前略、お袋殿。

 官本の中に出ていた一節――「日本では、“ノウハウ”としての体験が、会社や国民の財産として体系化されず、したがって伝承されない。それは、日本人の欠点だと思う。“ノウハウ”が個人のものでしかないから、その人間が退社し、死んでしまうと、それで終りということになる。そして次の人が、また同じことをイロハから繰り返すことになる。こういう点になると、アメリカやイギリスは“ノウハウ”をマニュアル化しているから強いですね。」(柳田邦男『大いなる決断』講談社)
 この「日本人の欠点」というのは、懲役をやっていても、しばしば実感します。ここでは、作業者の移動は懲罰等で突然おこりますから、なおさらです。一定の技術的修練を必要とする部署では、その影響は小さくありません。私の場合、前にも話したと思いますが、印刷行程のワンステージとしての殖版作業というのに携わっています。プロセス的に言って、「殖版」の前段が「製版」といいまして、「殖版」で金属版に焼き付ける原版フィルムをつくります。この製版部門は、別工場なのですが、印刷物の品質精度の80%は、この製版でつくられる原版フィルムのよしあしに依存していると言って過言ではありませんね。時に、この原版フィルムの品質精度が極端に低下して、私のところに回ってきます。こういう時は、だいたい作業者が交替したと判断してまちがいありません。『マニュアル』が存在していないことの端的な結果です。
 私の見るところ、民間印刷企業の技能水準に比較して、刑務所印刷の技術水準は、まず、その60%程度でしょう。設備的には、おそらく中小企業だと思うのですが、その潜在能力の60%ぐらいしか、発揮できていないということです。例えば、設備的(生産手段)には、市販に耐え得る単行本を印刷できる潜在能力はあるのですが、作業者の技術水準の低さから受注できない状態なわけです。つまり、作業者の技術水準の低さゆえに、設備的な潜在能力の40%は遊ばせてしまっているのが実状とも言えるでしょう。これは、ある意味で国民的財産の持ち腐れですね。
 といっても、建前はどうあれ、刑務所作業(生産)は、有効的生産が目的ではなく、あくまでも、囚人を懲しめのため強制的に苦役に従事させることが目的ですから、生産手段の有効活用とか、品質向上とか、生産能力の向上とかの資本主義的常則は、二の次、三の次ということにならざるを得ないのでしょう。つまり、刑務所作業とは、資本主義的常則からはムダなものを必要なものとして労費する特異的な非生産的生産体系と定義できるのかもしれません。
 刑務所というところは、ある意味で極めて「社会主義的」なところです。一人の失業者も出してはならず、全員を作業に付かせねばならず、そのために、労働生産性とか生産能力は低く抑えられることになり、生産手段の有効活用とか、品質向上とかは犠牲にされるという意味で、反「資本主義的」たらざるを得ないということです。冗談で言えば、「社会主義の悪い面を体験したかったら、刑務所にこい」ということです。
 この8月22日で、工場に下りてから3年たったことになります。この3年間を振りかえってみると、全くといっていいほど波乱のない無事の日々だったと言っていいでしょう。それでも、工場のメンバーの半分は入れ替っていますね。
 私は、自己反省の基準として、一つ、次のような基準を立てています。もし私が獄外でこの期間に現実から学べるものよりも多くのものを、この獄内で現実から学びとれたか?――そのためには、ある時は、社会学者に、ある時は、心理学者に、ある時は、文化人類学者に、ある時は、経済学者に、ある時は、中小企業診断士に、ある時は、生産工学者に、そしてある時は、哲学者に、自己を立たしめねばなりません。これが、現実と楽しくつき合う七変化(へんげ)の法です。
 冷夏と猛暑とどちらがいいか?と聞かれたら、すこし考えてから、「猛暑の方がいい」と私は答えるでしょう。                         1994.8.28 識
                  芳正拝


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