前略、お袋殿。

            蜩の夢にとけ入る目覚め時
            日焼けした肌一枚の秋隣

 団藤重光『死刑廃止論』を読んでの感想。理論的密度の高い「廃止論」を期待していたのですが、その意味では肩スカシを喰わされたと言えましょうか。著者の論拠は三点に集約できると思います。@違憲論として、死刑は個人の尊厳に反する A裁判論としての誤判可能性と執行された場合の回復不可能性 B罪刑法定主義の帰結として、の動的刑罰論と死刑という刑罰はなじまない――この三点です。しかし、この@ABの体系的に論理的関連はどうかというと、そこまで踏み込んだ展開はなされていません。
 私の論拠と言うのは、再審請求書にも展開していますが、次のようなものです。先ず現憲法が根本的に請求している国家は自由主義国家であること。この自由主義国家はその存立構造の論理的必然として、死刑という究極の刑罰と相い入れず、廃止しなければならないこと。死刑を廃止しない限り、現存の自由主義国家は不完全な、欠陥のある自由主義国家であること。ではなぜ、自由主義国家は、存立構造からして死刑と相い入れないかというと、それは、自由主義国家というものが諸個人の人格的尊厳をベースとして、諸個人の人権保障と福祉実現を国家の目的として、その限りで人権の部分的制限を許容することを社会契約的に認められたものであり、この社会契約的な附託には、事の本質上、諸個人の人格的尊厳をベースとする以上、人格的尊厳の絶対的前提である生命を奪う強制力は論理的に含み得ないこと――これです。そして、この展開構造を一個の法学として体系化すると“現象学的自然法学”になるわけです。現実の運動論としても、現憲法が要請する国家論として死刑廃止の論理的必然性を突いていくというポリシーは、極めて有効であると私は考えています。というのも、このロジックは、死刑存置論者の論理構造を足許から突き崩してしまう力をもっているからです。
 死刑制度の問題はそれとして、未だ注目を浴びるに至ってはいない無期懲役の問題というのも、そろそろスポットライトが当てられれてもよさそうなものだがと思います。法学的にも、制度論的にもです。判例としては、「無期懲役合憲」となっているようですが、この合憲性というのも、論理的には極めてあやふやなものです。判例的合憲性の論点は@死刑が残虐な刑罰ではなく合憲である以上、死刑より軽い刑罰である無期懲役は合憲であるA無期懲役は絶対的不定期刑ではないから罪刑法定主義の原則に反せず合憲である――というこの二点に集約されます。@の論点は前提を欠き成り立ち得ないことは、前述の現象学的自然法学の帰結としての死刑違憲論から明白です。
 Aの論点が成り立ち得ないことの証明も、難しいものではありません。無期懲役が絶対的不定期刑でないことの証明としてもち出されるのは何かと言えば仮出獄です。ところがこの仮出獄は、第一に、無期受刑者全員に無条件に適用されるものではなく、一定の条件を満たした者にのみ選択的に適用されるものであり、一人でも仮出獄を認められない無期受刑者が存在する可能性がある限り、絶対的不定期刑でないことの証拠としての条件を欠くのです。刑法の文言じたい、仮出獄を認められない無期受刑者の存在を暗黙の前提としています。第二に、有期受刑者に適用される仮出獄と無期受刑者に適用される仮出獄との絶対的差異ということを無視できないということです。無期合憲論の立論は、この絶対的差異を故意に無視した議論だということです。
 ではなぜ有期受刑者の仮出獄と無期受刑者の仮出獄とは同一次元に論ずることができないのでしょうか。有期受刑者の仮出獄は、あくまでも、満期を前提とした仮出獄です。つまり、仮出獄中に行動制限に関する事故を起こさなければ、満期日をもって、晴れて完全に自由の身になれるわけです。ところが、無期受刑者の仮出獄には、この満期日というものがないのです。つまり、無期受刑者は、たとえ仮出獄しても、有期受刑者になるのではなく、あくまでも無期受刑者であり、死ぬまで無期受刑者であり、行動制限に反するか、罰金以上の有罪判決を受ければ、再収監され、無期受刑者として服役しなければならないわけです。このようなわけで、満期日のある仮出獄と満期日のない仮出獄のちがいは決定的なのです。すなわち、仮出獄という制度があるとしても、この仮出獄は、無期懲役が絶対的不定期刑でないことの証明とはなり得ないのです。
