前略、お袋殿。

 この1年間は、「わが哲学」の理論か作業に集中し、他のことには余り手を広げないようにしようと考えていたのですが、そうもいかない雲行きですな。この中で、一種の文化活動(学校で言えばクラブ活動ですか)として「短歌会」とか「俳句会」とか「川柳会」というのがあって、外から講師の先生が来て、受刑者が出席しての座談会のようなものが月一回、もたれるのですが、最近、出席者が減少してきたことから、私にも声がかかり、「川柳会」に出席することになりました。前々から、所内文芸誌の『あおば』というのに、川柳・俳句・創作・随筆の投稿は行っていたのでしたが。
 その川柳会が6/11にあって、初めて、この種の会に出席しました。事前に。二句ほど、出席申込書に記載して提出しておき、全出席者の各句が印刷された紙が1週間ぐらい前に配布され、当日それを持って、出席することになります。今回、出席者は13名ぐらいでしたか。各句について、作者外の出席者が感想を述べ、それから講師が評を加えるというかたちで進行していきます。詠題は、今回は、「珍」「珍しい」でした。この「珍」「珍しい」を詠み込んだ句を2句つくって提出しておくわけです。ちなみに、私のそれは
  @虫愛(め)づる姫は今日(きょうび)も珍(めず)しや
  A珍し屋使ってみるのは三日だけ
だいたい土曜免業日の午前中にもたれ、半日、つぶれることになりますが、講師や他の受刑者と「論議」を交わすということで、独りでは得られない「知的刺激」にはなります。 ところで、前記した『あおば』が、この6月で発刊以来600号となり、記念特集号として発行されました。印刷・製本しているのは、我々の印刷工場で、投稿者は受刑者、監修は教育部長という体裁をとっています。月一回の発行ですから、50年(半世紀)続いてきたということになりましょうか。創刊号は、1944年7月ですから、戦時中ということになります。この600号に「『あおば』600号までの足跡」という特集記事がのっているのですが、それを見ると、宮刑「文芸活動史」といったものを辿ることができ、興味が尽きません。私が宮刑に来る前までは、受刑者の楽団があったり、カラオケ大会・のど自慢大会があったり、したようですが、現在、これらは廃止となっています。総体として、現在は、「文芸活動」に関しては、衰退期に入っているようです。(『あおば』への投稿の減少や川柳会などへの出席者の減少なども含めて)。これは、どうしたわけなのかは、よくわかりませんが、(1) 受刑者の質的変化か (2)時代の流れか(活字離れ、硬い文芸が嫌われ、マンガ・写真誌・週刊誌・テレビなどが幅をきかす) (3)「教育」より「保安」優先という当局のポリシーか――それらの複合か、どうなんでしょうか。ともあれ、歓迎すべからざる傾向ですね。週休二日制で、受刑者の余暇時間は倍増しているのですが。このままでは、廃刊の心配も、なきにしもあらずです。
 6/14付ヨミウリに、千葉刑の石川一雄さんが7月頃、仮出獄まちがいない――という記事が出ており、注目しました。これは、国会答弁で、法務省・法相サイドから出た情報をもとにした記事のようにも読みとれましたが、どうなんでしょう。確定から17年目ということですね。同記事によると、16〜20年で仮出獄されるケースが多いそうです。「再審請求」は仮出獄の妨げにならないと法務省は表明しているそうですが、実態はどうなのか。私の場合、「再審請求」のため、4年以上、厳正独居で、工場出役ができなかったのですが。まあ、これは、すぎたことで改めて問題にするつもりはありませんが。確か、丸正事件の再審受刑者(宮刑で服役)も17年ぐらいで仮出獄になっていたはずです。推察するに、石川一雄さんの場合には、おそらく、弁護士が千葉刑所長に面会などして、再審しているからといって他の受刑者と、仮釈の点で差別するな等、働きかけ、確定後10年がすぎた時点からは、仮釈申請を遅らしていないか監視し、早く申請するよう(他の受刑者と差別しないで)働きかけなどしたのでしょう。
          1994,6,19 識
                 芳正拝


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