カズ君を捜して

島崎忠さんに聞く 不思議な魅力を持っていた和君の思い出

すっかり不定期連載になってしまったのコーナー。今回は、ベトナム反戦直接行動委員会の日本特殊金属襲撃から、その後の公判闘争、テック闘争などで斎藤和さんと行動を共にしてきた島崎さんにお話をうかがいました。
(構成K)

 私は高卒就職組で、少し社会人生活をしたあと大学に行ったので、学生の学費値上げ反対闘争というのはどうもなじまなかったんです。また、あるセクトが対立するセクトに対して、「バーカー!」なんてやっているのを見て、その風景自体が気に入らなかったというのがありました。「おれは自分でアルバイトしていかなきゃならないのに、こんな学生運動やってられない」という気持を抱えながらいろんな集会に出ているうちに、兵器工場へ操業停止を訴えに行くという話しを聞いたのでいそいそと参加したわけです。ですからべ反委(ベトナム反戦直接行動委員会)という組織に加入したという意識はほとんどなかったですね。
 事前の打ち合わせも田無の日特金(日本特殊金属)をやるという話しだけで、集合場所と時間だけ聞いて、じゃあ、やりましょうと納得したようなものでした。それで失敗したのは、逃げるときせっかくタクシー捕まえたのに、お金がないからあんまり遠くまで乗車できなくて近くで降りちゃって、それでパクられたわけです。
 カズさんがどうして来ていたのか、当時は知らなかったですね。朝倉さんとも日特金の公判闘争で知り合いました。ベ反委の「冒頭意見陳述書」は、私も元となるデータ調べをした記憶はあるけど、誰がどこを書いたとか、カズさんがどう関わったかという記憶はもうないです。文章として形を作ったのは朝倉さんじゃないでしょうか。
 日特金の後、最初の頃は笹本さんの行きつけの新宿の店に行けばお金の心配なしに飲めたので、そこに行くとみんな集まっていたんですが、その後は、週末は定期的に朝倉さんの家に集まって、花札をやっていました。カズさんもいつもいて、花札はやんないんだけど、なんとなく世間話をしていたという時期でした。カズさんがそこで酒を飲んでいる姿というのは、記憶に残ってないですね。その場にはキチッといるんですけど、別に飲むわけでもなく静かに人の話を聞いているという印象です。実に物静かな人で、なんでこの人がこんなことをやっているんだと思わせる感じで、目立った活動というのは覚えてないんですよ。
 レボルト社に一番近かったのはカズさんだという印象は当時ありました。レボルト社にどういう足場を持っていたのかというのは聞かなかったけど、太田龍の考え方に傾倒しているのは聞いていました。私は生活派だから、お金稼ぐにはどうしたらいいかということしか考えなくて、現場があってやることがあれば動くけど、そうでないと理論的な話に入れ込むわけではないんですよ。だから彼と理論的な話をしたことは特になかったですね。カズさんと若干なりとも話すようになったのは、テック闘争が始まってからじゃないかな。
 そのうちに、べ反委で一緒だった高橋がテックを解雇になるという話しが出てきて、それでなにかやるかということになったので、ミシン会社を辞めてフラフラした生活に戻ってきたわけです。私たちは闘争理論につくんじゃなくて、人についちゃうところがあったから、高橋さんが解雇されてどうしようかという話しの時、笹本は職制についているから困ったなあということになったわけです。
 その前に、笹本に頼まれたのだと思うんだけど、日本武道館にテックの労組が突っ込んだとき、私もその場に防衛隊でいたんです。右翼だったら突っ込め、そうじゃなかったら引いちゃえ、というばかばかしい戦術で。それで兄弟ゲンカするなよという気持ちはありました。
 結局テック闘争が高橋さんの健康上の理由ということで一応終わって、平岡さんと北川さんがパクられた後、二人の身柄引き受けで渋谷署に迎えに行ったんですよ。そうしたら渋谷署の署員に、また小さいときの同級生がいて、「何してるの?」と聞かれて困ったこともありました。
 そんなとき、テックのアルバイト労組にいたある人の妹が私に、「島崎さんって、どうしてこんなことやっているんですか」と聞いてきたことがあったんですよ。そのとき、たまたま隣りにカズさんがいて、ものすごくすばやい反応で、「いや、この人はなんにも考えていない人です」と言ったのは、よく覚えています。
 カズさんのひとことで私がどうしようか決めたというのは二つあって、ひとつはテックの支援の事務所を閉鎖するときでした。
 その前に、テック闘争で結構カンパが集まったので、私が朝倉さんに「事務所作ってやってみる体制とれないかなあ」といって一応アパート風のところを仮契約してきたんだけど、「それじゃだめだ。事務所にするんだから」というわけで、寺山修二の劇場の「天井桟敷」と場外馬券売り場の中間にあったところを借りて、「渋谷アート」という名前をつけたわけです。テック支援共闘の継続的な運営の場所ということで、顔を出すには絶好の立地でした。
 事務所にまめに来られるような体制は取ったんだけど、そこでいろいろ軋轢が生じてきちゃいました。テック支援グループとして長期的にやっていこうとしたら、叛旗の方に取り込もうという流れが見えてきて嫌になってきたのと、テック闘争が一段落しちゃって、そこで無理してもしょうがないという考えがあったと思うんです。
 そんなとき、七二年だと思うんですが、カンパ集めで渋谷公会堂でコンサートやったら、二七〇〇人くらいの会場を埋めるのに、三二〇〇人くらいに券売っちゃったんですよ。一週間前までプレイガイドで二、三割くらいしか売れてないっていうんで、北川さんにポスター作ってもらって動員かけたら、一週間でプレイガイドの方が完売になっちゃって、三二〇〇人も押し寄せてきちゃったわけです。その時に舞台で平岡さんが司会していたんだけど、入れない人とかともめちゃって、平岡さんが叛旗の奴に殴られるということがありました。
 軋轢が生じてきたときにそういう事件が起きたので、朝倉さんの家に集まって「事務所の存続をどうするべ」という話をしていると、カズさんが「それはいけません。やめましょう」と言ったので、踏ん切りつけちゃったわけです。そういうときに瞬時に反応して、話を決めてしまうのがカズさんでした。

(続く)

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