 では、無期懲役が絶対的不定期刑であるというのは、どのような理由からでしょうか。無期懲役には、たとえ仮出獄になる可能性があるとしても、晴れて完全に自由の身になる満期日が存在しないというこの一点をもって、絶対的不定期刑であることを免れ得ないのです。
 ではなぜ絶対的不定期刑は違憲なのでしょうか。それは、個人の人格的尊厳の核心である生活創造の積極的意欲を全面的に殺してしまうからです。有期囚ならば満期日を基準として将来的な生活設計が成り立ち、その満期日をめざして、それを支えとして、生活創造の積極的意欲を引き出すことができます。ところが無期囚には、獄中にあっても生活創造の積極的意欲を引き出し、将来的な生活設計を成り立たせる客観的支えとしての満期日が存在せず、全ての状況が生活意欲を萎縮させるものであり、たとえ仮出獄になったとしても、いつまた収監されるかもしれないという不安定状態に死ぬまで置かれ続けるのです。この積極的に生きようとする生活意欲を極限まで萎縮させ、死ぬまで不安定状態に置くものであるがゆえに、無期懲役は絶対的不定期刑であり、違憲とする以外にないのです。
 無期懲役の、もう一つの問題は、未決通算の問題です。未決通算が有期では生きて、無期で生きてこないというのは、憲法14条の法の下の平等に反すると思うのです。
 このような「二重の違憲状態」を解消するにはどうしたらいいのか。現行の刑法体系に最小の手直しを加えるだけで、この「二重の違憲状態」を解消する方策は、次のようなものではないかと考えます。@無期刑を廃止して新たに有期最高30年を設ける。A無期刑はそのままにしておいて、10年間服役良好であったら、無期刑を有期20年に減刑するという減刑制度を新設する。B無期刑はそのままにしておいて、服役10年が経過したら、10年間の刑執行経過に未決通算を加算したものを執行済みとし、確定から20年を限度にして全ての無期囚に仮出獄を許すという制度を新設する――このようなものです。法務省としても、そろそろBあたりから検討していいと思うのですが、獄外の状況はどんなものでしょうか。
 「無期刑=違憲」論に関して言えば、私は、どんな法学者・法曹人と論争しても勝てる自信があります。それは、なぜかと言えば、未だかつて無期懲役を実体験した法学者・法曹人は一人としていないのに対して、私には彼らにはない無期懲役の実体験があり、この実体験を法的論理へと昇華し得る論理的能力があるからです。これが私の密かな自負の客観的かつ主体的な根拠です。
 宮刑に来て1年ぐらいした時でしたか、分類面接があり、そこで職員から「君の今の生きがいはなにか」との質問を受けたのです。これはまことに奇妙な質問ではありませんか。無期刑とは、その当の個人から全ての生きがいを奪い尽す刑罰です。将来へ向けての主体的な生活創造を全く不可能にする刑罰です。つまり、この質問は、客観的に生きがいをもてない状況へ追いつめておいて、その追いつめた当人が、そのことを知りながら、あたかも生きがいを見い出せるのが当然であるかの如くに発せられたという点で、見方によっては一つのブラック・ユーモアであるのです。私の感性は、この質問を一つのブラック・ユーモアと受けとめる以外なかったゆえ、絶句する以外なかったのです。
          1993.8.8
              芳正拝

[追記]無期刑を考える上で評価できるマキャヴッリのことば―「指導者ならば誰でも次のことは心しておかなければならない。それは、個人でも国家でも同じだが、相手を絶望と怒りに駆り立てるほど痛めつけてはならないということだ。徹底的に痛めつけられたと感じた者は、もはや他に道なしという想いで、やみくもな反撃や復讐に出るものだからである。」「なぜなら、前途に望みを失った者は、どんなに悪い状態を示されても、それによって判断を変えるような冷静さを失ってしまうからである。」


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