前略、お袋殿。

 今年の運動会は2度延期になり10月8日に実施されました。結果は、われわれの印刷工場が優勝しました。ソフト大会でも優勝しているし、今年は二冠を制したことになります。
 さて、領置品の制限についてですが、今回のやり方でうまくないなと思った点が2点あります。
 第一点目は、刑期に関係なく一律2.5缶に制限した点です。例えば、職種による労働強度の軽重に従って、食事にを付けていると同じように、刑期の長短に従って、領置品の制限には差を付けるべきであったし、そうしてこそ、実質的平等が確保されたと思うのです。刑期の長短からくる当然の必要性を無視して、一律制限することは実質不平等をもたらすことになると思います。(差異付けの例としては、たとえば、短期1缶、長期2.5缶、無期5缶―程度が合理的だと思います。)
 第二点目は、被収容者本人に何の相談もなしに、一方的に3年以内に2.5缶に減らせという通告を行ったことです。差入に関しては、差入拒否というかたちで当面は領置品の増加を実力阻止できるとしても、「法律の改正」がない限り、領置品の宅下げを強制したり、財産的価値のある領置品を本人に断りなしに廃棄することはできません。つまり、領置品を減らす件に関しては、あくまでも被収容者本人の自発的協力に待つ以外ない訳です。すなわち、実状を無視した一方的通告というやり方は、この被収容者本人の自発的協力に水を差すことになるからです。
 問答無用な一方的通告を行なう前に、しかるべき担当者が被収容者本人と個別的に面談し、被収容者の言い分を聞いた上で、両者の合意の下で、現実可能な減量計画を立てるべきではなかったかと考えます。というのも、例えば、私本なら私本を領置してある理由というのは、人それぞれ違うでしょうし、その現実的必要性というのは、本人に聴いてみないとわからないものです。
 マンガや軽い小説のたぐいは、一度読めば二度と読むこともない訳で、そのまま廃棄なり宅下げして、それでいいでしょう。しかし、部厚い哲学書や古典文学のたぐいとなるとそうは行きません。先ず一度読んだだけでは理解できません。一度読んで、しばらく時間を措いて再読する、再々読する、そのような読書法が必要になってくるのです。だから、一度読んだらすぐ宅下げというわけにはいかないのです。私が領置してあるのは、大半こういった種類の本です。
 又、ある一つのテーマを立ててそれを学問的に研究するとなると、このテーマに関係ある本を長期に渡って取り集め、一定程度、集まったところで集中的に読み、テーマを発展させていくという読書方法をとります。そういった必要から領置してある本も、私の場合は多数あります。
 すなわち、一度読めば領置するまでもなく廃棄なり宅下げすればいいのだろう―という発想は、娯楽のためにしか本を読んだことのない人間のそれ、学問研究的に読書したことのない人間の発想という以外にありません。被収容者の全てが娯楽のためにしか本を読まないというならば、それでもいいのですが、しういう人間ばかりではないということを忘れてもらっては困るということです。
 ともあれ、一つ言えることは、このような不合理な領置品制限によって、私自身の獄中での勉学計画が大幅に狂ってしまい、この狂いは、出所後の生活設計をもガタガタにしてしまうものだし、勉学意欲も減退しかねません。(所内では「学習意欲を身につけよう」「将来の生活に役立つ勉強をしよう」という指導が行なわれているのですが)
 論語に「小人閑居して不善をなす」という語がありますが、それをモジって「囚人閑居して規律違反をなす」という事実があります。囚人管理の最良の方法というのは、囚人をして何かに熱中させ閑を与えないということです。熱中させる対象で最良のものは勉学・学習です。
 ともあれ、監獄が思想的に生産的な時代は、これで終わったような一抹の寂しさを感じざるを得ません。その思想内容の是非は別にして、もはや故永山則夫氏のような人間は、監獄内では生まれないでしょう。(例外を認めない社会に天才は生まれない)
 いずれにしても、制限された枠の中で、なんとかやりくりして、知恵を絞ってやっていく以外にないでしょう。人間というものは、そういった制限枠の中で、かえって予想だにしなかった可能性や能力を発見し、それを拡張し得ることもあるのですから。
 差入本の追加リストを送ります。来年3月頃までに差入願います。来年ないし来年初めには、たぶん賞与金の送金ができると思います。
                       1997.11.6 識
                               芳正拝


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