前略、お袋殿。

     病み上がり飲む白酒のほろ甘さ
     桜餅喉ごしに聞く春香り

 4日の親父との面会ですでに伝わっていると思いますが、風邪が引き金となって入病しました。1週間ほどでしたが、2月15日から21日の間です。
 12月、1月と、まるで風邪を寄せつけず、「鉄人」とまで言われた私でしたが、インフルエンザ流行の峠を越したと思われた2月中旬になって、ダウンとあいなったわけです。そのキッカケは2月5,6,7,8日の気温の急激な「乱高下」です。
 最高気温で言えば、5日が9°、6日が18、7日が20°、8日が2°。最高気温差が前日と15°以上あれば、以前なら確実に喘息が悪化し重積状態へと突入していったものですが、今回はその差が18°もありながら、不思議ともちこたえたのです。確かに喘息発作は起こらずに済んだのですが、その分、気候変動によるストレスが他の部分に転位したとも言えます。これだけの気候的ストレスがありながら喘息発作が起こらなかったことは、それだけ多量の副腎皮質ホルモンを自力で自前の副腎から分泌したということです。ところが、この副腎皮質ホルモンというのは、器官の炎症を抑制する力があると同時に、免疫作用を抑制する力も持っているわけで、そのため喘息発作は抑え得たものの、インフルエンザ・ウイルスの侵入に対してはガードが甘くなったということです。つまり、喘息発作を抑え得たその負担が、インフルエンザ・ウイルスの侵入に対する免疫学的ガードを低下させるという形に転嫁されたのです。
 もう一つは心理的ガードの低下です。2月8日以前は、「風邪は即ち喘息発作」ということから、風邪に対しては人一倍、いや二倍も三倍も、心身ともに引き締め、ガードを固めてきたわけですが、18°の「乱高下」にも発作が起こらず耐え切ったことから、「もうだいじょうぶだ」という気の緩みが生じ、その結果、風邪に対してもガードが甘くなるという心理的スキができたのだと思います。
 インフルエンザ・ウイルスは、この免疫学的ガードと心理学的ガードの〈虚〉を見逃さず、気管支・肺内で繁殖し始めたのですね。風邪の症状が自覚され出したのは、8日から4日後の12日(金)です。前日の11日は免業日でしたが、12日は出役しています。食欲が少々低下し始め、多少熱もあるようでしたが、身体は通常通り動きました。この日、帰房しての食後、高熱状態で、これは尋常ではないと判断し、特疹・投薬を申し出ました。午後、7時半頃でしたか、体温を計ると38.7度あり、座薬と風邪薬をもらいました。翌13日(土)は免業日。熱は下がったので、「これはだいじょうぶだ」と判断し、配食夫もやり、理髪夫もやりました。ここで、あとから考えると失敗でした。理髪のあと、冷水で頭を洗ったことです。これで身体を冷やしてしまい、インフルエンザ・ウイルスとの攻防が、再びウイルスサイド優勢に逆転してしまったのです。午後から熱が上がり始め、気分も悪くなり、夕食の配食作業はやり切ったものの、このままではウイルスとの攻防で転機を掴めないと判断し、明日一日だけでも配食夫を代わってもらい、14日(日)は一日じゅう寝て過ごし、入病は避けて15日(月)は元気に出役しよう―と考えました。(冒感対策として、免業日は食事・点検時を除いて横臥していることができる)。
 13日(土)の午後7時頃、体温は37.7度。再び座薬と風邪薬。14日(日)の朝9時頃、体温37.0度。午後2時頃、体温38.4度。食欲出ず、一日じゅう横臥。
 15日(月)。朝、熱は下がった感じ。食欲は以前出ないものの、出役するだけの体力と気力はあり、インフルエンザ・ウイルスとの攻防は峠を越した感じがしたので、通常通りに出役しました。午前10時頃、診察。体温は36.4度。医師の見立ては、気管支にタンが溜っているということで、大事をみて入病休養。病名は“気管支炎”。私自身としては、入病せずとも回復し得ると判断していたのですが、あとから考えて見ると、やはり医師の判断の方がベターでした。というのも、入病後の体力の回復時間は、私が考えていた以上に長くかかりましたから。
 「入病は絶対避けるぞ」と気が張っていたせいか、入病と決まって、その気の張りようが解けて、かろうじて気力で抑えつけていたものが、ここぞとばかり吹き出したというのも面白いものです。この日、診察に行く前までは、なんでもなかった喉が、工場での昼食中から枯れ出し、声がかすれ始めたのです。これは喉にウイルスが張り出し繁殖し始めたということでしょう。今回の私の場合、鼻がやられ、喉がやられ、それから気管支・肺へウイルスが浸透してくというパターンではなく、最弱環である〈気管支〉がのっけから主戦場(メイン)となり、〈気管支〉での決戦に決着がついた後、かろうじて生きのびたウイルスが帰りがけの駄賃に喉を喰い逃げしていったというパターンです。喉の痛みと声のかすれが退くまで5日かかりました。
 気力の抑えがとれて、出たもののもう一つは熱です。15日(月)の午前中は36.4°でしたが、入病後の16日の午前中に計った時は、今回の最高の39.8°でした。19日(金)は37.2°。22日(月)になってやっと、37°を割り、36.2°。入病は、3年ぶりくらいでしたか。病舎のありさまは、3年前とほとんど変っていませんでしたね。
 今回の、対インフルエンザ・ウイルス戦を振り返ってみると、山場(クライマックス)はやはり14日(日)の夜でした。この14日の夜が「関ヶ原」でした。この「関ヶ原」で辛勝はしたものの、必要以上に体力を消耗してしまったために、早急に体力を回復しなかったならば、別種のインフルエンザ・ウイルスの浸透を受け大打撃を受けていただろうということです(今回の流行は、香港型とソ連型の同時流行らしい)。その意味で、一週間の入病(休養)は必要であったということです。また、13日(土)に身体を冷やすような失態を犯さず、体力を保持し、きっちり冒感対策をとっていたら、対ウイルス戦のクライマックスに優利な条件で突入し得ただろうし、根こそぎ体力を消耗することもなかったと言えるでしょう。今回の対インフルエンザ・ウイルス戦で得られた教訓は、「イメージ戦」
の有効性です。「イメージ戦」とは、心の中で侵入してくるインフルエンザ・ウイルスをイメージし、このイメージされたインフルエンザ・ウイルスを迎え撃ち、これを包囲セン滅し、食い殺す白血球(リンパ球)をイメージするマインド・トレーニングです。前にガン細胞とリンパ球のイメージ・トレーニングとして書いたあれの応用です。
 辛い想い、苦しい想いを味わったら、そこから、それを倍する体験的財産を得なければ、人生は楽しくならないし、生きる価値もない、―私はそう考えるのですが、どんなもんでしょう。
    1993.3.6記
              芳正拝


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