前略、お袋殿。

 『犠牲サクリファイスわが息子・脳死の11日』読み終えました。
 
 これは、「あとがき」に出てくるところなんですが、「西村先生の息子」に関する部分で、次のようなところです。
 「西村先生は敬虔なキリスト者だったが、学生運動に挫折した二十二歳の御子息が自ら命を断つという過酷な経験をしておられて……」「私(註:西村)はどうしても、二十一年前に去った私の次男泰のことを並行して思わずにはいられません。彼もまた、優しい心の持ち主で、学校でも病弱な友達と仲よくし、大学闘争のあとの放浪の時期には、飯場に入って安らぎを得、最後の冬には山谷でアオカンをしている人たちを凍死させないために、奮闘したのでした」「西村先生が『死の陰の谷を歩むとも』に寄せた文章によると、御子息の泰君は大学闘争が鎮静化された後、友人たちがつぎつぎに就職して、それぞれのさやにおさまっていくなかで、自分だけはそういう御都合主義の転身をすることができず、放浪生活に身を投じたという」……
 この泰君は、おそらく、1973年の山谷の越冬闘争に参加しているのではあるまいか。そうだとしたら、その時、私とすれちがっていたか、あるいは、私の近くにいた人かもしれませんね。当時、全共闘運動=大学闘争を担った最良の部分というのは、その後、自死したか、監獄に入ったか、という部分でしょう。非妥協的に突きつめていくと、そうならざるを得なかった――そういう時代だったのだと思います。
 さて、本書の主人公とも言うべき柳田洋二郎君その人については、在りし日のわが分身のような気がしてなません。というのも、私じしんも、かって、若かりし十代には、洋二郎君と同様、対人恐怖症的、かつ自閉症的傾向があり、孤独地獄の日々を送っていたからです。その読書傾向も、似かよっており、カフカという愛読書も共通のものです。おそらく、人は、それも十代という多感な時期、自我の確立期にあって、自己周辺の小世間に納まり切れない自己を発見する時、あるいは、対人関係において挫折し、又は、死の恐怖に直面する時、人間にとっての根源的な問いに突き当たらざるを得ないのだと思います。それは、「人間が存在するとはどういうことなのか」「人間はなんのために存在しているのか」――という根源的な問いです。
 あるいは、人は、一度は、一瞬であれ、この問いと向き合うことがあるのかもしれません。しかし、小世間とハッピーな関係にある人間は、たちまちのうちに、この問いを無限の彼方に追いやってしまうのでしょう。生活上の義務に没頭し、空談と空騒ぎに没入できる人間にとっては、この問いは、無用の問いということになるのです。このところを展開し出すと長くなるので、切り上げ、本題に戻ると、洋二郎君が切実に実感せざるを得なかったのは、生きていること、存在そのものの、空虚感であり、はかなさであり、無意味性であったのだと思います。自分が死んでしまえば、自分が生きていたことさえ、忘れさられ、全くの無と化してしまうということへの恐れであり、それゆえ、今、現在、生きていることの充実感の全くの欠如――そうであるがゆえに、生きることの意味、生きていることの手ざわりと充実感を激しく求めたのです。その表われの一つが、自己の存在を他人の役に立たせるというかたちで、自の存在理由を求めようとした骨髄バンク登録でしょう。しかし、それだけでは、精神的危機を克服し得なかった。
 洋二郎君と私じしんとの違いについて考えてみます。第一に、洋二郎君は次男であり、私は長男であったこと。長男は、なにかにつけ、次男より自己主張が強いらしい。第二に、洋二郎君の父親は物分かりのいい進歩的な父親であったのに対して、私の父親は、保守的な父親で、反抗の対象として設定し得たこと。第三に、20前後の洋二郎君の生きた時代が、淀み切って出口のない1980年代後半から90年代であったのに対して、20前後の私の生きた時代が、ベトナム反戦と学園闘争の時代であったということです。でも、でも、一番大きな要因は、時代情況でしょう。
 私が、対人恐怖症的、かつ自閉症的傾向から脱け出し得たのは、学生運動に参加することによってです。そこでの権力とのぶつかり合いこそが、対人恐怖症と自閉症の殻をぶち破り、生きていることの充実感、生きていくことの意味を実感し得るようになったわけです。(かつての私は、確か20歳になったら死ぬ、などと広言していた)。今では、恐いものなしの、煮ても焼いても喰えない男になってしまった。いわば、権力こそが、このような私へと育て上げてくれたので、この点、私は、権力にこそ、感謝したいと思うのです。
 もし、私の20代が90年代だったら、洋二郎君と同じ結末となったであろうことは十分考えられるし、もし洋二郎君が1960年代後半に生きていたら、私と同じ方向に生きていったということも十分考えられる――その意味において、洋二郎君の問題は、私にとって「他人事ではない」わけなのです。
 一転して、父・柳田邦男氏の「脳死」「移植」に対する考え方ですが、私も、それにだいたい同意できます。@「死」というものは時間的経過において生命体が身体的に変化していくプロセスであり、「脳死」はそのプロセスの、一つの段階にしかすぎないこと。A「脳死」をもって臓器移植を可とするか否かは、当事者個人の自由な選択にまかせること。つまり、選択権を個人に与えること。B残された家族に、死を受け入れる心の準備期間、別れの時間を十分確保することが必要であること。C死には三種類あること、自分の死としての一人称の死、身内、友人、知人などが近しい人の死としての二人称の死、全く見ず知らずアカの他人の死としての三人称の死。
 一つ、言っておきたいのは、柳田氏は、西洋医学の合理主義に批判的でありながらも、なおかつ、基本的には西洋的合理主義に立脚しており、東洋的身体観に無知である、ということでしょうか。
 西洋医学的には、脳の損傷は回復不能とされていますが、これは疑問とすべきでしょう。脳細胞にも強力な再生力はあると思います。この点は、もっと強調すべきでしょう。人間というのは、単に、脳のみで他人とコミュニケーションしているわけではないのです。不断でも、人間の身体を構成している細胞一つ一つが他人のそれとコミュニケーションしているのです。ところが、通常は、言語脳(新皮質)によるコミュニケーションが強力で、かつ、それが唯一であると信じられているため、個々の身体細胞の働きが、その影にかくれ意識されないのです。ところが、脳死状態になって言語脳の独裁が崩壊すると、今まで影にかくれていた非「脳」的な身体細胞のコミュニケーション作用が全面に出てくるわけです。これは、不思議でもなんでもないことですが、西洋医学の身体観に毒されていると「奇跡」に見えてくるのです。
 柳田氏は、「科学知識による自己コントロール」によって、緊急事態においてもあわてふためかないように訓練しているというわけですが、結局、息子の死に対して、平常心を保てないわけです。「科学知識による自己コントロール」というのは極めて西洋合理主義的な行き方です。それに対して、東洋的行き方というのは、禅的修行による生死を超克した不動心の体得ということになるでしょう。

 全国的な寒波とのことですが、こちらも真冬日が続き、毎夜、窓が凍る寒さです。最低気温が、氷点下6度5分とか。しかし、今のところ、体調に支障なく過ごしております。
         1996.2.3 記
                芳正拝

 追記け:ものごとを根本的に考え抜こうとする人間が自死に追いやられたり、監獄に行かざるを得なくなるような社会は、果たして健全な社会と言えるのか、そういう社会に未来はあるのか、一つ考えてみる必要がうるのかもしれません。


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