が行われたとのことでした。
 小野照男さんは、長崎雨宿り殺人事件(77年)で81年に死刑が確定、しかし本人は上告審から無罪を主張していました。仮出所中の事件であったため、外部との接触はなく、一人で18年間再審請求を出し続けていました。福岡のMさんの人身保護請求人であった石塚さんは、再審請求に関して、集会でこのような発言をされました。「バラバラにされてしまえば人間なんて非常に弱いものであり、免田栄さんは、「何度も再審請求なんかやめて死んでしまった方が楽かと思った」とおっしゃいますが、やはり再審を求めて闘っていくのは辛いものだと思う。」その辛い作業を独力でやり続け、やっと弁護士の協力を得ることができました。その喜びの手紙を処刑の3日前に次のように書いています。「−−先生からの再審請求の提出のことの電報を受け取りました。有難う御座います。−−毎日が地獄ですが、この厳しさには負けず頑張ります。マイペースです。私には,先生や又沢山の皆様や神仏の内に見守っていられると思うと、勇気百倍の心境です。一層宜しくお願い致します。所内における紙袋作りの作業にも益々懸命に働いています。−−・念ずれば勇気百倍年の暮・静まりて描く仏画の年の暮・人権の平和の祈り去年今年」
 まさかの処刑で、本人の無念さはいかばかりだったでしょう。
 石塚さんも言われていましたが、決してこの状況に失望するだけでなく、政府のミスをひとつひとつ指摘していき、それを次に向けてのバネにしていきたいと心から思いました。


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